今月のベスト・ブック
装幀=中村聡
『暗黒の瞬間』
エリーザ・ホーフェン 著
浅井晶子 訳
東京創元社
定価 2,530円(税込)
今月はやはりエリーザ・ホーフェン『暗黒の瞬間』(浅井晶子訳/東京創元社)をベストに挙げざるを得ない。本書は9つの短篇から成るドイツを舞台にした連作短篇集であり、司法の限界に迫るような事件が並ぶ。いずれのエピソードでも、女性刑事弁護士のエーファが事件に関与する。物語は彼女の一人称で進み、筆致はとても落ち着いているのだが、事件関係者の人生や感情・想念(喜怒哀楽に加えて自己保身や自己愛、独善、憎悪、自罰他罰などが渦巻く)が切り取られ、緻密に描かれ、強烈に抉られていく。
冒頭の「正当防衛」からして人生模様の断面は鮮やかだ。強盗を射殺した大富豪の老人が、正当防衛を認められ無罪となる。そのニュースに接したエーファは、過去に、その老人から不躾な電話を受けたことを思い出す。そこから彼女は事件の欺瞞に気付く。ミステリとしての切れ味に、社会や制度の限界、運命の皮肉が載せられている。
以後のエピソードも一通り紹介しよう。友人が兄を殺害した事件にエーファが巻き込まれる「生かしておく」は一層、シニカルさが尖っている。外国人の他国での紛争犯罪を、彼が渡独してきた際にドイツの法廷で裁く「少年犯罪」は、どこまでも残酷な紛争の現実と、そこに添えられたなけなしの優しさが印象に残る。続く「塩」は、恋人の娘の面倒を女が数時間見るという、何ということもない日常の一コマが大変な事態と顚末に発展する。「人食い」は、死体をばらばらにする衝撃的シーンから始まり、タイトル通りの事件に潜む、刑事法上の原理原則を鋭く問う。皮肉なラストも忘れられない。「遺稿」は、50年前に雪の中で死んだ母親の真相に、その娘の友人エーファが気付く。気付いた原因と、それを受けてのエーファの行動が人間らしくて味わい深い。7篇目「強姦」は本書の白眉で、女性への集団暴行事件に表れた法律上の裂け目に関係者がどう対処したかという物語である。8篇目「自白」は、老母を殺害したと名士が自白し、その弁護をエーファが引き受ける。裁判と真実の関係性という意味ではこの1篇もなかなか印象的だ。
かくして物語は法と切り結び、練られた文章が各エピソードと各登場人物を深く描く。しかも法律とその解釈が物語の中心にあるにもかかわらず、いささかも読みづらくない。
こうなると、ミステリ好きは必然的に、フェルディナント・フォン・シーラッハの『犯罪』を想起するだろうが、違う所はかなり多く、事実として読み味もかなり異なる。
最大の不一致は、主人公の主体性にある。事件への関与度と言い換えても良い。シーラッハの主役弁護士の、事件に対するスタンスはあくまで傍観者・観察者のそれである。観察者が事態に影響するケースもないではなかったが、事件関係者を法廷で弁護するのが関与の関の山であり、それ以上の能動的な踏み込みは見られなかった。『暗黒の瞬間』の刑事弁護士エーファは違う。30年以上のキャリアを持つ優秀な彼女は、ほぼ全てのエピソードで、積極的に事態に首を突っ込み、ときに職業的弁護士の枠を超えて、能動的に真実を知ろうとする。こういった積極性は、シーラッハの『犯罪』では表に立たなかった。
エーファは各事件に入れ込む。そこには原因と結果がある。原因が描かれるのは9篇目の「シュテファン・ハインリヒ」であり、結果の方はプロローグおよび、事実上のエピローグである「すべてよし」で触れられる。かくして本書は、短篇集であると同時に、主人公エーファの弁護士人生の物語でもあったと判明するのだ。胸に迫るものも正直ある。本書は今年を代表する傑作となるだろう。
他方、C・S・ロバートソン『特殊清掃人グレイス・マクギルと孤独な死者たち』(菅原美保訳/小学館文庫)は、間違いなく今月最大の拾い物だ。スコットランド最大の都市グラスゴーを舞台としたこの物語は、孤独死の現場を清掃することを生業とする35歳の寡黙な女性グレイス・マクギルを一人称の主人公として進む。その仕事ぶりは丁寧だ。清掃には心を籠め、遺品も整理して、遺族を捜し出してそれを渡そうとする。故人を孤独死に追い込んだ周囲の環境には憤りを覚えるし、死者を気にかけていたようなことを言う故人の知り合いたちにはシニカルな思いを抱くが、それらは独白として語られ、表に出ることはあまりない。そして帰宅すれば、彼女は孤独死の現場のミニチュアを作るのだ。
そんな彼女がある2つの孤独死に関連性を見出し、興味をもって調べ始める──というのが、本書のミステリとしての主筋となる。とりあえずは。静かな語り口とは裏腹に、グレイスは身分を偽る大胆さで独自調査を重ね、やがて50年前の出来事に行き着く。死者と共にあらんとするグレイスの、しみじみとした語り口が特徴の良質なミステリだ。
しかし本書にはそれ以上の強烈な要素が隠されている。後半で、衝撃的な出来事が起きて、それに伴って驚愕の事実が明かされるのだ。その後に、物語は予想外の方向に舵を切る。これらは、サプライズのためのサプライズではなく、ちゃんと血と肉と情を備えており、おまけに、孤独死と向き合う作品全体のテーマとも分かち難く結び付いている。本書もまた傑作と言って良いだろう。


