今月のベスト・ブック

写真=©Getty Images
装幀=鈴木久美

『ハウスメイド
フリーダ・マクファデン 著
高橋知子 訳
ハヤカワ文庫HM
定価 1,408円(税込)

 

 今月は、読者を驚かせるための仕掛けや企みに満ちた作品を3冊紹介する。先に書いておくと、企みの方向性は見事なまでにバラバラである。3冊全て読んだならば、現代ミステリの最前線で展開されている、手練手管の多様性を痛感することになるはずだ。

 

 そんな中でも、ミステリとしては比較的ストレートと思われるのがフリーダ・マクファデン『ハウスメイド』(高橋知子訳/ハヤカワ文庫HM)である。裕福な邸宅に住み込みのメイドとして雇われたミリーは、しかし雇い主の妻ニーナの、メンタルに問題があるとしか思えない言動の数々に振り回される。娘のセシリアも無愛想で反抗的、夫アンドリューは妻と娘をなだめるだけで咎めない。しかも家族には何か秘密があることを、イタリア語しか話さない庭師エンツォが仄めかしてくる。しかしミリーは前科持ちで住処もないので、この家で働き続けるしかない。

 

 雇用主一家の異様さが前半で徐々に、しかしサスペンスフルに描き出されて、読者の期待を高めた上で、事態の変化が訪れると、物語は一瀉千里、怒濤の勢いで意外な展開をつるべ打ちし始める。300ページ以降は圧巻。これぞ娯楽スリラーのお手本である。

 

 ということで、ミステリ的なサプライズにまずは目が行くが、それ以上にストーリーテリングの腕が冴えていると思う。本書は500ページ超と結構長い。しかしその長さを全く感じさせないのである。本書は前半のストーリーがシンプルだし、急転後もそんなに複雑な展開は辿らない。であれば通常は、300ページ台が適度だろう。500ページは普通に考えたら長過ぎる。内容スカスカな印象になってもおかしくない。しかし体感としては、ずっとのめり込んで読める。後半など手に汗握る。間延びしているとか、不要な場面・表現・文章を読まされたという印象はもちろん皆無である。マクファデンの、作家としての基礎体力が高いのは明らかで、こういう人材がミステリ作家になってくれたのは喜ばしい。しかもそれら驚愕、没入、緊迫などの一切が、奇手を衒わず、オーソドックスな手法で達成されている。この作家は息が長そう。今月のベストはこれにします。

 

 ところで『ハウスメイド』は、本国ではシリーズ化されているようだ。続篇ということなのであれば、続篇の粗筋紹介に『ハウスメイド』のネタバレ要素を含んでしまうかもしれないので、その意味でもミステリ・ファンは『ハウスメイド』を早く読んでおくのが安全だと思います。

 

 サプライズ月間の第二の矢は、マシュー・ブレイク『眠れるアンナ・O』(池田真紀子訳/新潮文庫)だ。検査しても身体に異常はないのに4年前から眠り続けているアンナ・オグルヴィは、意識をなくす直前に、同僚2人を惨殺した容疑をかけられていた。精神科医ベンは、アンナの目を覚ますよう依頼されて、当時の事件を探り始める。実はベンの離婚した元妻は、事件現場に駆けつけた警官の1人であったので、ベンはアンナのことを知らないわけではなかった。

 

 眠り続ける若き殺人容疑者、という魅力的なモチーフから始まった物語は、以後次々に意外な展開を頻発させていく。たとえば100ページも行かないうちに、事件当夜に現場にいたと主張する安全衛生コンサルタントが、自分が真犯人を知っていると独白するし、アンナが怪しい日記を付けていてその内容の記述も始まる。だが、それらは序の口。物語は読者を最初から最後まで翻弄し尽くす。

 

 本書のサプライズ展開で特徴的なのは、新事実判明や新事態発生などの度に、事件の複雑性や混迷の度が増していく点である。人間関係や事実関係がどんどん錯綜していき、最終的には、簡単に説明することは不可能な、鵺のようなややこしい真相が目の前に姿を現す。でも理解しづらいかというとそうではありません。600ページ以上かけたからこそ、読者の脳に、真相への道程が誤解の余地なく焼き付いてくれるのです。読者を驚かせる気概と手法の密度は今月ピカイチ。こちらをベストにしても良かったな。

 

 最後にご紹介するのは、フランスからの刺客ギヨーム・ミュッソ『アンジェリック』(吉田恒雄訳/集英社文庫)である。パリで元トップダンサー、ステラ・ペトレンコが自宅から転落死する。彼女の娘ルイーズは、事故との警察判断に納得できず、入院中の元刑事タイユフェールのもとを訪れ、調査を頼み込む。渋々引き受けたタイユフェールは、ルイーズと共に、ステラの奔放な生活を追う。……とここまでならミステリ的には何の変哲もないが、看護師アンジェリックの物語への関与が本格化した辺りで様相が一変、その後も何段階か大変転を繰り返して、物語は最終的に、思いもよらない場所に読者を連れ去る。衝撃度では『ハウスメイド』や『眠れるアンナ・O』に引けを取らない逸品だ。

 

 ところで本書の訳者、吉田恒雄氏は、『アンジェリック』をもって翻訳業から引退されるようです。ここ20年、吉田氏が紹介してきたミュッソ、フランク・ティリエ、ピエール・ルメートル、ジャン=クリストフ・グランジェなどフレンチ・ミステリの実力ある作家の名品の数々は、今後も永らく、日本のミステリ・ファンの間で、確固たる位置を占めて楽しまれ続けるに違いない。これまでの訳業に感謝申し上げます。