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 高校に上がり、そろそろ進路を決めなくてはいけない時期になった。クラスも自ずと進学組と就職組に分かれ、それぞれ進路希望調査票に明確な目標を書いて提出しなければならない。

 無論、進路に悩みなどなく、調査票を手にした担任の前で堂々と説明できた。

「一、警察官。二、自衛官。三、騎手。で、四が競艇選手か」

 担任は調査票を睨み、呻くような声を上げた。

「どうかしましたか、先生」

「いや、一と二は進路希望として珍しくないが、三と四は結構特殊な職業だと思ってな。希望した理由を訊いてもいいか」

「一と二は言うまでもなく銃を所持できるからです」

「おいおい、確かに警察官や自衛官は銃を持てるが、日常的に発砲している訳じゃないぞ」

「それくらい知っていますよ。でもどちらも定期的に射撃訓練をするし、射撃の腕が優秀だったら全国大会やオリンピックにも出場できるんですよ」

「ああ、射撃競技の強化選手に警察官や自衛官が多いのは先生も知っている。しかし銃を撃ちたいという動機で進路を決めるのは、さすがにどうかと思うぞ。適性というのもあるだろうし」

 受け持った生徒の特技を知らないなんて担任の風上にも置けないと思ったが、元より射撃が得意だとはクラスメイトにも黙っているのだから、教師が知らないのも当然と言えば当然だった。

「じゃあ三と四を希望する理由は」

「騎手も競艇選手も、視力を問われる職業です。もちろん眼鏡やコンタクトレンズの使用も認められてますけど、裸眼で視力2・0というのはそれ以下の人に比べて有利になるはずです」

「はずですって、それもそうだろうけど」

 担任は終始困惑を隠そうともしない。自分が困惑している様を見せて、希望を思い留めさせようとしたのかもしれない。

「射撃で世界チャンピオンになりたい。そういう夢を持つのはとても素晴らしいことだし、先生もそれは否定しない。しかしな。たとえ憧れているとしてもアイドルや歌手、野球やサッカーの選手を目指すとなると、諸手を挙げて賛成はしかねる。特殊な職業には特殊な才能が必要だし、特殊な才能があったとしても、その世界で生活していくのはひどく困難だからだ」

「いっぱい努力すればいいと思います」

「努力なんて当たり前のことだから皆やっている。こんなことはあまり言いたくないが、何にでも努力は必要だけど努力すれば必ず報われるというものじゃない。いや、むしろ報われないことの方がほとんどだろう。報われるとしたら資格の取得くらいだが、資格を持っていたとしても安定した仕事なんてそんなにない」

 適性について懇々と説かれたが、適性はあると信じているので翻意する気など更々なかった。すると、ようやく担任は音を上げたようだった。

「君の態度を見る限り、ふざけて調査票に記入した訳じゃなさそうだな」

「最初っから大真面目ですよ」

「真面目に書いた調査票なら、これを受け取った時点で先生も真剣に進路指導しなきゃならない。まあ、射撃に秀でていなくても警察官や自衛官になれないことはないからな」

 何を今更と思う。こちらは真剣に進路指導してもらうために面談しているのではないか。

 祖父も孫の希望する進路を聞いて喜んでくれた。

「そうか、お巡りさんか自衛官か。そりゃあいい。爺っちゃん、羨ましいくらいだ」

「担任の先生は、銃が撃てるという理由で進路を決めるなって言い方だった」

「目的が何であろうと、目標を持つのは大事なことだ。自分の行き先を知っている者とそうでない者との差は大きい。それにお巡りさんも自衛官も人を護る仕事だ。お前がそうなってくれれば、とても嬉しい」

 祖父は、わしわしと頭を撫でてくれた。そんな祖父が大好きだった。

 そしてさあこれからという段になって転機が訪れた。

 

 その年の八月は例年になく雨の多い月だった。住んでいた地域にも連日雨が降り続き、地盤は相当脆弱になっていたらしい。

 長雨にも切れ間があり、ちょうど夏祭りの日に久しぶりの快晴を見ることができた。地元神社が主催する由緒ある祭事なので、中止にならず氏子たちはほっと胸を撫で下ろしていた。

 由緒ある祭りだからか、地方の名士も大勢参加して結構な盛り上がりを見せる。特設されたステージには地元から選出された議員たちが立ち、順繰りに挨拶をしていく。

「えー、今わたしはずいぶんと昂揚していますが、これは先ほど頂戴したお神酒のせいだけではなく、このように栄えある場所に立たせていただいている名誉からであります」

「県議の〇〇です。昨年に引き続きお招きいただきました。地域では少子高齢化が進み、こうした地域の祭りも激減していると聞き及んでおります。しかし、ここの祭りは例年と同様に活況であり喜ばしい限りでございます」

「昨年の選挙は党友の不祥事も重なり、大変な苦戦を強いられました。しかし、それでも当選できたのは皆々様の熱いご支援の賜物でございます。私事ではございますが、この場をお借りして御礼申し上げたいと存じます」

 公職選挙法で祭りへの寄付は禁じられており、議員たちは問題にされない程度の金額を実行委員会に差し出す。それでも祭りの関係者は「忙しくても来てくれた」という理由で満足してくれる。こうした泥臭いやり取りが、次の選挙に繋がる。

 盆踊りが続き、祭りもたけなわといった時、何人かは裏山の方角から異様な音がするのを聞いたという。ある者は獣の唸り声のようだったと言い、またある者は地下を電車が通過するような低い震動だったと言う。祖父と一緒に来ていたが、生憎と孫には何も聞こえなかった。

 午後八時二十分、災いは微かな前兆の後に祭りの参加者を襲った。

 突如として轟音のような地鳴りがしたかと思うと、裏山が崩れはじめた。会場は裏山を背にしていたので、鬱蒼とした森林がそのまま滑り落ちてくるのが夜目にもはっきりと見えた。だが、夜目なので崩れた土砂の速さまでは見えなかった。

 あっという間に会場の周囲を照らしていた照明が呑み込まれた。

「山崩れだ」

「早く逃げろ」

 皆が慌てて駆け出したが、山側の露店でイカ焼きを買っていた祖父と孫は逃げるのがひと足遅れた。

「走れ」

 祖父は背後から喉も裂けよとばかりに叫んだ。

「死ぬ気で走れえっ」

 周囲にいた者たちもめいめいに駆け出した。

 必死の叫びに背中を押され、懸命に走る。背後に脅威が迫りくるのを肌で感じる。皆、我が身の安全が精一杯で振り返る余裕もない。

「誰か」

「逃げろ」

「助けて」

「お父ちゃんっ」

 皆の悲鳴が轟音に掻き消される。だが真後ろで放たれた怒声だけは、はっきりと耳に届いた。

「邪魔だ、退けえっ」

 一瞬だけ振り向いた刹那、信じ難い光景を目にした。

 最前、特設ステージでスピーチをしていた議員の一人が、前を走る祖父を押し倒したのだ。

 祖父は体勢を崩し、その場に倒れ込む。

「爺っちゃん」

 声を上げたつもりだったが、土砂の降り注ぐ音で祖父に聞こえたかどうかはわからない。祖父を押し倒した議員は、さっさと孫を追い越して走り去っていく。

「走れえっ」

 それが祖父から放たれた最後の言葉だった。

 ここで立ち止まる訳にはいかない。

 後ろ髪を引かれる思いで、前を向いて走り続ける。そうするうちにも件の議員の背中は見えなくなった。

 背後から獰猛な音が襲い来る。祖父を置き去りにした罪悪感と恐怖で胸が潰れそうになる。歯を食いしばって疾走し続ける。

 ようやく危機を脱したと感じたのは、皆が屯する場所まで辿り着いた時だった。

「一人で走ってきたのか。よく頑張ったな」

 法被姿の大人に肩を叩かれると、そのまま全身から力が抜けて腰から崩れ落ちた。

 逃げ果せた先は会場の反対側にあった神社で、参加者の多くが鳥居を出たところに集まっていた。社務所が皆の盾になって土砂から皆を護ったかたちだ。いったん土砂崩れは収まったものの、万が一を考えて、実行委員会は公民館を臨時の待機所に定めた。

 早速、安否確認が始まった。

「同行していた相手が見当たらないという人は名乗り出てください」

「グループで参加した人は必ず点呼を取って」

 助かった安心感からか泣き出す者や今更震え出す者、挙句の果てには実行委員会に食ってかかる者までいた。

「母親の姿が見えません。土砂崩れが起きる寸前までは近くにいたんですけど」

「一緒にいた友人と連絡が取れません」

「あ、あの、ちょっと目を離した隙に娘がいなくなって」

 実行委員会の前には家族の安否を気遣う参加者が溢れ返る。順番が回ってきたのはしばらくしてからだった。

「爺っちゃんがいません」

「二人で祭りに来てたのか。いつ見失ったんだい」

「逃げる時、爺っちゃんが転んで、すぐ土砂が降ってきました」

「そりゃあ、災難だったなあ。猟でよく山登りしているから足腰が鍛えられていると思ってたんだが」

「転んだのは後ろから逃げてきた人に突き倒されたからです」

「何だって」

「はっきりとこの目で見ました」

「誰に突き倒されたっていうんだ」

「来賓で呼ばれた議員さんでした」

 途端に実行委員の男の顔が強張った。

「おいおい、いい加減なことを言うもんじゃない。あの先生は地元のために汗を流してくれる、いい先生で」

「でも、ちゃんと見たんです。我先に逃げようとして、爺っちゃんを押し退けたんです」

「だから滅多なことを言うなって」

 実行委員の男は今度こそ顔色を変えた。

「いいか、爺ちゃんは自分でけつまずいたかもしれないし、百歩譲って誰かに押し倒されたとしても、そいつが先生だという証拠はあるのか。お前以外に見たヤツがいるのか」

 走っている時、横を通り過ぎたのは件の議員だけだ。祖父の後ろにいた者は土砂に呑まれた可能性が高い。

「いいえ」

「だったらお前の見間違いだ」

 大好きだった祖父を殺したも同然の相手だ。見間違うはずがないではないか。

 実行委員の男は勝手に決めつけた上で命令した。

「もう、このことは二度と口にするなよ。そんな嘘を吹聴していたら、お前の家が近所から爪弾きにされるぞ」

 反論しようにも、証拠がなければ単なる誹謗中傷に終わってしまう。家族全員が近所から爪弾きにされるという脅しも効いた。

 これが大人の世界なのか。

 後から聞けば彼は二世議員で、父親は大臣まで務めた与党の重鎮だったらしい。政界引退とともに地盤を息子に譲ったものの、地元では依然として権勢を振るっているとのことだった。

 稚い自分の怒りなど何の役にも立たないのか。あれだけ地元を愛した祖父が殺されたというのに、議員一人の威光に敵わないのか。

 何もできない無力感と祖父を置き去りにしてしまった罪悪感が口を塞いだ。

 その後、警察と救急隊が駆けつけ、現場での捜索と救助活動が開始された。幸か不幸か土砂崩れは限定的であり、呑み込まれた家屋は三棟、重軽傷者は二十五名、行方不明者は六人に留まった。

 地盤の軟弱さが仇となり当日の救助活動は早々と中止になる。翌朝再開した捜索により祖父の遺体が発見された。

 祖父は土砂の下敷きになり、胸を圧迫されて死んでいた。泥だらけで、最初は人相すら分からない有様だった。

 濡れたハンカチで顔の泥を拭いながら泣いた。

 どれだけ泣いても涙が尽きることはなかった。まるで身体中の水分が全部涙になったようだった。

 翌日、祖父の葬式でも泣いた。泣くことで不条理と絶望が記憶に刻まれるような気がした。

 ごめん、爺っちゃん。

 誰も本当のことを聞いてくれない。

 でも、絶対に忘れないから。

 爺っちゃんが殺されたのも、あの議員の名前と顔も。

 いつか仇を取れる大人になるまで絶対に忘れない。

 

 

(つづく)