今月のベスト・ブック

装幀=新潮社装幀室
『うしろにご用心!』
ドナルド・E・ウェストレイク 著
木村二郎 訳
新潮文庫
定価 1,155円(税込)
久しぶりに懐かしい名前を聞いたのが『戦車兵の栄光 マチルダ単騎行』(村上和久訳/新潮文庫)である。コリン・フォーブスのなんと31年振りの翻訳なのだ。1969年刊、舞台は1940年の第二次世界大戦西部戦線である。ドイツ軍の電撃戦により英仏軍が何百キロも戦線を後退させる中、1台の英国軍歩兵戦車マチルダとその乗員が取り残されてしまう。土地勘がない他国(ベルギー)で、敵も味方も居場所がわからない。主人公をこの戦車の戦車長に据えて、彼が友軍に合流するまでを描く。道中では、土に埋まる、ぬかるみにはまる、敵に見つかる、スパイ騒動など、様々なトラブルが生じる。悲惨な状況下でも乗員たちの前向きな軽口は読んでいて楽しく、地域住民との長閑な交流もあり、緩急の付け方も上手く、良い意味で古典的な冒険小説の精髄が味わえる。主人公たちが戦車をいかに動かしているかを、平易かつ詳細に描いている点にも注目してほしい。
懐かしさでは、泥棒ドートマンダー・シリーズの新訳、ドナルド・E・ウェストレイク『うしろにご用心!』(木村二郎訳/新潮文庫)も負けてはいない。ただし本国刊行は2005年で、スマホとはいかないがガラケーは普通に出てきます。一種の隔離施設に入っていた故買商アーニーは、そこで会った大金持ちプレストンに立腹し、出所後にドートマンダーを呼び寄せて、ニューヨークのプレストンの留守宅から美術品等を盗み出すよう依頼する。ドートマンダーの常として、泥棒仲間に声をかけて綿密に準備する。その準備の過程で持ち上がるのが、半ば根城としている飲食店〈OJバー&グリル〉の買収問題だ。犯罪組織が若いオーナーを騙して、計画倒産を企てているのである。ドートマンダーたちは空き巣計画をほぼ中断してこの問題に対処する。一方、隔離施設に滞在中のプレストンには、謎の美女が近付いてきており──とこのように、複数のプロットが並行して進む。プレストン邸へ押し入る時に起きる最大のトラブルに向け、全てがドミノ倒しするように設計された小説だ。危険が近付いているのは読者にだけわかるように書かれており、特に後半はハラハラさせられる。登場人物のやり取りとそれを描く地の文も、ユーモアに溢れていて楽しい。ウェストレイクの筆が冴えている。今月のベスト・ミステリはこれだ。
新潮文庫からはもう1冊、W・C・ライアン『真冬の訪問者』(土屋晃訳)を挙げたい。イギリスからの独立戦争中の、1921年のアイルランドが舞台である。イングランド系貴族キルコルガン卿の屋敷前で、警察車両がIRAに襲撃される。警官とイギリス軍人と共に、同乗していた卿の娘モードも射殺されて発見されるが、モードはIRAにとって英雄の1人で、標的になるのは不可思議だった。そもそも第三者視点のプロローグでは、襲撃後に気絶していたモードを何者かがわざわざ射殺しているのが描かれている。物語の主人公トム・ハーキンは、保険損害査定人にしてIRAメンバー、かつモードの元恋人であり、モードの死の真相を追う。イギリス側と現地住民のぎすぎすした関係が背景にあり、高緯度の真冬(おまけに海沿い)の気候も相俟って、物語のトーンは暗い。加えて、トムは第一次世界大戦に従軍しており、塹壕戦に起因するPTSDに悩まされている。しかも幽霊すら幻視(?)する。これまた暗い。しかし主人公に具体的なストレスがかかり続ける話ではなく、基調が静かに暗い感じであり、独立戦争の戦火から舞台は遠く、暗いながらも住民の雰囲気は長閑で、心温まる交流もあり、読んでいて決して不愉快ではない。丁寧な調査行程と同期するように、情景描写も人物描写も丁寧なのだ。ミステリとしての作り込みも、派手さはないが丁寧。いつの間にか読者の気持ちに馴染んでくるタイプの、しみじみした小説である。
ジョン・ブロウンロウ『エージェント17』(武藤陽生訳/ハヤカワ文庫NV)は、主人公がアメリカの諜報組織のトップ殺し屋〈17〉だ。このトップ殺し屋は、その地位を狙う人間に殺されることで代替わりするのが通例だが、先代の〈16〉は逃亡して失踪中である。本作では〈17〉が〈16〉の暗殺を明示される。〈17〉の洒落た饒舌な一人称で楽しく読める上に、次から次へ局面が変わり、ストーリー展開も息つく暇がない。徐々に明らかになる〈16〉のキャラクターも素敵だ。
偶然ながら今月はもう1作、17をタイトルに冠する良作が出た。ドイツのマルク・ラーベ『17の鍵』(酒寄進一訳/創元推理文庫)がそれで、19年前に死亡宣告を受けた妹はまだ生きていると信じている33歳の刑事トム・バビロンが主人公を務めるシリーズの第1作だ。今回は、2017年のベルリンの大聖堂で惨殺死体が発見される。死体に付けられていた鍵には17と書かれており、それはバビロンが幼き日に死体と共に見つけた鍵とそっくりだった。しかもこの鍵を持って彼の妹は失踪したのである。
ただでさえ破天荒なトム・バビロンが、妹と関わりがある事件かと暴走気味になるため、臨床心理士のジータ・ヨハンスが副主人公としてサポートする。東ドイツの闇が濃い影を落とす事件であることがじわじわわかってくるのが読みどころ。事件自体はもちろん解決するが、解かれない謎も残るので、すぐ出る予定の続篇が大変楽しみである。