最初から読む

 

 

 室内射撃場に足を踏み入れた途端、しんとした空気が身体を包んだ。他の射撃手が時折発射するし、換気が悪いので澱んでもいる。常に火薬と鉄の臭いが充満している。

 この空気が嫌いになれない。

 発砲の度に硝煙が身体に纏わりつくが、静謐な中にも緊張感の張り詰めているさまが堪らない。

 射撃用のイヤーマフを装着すると周囲の音は更に掻き消され、一人で静寂の海の中に沈んでいく。

 まずは小手調べに二十五メートル離れた標的を狙う。最初に行うのがゼロイン(零点規正)で、リアサイト(照門)のエレベーション(上下転輪)を回して弾着の上下を調整する。エレベーションには「1」「2」「3」の打刻があり、それぞれ百メートル、二百メートル、三百メートルの射距離に応じて回して照準点と弾着が一致するように調整する。ただしエレベーションには二十五メートルの目盛りがないので、この場合は「3」に合わせる。弾丸は放物線を描いて飛ぶため、至近距離における射撃では照準点よりも弾着が下にずれる。弾丸が最初に照準線と交差するのが二十五メートル地点だからだ。

 浅く呼吸し、照準の中の標的を見つめる。

 息を吐いて、止める。

 銃身のブレを抑えるため、優しく愛撫するようにトリガーを引く。

 ぱんっ。

 乾いた音とともに標的の真ん中に穴が開いた。

 呼吸を整えてから標的を手前に戻すと、ほぼ中心を仕留めているのが分かる。

 こうした縮射は自衛隊の新隊員や予備自衛官補が入隊直後に行う実弾射撃だが、射撃の感覚が狂っていないかを確認するための予備行動として試す者もいる。未詳Xもその例外ではなかった。

 標的までの距離を一気に百メートルまで伸ばす。希望を言うなら屋外で三百メートルの距離を狙いたいところだが、悲しいかな室内射撃場ではこれが限界だ。

 エレベーションを「1」に合わせ、照準の中の標的に狙いを定める。知っている狙撃手の中には、的を狙う際に憎い相手の顔を重ねるという者もいるが自分は違う。感情を排し、ひたすら冷徹なマシーンになってトリガーを引く。射撃は距離、角度、風の強さ、弾丸の初速と回転数から成り立つ数式のようなものだ。そこに感情の立ち入る隙はない。

 息を吐いて、止める。

 殺意はない。冷静な判断力だけがある。

 銃身のブレを抑え、静かにトリガーに触れる。

 ぱんっ。

 発射した弾丸が放物線を描くさま、マガジンから次弾が装填される様子が脳裏に浮かぶ。まるで銃と自分が一体化したような感覚だが、嫌悪感はない。感情が介入しないので心地よさすらある。

 スナイパーライフルにはボルトアクション式とセミオート式、二つのタイプがある。ボルトアクション式は発射の度にボルト(遊底)のハンドルを手動で引いて空薬莢を排出し、元に戻して次弾の装填を行う。

 一方セミオート式は、一発撃つ度に反動や発射ガスの圧力を利用してボルトを動かし、自動的に空薬莢の排出と次弾装填が行われる仕組みだ。狙いをつけたまま次々と撃てるので、ボルトアクション式より素早く次の射撃に移ることができる。

 少し考えれば分かるが、出会い頭に敵と遭遇する戦場ではセミオート式が圧倒的に有利だ。敵と対峙している時に、いちいちボルトを操作しているような余裕もない。従ってボルトアクション式は歩兵の主力装備としては過去の遺物になったと言っていい。

 ところが射撃場に配備されているライフルはボルトアクション式が多い。理由は簡単だ。セミオート式ではガス圧や反動を受けてボルトを作動させるため、銃身にシリンダーやピストンといった部品が組み込まれている。発射の度にそれらが駆動するので、セミオート式では撃った瞬間にわずかなブレが生じて弾道に狂いが生じることがあるのだ。

 しかしボルトアクション式なら、射撃の瞬間に動く部品がないので不測の事態が起こりにくい。つまり一撃必中の精度を追求するとボルトアクション式に軍配が上がるという次第なのだ。

 ただしそうした狙撃の優位性もあるが、ボルトアクション式独特の一連の操作も捨てがたい。単に弾を発射するのではなく、獲物を仕留めるという狩猟本能を駆り立ててくれるからだ。

 三発目。

 ぱんっ。

 四発目。

 ぱんっ。

 ライフル銃を放し、標的を手元に戻す。全弾が中心のエリア5に命中している。理想は四発の弾着が一つに重なることだが、まず無理に近い。

「大したものだ」

 横のレーンから声がしたので振り向くと、にいが立っていた。

「相変わらずの腕だな」

 会話のためにイヤーマフを外す。

「まだまだですよ。ここじゃあ百メートルしかありません。三百メートルを超えた頃から腕が問われるのは、新見さんも知っているでしょう」

「上手い下手は二十五メートルの縮射で見極めがつく。射出された弾丸は空気抵抗でスピードが落ち、自重も相俟って弾道が下がっていく。毎秒二メートルの微風があれば五百メートルで三十センチ以上横にブレ、気温が10℃上がれば数センチズレ、弾丸の回転数や湿度も影響してくる。お前は二十五メートルだろうが三百メートルだろうが同じように空気を読んで正確に撃てる」

「褒めたって何も出やしませんよ」

「別に褒めてやしない。事実を言ったまでだ。最近は便利さにかまけて、射撃のセンスを磨こうとするヤツが少なくなった。弾道計算コンピューターなんてものが開発されてからは尚更だ。全く、嘆かわしいったらない」

 弾道計算コンピューターはレーザー距離測定器や小型風向計や水平儀が一体になった装置で、狙撃の条件を測定して数値を小型計算機に入力すると、弾道がどうなるかを数値で示してくれる便利な代物だ。最近ではスマートフォンのアプリにも登場しており、狙撃中でも画面が確認できるようになった。中には銃の側面部にスマートフォンを装着して狙撃に臨む者も現れ始めている。

「お前はコンピューター頼りの狙撃をどう思う」

「便利で重宝するんでしょうけど、自分は使いたいと思いませんね」

「何故だ」

「以前、試しに使ってみたことがあるんですが、弾道を測定してから撃っても、わずかな時間差で気候条件が変われば却って誤射してしまいます。リアルタイムで空気を読みながら引き金を引く方が性に合ってますね」

「その通りだ。神経を極限まで研ぎ澄ましていけば、人間はセンサー以上の五感を獲得できる。便利さを享受するヤツらにはそれが分からないんだ」

 新見は憤懣遣る方ないというように愚痴ってみせる。

「便利さは否定しないが、コンピューター制御にかまけた狙撃は、いざという時に臨機応変な対応ができなくなる。そういや、先日の外崎候補の暗殺未遂事件をどう思う」

 まるで予期しなかった問い掛けに、一瞬動揺した。

「JR小岩駅前、標的まで距離九十五メートル、ビル風が吹きまくっている中での狙撃。標的は左肩を撃ち抜かれているが、退院して選挙活動を再開している」

「どう思うかと訊かれても返事に困りますね。左肩を撃ち抜いただけで犯人は撤収したそうじゃないですか。ちょっと心理が理解できませんね」

「実は俺もそうなんだ」

 新見は気難しげに首を横に振る。

「あの条件下で標的に着弾させただけでも大したスナイパーだと思うが、次弾を撃たなかった理由がまるで不明だ。使用された弾丸は公表されていないが243ウィンチェスターらしい」

「鉄板ですね」

「ボルトアクションで狙撃に向いている。ビル風を除けば暗殺が成功する条件は揃っている。なのに、どうして中途半端なままで撤収したのか。あのまま次を撃てば必ず仕留められたはずだ」

「何か不測の事態でも生じたんじゃないでしょうか」

「不測の事態を想定した上でのボルトアクションだろう。そもそも薬莢や足跡を残さないような慎重なヤツは、あらゆる事態に対処できるよう考えているものだ」

「じゃあ、アクシデントに弱い素人の仕業だったと考えられますね。ウィンチェスター銃は素人にも扱いやすいですし」

「素人が九十五メートル先の標的を撃つなんて至難の業だ。しかも最初の一発でだ」

「新見さんはどう思うんですか」

「よく分からん」

 新見は苦々しく唇を歪ませた。

「狙撃の腕前は優秀なのに、行動が素人じみている。一つ考えられるのは、スマホアプリに弾道計算コンピューターを取り込んだ素人が暗殺を実行したという可能性だ。これなら狙撃の確かさと行動のちぐはぐさが何とか説明できる」

「なるほど」

「ただし、あくまでも『何とか』だ。一発目の狙撃が失敗して焦っていたと仮定すると、今度は薬莢や足跡を始末した周到さが説明できなくなってくる」

「新見さんをもってして不可解な犯人なら、当分捕まえるのは難しそうだな」

「一つだけ捜し方がある」

「へえ、聞きたいですね」

「いくら弾道計算コンピューターを利用していたとしても、実際にライフル射撃を何度も練習しなけりゃ狙撃なんてできっこない。ところが日本でライフル射撃を練習できるのはエアライフル射撃場かクレー射撃場くらいのものだ。犯人が俺の仮説通り素人だとしたら、何度かは同じ射撃場に顔を出しているはずだ。俺がもし担当の刑事だったら、首都圏内の射撃場を回って、会員名簿の端からあたっていく。現場には弾丸が落ちていたそうだから、そいつが隠し持っていたウィンチェスター銃のライフリングが線条痕と一致すれば一件落着さ」

「なるほど」

 納得顔で頷きながら、銃と標的の片づけに入る。

「何だ、もういいのか」

「四発も撃てば充分ですよ。勘を失っていないかの確認ですから」

 さすが新見さんだ。いいところを突いている。昼夜を問わず狙撃に明け暮れた者の考えは傾聴に値する。

 だが惜しいかな正鵠を射るにはまだまだだ。

 未詳Xは胸の裡でほくそ笑む。

 

 

(つづく)