今月のベスト・ブック
『夜の人々』
エドワード・アンダースン 著
矢口誠 訳
新潮文庫
定価 880円(税込)
1937年とかなり昔に発表され、この度ようやく邦訳がなった、エドワード・アンダースン『夜の人々』(矢口誠訳/新潮文庫)は、先のことなど何も考えていない、考える余裕もない、考える教育も受けていない、ないない尽くしの者たちが堕ちていく様を描いた犯罪小説である。3人の脱獄囚──ボウイ、Tダブ、チカモウは、物語の開幕時点で既に堕ちている。というのも脱獄の真っ最中だからである。彼らは自分の意思で各々が凶悪犯罪を行い、服役中であったが、そこから逃げ出したのだ。とはいえ犯罪組織にコネがある等の当てがあるわけではなく、銀行強盗に入れば何とかなる、程度の甘い認識しかなさそうだ。人生は既に詰んでいる。だがこの点に関して彼らは認識が希薄、ないし敢えて無視している。そして彼らは、強盗を始めとする他人の財物の収奪のみならず、一般市民に危害を加えさえする。3人とも、そのことに悩む素振りすら見せない。教育程度の低さ、倫理観の欠如は否定すべくもない。
一方で、彼らの会話はやたらと箴言に満ち、頭が悪くはないことを確信させる。そして、人生と世界における大切な何かに気付いていることもまた確信させる。そこには確かに意思の力があり、信念の輝きがある。気高さすらあって胸に刺さる。だがやることは強盗であり、他人の財産を奪い、他人の命すら危機に晒し、罪を重ねていく。そんな生活がいつまでも続かないのは確実であり、傍目には破滅に向けて驀進しているようにしか見えない。この切実な矛盾こそが本書の肝だ。
なお主人公の若者ボウイは、足を洗って真っ当に暮らしたいという夢を語ることがある。だが、そのための具体的アクションはほとんど何一つ起こさない。唯一、逃避行の最中に出会った同年代の娘キーチーとの純愛が、まっとうな行動であるといえばある。しかし、キーチーはボウイを愛するあまりか、それとも自らのこれまでの生活に嫌気が差していたのか、ボウイの犯罪行為を止めない。そればかりか、彼の破滅的な生活に積極的に関与しようとすらする。彼女抜きでもボウイは同じ過程を辿り同じ結末を迎えたはず。キーチーはファム・ファタルとは言い難い。しかし、ボウイにとってキーチーが最も大事な人であることも明らかだ。ここにも切実な矛盾が込められている。
ということで今月のベスト・ミステリは『夜の人々』であるものの、犯罪者が主役を務める作品として、スティーヴン・キング『ビリー・サマーズ』(白石朗訳/文藝春秋)も忘れるわけにはいかない。
主人公ビリー・サマーズは40代半ばの男性で凄腕の殺し屋である。実際の彼は読書を愛し思慮も深い知的な人物だ。ただ、それがばれると他の犯罪者に警戒されるため、依頼の仲介業者も含む仕事仲間相手にも、実態より頭が悪いと見せかけるべく演技をしている。そんな彼が最後の仕事として請けたのが、収監されている犯罪者を狙撃する仕事だった。ビリーが狙撃地点に潜伏するために用意された偽の身分は、小説家の卵だった。出版エージェントの差し金でビルの事務室に缶詰めになるという設定である。しかしビリーはこの仕事に怪しいものを感じる。リスクヘッジのため、彼は独自に用意していた偽の身元を使い、誰にも内緒で三重生活を開始する。
物語は大半がビリーの一人称で進み、彼の思考は恒常的に地の文で描写される。主役の意識の流れに沿った記述が為されているため、話題はあちこちに飛び、一定の事項に触れる場合もそれを通しで一気に解説することは少なく、行きつ戻りつを繰り返す。ビリーの人生観や半生は徐々に立ち現われてくるのだ。『夜の人々』の犯罪者たちとは異なり、ビリーには、一般人にも共感可能な矜持と良心があり、またそれに沿った筋の通る言動で物語を一貫する。魅力的な男である。そんな主人公が、この物語──前半はゆったりしたペースで三重生活をリアルに活写しつつ、狙撃を実行して以降は劇的展開が頻発して一気にドライブがかかる──で何を為し、何を読者に残すかを堪能していただきたい。
なおビリーは小説家として嘘の生活を送る過程で、私小説めいた作品を(書かなくてもいいのに)実際に書き始める。ビリーの実体験そのまま綴ることはしないが、題材はそこから得ている。魅力的な主人公の過去を、作中作という体裁でワンクッション置いて描くことで、複層的な味わいが出ているのだ。
最後に紹介するのは、ダン・マクドーマン『ポケミス読者よ信ずるなかれ』(田村義進訳/ハヤカワ・ミステリ)だ。凄い邦題だが原題はWest Heart Kill。これは舞台となる会員制リゾートクラブの名称で、人里離れたクラブで起きた連続殺人事件がその内容となる。邦題から予想される通り、一筋縄では行かない。まず地の文が非常に饒舌で、字数にして四分の一程度は、ミステリに関する蘊蓄で構成されている。話題も広く、小説や映像などミステリ作品ばかりか、古典文芸や語源など文化人類学的な範囲にまで及ぶ。そこで蓄えられた《知識》或いは《概念》の数々が、本筋の殺人事件が終盤で見せる異様な展開に説得力を持たせる。と同時に、解説者の小山正氏も指摘するように、作中で真相や事実として示された事項への疑念をも生む。優れたメタフィクションと言う他ない。