今月のベスト・ブック

装幀=水戸部功

『死の烙印(Ⅰ・Ⅱ)』
ジャン=クリストフ・グランジェ 著
高野優 監訳
坂田雪子 訳
早川書房
定価 Ⅰ3520円・Ⅱ3630円(すべて税込)

 

 今月のベストは、ジャン=クリストフ・グランジェの最高傑作『死の烙印Ⅰ・Ⅱ』(高野優監訳、坂田雪子訳/ハヤカワ・ミステリ)で決まりだ。もちろんグランジェはフランスの作家だが、今回はフランス人はほぼ出て来ない。舞台もフランスではない。本書の舞台は1939年から42年にかけてのドイツ──つまりナチス治下のドイツだ。事件内容はベルリンでの上流階級の婦女連続殺人であり、被害者は喉や腹部を切り裂かれ、靴も盗まれている。そして、生前に《大理石の男》の夢を見ていたという共通点もあった。この事件に3人の主人公が連帯して挑む。

 

 この3人が全員、癖が強い。精神科医のジーモン・クラウスは、患者との会話を無断で録音し、それをネタにゆすりを働く。ミンナ・フォン・ハッセルは、ベルリン有数の貴族の出で、美貌の精神病院院長ながら、アルコール依存症の問題を抱え、自宅も実は荒れ放題となっている。そしてフランツ・ベーヴェンは、ゲシュタポの捜査官(!)だ。主人公だから良心的な人物かというとそんなことはなく、ナチスのメンバーらしい、人種的偏見や粗雑な思考、暴力的傾向を備える。

 

 ナチス政権は外聞が悪いとして、事件の存在を隠蔽することにし、フランツに秘密裏の捜査を命じる。そのフランツと接触した等の事情で事件の存在に気付いたジーモンとミンナは、それぞれの思惑から事件に関与する/させられる流れとなる。三者三様の個性と事情と感情のぶつかり合いがまず面白い。しかし、普通なら作品最大の特徴となるであろうこれら主人公トリオの関係性は、本書のメイン・ディッシュとならない。なぜか。ナチスの影があまりにも濃厚で強烈だからである。

 

 ナチスに支配された社会の息苦しさは、序盤からはっきりしているのだが、倫理の歪みと頽廃・腐敗は、物語が進むにつれて一層鮮明に、残酷に描写されるようになる。権威主義的で思想優先の社会で、真っ当な事件捜査が困難になる小説は、ソ連を舞台とした『チャイルド44』など先例は沢山ある。ナチスを題材にした作品も多い。だが『死の烙印』は、ナチスの暴威を克明かつ劇的に描くという点で、それら全てを凌駕する。しかもそれがエンターテインメントの骨法を外さず描かれているのが素晴らしい。読んでいただければわかるが、事件の捜査と真相は、ナチスの暴威の描写と不可分に結び付き、ミステリ的な意味でも読者に驚愕をもたらす。圧巻。

 

 グランジェはこれまで一貫して闇を克明に描いてきた。そんな彼が、ナチスを題材にして最高傑作を産み出したのは必然だったのかもしれない。

 

 ロバート・ジャクソン・ベネット『記銘師ディンの事件録 木に殺された男』(桐谷知未訳/早川書房)は、世界幻想文学大賞とヒューゴー賞を受賞し、アメリカ探偵作家クラブ賞最終候補になった変わり種だ。

 

 舞台となる神聖カナム大帝国は、雨季に上陸してくる巨獣リヴァイアサンを撃退するため、巨大城壁を国中に巡らし、生体改変技術を駆使してきた。その辺境の豪邸で、高官が身体から巨木が生えて殺されてしまう。主役の探偵役&助手のコンビがこの事件を捜査する。探偵役の方は、常に目隠しをしている女性少佐アナで、助手役は、新人中尉の記銘師ディンである。アナは基本的に出不精であり、現場にあまり赴かない。生体改変で完全記憶能力を持つディンが、アナの代わりにあれこれ見聞きして、情報を完全な形で持ち帰る、というサイクルで捜査は回る。

 

 本書の世界に魔法は存在しない。魔法のように見えるのは全て生体改変技術(または巨獣リヴァイアサンが起こす、周囲の動植物の変異)の産物で、法則や制限があるため、解析や推理は十分に可能である。そして殺害方法以外の事項、すなわち事件の背景、人間関係、動機に捜査が回ると、もう完全に普通のミステリとなる。伏線配置もばっちり決まり、真相には意外性がある。キャラクター造型も素晴らしく、弁が立ち皮肉屋のアナに翻弄されるディンが、しかし後ろ暗い秘密を持っているという設定が、コンビの関係性の味わいを深めている。巨獣による襲撃をクライマックスに持ってきて、壮大な設定を、設定だけのものではなく、小説としてちゃんと血肉化していることを証明するのも良い。

 

 ファンタジー、SF、ミステリいずれのジャンルの小説としても最高水準という、実に得難い作品である。続篇では今後、巨獣の謎にも迫るようだ。この作家が描く《世界の秘密に迫る話》が面白くならないわけがない。訳出を心待ちにしたい。

 

 最後にご紹介するのはマリー・ティアニー『夜が少女を探偵にする』(能田優訳/新潮文庫)である。舞台は1980年代のバーミンガムで、毒親に育てられている13歳の少女エイヴァが、夜中に家を抜け出して散歩している最中に、クラスメイトの遺体を発見する。少年を狙った連続拉致殺人事件の始まりだった。遺体には必ず人による咬み痕が残り、傍らには子犬の死骸があった。

 

 エイヴァは探偵役にして主役であり、自らの劣悪な家庭環境(主に母親とその恋人)に静かに耐えながら、理知的に事件に対峙する。物語のトーンは基本的に暗めだ。詳述は避けるが、事件の真相もまた悲愴なものだ。そんな中で、エイヴァの凜とした佇まいは、読者に鮮烈な印象を残す。