今月のベスト・ブック

写真=©Tijana Moraca/Trevillion Imges
ブックデザイン=albireo+nimayuma

『サリー・ダイヤモンドの数奇な人生』
リズ・ニュージェント 著
能田優 訳
ハーパーBOOKS
定価 1,520円(税込)

 

 自分で解説を書いた小説を月評でベストに据えるのは、何かが違う気がする。というわけで、M・W・クレイヴンのワシントン・ポー・シリーズ第5長篇『ボタニストの殺人』(東野さやか訳/ハヤカワ文庫)は、本稿では詳述しません。衆人環視の不可思議な毒殺事件が続発する中、主人公たちを折に触れて助けてくれた女性医師が殺人罪で逮捕されてしまい、レギュラー捜査陣は2つの事件のために東奔西走する。ストーリーの躍動感と、奸智に長けた犯人の手の込んだ手口、主人公の活躍が、それぞれ鮮烈な印象を残す。そんな『ボタニストの殺人』を除いても今月は大豊作で、他にも紹介すべき作品は多い。

 まずはエヴァ・ドーラン『終着点』(玉木亨訳/創元推理文庫)である。取り壊しに反対する社会運動の対象になっているロンドンの集合住宅に住む、運動家モリーの部屋を、娘のように親しくする後輩の運動家エラが訪ねる。彼女は、見知らぬ男に襲われて反撃し男を殺してしまったと言う。モリーはエラと共に、死体をエレベーターシャフトに隠す。
 本書は2パートから成る。モリーはこの死体隠蔽以後の事件の経過を語る。一方、エラのパートは徐々に時間を遡って過去に何があったか語っていく。物語の結末はもちろんモリーのパートの最後に訪れるが、そこに至る導線はモリー視点を読むだけでは十分理解できない。エラのパートもあって初めて物語は完成を見るのだ。この構成はそれ自体が楽しいし、鮮やかな心理描写と、真相隠しのテクニックも光る。良作だ。

 サイモン・モックラー『極夜の灰』(冨田ひろみ訳/創元推理文庫)は、北極圏のアメリカ軍秘密基地で火災が発生し、1人は焼死、もう1人が重篤な火傷を負った。現場には不審点もあり、実際に何が起きたかを精神科医が生き残りにヒアリングする。火事の実態が明らかになるに連れて、謎も深まり、やがて意外な真相が姿を現す。だが物語は、その先でも更に盛り上がるのだ。物語自体がこれでもかとダメ押ししてくるわけである。謀略小説の謀略を謎解きミステリの中心に据えたような構造で、なかなかに野心的である。

 アシュリィ・エルストン『ほんとうの名前は教えない』(法村里絵訳/創元推理文庫)の女性主人公は、名前も経歴も偽って、若き企業経営者の恋人に収まって、スパイ行為を働いている。そんな彼女の前に、彼女の本名とその経歴を騙る人物が現れる。主人公含めて誰も彼もが何らかの重大な秘密を抱えていそうで、一寸先は闇だ。主人公がなぜスパイ行為をしているかも徐々にしか明かされないし、今後事態がどう進展するかも全く読めない。意外性の波状攻撃を楽しまれたい。

 ということで東京創元社が気を吐いた月にはなったが、ベストに推したいのはアイルランドの作家、リズ・ニュージェント『サリー・ダイヤモンドの数奇な人生』(能田優訳/ハーパーBOOKS)である。一人称の主人公であるサリー・ダイヤモンドは、町外れで父とひっそり暮らす40代前半の女性で、変わり者である。冒頭で、彼女は自宅で亡くなっていた父の亡骸を誰にも連絡・相談しないまま自宅の焼却炉で焼く。しかもそのことを特に隠さないので、警察沙汰になってしまう。この奇行で、彼女は罪には問われなかったが、マスコミに騒がれてしまう。ただ、どうやらマスコミは、父親の遺体損壊だけではなく、サリーの過去にも騒いでいるようだった。そんな中、彼女は父が自分宛てに残した手紙を読み、自分が関係した昔の凄惨な事件を知る。しかしサリーには6歳より前の記憶がなく、当事者意識は持てないままだった。やがてニュージーランドから、古ぼけた熊のぬいぐるみが送られてくる。サリーは、このぬいぐるみの名前をなぜか知っていた。
 この後、サリーは自分の過去について積極的に調べ始めると共に、人生で初めて、家の外で他人とかかわり始める。一方、物語には更にもう1人、一人称の視点人物が加わり、サリーが幼少期に巻き込まれていた出来事を克明に描写していく。2人の視点から語られる過去は、まことに凄惨かつショッキングであり、なおかつ、人格や性格の根深いところに影を落としていることもわかって、言葉もない。ただし、随所で心温まる交流や笑えるエピソードが頻発するので、全体的な雰囲気は意外と明るめであり、読みやすい。
 一人称の主人公であるサリーの性格や言動は、非定型発達、特にASDを思わせる。世の常識に疎いことも相俟って、他人の言外のニュアンスを汲み取ることができない彼女は、論理で考えたことをそのまま口に出す。これは、率直な物言いで世間の虚偽をズバリ指摘することに繋がり、多くの場面で読者をスカッとさせる。読み進むほどに、読者は、サリーが好きになっていくはずだ。現実には、他者に共感がないまま思ったことを口に出す人が、他者から感情的反発を食らわないわけはない。サリー側にも、他者への共感があるわけではない。詳述は避けるが、本書はこの現実から目を逸らさない。この点は高く評価したい。非定型発達であれ定型発達であれ、しょせん他人は他人であり、思いは程度の差こそあれ必ずや行き違い、人間関係の脆さが浮かび上がる。過去にあのような出来事があったのだから、余計にそう言える。本書を読み終えて想起する、様々な感情感傷を、1人でも多くの方に味わっていただきたい。