都庁の応接室を辞去した後、二人は福海候補の事務所に向かった。彼の選挙事務所も同じ西新宿に設けられていたが、こちらは雑居ビルの一階にある狭小な部屋だった。二週間足らずの連絡所として使用するだけだから特に拘泥はないだろうが、都庁の豪奢な応接室とは比較にもならない。
「いやいや、お待たせしました」
約束の時間から二十分遅れて姿を見せた福海本人も、笹川とは比較にならないほど余裕がなかった。選挙戦が始まってまだ二日しか経っていないのに、はや顔と腕が陽に灼け、シャツは汗だくになっている。事務所に入ってきた時も疲労の色が濃く、事務所に備えたパイプ椅子にぐったりと座り込んでしばらくは背を伸ばすこともしなかった。
福海誠也五十八歳、現都議会議員。世間ではそろそろ年寄り扱いされる年齢でも、政界では若手と認識されている。ここ最近は野党派の先鋒として、議会では度々笹川に食ってかかっている。
笹川に負けず劣らず精力的な顔立ちをしているが、いかんせん目つきが悪い。下手に笑おうとすると貧相な笑顔にしかならないのだが、本人は無意識なのか一向に改善されない。口さがない連中によれば生来の性悪さが顔に出ているとのことだが、目立ったスキャンダルは葛城も知らない。
「失礼しました。初対面だというのに、こんなみっともない姿をお見せして」
声も少し嗄れている。今の今までずっと喋り続けていたのだと分かる。
「ずいぶん回られたようですね」
「池袋から新宿方面、高田馬場と目一杯回りました」
福海は一気に話すと、持っていたペットボトルの中身を呷る。
「やっぱり街頭演説は違いますね。普段議会で討議しているのとは別物ですよ」
疲れていても話すこと自体は嫌いではないらしい。葛城はしばらく本人の好きに任せようと思った。
「福海さん、都知事に立候補するのは初めてでしたね」
「ええ。長らく都議を務めていますけど、いよいよわたしの出番だと思ったんです」
「笹川都政に不満があったんですか」
「笹川都知事については、その政治的手腕は感嘆するものがあると評価しています。一千四百万都市の行政を一手に担うのですから、一国の総理並みの決断力と実行力を兼ね備えてなければ到底務まる仕事ではありませんよ。ただし」
ただしの後から、がらりと口調が変わる。
「やはり二期目ともなると当初売り物だった清新さは失われ、代りに澱みのようなものが生じるものです。その最たるものがセクハラとパワハラのダブル疑惑です。大抵の権力の例に洩れず、一つところに停滞していたら必ず濁る。水と同じですよ。このまま笹川都政が続けば更なる澱みが生まれてしまう。そうなる前に、今こそ都知事を交代させて新しい都政を展開せねばならんのです」
おそらく街頭演説でも同じ文言を繰り返しているのだろう。「二期目」というワードの後は立て板に水のように言葉が吐き出されてくる。まるで雑音交じりの自動音声のようだった。
「現都知事は今年で七十五歳。傍目には健康そうですが、世間的にはれっきとした高齢者です。他府県の知事と都知事では権限の大きさも仕事量も格段に違う。刑事さんにはその違いが分かりますか」
葛城も基本は押さえているが、福海が喋りたそうにしているので流れに任せる。
「一つには都民から選ばれた首長なので、当然公約を実現させるために都政を動かしていかなければなりません。二つ目は十七兆円の予算と約十七万人もの都職員の財政と人事を切り盛りする経営者として都を円滑に運営していかなければなりません。そして三つ目に首都東京の顔として諸外国の要人や大使たちと外交をしなければならない。つまり政治的手腕と経営手腕、加えて外交手腕が求められる、一人三役以上の激務です。とてもじゃないが高齢者に務まるような仕事じゃありません。笹川現都知事では年齢的にも不安だ。そうした声は以前からわたしの許にも届いていました。現知事のセクハラ・パワハラ問題が一つのきっかけになったのは否定しませんが、遅かれ早かれわたしは都知事選に出馬する運命だったと思うのです」
立候補するのは天命だとでも言いたげな口ぶりだった。
だが葛城の鼻は福海から権勢欲の臭いを嗅ぎつけた。自己評価が異常に高く、いつも天を見上げて背伸びしている者特有の臭いだ。
福海自身は気づいていないかもしれないが、都の規模を語る時の目は羨望に満ちていた。都知事の役割を語る時の目は憧憬に溢れていた。
権勢欲の強い人間が権力を握ると、大抵は権力に固執するあまり対立する者を排除しようとする。権限を拡大させ絶対に手放そうとしなくなり、最終的には世襲制にしようと目論む。数多の政治家がそうであるように、福海もまた例外ではないのかもしれない。
「それでご用件は何でしたか」
「先日、補選のさ中に外崎候補が狙撃されました」
葛城が来訪の趣旨を簡潔に説明すると、福海は途端に機嫌を悪くして顔を顰めた。いや、これが平時の表情なのかもしれない。
「つまり、これから十日間、投票日までこの狭っ苦しい事務所でじっとしていろ、という指示ですか」
「指示ではなく勧告です。選挙管理委員会でもない我々にそんな権限はありません」
「各陣営にも同じ話をしているんですよね。各候補者の回答はどうだったんですか」
「まだあなたで二人目です。最初は笹川都知事でした」
「都知事の回答は」
宮藤を見ると、軽く頷いた。
「最終日を含む三日間以外は都庁の執務室に籠るそうです」
ああなるほどと、福海は訳知り顔になる。
「それで警察は納得したんですか」
「可能な限り、聴衆の面前には出ない。捜査本部の要請に従っていただき、有難いと思った次第です」
「ふん、あの古狸が恩着せがましく言いそうな話だ。今の情勢を分析すれば、最後の三日間だけ街頭に立つのが最も効果的であると計算し尽くしているんですよ」
葛城も同じ見立てだったが、敢えて口にはしない。
「しかし七日間、建物内に籠られるのは事実です。少なくともその間は狙われずに済みますし、我々の警備態勢にも余裕が生まれます」
「しかし何も都知事選が狙われるという犯行声明や客観的な理由がある訳でもないでしょう」
「わずかでも危険性が認められるなら回避させるのが、我々の職務です」
「根拠が薄弱な危険のために、これから十日間の選挙戦をドブに捨てろというんですか。はっ、その指示、ひょっとしたら笹川都知事からのものじゃありませんか」
「違います。捜査本部からの勧告です」
「警視庁だったら、都知事の指示には従わざるを得ないでしょう。仮にわたしが七日間を棒に振って都知事と同じ条件で闘ったら、現職有利の原則が働いて間違いなく負ける。その手には乗りませんよ」
福海は片手をひらひら振って拒絶の姿勢を見せる。
「言いたかないが、笹川都知事が最終三日間だけ顔を出しても、わたしが残り十日間をフルで走り回る効果をはるかに上回る。街頭演説の機会を削れば削るだけわたしの不利になる。そんな真似ができるものですか」
まるで聞き分けのない子どもだと思った。
「第一、危険があるのなら、わたしを護衛してこその警察じゃありませんか。最初から街頭に出るなというのは、職務放棄に近いんじゃありませんか。そんな体たらくだから、都民から税金泥棒なんて陰口を叩かれるんです」
「税金泥棒、ですか」
今まで沈黙を守っていた宮藤が初めて口を開く。
「わたしは初耳ですね。よろしければ、そう宣った都民とやらはどこのどなたですか。一度、ここに連れてきてもらえませんかね」
「都民は都民だ。特に名前はない。わたしが知っているなら確かな話に決まってるでしょう」
「都知事に立候補されていらっしゃるなら敢えてお聞きします。先ほど東京都知事は『約十七万人もの都職員の財政と人事を切り盛りする経営者として都を円滑に運営していかなければなりません』と仰いましたが、それ以外にも警視庁の警察官が約四万四千人、警察行政職員が約三千人、会計年度任用職員が約三千人在籍しています。都の経営者としては我々の人事も円滑に進めていただかなければなりませんが、知事選候補者全員の十日間を警護する費用とマンパワーを考慮されていますか。無論、その間は都内の犯罪防止と摘発に割ける人員が制限される計算になりますが」
「ヒトとカネとモノはそっちで勝手に考えてくれ。わたしは他にするべき仕事が溜まってるんだ」
「どうあっても街頭演説を控えてはいただけませんか」
宮藤の物言いは喧嘩腰に近い。これではならじと葛城は修復を試みる。
「今は街頭演説だけではなくSNSを活用した選挙運動もあるでしょう」
「ネットを介した方法ももちろん併用しますよ。しかしですね、人の心を動かすのは、いつだって生身の人間が生の声で訴える姿なんです。ドブ板選挙なんて古臭い手法が未だに廃れず行われているのは、所詮握手をした回数と流した汗の量で当落が決まるからです」
藪蛇だった。何とか折衷案を引き出そうとしたが、福海は己の言葉に昂奮するタイプらしく、ますます頑なになってしまったようだ。
「もう、あなた方と話すことはありません。これから明日の作戦会議です。部外者は遠慮していただきます」
半ば無理やり事務所を追い出され、葛城と宮藤は空しくクルマに取って返す。
「説得するはずが逆効果になっちゃいましたね。すみませんでした」
「謝る必要はない。お前は悪くない」
宮藤は腹立たしげに言う。
「笹川都知事にしても福海にしても、どうして政治家ってヤツは揃いも揃って性悪なんだろうな。いや、性悪というか価値基準がズレている。自分が狙われるかもしれないってのに街頭演説の方が大事だと吐かす。頭の中身を見てやりたい」
「職業ごとに優先順位が違うんですかね」
「どんな商売だろうと一番大事なのは命だと信じていたが、俺の思い違いだったみたいだな」
そう言ったきり助手席の宮藤は口を噤んでしまった。
はっきりしたのは、狙撃対象者の最有力候補の二人とも、相変わらず危険水域から動こうとしない現実だった。
(つづく)