今月のベスト・ブック

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装幀=albireo+nimayuma

ついまち
ドン・ウィンズロウ 著
田口俊樹 訳
ハーパーBOOKS
定価 1,680円(税込)

 

 ドン・ウィンズロウが創作活動から引退する。彼が引退作と定めて書き始めた3部作は、『業火の市』『陽炎の市』と続き、この度最終作『終の市』(田口俊樹訳/ハーパーBOOKS)が出て完結した。この3部作は間違いなくアメリカ犯罪小説史に残る傑作なので、是非とも紹介しておきたい。

 3部作は1986年、ロードアイランド州の州都プロヴィデンスで始まる。主人公ダニー・ライアンは、同地のアイルランド系マフィアの元ボスの息子にして、現ボスの娘を娶った男であり、『業火の市』の時点ではマフィアの一員である。大西洋に面したアメリカ北部のこの町では、アイルランド系マフィアとイタリア系マフィアが協力関係を構築していたが、1人の美女を巡って双方の男性幹部が対立関係に陥り、その対立は個人間にとどまらず、組織対組織の抗争に発展してしまう。『業火の市』は、この抗争の顛末を描く。

 続く『陽炎の市』は、1990年以降が舞台となる。ダニーは、幼い息子を連れてアメリカ西部を目指して逃げている。追っ手もいるので、彼は背に腹は代えられぬと、子供の頃自分を捨てたが今は権勢を得ている実母マデリーンを頼った。そこで、メキシコの麻薬カルテルに絡む仕事もこなし、何とか落ち着いたダニーは、ひょんなことからハリウッド映画界に関与することになる。だがここでも数奇な運命が彼を待ち受けていた。

 そして今回の『終の市』である。

 ダニーは堅気になっている。時は既に1997年、中年太りが始まっているとも語られている彼は、今や、賭博の街ラスヴェガスでの新進気鋭のカジノホテル経営者だ。億万長者にもなっていて、生活はすっかり安定したように見える。だがギャングであった過去がなくなるわけがない。功成り名遂げたダニーが、他のホテルを買収してラスヴェガスでの更なる覇権を目指そうとしたとき、彼の過去はじわじわと彼に忍び寄り始めるのだった。

『終の市』の特に前半は、カジノとホテルに関する合法的ビジネス小説であり、話としては面白いし手に汗握りはするものの、犯罪小説を含むミステリの概念から外れているように見える。しかし話が進むにつれて過去が追いすがってきて、犯罪小説としての性格が濃くなっていくのだ。この「過去に追いつかれる」展開は、ちょっとした行き違いに端を発する。この行き違いは、ギャング時代のダニーなら絶対しない類のものなのだ。堅気になったがゆえに性格が少し変わって、それがマフィア期の過去のようかいを許したという流れであり、皮肉が利いている。とはいえ、この部分の機微は、実際に読んでみないとわかりづらいはずだ。実読あるのみだと思う。

 さて3部作通してみれば、『業火の市』はギャング小説として一貫し、『陽炎の市』はギャング小説から映画小説に変化、『終の市』は企業小説・ビジネス小説から犯罪小説へと、グラデーションを伴い変容していく。変化の大きい小説であると共に、一貫して登場人物の性格に肉薄しつつ、東海岸の犯罪組織、麻薬問題、映画の繁栄と虚栄、合法的ビジネスがもたらすマネーの光と影など、アメリカ社会を横断的に描き破らんとしている。ただし国家権力にはダイレクトに触れない。壮大な構想で壮大な物語を紡ぎつつ、国家権力の存在感そのものは希薄化させて、代わりに主要登場人物個人を際立たせているのだ。

『犬の力』以降、アメリカの国家権力を背景に色濃く漂わせていたウィンズロウが、最終3作でなぜ違う方向に舵を切ったのか。

 そのヒントになるのが、トロイア戦争とその後に関する伝説をプロットの下敷きとしているという事実である。詳しくは『業火の市』の千街晶之氏の解説を参照してほしいが、少なくとも『業火の市』の登場人物はほぼ全員、ホメロスの『イリアス』『オデュッセイア』、ヴェルギリウスの『アエネーイス』の英雄たちに比定可能である。たとえば、ダニーのモデルはアエネーイスだ。そして3部作の全てが刊行された今、3部作全体の大まかなプロットが『アエネーイス』そのものであることが確定した。『業火の市』はトロイア戦争、『陽炎の市』はカルタゴ立ち寄りも含む地中海放浪、『終の市』はローマ周辺での戦い、といった具合である。また、『終の市』では、トロイア戦争の英雄たちの戦後のエピソードが、『業火の市』から出演していた登場人物にほぼそのまま適用されていく。ダニーの物語というメイン・プロットとは別に、彼らは彼らでそれぞれの結末を迎えるのだ(死ぬとは言っていないので誤解なきよう)。これはプロットの分裂にすら見えるが、決して嫌ではない。この展開は、通常の小説では持ちえない神話性を作品にもたらす。これが狙い通りなのだとすれば、ウィンズロウは、アメリカ犯罪小説の神話を作りおおせたことになる。

 ウィンズロウの最終作、しかも大作を前に、今月は他の作品は旗色が悪い。今月は『終の市』をベストにするしかないです。とはいえ、今回も見事に騙しのテクニックが炸裂するアリス・フィーニー『グッド・バッド・ガール』(越智睦訳/創元推理文庫)には一言だけ触れておきたい。母と娘の関係性の切なさが、真相の衝撃と共に胸に迫ってくる。この作家の恒例で、何も知らずに読んだ方が楽しめる内容なので、騙されたと思って是非是非。