最初から読む

 

 

 江東区の新木場にある施設に移動してみると、射撃訓練場に自分と新見以外に人影はなかった。やはり新見のお膳立てで事が進んでいるようだ。

「いつでもいいぞ」

「では機能点検から始めます」

 射撃訓練はまず拳銃の機能点検を済ませた後、空撃ちをした後に五発の弾丸を装填するのが決まりになっている。

「ああ、それはすっ飛ばして構わない。正式な訓練ではないからな」

 的は同心円が印刷されたもので、段ボール製だから命中すると弾着が克明に記される。

「最初は五メートルからですか」

 レーンには射距離五メートルと十メートルがセッティングできる仕様になっている。五メートルと聞けば部外者は案外近いと思うだろうが、犯人制圧の瞬間は近接になる場合が少なくない。また近接であっても緊張と昂奮で照準が定まらないことも多く、射距離五メートルというのは極めて妥当な距離と言える。

「二十メートル」

 新見は事もなげに答えた。

「レーンの端まで的を遠ざければ、そのくらいの距離にはなるだろう」

 確かに新見の言う通りだが、仕様の射距離を無視した射撃は初めてだった。

「いいのでしょうか」

「正式な訓練ではないと言ったはずだが」

 的をレーンの端まで移動させ、射撃位置に戻る。

 使用する銃はニューナンブM60。S&WのJフレームおよびKフレームリボルバーをベースにしたダブルアクションリボルバーだ。一九九〇年代に生産を終了したが、警察では現在も制式拳銃の一つとして配備している。

 照準は照門と照星を合わせるだけの単純なものだ。だが単純だからこそ射手の腕前がより明確に顕現する。

「いつでも撃ってよし」

 命令が下された瞬間、呼吸を浅くした。三度呼吸を繰り返すと鼓動も低くなる。

 引き金に軽く人差し指を添える。

 心に描いた水面が平穏になり、波紋が消える。

 引くのではなく、押さえる。ニューナンブに限らず警察の制式拳銃はどれも反動が激しいので、射出の瞬間も可能な限り銃身をブレさせない。

 瞬間、息を止める。

 一発。

 二発。

 三発。

 五発全弾を発射し終えてから、長く息を吐いた。

「どれ」

 新見は待ちきれない様子でレーンを渡り、撃ち抜かれた的をいそいそと持ってきた。

「お見事」

 全弾とも同心円の中心を貫いていた。

「予備動作なしで全弾命中。ご祖父の指導もあるのだろうが、やはり一番は君の資質による部分が大きい」

 新見は撃ち抜かれた的を惚れ惚れと見つめる。

「だれでも訓練と指導である程度までは上達する。だが、そこから先はセンスの有無だ」

 新見は期待を込めた目でこちらを見る。

「次に会う時は試験入隊の時かな」

 そう言って、的を手にしたまま部屋を出ようとする。

「新見班長、的は」

「記念に取っておこうと思ってな」

 新見は的をひらひらと振ってみせる。

「お言葉を返すようですが、大した記念にはならないと思います」

「記念品にならなくても、射撃の腕前が確かだという推薦状にはなるさ。また会おう」

 結局、その数カ月後に新見とは試験入隊訓練時に再会することとなる。試験入隊訓練も新隊員訓練も想像以上に苛酷だったが、憧れのSATに入隊できる希望と新見からの密かな励ましが心身を牽引してくれた。

 鍛錬の甲斐あって二カ月後にはめでたく新見班の一員に配属された。待っていた、と新見から言われた時には目頭が熱くなった次第だ。

 

 SATに入隊して数年、そろそろ後輩の指導をしてくれと新見から依頼された頃、古傷が疼くようなものを目撃した。

 非番の日、気晴らしに有楽町に出掛けた際、東京交通会館前で決して忘れようのない声を耳にした。

『えー、今わたしはずいぶんと昂揚していますが、これは初夏の暑さのせいだけではなく、党の重鎮である諸先輩方が必ず街頭演説に立った場所に立たせていただいている名誉からであります』

 聞き覚えのある声とイントネーションに振り向くと、演説カーの前でマイクを握っていたのは、我先にと祖父を押し倒した議員だった。看板にも確かに彼の名前が大書されている。

『本日わたしは都議会報告をするべく辻に立っている訳でありますが、やはり現状の都政では至らぬ点が多過ぎて、報告にも多くの時間を費やさねばなりません。正直、他人の答案用紙を採点するのにも飽きてきたところであります』

 あの土砂崩れの惨事から生き延びただけではなく、今も平気な面で議員活動を続けているのか。

 遠くから見ているだけで、ふつふつと怒りが込み上げてくる。

『都知事の任期満了に伴う選挙が近づいてまいりました。公示日になれば、またぞろ多士済々たるメンバーが候補として名乗りを上げることでしょう。不肖、このわたしにも思うところがございます」

 何と、彼は都知事選に立候補する肚づもりらしい。

 我が身可愛さに老人を押し退けるような恥知らずな男が首都東京の舵取りを担うだと。

 ふざけるな。

 市井の者の命を何だと思っている。

 湧き起こる感情が堰を切ろうとする寸前、後ろを向いて駆け出した。これ以上、彼の演説を聞いていたら己が何かとんでもない挙動に出そうで恐ろしかったのだ。

 有楽町線で地下鉄に乗ってしばらく経っても、心臓は早鐘を打っている。彼は自分を睨んでいるこちらに気がついただろうか。

 いや、気づいたとは思えない。顔を憶えているかどうかも怪しいところだ。災害の後、彼の口からは真実の告白も謝罪の言葉もなかった。あの悪魔の行為に頬かむりし続ける所存らしい。

 不意に己の立場を思い出した。

 警視庁警備部警備第一課、SAT。

 要人警備のために本人の身辺に配置されるか、配置されずともスケジュールとタイムテーブルを知り得るポジションにいる。加えて警護の際は銃を携帯する。

 武器もチャンスも与えられているではないか。

 僥倖だと思った。

 亡き祖父が復讐のためにお膳立てしてくれたとしか思えない。

 後は準備を整えて、来るべきチャンスを待つだけだ。

 綿密な計画を立てなければならない。一発必中のためにシミュレーションも必要だ。

 未詳Xは昏い情熱に心を焦がし始めた。

 

 

(つづく)