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 上司からいささか理不尽と思える命を受けて、葛城は湯島に直行した。湯島天神のお膝元、医療関連の企業が軒を連ねる中、ひときわ瀟洒な商業ビルの前で足を止める。〈氏家鑑定センター〉はこのビルの二階に研究室を構えている。

 二階フロア全部がセンターの研究室になっていた。ドアを開けると絶えず換気がされているらしく清新な空気が葛城を包み込んだ。

「やあ、約束の時間通りですね」

 出迎えたのは所長の氏家だった。見るからに研究者の出で立ちで、これほど白衣が似合う男も珍しいのではないか。

「ご依頼の概要は伺っていますが、捜査一課からの依頼というのは初めてです」

「科捜研を抱えた捜査一課の委託です。さぞかし奇妙に思われたのではありませんか」

「葛城さんでしたね。わたしと科捜研の過去の経緯をご存じでしょうか」

「それも伺っています。何と言うか、その、独立した社員が同業を興し、古巣の脅威になったという解釈でいいですか」

「脅威かどうかはともかく、疎まれているのは確かですねえ。しかも一課には名うての鑑識係も揃っている。民間のウチに鑑定を依頼するには相応の事情がおありなのでしょう」

 束の間、葛城は迷う。話した限りの感触では、氏家は根掘り葉掘り聞きたがるタイプの男とも思えない。だが、捜査本部の置かれた状況を説明しなければ、切迫さを理解してもらえないだろう。

 己の数少ない長所の一つが人を見る目だと思っている。その目が氏家を信じろと告げている。どのみち弾痕や線条痕について分析を依頼するからには自ずと捜査情報も開示せざるを得ないだろう。

 葛城は全てを打ち明けることにした。

「鑑定していただきたいのは、先日外崎伺朗候補が狙撃された事件に関する証拠物件です」

「ニュースで見聞きしました。対象は被害者の肩を貫通した弾丸ですね」

「ええ。現場で採取された弾丸には線条痕が刻まれていましたが、その線条痕の分析に関して意見が二分されているんです」

 葛城は捜査本部が科捜研から幡野を召喚した件と、彼の分析が鑑識のそれと意を異にしている状況を簡潔に説明した。

「ははあ、幡野くんが科学捜査員に昇格しましたか」

「幡野さんをご存じなんですか」

「彼とはたった一年ほど一緒にいただけですよ。採用された時には初々しい青年でしたが、生粋の研究者でしたね」

「生粋の研究者というのは今も変わっていません。ただ最新技術を導入して捜査の効率化を図るという目論見は、研究者というより管理職のような風情があります」

「ひょっとしたら等々力管理官の薫陶を得ているかもしれません。彼は採用された時分からずいぶん管理官に目を掛けられていましたから」

「採用時点からというのは、よほど有能だったんですね」

 すると氏家は言い難そうに苦笑した。

「それもありますが、等々力さんと同じ大学の出身だったのですよ」

 途端に葛城の不安が増す。

「今でも氏家さんは等々力管理官と交友があるんですか」

「交友どころか蛇蝎のごとく嫌われていますよ」

「じゃあ、こちらに鑑定を依頼すると二重に科捜研の恨みを買う結果になりはしませんか」

「どちらにせよ恨まれているから一緒ですよ。気を回してもらう必要は一切ありません。それよりも肝心なのは線条痕の件です。資料をお持ちですか」

 氏家の求めに従い、持参したカバンからパソコンを取り出す。画面に表示させたのは、幡野が捜査会議で開陳した3D画像による解析結果だ。

「ああ、二次微分画像の生成ですね。へえ、科捜研もこの手法を導入したのですね。位相限定は階調を十倍。うん、適切な倍率です」

「よくひと目で分かりますね。僕なんか幡野さんの説明を聞きながらでもついていくのがやっとでした」

「二次微分画像の生成はウチのセンターでもいち早く導入しているのですよ。科捜研よりも早かったはずです」

 科捜研よりも導入が早かった理由は言わずもがな、資金力の差だ。科捜研の予算は国から出ており、当然そこには優先順位が存在する。科捜研に回される順番は下から数えた方が早いのではないか。

「〈氏家鑑定センター〉は最新の分析機器が揃っているんですね」

「鑑定の報酬はまず人件費、二番目に初期投資に回します。科学捜査の世界は日進月歩なので絶えず最新鋭のものに更新していかないと、時代に取り残されてしまいます。分析精度の向上が望めないと誤謬性の罠に陥りますからね」

 氏家の警句は葛城の耳に痛い。精度の低い鑑定を鵜呑みにした結果、冤罪になってしまったケースが現実に存在しているからだ。

 最も有名なのは足利事件だろう。被害者女児の下着に付着していた体液のDNA型が容疑者Aのそれと一致したため逮捕に至ったのだが、当時(一九九〇年)時点での鑑定技術では千人に一・二人の確率で別人のDNA型が一致する可能性があった。果たして二〇〇九年に行われた再鑑定では同一人物のものではないという鑑定結果が提出され、ようやく冤罪が晴れたのだ。

 科学捜査の誤謬性が問われた事件であり、精度の低い分析は却って有害であると証明されたかたちだった。

 だが現実には、科学捜査に潤沢な予算が下りていない。言い換えれば経済的理由で科学捜査が冤罪を作り出す惧れは払拭されていないままなのだ。

 一方、民間の〈氏家鑑定センター〉では技術や分析機器が更新され続けている。どちらが真実に迫り易く、また誤謬が少ないかは火を見るよりも明らかだ。

「氏家さんは最新の機材を導入できて羨ましいです。警察ではなかなかこうはいきません」

「わたしが科捜研を辞した理由の一つがそれでした。研究員一人一人のスキルを上げろと発破をかけるものの、分析機器は平気で十年前のものを使えと言う。そういう不合理さが嫌で独立したところもあります。まあわたしの場合、実家が太かったのが幸いしましたけどね」

 資金力の差で弾き出される結果に相違が生じる。容疑者にしてみれば堪ったものではない。地獄の沙汰も金次第とはこのことだ。

「いかにも不公平だという表情ですね」

 いきなり氏家に虚を衝かれ、葛城は慌て出す。

「いえ、あの、すみません。問題があるのは警察側なのに」

「気にしないでください。資金力のある者がより真実に近づけるのはその通りですが、でもカネだけが真実を暴くんじゃありません。どんなに便利で精緻な機器を使っても、最終的な判断を下すのは人間ですからね。やはり最後にものを言うのは、各人の知見なんですよ」

「幡野さんは観察者の技術や経験値によって効率に差が生じてしまうのを憂いていました。分析力の平準化を進めなければ現状は変わらないと危惧しておいででした」

「幡野くん本人は充分に技術と経験値を備えた男だから矛盾もいいところなんですけどね。彼は一種の理想主義者なのかもしれません」

 理想主義者と聞いて、すっと腑に落ちた。幡野の発言から聞き取れる堅苦しさの正体はそれだったのか。

「対する土屋さんは、どんな意見でしたか」

「溝と溝の間隔が本物のウィンチェスター銃と比較して〇・〇一ミリほど広いそうです。決して無視できない数値だと仰ってました」

「勘と経験値が言わせる意見ですね。なるほど幡野くんが嫌うはずです」

「今回、上司は氏家さんにジャッジをお願いしたいそうです」

 すると氏家は表情を曇らせた。

「うーん。わたしが平常通りの鑑定をしても、結果的に二人へのジャッジになってしまう訳ですよね」

 気が重たそうな口調も当然だと思った。己の決定が誰かの評価になってしまうのだから責任重大だ。葛城がその立場だったらカネを積まれても拒否するだろう。

「氏家さんの気が進まないのはよく理解できます。しかし捜査本部としては一刻も早く方向性を定める必要があり、こうして鑑定をお願いに上がった次第です」

「土屋さんの人となりと実績は人伝に聞いています。長らく鑑識を務めて信望も厚いそうじゃないですか。幡野くんは言うに及ばず性格も知っています。がちがちの理論派ですが、真面目で正義感が強い。話を聞く限り二人の主張にはそれぞれ根拠があり、少なくとも明確な誤りは認められない。単に方向性の違いだけなのですからね」

 氏家は悩ましげに首を傾げてみせる。今までの短いやり取りで、彼が他人に優劣をつけるのを嫌っているのが分かる。そして、意に沿わぬ難題であっても、正式な依頼なら引き受けてしまう誠実さを持っているのも分かる。

「捜査本部が懸念しているのは再び狙撃事件が起きる可能性です」

 葛城は搦め手から攻めようと思った。

「白昼堂々、選挙演説中の候補者が凶弾に倒れる。事件そのものが民主主義に対する挑戦ですが、それ以前に市民生活の蹂躙です。往来を歩いていて耳元を銃弾が掠めるなんて、あっていいはずがない。我々は何としてでも狙撃犯を逮捕しなければなりません。是非お力を貸してください」

「際どい依頼をするのに刑事部長や課長ではなく、葛城さんを仕向けた理由がよく分かる。あなた、人たらしと呼ばれたことはありませんか」

「今、初めて言われました」

「利益を追求する民間企業なので客の選り好みはしませんが、それでも意欲を駆り立てる依頼とそうでない依頼があります」

「今回は意欲を駆り立てない依頼なんですか」

「だからこそあなたを仕向けたのでしょう。あなたが頭を下げれば、わたしは断らないと踏んでいる。相手の肩書で態度を変えるようにはなりたくありませんが、こちらの内心を見透かすような人にもちょっとばかり腹が立つ」

 氏家は苦笑しながら言う。

「それだけ捜査本部も困っているんですよ。察してください」

「少し考える時間をいただけませんか」

 焦ったが、葛城の側に拒める義理はない。

「ほんの数時間だけ検討させてください。本日中に回答しますから」

 この場で即断即決しない理由は分からないが、氏家の態度を見ていれば躊躇も真摯さから出ているものと推測できる。元より警察権力を笠に着て無理に従わせようなどとは考えていない。

「構いません。いい返事をお待ちしています」

 丁寧に礼を述べて、鑑定センターを後にする。外に出た瞬間に埃っぽく感じたのは、それだけセンターの中で清潔が保たれていたからだろう。

 葛城は敢えて口にしなかったが、氏家には別の葛藤もあったに違いない。言うまでもなく古巣に対する遠慮だ。

 幡野は等々力管理官がずいぶん目を掛けていたという。その等々力にしてみれば、独立後も続々と科捜研から人材を引き抜く氏家は到底看過できる相手ではない。相手の気持ちが分からない氏家ではないから、等々力から蛇蝎のごとく憎まれているというのも満更ジョークではなかっただろう。その等々力が可愛がった幡野の鑑識能力を氏家にジャッジされるのだ。等々力の怒りに火がつくのは誰でも容易に想像がつく。

 職を辞したとしても完全にしがらみを断ち切れる人間はそう多くない。過去や現在に関係なく、人間関係の鎖に汲々としている者が大半に違いない。快活で開けっ広げな印象のある氏家だが、果たして彼は柵を撥ね退ける選択をしてくれるのだろうか。

 ビルから出た葛城は、祈るような気持ちで〈氏家鑑定センター〉のある階を見上げた

 

 

(つづく)