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朝の光が目に痛い。
未詳Xはレースのカーテンを引いて朝陽を遮る。特にドライアイという訳ではないが、自分にとって目は命の次に大事なものだ。日頃から不要な刺激やストレスはかけたくない。
朝食はカリカリに焼いたベーコンとサラダ、トマトジュースで済ませる。視力の維持には食習慣が重要だ。目や身体にいいとされる肉、魚、野菜をバランスよく摂り、脂質の多いものは極力避ける。
日常生活では照明にも留意する。室内は自然光に近い白熱灯やバイオライトで揃え、目の負担を軽くする。どうしても蛍光灯を使用しなければならない場合はなるべく新しいもので点滅を防ぐ。全ては仕事のためだ。
トレーニングウェアに着替えて部屋を出る。二ブロック先の公園まで一往復、つごう五キロのジョギングを日課にしている。ただ走るだけではない。二リットルのペットボトルを三本、腰に装着したまま走る。水分補器の意味もあるが、銃火器を携えての移動を想定しているのだ。たとえばライフル銃は四・五キログラムから七キログラムあるが、背負ったままで機敏に動けなければ自分の身を護れない。
一キロを超えた地点でペットボトルの重みが邪魔になってきた。だが苦しくなってきた頃からが踏ん張りどころになる。休憩は一切取らない。実戦では休む暇など一瞬も与えられないからだ。呼吸を乱さずに公園まで辿り着くと、水をひと口飲んでまた走り出す。
肥満対策ではなく、基礎体力と持久力を養うのが目的だ。ミッションの遂行中は一つところに潜み、身動き一つできない。ところがいざ移動となれば風のように速く動かねばならない。辛抱強さと俊敏さが同時に求められるので、いきおい日常もトレーニングに始まりトレーニングに終わる。
ジョギングを終えて部屋に戻ると、シャワーでさっと汗を流す。自分が汗臭いのも嫌だが、日頃から肉体を鍛えているのを他人に知られるのはもっと嫌だ。
まだ出勤時間には間があるので、ネットニュースを検索する。興味を引いたのは外崎伺朗候補のインタビュー動画だった。
三角巾で左手を吊って辻立ちをする姿は、悲壮感を漂わせる演出にしか見えない。
『外崎候補、本来はまだ入院中の予定だったのを、周囲の反対を押し切って選挙活動されているんですよね』
『ええ、その通りです。本当を言えば、今も銃弾を受けた傷が完全には塞がっておらず、声を出す度に激痛が走ります』
『大変ですね』
『ええ。普通でも選挙というのは気力と体力をとんでもなく消耗しますから。こんな手負いの身体だと二重にキツい。演説が終わると、碌に食事も摂らずにベッドに倒れ込みます』
大袈裟な男だと思った。弾が貫通した傷は治りが早い。入院治療の経過を考えれば、それほど痛みも残っていないはずだ。
『正直、体力的には限界を超えています。精神力でようやく保っているのが現状です。でも投票日前日まで休む訳にはいきません。何があっても、たとえ激痛でこの身が動かなくなってもです』
『それほどまでに外崎候補を選挙運動に駆り立てるものは何なのでしょうか』
『もちろん、民主主義のためです』
ここぞとばかり、外崎は傲然と胸を張る。
『選挙運動中のわたしが襲われたのは、単に演説を邪魔されたのではなく、民主主義の根幹が揺らいだ瞬間でした。暴力で言論の自由を封殺しようとする反社会的勢力の暴挙に我々は敢然と立ち向かわなければなりません。わたしはその一石になる覚悟なのです』
観ているうちに失笑が洩れそうになる。「民主主義」やら「我々」やら、自分に自信のないヤツに限って主語が大きくなる。
外崎は自分の言葉に酔うタイプらしく、喋っているうちに感極まったかのように声を上擦らせ始める。
『今こそ我々は正義のために立ち上がらなくてはなりません。民主主義を潰そうとする邪悪な勢力から自由を護らなければなりません。わたしがこうして演説に立っているのは、その意思表示であります。わたしを撃った犯人よ』
外崎はカメラの正面を睨みつける。
『我々はお前の暴力には決して挫けない。何発撃とうと、我々には自由という鉄壁の盾があるからだ』
馬鹿。
こんな男が都民の代表になろうとしているのだからお笑いだ。いや、こんな男だから議員になろうとしているのか。
あまりに滑稽で耐えられなくなり、他のサイトに移った。偶然にも、こちらのニュースサイトでも外崎候補襲撃事件を扱っていた。
『先日発生した都議会議員補欠選挙候補者狙撃事件の続報です。警視庁は小岩署と合同捜査本部を立ち上げて捜査を開始しましたが、狙撃犯と思しき人物は未だ捜査線上に浮上していない模様です。現場から笹島アナウンサーがお伝えします』
『はい、こちらJR小岩駅前です。先週この場所で都議会議員補欠選挙に立候補していた外崎候補が何者かに狙撃され、重傷を負いました。当時、現場には夥しい量の流血がありましたが、今は綺麗に拭き取られ、まるで事件などなかったかのような佇まいを見せています』
アナウンサーは血が拭き取られたのが、さも残念そうに言う。
『しかし現場の警戒態勢は依然として続いており、周辺には警備する警察官の姿が見えます。近隣にお住まいの人はまだ緊張が解けない状況です。また、通勤通学でラッシュ時には数万人が行き来する場所でもあります』
画面は通行人へのインタビューに切り替わる。
『え、この場所で撃たれたんですか。どこから。ああ、イトーヨーカドーの隣の古いビル。あそこからですか。いやあ、一直線で遮蔽物が一切ないですねえ』
『怖いですよお。だって中高生も大勢通る場所なんですよ。もし流れ弾とかで他の通行人が撃たれたらと思うと、ぞっとします』
大丈夫だよ、奥さん。わたしは絶対に的を外したりはしない。無駄撃ちもしない。だから流れ弾なんて飛んでこない。
『外崎候補って、あの外崎さんでしょ。こんなこと言ったらダメかもしれないけど、本人にも狙われる理由があるんじゃないですかね。え、選挙結果の予想ですか。確かに同情票は集まるんでしょうけど、スタートがマイナスだったでしょ。いいとこプラスマイナスゼロじゃないですかね』
『同じ無差別殺人でも、遠方からの狙撃だと逃げようがないじゃないですか。相手からはこちらが見えているのに、こちらからは相手が見えない。怖いですよ』
『子どもたちを集団下校させないといけなくなるでしょ。ホントに迷惑。一刻も早く犯人を捕まえてほしいですね』
他にこれといって興味を引く話題もなかったので、身支度を整えて外に出る。
(つづく)