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第四話 永遠の縁日


 秋には誇るように色づいていた紅葉もすっかり葉を落とし、細枝ばかりを空へと伸ばしております。
 冬晴れの日差しを受けて輝くのは、ここ一条神社の本殿――ではなくその板床。神主である雅臣の手により、一点の曇りもなく磨きぬかれているのはいつものこと。しかしここ最近は、掃除の神でもご祭神に迎えたのかと思うほどの念の入れようで、祝詞のりとよりも熱心ではないかと、妹で巫女みこの汀子がため息をついております。
「掃除もいいけど、掃除じゃお腹はふくれないんだよね。見て、この戸板を閉めたときの明らかな隙間。今はコートを羽織ってればまだ我慢できるけど、年を越したら本っ当に凍死するからね」
「わかってるよ」
 煩わしそうに眉間に皺を寄せる雅臣にいつもなら追及の手をゆるめぬ汀子ですが、ここ最近は様子が異なるようです。
 それもそのはず、雅臣の憂い顔の原因を知るのはただ汀子と、猫の身であるこの私ひとり。毎夜のように夢にうなされるあの姿を思えば、無理強いもできません。物質主義の権化のようでいて、汀子も心根のやさしい子なのですから。
「まったく、お兄ちゃんが倒れたら誰が稼いでくるのよっ」
 やさしい子、ですよね?
 雅臣とは対照的に、汀子のほうは夢見が冴えわたっている様子。今朝もどうやら、ご祭神である聖神様からのお告げがあったようです。
「タマ、今日のお客様はたぶん道に迷うだろうから、ゆっくり歩いて連れてきてあげてね」
「にゃあん」
 ゆっくり、ということはご老人でしょうか。それとも、子供?
 吹きすさぶ乾いた風を受けて、立てつけの怪しい板戸がガタガタと震えるように鳴っております。
 道中、あまり寒い思いをなさらないとよいのですが。

 両腕をさすりながら、汀子は境内にたたずむお抹茶処“こよみ庵”へと身をすべらせるように入った。ドアの開閉を最小限にすることで、外気が入りこむのを防ぐためだ。
 暖房はなるべく使わないようにしているが、暮れも押し迫ってくるとさすがに寒さが骨身にしみる。少し負けた気分でリモコンの暖房ボタンを押し、迷った末に設定温度を二十三度から四度に上げた。
 比較的新しい建築物であるこよみ庵は、雅臣の言によればモダニズム建築を追求した有機的構造の傑作で、今にも崩れ落ちそうな古びた本殿とはかなり見た目に差がある。有機的、とは何を指すのかわからないが、それならば気密性や断熱性にもすぐれ、冬はあったか、夏は涼しくてもよいはずなのに――。
「お兄ちゃんの建築バカ」
 神社を継ぐまでは建築事務所で一級建築士として勤務していた男は、竹林に向けて壁一面ガラス張りの建物を設計してしまった。もちろん、ガラスの質を落とさなければそれでも問題はなかっただろうが――。予算の都合でかなり資材のグレードを落とした結果、こよみ庵もまた、隙間風が吹きこんでいるのかと勘違いするほど外気の影響を受けやすく、寒い日は寒い、暑い日は暑いのである。
「女のおしゃれは寒いものだろう? 建築物も同じだ。おしゃれなものは寒い」
 とても一級建築士の言葉とは思えない。
「うう、マッチでもってあたたまろうかな」
 憎たらしい兄の言葉を思い出したものの、同時に、こっそり寝顔を撮りにいくときに最近よく見かける、夢にうなされて苦しむ姿も浮かんでしまった。
 兄妹がまだ幼かったころにも兄はよくうなされており、父親からは「時帰りのことを思い出しているんだよ」とだけ聞かされていた。
「ごめん。ごめんなさい」
 兄の目の端に小さく浮かんだひと粒の涙が、ひどく重く見えたものだ。
「にゃあん」
 いつの間に店内に潜りこんでいたのか、厨房にたたずむ汀子の足もとにタマが頭をすり寄せてきた。
「タマも心配だよね」
 おそらくこちらの言葉をかなり正確に解している美猫は、うなずく代わりにひと鳴きし、汀子のそばから動こうとしない。
「タマ、お兄ちゃんが時帰りしたのって、なんのためだったか知ってる?」
 こんなことなら、父親に何があったのかを聞いておくのだった。
 いつへ、何をするために戻ったのだろう。
 いくら考えても、本当のことは本人にしかわからない。汀子にわかるのは、雅臣は失敗し、時帰りを否定するようになったということだけ。
「私も時帰りができたらいいのにね」
「にゃあん」
 床に座りこんでいるタマの頭を、しゃがんでなでてやる。ぴんと立つ耳もとをすんすんとかいでみれば、冬の澄んだ日だまりが香った。
 おりしも店の扉が開き、雅臣がモップとバケツを抱えて立っている。
「昨日の夕方にも掃除したじゃない。それに今日は、もうすぐかわいいお客様が来る予定だし」
「また来るのか」
 以前ほど嫌がるそぶりはないのだが、ただ、覇気がない。
「お兄ちゃん、ちゃんと眠れてる? すこし疲れてるんじゃない」
「だいじょうぶだ。それより、抹茶をててくれないか」
「うん、もちろん」
 雅臣が気に入っている碗で点てた抹茶を運んでやる。
「お兄ちゃん?」
 じっと竹林に見入っている雅臣に声をかけると、はっとしたように汀子へと向き直った。
「汀子は母さんのこと、どれくらい覚えてる?」
「う~ん、感触とか、笑ってる顔とか? ちいさかったし、断片的な記憶だけ。でも、すごく私のことを愛してくれてたことはしっかり覚えてるよ」
 時を経ても色あせることなく存在する、母から贈られた愛情の記憶。記憶こそが、汀子にとっての母親だ。
怒っている顔も、泣いている顔も知らない。ただ、記憶のなかの母親は、幼子をいつくしむ微笑を浮かべている。
「そうか」
 雅臣はそれ以上なにも言わず、だまって茶碗を口に運んだ。

 まだ筋肉がつくまえの細い二本の足を前後させながら、空斗そらとはバスから降りた。
 この停留所で降りたのは空斗ひとりきり。目的地はあの神社だ。
 SNSにはたくさんハートマークがついていたから、もっといっしょに降りる人がいるかと思っていたのに、もしかしてそんなに有名な神社ではないのかもしれない。
 空斗が立つ道の前も後ろも背の高い木々に囲まれていて、人っこひとり歩いていない。ときどき思い出したように民家やカフェが現れなければ、観光地ではなく山奥の林道と勘違いしてしまいそうだった。
 ♯一条神社 ♯時の神様 ♯聖神 ♯鎌倉 ♯歴史と趣 ♯イケメン神主 ♯お参りすれば後悔が消えるかも!?
 SNSに投稿されていたのは、神主が祝詞をあげている写真だった。その顔立ちは、少年である空斗の目から見ても整っており、写真には一万以上のハートスタンプが押されていた。
 それでも、空斗の目をひいたのは神主の顔立ちなどではなく、いちばん最後に書かれていたハッシュタグだった。
 ♯お参りすれば後悔が消えるかも!?
 神社の本アカウントにしてはあまりにいいかげんな気もしたけれど、胸の底に冷えた後悔をかかえる空斗には、お告げのように感じられたのだ。
 ここに行けば、ちょっとは気分もすっきりするのかな。
 すぐに一条神社の場所をパソコンで調べたのが十一月の終わり。今年のクリスマスプレゼントはいらないと両親に頼みこんで交通費を出してもらい、十二月の最初の週末に都内から鎌倉まで、ひとりでやってきたのだ。
 ふだんから小三にしては大人びていると言われることの多い空斗だけれど、それでも自分だけの遠出は初めてで、けっこう緊張した。
 もう冬、か。
 夏のあのことを思い出さない日はないのに、季節だけが、空斗の心を置いてけぼりにして移り変わっていく。
 スマートフォンにマップを表示し、方向を確かめてから歩きはじめた。ときどき車が通りすぎる以外は、やっぱり通りは静まりかえっている。
 ちょっと気味が悪いかも。
 コートの袖の中に冷えた指先を引っこめたそのとき、向こうからとっとっと歩いてくる小さな生き物がいた。
「猫?」
「にゃあん」
 すらりとした白猫だった。人に慣れているのか空斗のすぐ足もとまでやってきて、怖がりもせずにすりすりと額を押しつけてくる。
「おまえ、どこかの飼い猫?」
 かがんで頭をなでてやると、気持ちよさそうに目を細めた。青い瞳はあの日の夏空に似ていて、何かを訴えかけてくるようだ。
「にゃあん」
 もう一度ひと鳴きし、猫は空斗の足元を離れた。来たほうへと後もどりし、くるりとこちらを振り返っている。先までまっ白なしっぽが、誘うように小さく揺れていた。
「ついてこいって言ってるの?」
「にゃ」

 

(第19回につづく)