今月のベスト・ブック
『魔女の檻』
ジェローム・ルブリ 著
坂田雪子 監訳
青木智美 訳
文春文庫
定価 1,650円(税込)
一寸先は闇、五里霧中、暗中模索。そしてミステリとしては、紛れもなく飛び道具。これらの言葉をまとめて使いたくなるほど、唯一無二の読書体験ができるのが、ジェローム・ルブリ『魔女の檻』(坂田雪子監訳、青木智美訳/文春文庫)だ。冒頭の場面は恐らく2023年であり、新人記者カミーユが謎めいた女エリーズに連れられて、フランスの片田舎にあるモンモール村を目指している。近くに岩山が聳え、17世紀の魔女狩り伝説が残るこの村では、2年前には村人が複数亡くなる事件が起きたらしい。エリーズはその事件の特ダネを提供するとしてカミーユを誘い出したのだ。道中、エリーズは事件ファイルをカミーユに差し出し、《幽霊はいないと思うか》などと言い気を持たせる。
『魔女の檻』の本筋は、この事件ファイルに記録されているらしき、2年前の事件の槇末が主軸となる。視点は新任の警察署長ジュリアンに概ね固定されており、彼の視点から、村を見舞う奇怪な出来事の続発を描く。ジュリアンが現在進行形で味わう事態の他に、数年前の事件も複数蒸し返され、超常現象または精神疾患が見せる幻聴/幻覚にしか見えない事象すら発生する。一連の事態はエスカレートの一途を辿り、中盤以降は驚愕の展開が連べ打ちで、1歩先の予測すらほぼ不可能となってしまうのだ。魔女や幽霊の影もちらつき、物語はほとんどモダンホラーと化す。
この《本筋》以外にも、不穏な要素はセットされている。まず、特ダネを握ると称する謎の女エリーズが、いつまで経っても《本筋》に登場しない。彼女の正体は不明なままだし、記者カミーユをモンモール村に連れて行く理由も不明なままだ。加えて、「事実」と題して随所に挟まれる、医学的な記述も、作者の意図が一向に見えてこない。
これら全てが複合して、危機・混迷・困惑が極致に至った時、《本筋》は唐突に終結し、その後におもむろに、驚倒ものの真相が明かされ始めるのである。多くの読者は読んでいる最中、「この話、本当にミステリとして決着するの?」との不安を抱えるだろう。真相はそれに応えてくれるし、伏線も一応あるが、それでもやはりこの真相は予測不能にも程がある。しかも後味がとんでもなく尾を引く。書評子は、読了後1か月近く経ってからこの文章を書いているが、未だに余韻が消えていない。次々と明かされていく真相を前に放心しつつも、ページを手繰る手と文字を読む目は止められない。あの鮮烈な体験は、なかなかできるものではない。
というわけで『魔女の檻』に精神を揺さぶられた感なきにしも非ずだが、ジル・ペイトン・ウォルシュ『貧乏カレッジの困った遺産』(猪俣美江子訳/創元推理文庫)も、意外や読者の心に爪痕を遺す作品であった。本書は、ケンブリッジ大学屈指の貧乏学寮セント・アガサ・カレッジで保健師を務める、イモージェン・クワイが主役を務めるシリーズの第3弾だ。過去2作品はケンブリッジ界隈で起きた事件にわちゃわちゃと挑む話で、テイストはコージーに近かった。ところが本作は、ケンブリッジを事実上飛び出す。悪評が絶えない著名実業家サー・ジュリアス・ファランがカレッジの晩餐に招かれ、その場で体調を崩した彼をイモージェンが介抱する。その際にファランは彼女を気に入ったようで、自社のランチミーティングにイモージェンを招いて人事部門のポストをオファーすると共に、自分が命を狙われていると言う。オファーを断って数か月後、イモージェンは新聞で、ファランが崖から落ちて亡くなったとの訃報に接する。葬儀に出席したイモージェンは、ファランが殺害されたのではとの疑いを深めた。
そしてイモージェンは、元恋人であり、ファランの会社の役員であるアンドルーと共に調査を始める。前2作で人間ドラマの主要部分を占めた、アカデミズム周辺の悲喜こもごもは後退し、代わりに生き馬の目を抜くビジネスの世界と富裕層の生活が前面に押し出され、雰囲気が激変している。他方、後半になると、題名でも暗示されているセント・アガサの貧乏っぷりが、急に光を当てられ、物語の主要主題の1つに躍り出る。学外で実業界の殺人疑惑を調査する話が、なぜそんな展開になるかは読んでのお楽しみだ。
本書の特徴は他にも2つある。結構大掛かりなトリックが仕掛けられている点が1つ、このシリーズで出て来るようには思えない種類のもので、驚きも1入である。更にもう1つが、決着の付け方だ。一応綺麗に終わりはする。だが倫理的な問いを突き付けられてもいて、読者の間で議論は分かれるだろう。本作もまた、後味は尾を引くのである。
最後に紹介するのは、スウェーデンの作家アンデシュ・デ・ラ・モッツの新シリーズ第1弾『山の王』(井上舞・下倉亮一訳/扶桑社ミステリー)である。主役の女性警部レオ・アスカーは、上司や実力者の母親と折り合いが悪い。最初は、男性優位の警察で女性が頑張る話に見えるが、すぐに主役が窓際部署《リソース・ユニット》に左遷される。そこで、有能ながらやる気のない同僚たちを何とか協力させて、失踪事件の謎を、別ルートで解き明かしていく。この設定がうまく機能しているし、筋運びも軽快、緊張感の醸成も手際が良く、犯行も不気味で味わい深い。続きが気になる要素もあり、要注目のシリーズが始まったと高く評価したい。