今月のベスト・ブック

写真=Elizabeth Livermore/Getty Images
装丁=東京創元社装幀室

『誘拐犯』(上・下)
シャルロッテ・リンク 著
浅井晶子 訳
創元推理文庫
定価 各1,386円(税込)

 

 今月のBMはシャルロッテ・リンク『誘拐犯』(浅井晶子訳/創元推理文庫)だ。含蓄があって読者の心に刺さる人間ドラマと、連続誘拐犯を追う手に汗握るスリラーが見事に両立している。本書は『裏切り』の続篇ではあるが、単独で読んでも全く問題ない。

 スコットランド・ヤードの刑事ケイトは、父の残した実家を借家人に致命的に荒らされてしまう。彼女は後始末のため、仕事を休んで、スカボローに長期滞在することになった。ただし実家には泊まれないので、彼女は親娘3人暮らしのゴールズビー家が経営するB&Bに宿をとる。そして彼女が泊まり始めた翌日に、ゴールズビー家の18歳になる娘アメリーが失踪する。更には同じ頃に、1年前に姿を消した少女が遺体で発見された。現地スカボロー署のケイレブ警部がこれらの事件の捜査を始める。ケイトも、アメリーの母親でB&Bを経営するデボラに懇願され、独自に調査を開始する。ただしケイレブの職掌を侵さないよう、身分を記者だと偽ることにした。

 二つの失踪事件に加えて、毒親に反発する少女マンディに関連する出来事が交えられ、物語は概ねこの3つの事件をベースに、ケイト、ケイレブ、デボラ、マンディ、怪しい謎の人物などなど、様々な視点から多角的に語られていく。ストーリーは、一寸先が闇、次から次へと意外な展開を見せて、先が全く読めない。事件関係者の思惑が交錯し、多種多様な人間模様があちこちでもつれている。その過程を存分に楽しむように読むのが良いだろう。ミステリ的にも終盤まで、随所でサプライズがもたらされて気が抜けず、上下巻計700ページ以上の長さを全く感じさせない。

 本書の読みどころは、そのような複雑な展開の中でも、キーとなる登場人物の苦悩が丁寧かつ鮮明に描き抜かれている点にある。素晴らしい生活に憧れただけのデボラが、火の車となった家計とそれに伴う家族の危機の中、必死にB&Bに自らのレゾンデートルを懸ける様。父子家庭に育ちつつその父親に自立を阻害される娘(1年前に失踪した人物である)の閉塞感。毒親への反発と行き場のない憤激を抱えるマンディ。アルコール依存症に悩まされるケイレブ。この他にも内面描写の精度が高い人物は目白押しだ。身勝手な犯人すら切実な何かを抱えているのは伝わってくる。

 その中でも一頭地を抜くのが、実質的な主人公であるケイトだ。彼女は自分に自信のない暗い人物である。男にモテない。友達も少ない。ロンドンの職場でも浮いている。父親が死んで実質的に天涯孤独。実家も破壊されたようなもの。しかも彼女は、鬱屈を他人から容易に見透かされている。会う誰しもが、うだつの上がらない人間だと評価する。ケイレブなんか内心、彼女が男性と付き合えるはずがないなんてはっきり思っている。読んでいて心が痛む。捜査能力には秀でているし、独白を見る限り明らかに頭脳明晰でもあり、自信を持って行動すれば状況は激変すると思うのだが、そういった一歩は全く踏み出さない。やきもきします。そんなケイトが、今回は人生の禍福を、かなりの振れ幅で味わうことになるのだ。かなり感情移入してしまったことを私はここに告白します。彼女の人生が今後どうなるかも見たい。続篇を待つ。

 主人公が振れ幅の広い禍福を味わう小説として、今月はもう1点、ユン・ゴウン『夜間旅行者』(カン・バンファ訳/ハヤカワ・ミステリ)を推す。主人公ヨナは、韓国でダーク・ツーリズム──戦争や災害の被災地を訪問する観光──を恐らく専門に扱っている旅行会社で働いている。彼女は低収益のツアーを査察するためベトナムに出張することになる。社員であることを隠し、紛争やシンクホールの災禍に見舞われたリゾート島を訪れる。そのツアー終盤でヨナはトラブルに遭って、リゾート島に舞い戻り、長期逗留する羽目になる。そこで彼女は、寂れつつある観光地を復活させるために現地スタッフが企む、新たな災害の「捏造」に関与することになる。

 ヨナの心は最初から虚ろだ。仕事を頑張ってはきたが会社での処遇は悪くなりつつあり、落ち目の部下の弱みに付け込むことで有名な上司にセクハラされ始めるなど、先行きは暗い。しかも視察対象のツアーは落ち目で、リゾート地としても寂れ気味、住民にも活気がなく、彼女自身やる気が見出せない。物語には倦み疲れた雰囲気が溢れる。その最中で、ダーク・ツーリズムの資本主義的な仕組みが、不気味に自律稼働し始めるのだ。ここでヨナは、出来事の主要部品ながらしかし所詮は全体の動きには翻弄される代替可能品として、禍福に見舞われる。こう書くと社会派ミステリっぽいが、実際には全く異なり、後半の展開は超現実的な要素、マジックリアリスム的な側面すら含む。不思議な小説だが、これが癖になるんですよね。

 最後にラーフル・ライナ『ガラム・マサラ!』(武藤陽生訳/文藝春秋)を紹介したい。貧しい出自の主人公ラメッシュが、裕福な家庭の息子ルディの替え玉受験で全国1位の成績を取る。一躍有名になったルディの余禄に、ラメッシュも与ろうとする。現代インドの混沌とした世相を背景としたクライム・ノベルである。ユーモアな筆致で進行は軽快な一方、常に漂うペーソスが心に沁みる。主人公が指を失うことを冒頭で予告するなど、先に気を持たせる技法も随所で決まり、非常にスマートな仕上がりを見せている。