今月のベスト・ブック

写真=abriel Isak“Peace of mind”
www.gabrielisak.com
装幀=新潮社装幀室

『身代りの女』
シャロン・ボルトン 著
川副智子 訳
新潮文庫
定価 1,320円(税込)

 

 今月の本当のお気に入りは、2022年に我が国の翻訳ミステリ業界を席巻した『われら闇より天を見る』の作家クリス・ウィタカーの新作、『終わりなき夜に少女は』(鈴木恵訳/早川書房)である。アメリカの田舎町における少女失踪事件と、それにかかわった人々の真実を、多視点からスピード感を失うことなく丁寧に描き切っている。情報が小出しにされていく物語であり、その「小出しにされる」書き方自体が得も言われぬエモーションを呼ぶのだ。このタイプの小説は、事前知識抜きで読むのがベストだ。……ということを私は同書の解説に書いた。そう、私、解説を担当してしまったのである。だから本欄のベストに挙げるのは涙を飲んで諦めます。

 でも幸か不幸か、今月は対抗馬が多い。2023年の翻訳ミステリ業界を席巻したS・A・コスビーにも新刊が出た。『すべての罪は血を流す』(加賀山卓朗訳/ハーパーBOOKS)がそれ。主人公タイタスは元FBIの、ヴァージニア州の郡保安官だ。彼が暮らす街のハイスクールで、人気教師が薬物中毒の男に射殺される事件が発生する。そして亡くなった教師の電子機器からは、連続殺人の様子を映した画像や動画が発見され、事件は全く違う様相を呈し始める。

 一見、警察官が連続殺人事件を追う一般的な警察ミステリに見えるのだが、主眼は異なる。矜持のある中年主人公が、黒人差別の残る故郷で、多様な登場人物がそれぞれ持つ立場や思想からの様々な独善に対峙する。これが稠密かつ鮮明に描かれていく。差別する側に問題があるのはもちろん、差別される側も決して完全な正義ではないことがリアリスティックに明示されており、話の重み、深み、奥行きは比類ない。この点は主人公タイタスも同じだ。カッコいい長所はもちろん沢山ありつつ、「これはダメでしょ」と思わせる短所もはっきり感じさせる。下手な小説だと、重要な脇役が主人公の欠点を指摘した場合などは、唐突感や取って付けた感があるものだが、本書にはそれが一切ない。要は全てが真に迫っていて、説得力も一々高いのだ。

 台湾の作家、紀蔚然『DV8 台北プライベートアイ2』(舩山むつみ訳/文藝春秋)は、パニック障害を持つ元大学教授で劇作家という異色の私立探偵・呉誠が主人公の、台湾を舞台とするハードボイルドの第2弾である。今回、呉誠は台北近郊の淡水という街に引っ越している。題名の「DV8」は呉誠の行きつけのバーの店名だ。呉は、この店で出会った若い女性に人捜しを依頼され、その調査過程で20年前の殺人の謎を解く展開に発展する。解決までのページ数から見ると、物語の主筋はこの過去の殺人事件とみなせるものの、今作では、話が脇筋に入っていく機会が前作以上に増えた。長篇ミステリとしては構成がやや歪だ。しかし全体の印象は決して歪ではない。理由は単純で、本書は物語で描かれた期間における主人公の生き様が、あまりにも活き活きしているのだ。印象的な人物やエピソードは多いけれど、中心軸は明らかに主人公なのだ。ストーリーは直線的に進まないかもしれない。メインだったはずの謎が結構なページ数を残して解明されてしまうかもしれない。その後、どんでん返しではなく別の話が始まってしまうかもしれない。だが呉誠は、物語のどの時点でも、確かに彼そのものだ。精神面の好調不調にかかわらず、自らの人生観や感受性を読者の前に饒舌に曝け出し、周囲の人物と軽快にやり取りする。この側面は前作よりも強化されており、私などは、読んでいるだけで楽しくて仕方がない。また、欠点も多い彼が、他人のトラブルや悲劇に心を痛め、何とかしてやりたいと行動に移す。そんな呉誠を好きにならないでいることは難しい。作中で、彼に同調し協力する人物が多いのも、だから説得力がある。ハードボイルド、私立探偵として素晴らしいと思うが、そういうジャンル意識は脇に置いても、饒舌で頓智が利いていて前向きな主人公が好きな人は絶対に楽しめる。

 シャロン・ボルトンという作家は知らない名だと思ったが、解説をよく読むと、10年以上前に創元推理文庫から出た『三つの秘文字』から始まる3部作が好評だったS・J・ボルトンのことだった。同3部作は田舎の因習めいた雰囲気の中の、見事なプロット操作と丁寧な人物描写が光っていた。『身代りの女』(川副智子訳/新潮文庫)は雰囲気こそ一新されているものの、プロット操作と人物描写の腕は更に磨きがかかっている。卒業間近のパブリックスクールの仲間の男女6人が、酔った勢いで、車で道を逆走する肝試しを敢行。事故を起こし対向車に乗っていた母子3人の命を奪ってしまった。これに対して、6人中最も貧しいメーガンが1人で罪をかぶる。ここまでが第1部。そして20年後の第2部で、社会的に成功した5人の前に、釈放されたメーガンが現れて、約束の履行を迫る。

 何を要求するかなかなか明かさないメーガンの不気味さと、彼女への反感を徐々に高めていく5人の不穏さが、第2部のサスペンスの源泉である。一方、第1部では、事故を起こしたことや、メーガンが本当に1人で罪をかぶったことに対する心の乱れが印象的だ。これらは状況や人物の描写の上手さによって効果を3倍増ぐらいしている。そして展開は一寸先は闇を地で行き、意外性たっぷりである。今月のベストは、これにします。