今月のベスト・ブック

装幀=新潮社装幀室
『罪の水際』
ウィリアム・ショー 著
玉木亨 訳
新潮文庫
定価 1,210円(税込)
シッド・ハレーが帰って来た! 念のために説明すると、シッド・ハレーは、競馬にまつわる40作以上の作品群、通称競馬シリーズで、主役を単発で使い捨てるのが常だったディック・フランシス(以下DF)が、珍しくも『大穴』『利腕』『敵手』『再起』の4長篇で主役に据えた男である。落馬事故で左手を失い引退を余儀なくされた元騎手で、競馬関係の事件に調査員として巻き込まれていた、あのシッド・ハレーである。
DFは2010年に亡くなっている。今回紹介するシッドの帰還作『覚悟』(加賀山卓朗訳/文春文庫)を書いたのは、当然DFではない。作者はDFの息子、フェリックス・フランシス(以下FF)である。いかに息子とはいえ、創作の世界で親を継ぐのは基本的には無理そうなものだが、こと競馬シリーズについては状況が異なる。DFの創作活動が妻メアリとの実質的共作だったのは今やよく知られている。そしてメアリの没後、DF最後の10年間、その共作者はFFだった。つまり、FFは競馬シリーズの一次著作者の1人であり、書くのはお手の物なのだ。
事実、DFの没後、FFは競馬シリーズをほぼ年一ペースで発表し続けている。その最初の作品『強襲』(シッド・ハレーは登場しない)は、イースト・プレスから邦訳も出たが、その後10年、我が国への紹介は途切れていた。この度の文春文庫からの『覚悟』訳出は、早川書房のDF作品群とできるだけ装丁を合わせたり、既に2作品の1年以内の翻訳刊行も予定されていたりと、かなり力が入っているのが窺える。
その『覚悟』は、肝心の作品内容もなかなか素晴らしいのが嬉しい。調査員としても引退して6年、47歳になったシッドは妻子と共に幸せに暮らしていた(なお舞台はスマホもある21世紀である)。そんな彼の元を、競馬界重鎮が訪れて、複数のレースの不正疑惑を調べるよう依頼してくる。当初は断るシッドだが、徐々に、依頼を引き受けざるを得ない状況に追い込まれる。
読み始めた瞬間に「嗚呼ディック・フランシスだ」「嗚呼シッド・ハレーだ」と確信できるほど、シッドの一人称による叙述は様になっており、DF好きにはたまらない文章表現が横溢する。また、敵や危機に対して、シッドが、情けなく感じられるほど恐怖し、それと同じぐらい強烈に反発する様の心理描写は、実に見事であり、英国ミステリがしばしば生む、等身大のヒーローとしてのシッド・ハレーを完全に再生している。ストーリー面でも、敵側が次々仕掛ける危機と、それへの抵抗とが拮抗し、緊迫感満点だ。DFやシッド・ハレーを知らずとも、普通にオススメできる、完成度の高いスリラーとなっている。
とここまで長々『覚悟』を語っておきながら、今月のベストは、本邦初紹介のイギリス作家ウィリアム・ショーの『罪の水際』(玉木亨訳/新潮文庫)とする。解説を書いたのは私ですが、このクオリティの前では関係がないです。ケント州の、地理的に特色ある土地ダンジェネス――イングランドの砂漠とすら呼ばれる――を主要舞台に、メンタルの問題を抱えて休職中(物語中で復職)の女性刑事アレックスが、①女性同士の結婚式に乱入した女が、花嫁の一人を襲おうとした事件と、②隣町に住んでいた夫妻が自宅で惨殺される事件に独断で入れ込んでいく。
事件関係者に加えて、刑事アレックス個人やその娘、同僚らの個人事情を丹念に素描していき、静かな筆致ながら感情や感傷も丁寧に掬い取る。それだけなら現代ミステリの典型例と言えるが、人間模様の心の綾で読ませる。派手な要素がない地味な場面でも、およそ退屈に感じない。すなわち小説が上手い。この点は、アン・クリーヴスもかくやと思わせるほどだ。謎解き面でも伏線などはしっかりしている。つまり、基本的には実直な作りがなされているのだが、派手な要素もある。たとえば②の方では、被害者の霊魂が天に昇って行ったとの証言が取れるなど、魅力的な謎が登場する。ストーリーも予想外の曲折を経るし、関係なさそうな事象が実は関係があったとされたりもして、読者を驚かせる要素も数多い。素晴らしい作家、素晴らしい作品である。アレックスを主人公にした作品はシリーズ化されており、なおかつ他の未訳シリーズとも関連があるようなので、この実力派作家ウィリアム・ショーの訳出が今後も継続されることを願う。
最後にセレステ・イング『密やかな炎』(井上里訳/早川書房)を紹介したい。舞台は米国クリーブランド近郊の実在の高級住宅地シェイカー・ハイツだ。裕福なリチャードソン家の屋敷が燃えている場面で幕を開けた物語は、末娘イザベラによる放火が疑われていることを紹介した後、そこから11ヵ月前に巻き戻って、リチャードソン家の夫婦と4人の子、そして同家保有の別宅を間借りするウォレン母子の8つの視点から、2つの家庭で何が起きていたかをじわじわと描き出す。
ウォレン家の娘パールはリチャードソン家の裕福さと安定性を眩しく感じる一方、リチャードソン家の兄弟姉妹も、ウォレン母子の自由な生き様に惹かれる。良い近所付き合いができたはずだ。それなのに、ある事件を境に全てがおかしくなっていく。イヤミスとは言うまい。人間模様の混線と縺れが予想外の展開を見せる広義の素晴らしいミステリだ。