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子どもの頃から視力はずば抜けてよかった。誰にも見えないような遠くの看板の字が読めたり、皿に付着した小さな汚れをいち早く見つけたりとエピソードには事欠かない。
「どうしてあんなものが見えるの」
友人からは毎度のように訊かれるが、見えるから見えるとしか答えようがない。眼科で測定してもらうと、左右とも2・0だった。
「2・0ってアフリカのマサイ族並みじゃんか」
クラス一の物識りが言うことには、大草原に生きるマサイ族は五十メートル先のランドルト環(一カ所が欠けた輪が一面に書かれた視力表)が識別できるらしい。
まさか草原で狩りをする未来があるとは思えないが、並外れた視力のよさは日常生活に役立つことが少なくなかった。
いや、日常生活以外にも一つだけあった。まだ小学生の時分、父方の祖父に連れられてイノシシ猟に同行した際だった。
夏の終わり頃、イノシシによる農業被害が頻繁に報告され、猟友会に駆除要請が出されていた。猟友会に所属していた祖父が仲間数名と手を挙げた次第だ。
九月の山奥は仄かな草いきれと一緒に乾いた空気が流れ、残暑に喘ぐ街中とは雲泥の差だった。心地よさに目的がイノシシ狩りであるのを忘れ、つい大声で燥ぎそうになったところ、祖父から釘を刺された。
「獣の潜んでいる山で声を立てるな。向こうが警戒する」
祖父は普段は見せないような、凄みのある顔で笑う。
「警戒するのは、わしらだけでいい」
いつもの祖父ではない。れっきとした狩人の顔だった。
祖父を含めた三人の猟師はイノシシを獲るのに巻き狩りを選んでいた。巻き狩り猟では山に猟犬を放ち、獲物を追い立てた上で持ち場に待ち構えている猟師が撃ち仕留める。主に大型鳥獣を標的とする手法だが、仲間と猟犬のチームワークが要であり、持ち場の猟師は獲物が姿を現すまでは音も立てずにじっとしていなければならない。
後から聞いた話では、孫に狩猟の面白さと辛抱強さを教えたかったという。むろん、自分の背中から離れないように再三言って聞かせ、万全の対策を立てたつもりらしい。
「ここに伏せていろ」
祖父は自分と孫の身を倒木の陰に隠す。
「じっとして、静かに息をしろ。自分は森の一部だと思え」
言いつけを守り、浅い呼吸に変えた。すると不思議に心が落ち着いた。
「いいか。勘のいい動物はこちらの気配を読む。読まれないようにするには、昂奮せず、心に水面を思い浮かべているんだ」
二人が潜んだ物陰の隙間からは前方が見通せた。手筈通りなら、この道を追い立てられたイノシシが通過するはずだ。
「頭を低くして。絶対に動くなよ」
しばらく息を殺してイノシシが通るであろう道を見つめていたが、やがてはるか彼方にある藪の中に蠢くものを発見した。
「爺っちゃん、あれ」
「何だ、あれって」
「あそこの藪の中に何かいる」
「藪って、ここから百メートルは離れているぞ」
祖父は訝しげな表情を見せたが、孫の視力の良さを知っているので一笑に付しはしなかった。携えていた双眼鏡を構え、孫の指す方向に目を凝らして驚いた。
「確かにいる。ありゃあ間違いなくイノシシだ。チクショウ、ずっと藪ん中に身を潜めてたのか」
祖父は早速銃口を獲物に向けたものの、何を思ったのか不意に首を傾げてこちらを見た。
「あのイノシシの顔、見えるか」
「見える」
「肉眼であれが見えるんなら大したものだ。あのイノシシに眉があると思え。それで、右の眉と左目、左の眉と右目を線で結べ」
心の中にイノシシの顔を描き、指示された通り線で結ぶと×点になる。
「その×の中心がイノシシの急所だ。動物の頭蓋骨ってのは大抵ぶ厚いが、その部分だけは薄くなっているからライフル銃の弾丸で撃ち抜ける」
祖父の説明は簡にして要を得ている。するすると何の抵抗もなく頭に入ってくる。
「照準の合わせ方を教える」
祖父は猟銃を孫の目の前に持ってきた。
「照星と照門がある。照門の中心に照星を合わせた状態で的を見ろ。構える毎にズレると、弾着が大きく変わる。弾丸は一直線に飛んでいくように見えて、実際は放物線を描いて飛んでいく。だから百メートル先の獲物を仕留めるなら、標的の少し上を狙わないと命中しない」
わざと照準を的からずらすというのは意外で面白いと思った。全てを銃に頼るのではなく、狩人の経験と知恵が射撃を支えるのだ。
「狙いが定まったか」
「うん」
祖父は孫の背中に回り、引き金に人差し指を当てると、その上に孫の人差し指を添えさせた。
「いいか。お前がよし、というタイミングで爺っちゃんの指を押せ。そしたら爺っちゃんが直ぐに引き金を引くから」
後から聞けば、銃を持つのも撃つのも免許が要るらしい。だから小学生が猟銃を撃てるはずもないのだが、祖父が引き金を引くのなら問題はないと考えたらしい。
スコープから覗いたイノシシはこちらの動向を探っているように見える。
「浅く呼吸。撃つ時は息を吐いたところで止めろ」
もう、いちいち返事はしない。祖父の言葉は耳に入っているが、照準の中の獲物に全神経が集中している。
標的であるイノシシがこちらを見ている。
向こうの息遣いがはっきり伝わってくる。
こちらも呼吸を合わせる。吐いて、止めたところで勝負。
風のない水面のように心は穏やかだ。
照門の中心に照星、ただしイノシシの顔面に描く交差点から三センチほど上に固定する。
一瞬、時間が止まる。
息を吐いて、止める。
祖父の指を押さえたと同時に、彼の指が引き金を引いた。
ぱんっ。
発射音は乾いていたが、撃鉄の落ちた振動は身体中に重く伝わる。
びっ。
スコープの中のイノシシが短い叫びを上げて頭を上下させる。標的は百メートル先なのに、撃った瞬間に手応えを感じた。
「当たった」
祖父の声は少し上擦っていた。
「見てくる。お前はここで待機していろ」
祖父が倒木の陰から這い出て、猟銃を構えたまま百メートル先の藪に近寄る。
藪の中を覗き込んだと思うと、片手でこちらを手招きした。喜悦の表情を浮かべているが、それがなくても既に成果は明らかだった。
「すごいぞ。一発必中だ」
「撃ったのは爺っちゃんだよ」
「狙いを定めて、タイミングを図ったのはお前だ。よくやった」
ごつごつした大きな手の平が小さな頭を撫でてくれる。
「わしや他のヤツらでも、あの距離を一発で仕留めるなんざ至難の業だ。話したら、みんな腰を抜かすぞ。いやあ、本当にすごい」
視力以外に褒められたことがなかったので、単純に嬉しい。
祖父はどこか懐かしそうにこちらを見下ろす。
「血筋かなあ。わしの爺ちゃんがここらでも鷹の目を持つマタギとして有名だった。お前はきっとその血を引いている」
自分には、有名な猟師の血が流れているのか。それなら自分もマタギとやらになりたい。
そう訴えると、祖父は頭を撫ぜてくれながら苦笑した。
「そりゃあ、これだけの目を持っていて今から修練すれば立派な猟師になれるかもな。しかし時代がよくない。今は猟師一本で食っていけやしないからな」
「爺っちゃんは猟師をしているでしょ」
「わしの本業は畑仕事だ。猟は半分趣味、半分ボランティアみたいなものさ」
半分ボランティアというのは自虐なのだろうか。そう言う祖父はいくぶん哀しげに見えた。
仲間の猟師たちも仕留めたイノシシを見て驚倒しそうな勢いだった。
「お前も鷹の目を持っているのか」
「成長が楽しみだな」
皆は射撃の腕前を絶賛したものの、やはり祖父と同様、猟師になるのを勧めてはくれなかった。
「それでも、まあ資格はあって邪魔になるもんじゃねえ。成人したら銃の資格だけは取っておけ」
銃の所持には年齢制限があり猟銃(散弾銃、ライフル銃)は二十歳から、空気銃は十八歳からと規定されている。
これとは別に十四歳から空気銃を扱える年少射撃資格認定制度があるが、オリンピック競技大会や国民体育大会の選手か候補者として推薦を受けた年少者が、射撃指導者の指導の下に射撃競技の練習を行ったり、競技に参加したりする制度であり、生憎とそんな知り合いは身近にいない。
猟師への夢はいったん萎んだが、大きな収穫もあった。
視力2・0は単なる取柄に過ぎないが、射撃の腕前は立派な特技だ。クラスの誰も持っていない才能と誰も会得できない技術。それは他人との差別化であり、自分が特別な存在であることの証明だ。
猟師になれなくても、銃を扱える職業に就ければいいじゃないか。この時から漠然と将来の夢を描くようになった。
(つづく)