今月のベスト・ブック
装幀=新潮社装幀室
『秘 儀』(上・下)
マリアーナ・エンリケス 著
宮﨑真紀 訳
新潮文庫
定価 1,265円(税込)
幻想小説に大きく傾いたホラー小説にしてラテンアメリカ文学。それがマリアーナ・エンリケス『秘儀』(宮﨑真紀訳/新潮文庫)に対して衆目が一致する評価となるだろう。まだ若い父親ファンが、幼い息子ガスパルを連れて、広大なアルゼンチンを陸路どこかに向かっている。いや彼らは逃げているのかもしれない。文章の節々から、ファンが息子を守るため困難に挑んでいると伝わってくるからだ。やがてファンが異能を持つ霊媒であること、ガスパルにも同様の能力があるのを隠そうとしていること、ファンの妻でガスパルの母は亡くなっていることがわかってくる。《教団》と称される怪しげな団体が問題であることも知れてくる。やがて上巻の半分も過ぎれば、読者には、父子の置かれた状況の概略は把握できる。しかしその段階でも、細部はなお曖昧だ。そしてその後、物語は作中時間で10年以上をかけ、スケール豊かで意外な展開を辿る。事実が完全に判明するのは、下巻も8割を過ぎる頃だ。
とこのように、主人公たちが置かれた状況や事態の説明は、ゆっくりじわじわ進行する。ではその間、説明を後回しにして物語は何を語るのかというと、ファンとガスパルの父子とその周辺を見舞う、恐怖と闇と死と悲しみである。その様は残酷に見えるかも知れない。ホラー要素を無視したとしても、明らかに不気味で不安で不穏である。だが同時に、作者は常に愛と希望とを並走させる。
たとえばである。第1部を読んだ読者には、ファンが息子のために命を賭して頑張っていることは明らかだ。しかしそんなこととはつゆ知らないガスパルは、思春期を迎える第2部で、父を疎んじ、反抗的な態度をとってしまう。青春小説的なこの2部の、読者にだけわかる何という残酷さ! だがそこには確かに愛があり、読者の心を揺り動かす。
というわけで素晴らしい小説である。ミステリ読者にとってのポイントは、下巻に至ると犯罪小説やノワール小説の要素が色濃くなることである。作者は、母国アルゼンチンの暗部に踏み込み、社会派ミステリとすら感じさせる実社会との強い関連性を物語に組み込む。この部分は極めてミステリ的な手法が使われており、ミステリ読者の心を摑むはずだ。今月のベストは謹んで本書に捧げる。
とはいえ、『秘儀』の作品全体に占めるミステリの割合は低い。そこから生じる渇きは、他の作品で癒すしかない。エリー・グリフィス『小路の奥の死』(上條ひろみ訳/創元推理文庫)はその最適な相手といえよう。
インド系にして同性愛者のハービンダー・カー警部を主人公に据えたシリーズの第3長篇である。今回の舞台はロンドンだ。大学の同窓会で下院議員が殺されてしまう。同窓生にはもう1人議員がいるし、他にも有名女優、有名歌手、同学校長など成功者が目白押し。カーの部下の1人も同窓生だった(従ってこの部下は捜査から外れる)。捜査を進めると彼らの在学中に、跨線橋から転落し列車に轢かれて亡くなった生徒もいたことが判明する。また、被害者の下院議員の元には怪しげな脅迫状(?)が届いていた。
グリフィスの過去作と同様に、カー警部以外にも事件関係者の視点から、物語と事件は多角的に描き出されていく。群像劇としての面白さの中で、捜査は徐々に、被害者の人物像や事件の核心に近づいていく。伏線の配置と回収は丁寧だし、推理には派手さはないが堅実で好印象である。ここぞというときのドラマティックな展開にも抜かりはない。解明される真相にも相応以上の意外性がある。現代的な意匠も、犯人当て推理小説に違和感なく溶け込む。21世紀産の本格謎解きを堪能したい方には一押しだ。
フェリックス・フランシス『虎口』(加賀山卓朗訳/文春文庫)は、ディック・フランシスの息子が、2010年の父の死以降に書き継いだ競馬シリーズの、2018年の作品である。ご存知ない方のために補足すると、フェリックスは、父の生前から同シリーズの共著者だった。競馬シリーズの創作者としてのフェリックスのキャリアは、既に長い。競馬シリーズの書き手としてはベテランなので、安心して読んでいただいて結構です。
肝心の話の中身だが、これがなかなか面白い。今回の主人公は本作のみの単発主人公と思しいハリイ・フォスターで、危機管理コンサルタントである。調教師の一族が経営する厩舎で火事が起き、中東の王族が所有する名馬が焼け死んでしまう。調査と後始末を依頼され、現地に赴いたハリイは、調教師一族の諍いに巻き込まれてしまう。
火事自体もさることながら、焼け跡から人間の焼死体が見つかるのがミステリ的な興趣をグッと引き上げる。父親譲りの簡潔な筆致により、小説としての佇まいに競馬シリーズとして違和感をいささかも感じさせない。ただしフェリックスは、父に比べて若干説明的になる傾向があり、それが、《ハリイは競馬に無知で、かなりのことを説明されないと会話に付いていけない》という設定と見事に嚙み合っている。私も競馬用語──特に厩舎で使う用語をほぼ知らないので助かりました。事件内容は突き詰めれば暗く描けるが、恋人を作って現代小説の主人公としては異例なぐらい浮かれているハリイの陽性な側面が、作品に良い意味での娯楽性を担保しているのも指摘しておきたい。



