今月のベスト・ブック

装幀=國枝達也
『沈黙』
アン・クリーヴス 著
高山真由美 訳
ハヤカワ・ミステリ文庫
定価 1,925円(税込)
アン・クリーヴスはやっぱり素晴らしいので、今月のベストは『沈黙』(高山真由美訳/ハヤカワ文庫HM)とします。ただしこの作家、未読者に魅力を説明するのがなかなか難しい。イギリスのデヴォン州北部バーンスタプルで警部を務めるマシュー・ヴェンを主役に据えたシリーズの第2弾で、前回に引き続き、地方のコミュニティ内で殺人事件が起きる。娘のガラス職人が作った花瓶で殺されたナイジェルは、地域の保健サービスを監督する職務を担っており、その仕事に絡んで何らかのトラブル――それも複数が生じたらしかった。事件直前にも、被害者は近所のパーティーで、同席していた女性刑事ジェン(マシューの部下)に相談する素振りを見せていたのである。他方、被害者の娘イヴは事件が自分のせいで起きたかのような態度を取る。
マシューたちは被害者周辺の状況をじっくり調査していく。その過程で、事件関係者や捜査陣のそれぞれの人生や感傷が、彫琢されるかのように、時間経過とともに深く描写され、豊かな物語世界や人間ドラマが徐々に花開くのだ。滋味に富み、含蓄にも富む、味わい深い小説運びであり、正直なところもうこれだけで面白いし読む価値は十分だ。そしてミステリとしての構成も相変らず実にしっかりしており、ヒントや伏線は地味ながらもしっかりあるし、真相を明かされてみれば「確かにそうだった」とか「確かに思い込みを排せば事前に勘付けたかも」とかいった納得感を読者は抱くはずである。
そしてここが肝要なのだが、小説の情感面およびテーマ面でのクライマックス、最も深い場所、一番心に響く部分は、真相それ自体に設けられているのだ。これはミステリ・ファンとしては嬉しい反面、本作の魅力を未読者に伝えるのは、事実上不可能である。しかし真相の衝撃や事件解決後の余韻は、本当に筆舌に尽くし難いものがある。『沈黙』は一言で言えば、「何も言うことがない」大満足の逸品である。現代イギリス・ミステリの精華として、広く遍くオススメしたい。
アルネ・ダール『円環』(矢島真理訳/小学館文庫)も内容の具体的紹介が困難である。スウェーデンで連続爆破事件が発生。犯行声明文の文章表現から、捜査に当たるエヴァ・ニーマンは、旧知の元警部ルーカス・フリセルを疑うに至った。だがルーカスは現代文明を拒否して森で生活していた。
物語から受ける印象が変化する作品である。癖の強い捜査チームの群像劇+連続爆破事件の容疑者、ということで呉勝浩『爆弾』に似た印象で始まりつつ、物語は徐々にしかし間断なく、思いもよらなかった物語へと変容し続ける。この作品で、真相やタイトルの意味を終盤までに予想できる読者はほとんどいないのではないか。この間ずっと手に汗握る緊張感に包まれているのもポイント。実にアルネ・ダールらしい作品といえる。なお本書は続篇があるとのことだが、幕切れを考えると、続篇の粗筋紹介をする際にシリーズ第1作の本書のネタにある程度触れざるを得ない可能性が高い。アルネ・ダールのファンは、次作が翻訳される前に、早急に『円環』を読んでおくのを推奨します。
21年振りの邦訳刊行となるフィリップ・マーゴリン『銃を持つ花嫁』(加賀山卓朗訳/新潮文庫)も、具体的紹介がやりづらい。ストーリーが二転三転して、最初に見えている光景とは全く違う地点に連れて行かれるからだ。大富豪が結婚翌朝に自宅で射殺されているのが発見され、新妻は近所の海辺で銃を持って彷徨っていた、という事件が10年前に起きている。作中では、銃を持った新妻の写真がピュリッツァー賞を取ったと設定されており、物語は、事件から10年後に、作家志望者がこの写真に触発されて事件を小説化しようと志すところから始まる。その直後に10年前の司法関係者に視点が切り替わって、捜査側の視点から事件を描写、後半になって10年後に話が戻ってくるという展開を辿る。事件から受ける印象がくるくると変わり、誰も彼もが怪しく見えてきてしまう。その果てに、意外な真相が鮮やかに提示されるのである。暫く翻訳が途絶えていたのが不思議なほど、マーゴリンの作品は高品質のまま、良い意味で変わっていない。深い小説とも重い小説とも言えないが、ミステリの魅力をたっぷり味わわせてくれる。
エミコ・ジーン『鎖された声』(北綾子訳/ハヤカワミステリ)も、本稿でわざわざ紹介する理由を具体的に説明できない困った作品である。序盤の粗筋紹介は容易だ。2年前に行方不明になった10代の少女エリーが帰って来る。何者かに誘拐されていたようだし、帰還時に身に着けていた服からは、別の行方不明少女の血液が検出される。だがエリーはほとんど何も語らない。一方、刑事チェルシーは、自分の姉が子どもの頃に行方不明になった過去もあって、事件の捜査に一方ならず入れ込んでいく。
エリーが監禁中にどんな目に遭っていたかは断片的に語られていき、若く貧しい女性を襲った奇禍がシリアスに語られていく――のだが、終盤になると事件構図が本当に一変して、「これってそういう話だったのか!」と叫びたくなる。読者が必ずや味わうこの驚きはミステリの醍醐味に他ならない。深刻で重苦しいこの物語に、こういう味付けをするとは、なかなかの曲者といえよう。