今月のベスト・ブック
『卒業生には向かない真実』
ホリー・ジャクソン 著
服部京子 訳
創元推理文庫
定価 1,650円(税込)
主人公に突き付けられた現実と、それに対する主人公の(もしかすると作者の)認知の歪み。ホリー・ジャクソン『卒業生には向かない真実』(服部京子訳/創元推理文庫)は、そんなことを考えてしまうミステリだ。
本書は『自由研究には向かない殺人』『優等生は探偵に向かない』に続く、高校生ピップを主人公に据えた、3部作の完結篇である。ピップは、SNSやポッドキャストなど現代の情報発信ツールを駆使して探偵活動を展開する。第1作の『自由研究~』では、そんな彼女が活躍して冤罪を晴らす爽やかな展開が読者を魅了する。続く第2作『優等生~』では事件そのものに割り切れなさやビターな味わいがあった上に、ピップが調査に掛ける情熱が妄念めいて見える瞬間が生じ始めて、人間の暗黒面が滲む。
というわけで、シリーズには徐々に影が差してはきていた。しかしこの『卒業生~』は、そんなものどころではない衝撃の展開を迎える。まず、ピップの様子が最初からおかしい。彼女は前作の事件のPTSDに苛まれ、一人称の独白もマイナス面に傾きがちで、精神的には絶不調だ。しかも旧作の悪役がピップを名誉棄損で訴えてきた(正確には仲裁)。旗色はピップが圧倒的に悪く、謝罪と慰謝料支払を強いられることが必至である。でも仲裁の場でピップはおとなしくなんかしていない。相変わらず「悪人」を糾弾し、自分の何が悪いのかと主張する。だが弁護士など大人たちはなだめすかして、粛々と仲裁合意に向けて動くのだ。このストレスフルな状況下で、何者かがピップに嫌がらせをしてくる。しかも、その手口には、過去の連続殺人事件との共通点があった。
以後、物語はしばらく、嫌がらせ犯の正体を暴くための調査を主軸として動く。その過程で、ピップは大変な事態に見舞われ、ピップと仲間(特に相棒とも言うべき少年シン)は収拾を図る。「事態」の中身もさることながら、問題はこの「収拾」の手段である。これをどう受け止めるかは読者によって違うだろうが、私には《自分の正義に凝り固まった少女が、使命感という名の自己愛に蝕まれて、自己正当化だけは達成した上で悪行に手を染める》ようにしか見えないのである。ここまで悪くは思わない読者も、ダークな展開であるのは否定できないはずだ。この陰惨で切迫した言動を他でもないピップとシンがとっているという事実。シリーズ初期のあの爽やかで健全な世界はどこに消えたのか。こんな物語は読みたくなかった。でも目が離せない。読んでしまう。貪るように。
作者ホリー・ジャクソンは、あとがきで、刑事司法制度への怒りがこの物語を生んだと仄めかす。これも私は承服しかねる。じゃあ何をやってもいいんですか? ピップも作者も信念に憑かれている。だがそういう病理もまた、疑いなく真理である。正義の持つある種のおぞましさが凝縮された物語として、今月のベストミステリはこれにしておきます。
キム・オンス『野獣の血』(加来順子訳/扶桑社ミステリー)は、釜山の片隅の港町のやくざ社会を描くクライムノベルだ。行われていること自体は暴力的で、違法性・反倫理性いずれも『卒業生~』よりも遥かに高い。しかし遥かに安心して読める。理由ははっきりしている。主役はもちろん登場人物も端役に至るまで、正義感に固執していないからだ。ベースにあるのは打算、妥協、惰性、そして自己都合と理解しているので他人や社会には押し付けないがだからといって絶対に譲らない自分の一線だからである。
などと書くと、筋を通すカッコいいやくざが大挙して登場するのかと思われそうだが、違います(だから打算・妥協・惰性を先に書いたわけです)。物語は1993年から始まる。主人公ヒスはホテルの支配人だが、実際には一帯を仕切るやくざのボス・ソンの部下である。ソンは、派手にやると身の破滅を招くとして、地味な稼ぎ──麻薬ではなく食品の密輸や偽装、偽造である──に腐心し、勢力拡大も図らずに現状維持を旨とする。しょぼい。しかも面倒な仕事はヒスに押し付けてくるのだ。組織はうだつが上がらない。仕事は面倒。でもその割に給与は低い気がするし、ボスの後継者に推してくれる気もしない。ヒスは現状が不満であり、やる気に満ちてもいないが、若い頃に拾われた恩義もあるので離反はしない。ダサい。そんな中、別組織が組の工場を襲撃したことを発端に、周辺組織とのバランスが徐々に崩れ始める。
ヒスは現状に不満たらたらではあるものの、昔のサラリーマン小説のそれに似て、だからどうというわけでもなく、愚痴が完全に日常に溶け込んでいる。個性派ぞろいの他の登場人物も、基本的には日常の雰囲気の中でダラダラしがちである。しかし本書は裏社会を描くダークな物語でもある。そんな日常の中でも、時折凄惨な暴力が振るわれ、命が簡単に消える。また、日常での態度がどんなに緩くても、逆鱗を持つ人間は多い。やくざとその社会をなめていてはいけないのだ。
そして後半、抗争が激化して、ハードなクライムノベルとしての性格が強くなると、積み重ねてきた鷹揚闊達な描写が生きてくる。理由の説明はなくとも、この登場人物の行動が「この人らしい」と思える場面が増えるのだ。説明文ではなく小説であることの意味を実感させる素晴らしい作品である。