第五話 だいすき(承前)
鎌倉駅発のローカルバスは、教也が予想していたよりも混みあっていた。
妻の美緒をともなって朝早く家をでたから、まだ人の出足もそう多くないと高をくくっていたらとんでもない。駅付近は気合いの入った観光客たちでにぎわい、ロータリーで発車待ちをしているバスの座席もすべて埋まっていた。
「つぎのを待とうか」
「そんなに遠くないみたいだし、立っていこうよ」
彼女の瞳が映しているのは目の前の鎌倉の景色でも、教也でもたぶんない。立っていこうというのも前向きな発言ではなく、楽をすることを自分に許さないだけ。日常生活でどれだけ自分に罰を与えられるかを、昨日の自分と競っているふしがある。
黙ってつり革につかまると、間もなくバスが走りだした。目的地まではバスで十五分と見知らぬ誰かのブログに書いてあった。停留所に止まりながらの十五分ならたしかにさほどの距離ではないのだろう。
そう広くない公道の路肩を観光客がぞろぞろと歩いており、その間をバスが慎重に進んでいく。思ったよりも坂をのぼるのだなと思った。
いくつか停留所を過ぎたところで、美緒がぽつりとつぶやく。
「海、見えないね」
「ああ、うん。そうだな。鎌倉は山側と海側があるから」
それにしても山だな、と教也も少しかがんで窓の外をじっと眺めた。
ときどき観光客相手らしいこじゃれたカフェが思いだしたように現れていたけれど、今は店も民家も消え、鬱蒼とした木々ばかりが道の両側につづいている。
スマートフォンが示した最寄りの停留所で降りると、それまでのにぎやかさが嘘のようにぽつんとふたりきりになった。
嫌な連想をして、ひとり首を振る。
閉じこめられて出口を探す動物のように、美緒が猛然と歩きだした。
「こっちみたいだよ。急ごう」
「いや、急がなくても目的地は神社だし」
「混んでるかもしれないでしょう」
「この人気のなさなら、大丈夫じゃないかな」
「でも、嫌なんだもの。この感じ」
ああ、やっぱり美緒も思ったよな。
教也の口から、小さく息がこぼれた。
ふたりで世界から切り離されたような静寂が、仏事がひとしきり終わって親戚一同が家から去ったときの感じにとてもよく似ていたのだ。
「にゃあ」
どこからか響いた鳴き声で、さっと空気が軽くなった。見渡してみれば、いつの間にやってきたのか、足元に綿雪のような白猫がいる。こちらを見上げる瞳が、雲のない青空のように澄んでいた。
「かわいい」
「にゃあん」
頭をなでようと美緒が差しだした手の平にぐりぐりと頬をこすりつけたあと、猫がとっとっと、と歩きだした。かと思うと、いったん立ち止まってふたりのほうを振り返っている。
「ついてこいって言ってるみたいだね」
「どうせ神社の方向もこっちだし、いってみようか」
うなずいた美緒の頬がずいぶんとこけていることに気がついたけれど、教也はつとめて自然に笑い返した。
道の両側には、冬を越した枯れ葉が吹きだまっている。カサカサとかすかな足音をたてて前を進んでいた白猫が、さっと右に逸れた。
「あ、いっちゃった」
美緒が残念そうにつぶやいたけれど、追っていくほどの元気はないようだ。スマートフォンでマップをもういちど確認した教也は「お」と思わず声をだした。
「どうしたの?」
「いや、あの猫、本当に道案内をしてくれたのかもしれない。曲がった先が、一条神社らしいよ」
「参道もなんにもないのに?」
半信半疑の美緒とともに細道への曲がり角までやってくると、果たして真新しい看板がでている。
「ほんとだ。一条神社って書いてある」
今度は美緒も納得してうなずいた。
風がゆるやかに吹き、教也たちを追い越していく。
看板の指す道は両側を背の高い竹で囲まれており、ずっと先のほうに白猫のしっぽが見えていた。美緒とふたり、置いていかれないように小走りで追いかける。竹林に挟まれた空は窮屈そうで、いつの間にか鈍色にかげっていた。さわさわと竹の葉のこすれる音ばかりがつづいて少し不気味だ。
こんなところまでやってきたって、きっとどうにもならないのに。
せり上がってくる憂鬱な気分をぐっと喉の奥に押しこんでさらに進んでいくと、突然、境内らしき開けた場所にでた。モダンな和風建築の抹茶処の前に、少女漫画から抜けでてきたような端麗な顔をした神主が、ぼんやりとたたずんでいる。
「ここみたいだな」
「うん。お参りしよっか」
本殿を探して視線をさまよわせていると、美緒が腕にそっと触れる。
「あれじゃないかな」
「え? うそだろ」
うながされた先には、今にも崩れそうな古びたお社が建っていた。
驚いて突っ立っていると、閉じられていた扉がガタピシと開いて中から巫女さんが飛びだしてきた。
「いらっしゃいませ。お待ちしてましたあ」
花粉症なのだろうか。形のいい鼻の頭が真っ赤になっているけれど、相当な美人だ。神主とふたり、モデルか芸能関係の仕事だと言われたほうがしっくりとくる。
「ほら、お兄ちゃんも。どうしてご挨拶しないの」
「え? ああ、ようこそおいでくださいました」
どこか上の空の神主からの挨拶に、戸惑いながらも夫婦そろって会釈をかえした。巫女さんや神主からこんなに丁寧に迎えられたのは初めてだ。
「さ、お参りを済ませたら、抹茶処へいらっしゃいませんか。ええと、春ですし?」
「はあ」
思わず美緒と目をあわせ、無言で早めに帰ろうと示しあわせた。
今さっきまで曇っていたはずの空からは、いつの間にかのどかな春の日差しが降りそそいでいる。照らしだされているのは、壊れかけの神社に場違いなほど美しい兄妹ふたり。ひとりは視線が定まらず、ひとりはぎらつく瞳をこちらに向けていた。なんだかちぐはぐで現実離れしたこの空間は、教也と美緒をからめとるために準備された罠のようで不気味だ。
お社に近づいて賽銭を投げ入れたあと、教也のほうは拝礼もそこそこにさっとその場から離れた。美緒はまだ頭をたれたまま、じっとなにかを祈っている。気がつけば頭上にはふたたび厚みのある黒雲が垂れこめ、今にも冷たい雨粒が落ちてきそうになっていた。
なんなんだ、この天気は。
さっさと帰ろう。祈るべき神が本当にいるなら、きっとあんなことは起きなかったはずだ。七五三であれほど願った娘の成長を、ずっとずっと間近で見守っていられたはずだ。
教也が妻の肩を後ろから叩こうとしたとき、なにかが足元をさっとかすめていった。思わず後ずさると、先ほどの猫だった。
「お連れさまはもう少しゆっくりお参りなさりたいようなので、よかったらあちらで」
巫女さんが、いつの間にそばに来たのかこちらをじっと見上げている。大きな黒目には、有無を言わせない迫力があった。迷って振り返った妻の背中は、教也の存在などきっと忘れ、祈りのなかに沈んでいる。
「はい、それじゃ」
巫女の代わりに猫が「にゃあ」と返事をし、こちらをいちべつして先ほどのモダンな建物へと歩いていった。
神主は、知らぬまにどこかへ姿を消していた。