四 公示
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「ご多忙中のところ、申し訳ありません」
氏家が覆面パトカーに乗り込もうとすると、わざわざ葛城はドアを開けてくれた。
預かっていた試料の一部を返却する際は保険付きの小包を利用するのがもっぱらだが、今回は依頼元が捜査一課なので返却方法を確認すると、先方から受け取りにきたのだ。氏家の側にも警察に訊きたいことがあったので、折角ならと同行する運びとなった。
それにしても、この葛城という男は異質だと思った。人としては真っ当過ぎるくらいに真っ当なのだが、まるで刑事らしくないのだ。とにかく礼儀正しく、視線は終始穏やかで人を疑う目をしていない。威圧感もなければ尊大さもなく、警察官というよりは実直なサラリーマンといった風貌だ。長年、警察官を見慣れてきた目には清新どころか奇妙にさえ映ってしまう。
「試料をご返却いただくということは、既に分析を終えられたのですか」
「いえ、分析はまだ継続中ですが、預かった試料は用済みになりましたからね」
問題の弾丸に付着していた異物はレーザードリリングで見事に除去できた。現在は相倉が異物の成分分析をしている最中だが、まだ報告が上がっていない。
「正直、捜査は行き詰っています」
本当に正直なので少し驚いた。外崎候補狙撃事件が暗礁に乗り上げつつあるのは薄々気づいていたが、担当者から明け透けに告げられるとは思ってもみなかった。これも葛城の美徳か、あるいは欠点なのか。
「〈氏家鑑定センター〉の分析結果が捜査に進展を促してくれると期待している向きが少なくありません」
「有難いお言葉ですが、鑑識課や科捜研がいい顔をしないんじゃありませんか」
あまり気にしないでください、と葛城は言う。
「誰が機嫌を悪くしようが、事件が解決するに越したことはありませんから。氏家さんの鑑定センターには科捜研でもお目にかかれないような分析機器が所狭しと装備されているんですよね」
「ええ、まあ、カネにあかせて揃えました」
自嘲のつもりで口にしたが、ここでも葛城は予想外の反応を示す。
「素晴らしいですね」
諸手を挙げんばかりの口調だった。
「潤沢な資金を捜査や分析に回せるなんて。おカネの使い道としては最良だと思います。氏家さんがとても羨ましいです」
「それはどうも」
「捜査に人とおカネを投入する。それが結果的には犯罪の摘発と抑止に繋がる。犯罪が減れば市民が安全に暮らせる。悪いことなんて一つもありません。でも、国はしょっちゅう予算の削減を要求してくるんです。削減するなら、もっと相応しい科目があるんですけどね」
改めて真っ直ぐな性格なのだと思った。
流れる車窓を見ていると、区役所前に設置された選挙ポスターの掲示板に目がいった。そう言えば、今日は都知事選の公示日ではないか。
都議会議員補欠選挙は先週の日曜日に投開票が行われ、狙撃事件の被害者である外崎候補は敢えなく落選した。当選した候補にはトリプルスコアの差がついているので惨敗と言っていい。演説中に襲われたという同情票を積み重ねた挙句の結果なので、彼がいかに支持されなかったかを証明したかたちだった。それでも次回の都議選に出馬すると息巻いているらしいから、その政治姿勢はともかく筋金入りの厚顔さであるのに間違いはない。
「外崎候補は退院しましたが、最初の狙撃以降は何もないようです。選挙も終わったので警備体制も解除されました」
「外崎候補本人は了承したんですか」
「最後まで抗議していましたが、議員でもない一般市民ですからね。いつまでも公費で身辺警護する訳にはいきませんよ」
「未詳Xが外崎候補を執拗に狙っているのではないとすると、やはりあの狙撃は予行演習だったのでしょうか」
「未詳Xって何ですか」
「ああ、失礼。センター内ではそう仮称しているんです。気にしないでください」
「いや、その仮称はいいと思いますよ。実は捜査本部でも『狙撃犯』とか『襲撃犯』とか呼称が一致していないんです。未詳Xなら皆も同意してくれますよ、きっと」
意外なところで共感を得られたが、満更悪い気はしない。
「外崎候補への狙撃が予行演習というのも、鑑定センター内での意見なんですか」
「わたしの個人的な見解です」
「実は同じ考えを持つ人がウチにいます」
「ひょっとして宮藤さんですか」
「ご名答です。そして宮藤さんが提示した可能性についてSATの某隊長がこんな風に答えたんです。『予行演習と仮定するのであれば、本番の舞台も街頭演説だと考えるのが妥当だろうな。条件が同じか近似でなければ予行演習の意味がない』」
瞬間、息が止まりそうになった。
「その隊長さん、とんでもない示唆をしていますよ」
「どうかしましたか」
「今日、都知事選の公示日でしたよね」
葛城の顔色も変わる。
「まさか、未詳Xの本当の標的は都知事候補者だと言うんですか」
葛城の声が跳ね上がるのも無理はない。都知事選には現職の笹川都知事も立候補しているからだ。
そもそも東京都知事は地方自治体の長としては特殊な位置に立脚しており、その権力は総理大臣以上と論ずる者さえいる。日本全人口の一割近くに当たる一千四百万人の有権者から直接選ばれた首長であり、総理大臣よりも民意を代表していると言っても過言ではない。更に都の予算規模はスイスの国家予算並みとなる十七兆円、職員数約十七万人と突出しており、自ずと都知事の裁量権も大きくなる。議院内閣制の総理の任期は脆弱であるのに対し、大統領制の都知事は身分が安定し四年間全力投球できる。また閣僚の全員一致を原則とする合議制内閣の総理に比べ、都知事は単独で意思決定できる。従って都知事選は時として国政選挙よりも注目されることになる。
加えて今回の都知事選は様々な事情が重なったせいで、従来よりも都民どころか全国の耳目を集めている。現職の笹川知事は二期目のベテランで都政をこなしていたが、つい一カ月ほど前、女性職員に対するセクハラが発覚して都議会で責任を追及されたばかりだった。糾弾された知事はセクハラ行為を認めようとせず、議会が紛糾する中で選挙戦に突入したという次第だ。
二期目を終えた笹川都政の評価は功罪相半ばする。水道代の基本使用料を時限ではあるが無償化するなど住民サービスに徹するのはいいとして、反面職員へのセクハラとパワハラが常態化していた。これに反旗を翻し、反笹川の急先鋒となったのが福海誠也都議だ。
与党国民党に所属していた笹川に対し福海は野党第一党の民生党という事情もあり、実績を誇る現職と旧体制の打破を叫ぶ挑戦者という構図は見慣れたものながら、二人の闘いは今秋に予定されている衆院選の趨勢を占うものと位置づけられている。
更に外野ではフェミニズムを標榜する団体と、保守系の笹川都知事を擁護する団体が公示日前にも拘わらず中傷合戦を繰り広げている。
「現在、都知事に立候補しているのは現職の笹川都知事と福海候補。他にもダークホースや泡沫候補が次々に名乗りを上げるでしょうが、実質はこの二人の一騎討ちになるというのが大勢の予想です。氏家さんは、この二人のうちどちらが狙われるとお考えですか」
「急に訊かれても。第一、未詳Xの標的が都知事選というのはほんの思いつきですよ」
「いえ、その思いつきは的を射ていると思います。未詳Xが都知事選に照準を合わせていたのなら、外崎候補の肩を撃ち抜いただけで撤収した理由にも、このところ動きを見せない理由にも説明がつきます」
「しかしですね、葛城さん。知事選が実質笹川知事と福海候補の一騎討ちだったとしても、未詳Xの標的が二人のうち誰かとは限らないじゃないですか。それこそダークホースか泡沫候補の誰かを狙っている可能性もあります」
「いいえ、ありませんね」
葛城は迷いなく断言する。
「他の候補者たちは告示日の今日になって手を挙げた者がほとんどで、以前から立候補が確実視されていたのは二人だけなんです。従って未詳Xが標的にするとしたら、その二人のどちらかしか有り得ないんです」
「都知事選ではなく、その先に控える衆院選という可能性もありますよ」
「可能性はありますが希薄です。外崎候補の狙撃が予行演習であるという仮定に立つなら、演習と本番の間隔が空き過ぎていては意味がありません。都知事選に照準を絞っているからこそ、補選での狙撃がちょうどいいタイミングだったのだと思います」
話しながら葛城はこくこくと頷いてみせる。口に出しながら己の考えを纏めていくタイプなのだろう。質問と回答を繰り返していると、氏家の方も円滑に思考が進んでいく。
葛城が展開させた推理は最も肝心な点を除いて破綻がない。標的が笹川・福海のいずれかであるという結論にも一定の評価ができる。
肝心な点はやはり未詳Xの動機に関してだ。それを見誤ると、葛城の推理もあっという間に瓦解する。いずれの候補を狙うとしても、それが個人的なものなのか、それとも政治的な主張なのかで選択肢が分かれる。
(つづく)