今月のベスト・ブック

装幀=岡本歌織(next door design)
装画=千海博美

影の王
マアザ・メンギステ 著
粟飯原文子 訳
早川書房
定価 4,070円(税込)

 

 今号より海外ミステリーのベスト・ブックを担当する酒井貞道と申します。前任の故・北上次郎氏の背中はあまりにも遠いですが、ベストを尽くします。どうぞよろしく。

 最初に紹介するS・A・コスビー『頬に哀しみを刻め』(加賀山卓朗訳/ハーパーBOOKS)は、前作『黒き荒野の果て』に続き、連年でアンソニー賞、マカヴィティ賞、バリー賞の三冠を獲得している。

 殺人罪で服役し今は造園業を営むアイクの息子アイザイアは、同性婚の相手デレク共々何者かに惨殺される。デレクの父親バディ・リーは、アイクに、父親2人で犯人を捜し出し、復讐しようと持ちかける。

 アイクは黒人の実業家で元職業的犯罪者、バディ・リーは白人で酒浸りの自堕落な貧乏人である。対照的な2人は、同性愛を理解できず、自分の愛する息子の人生を否定して絶縁し、そのことに今や強い後悔と自責の念を抱いている点でのみ共通する。当初はお互いの人種的偏見により反目する局面もあった彼らは、徐々に馴染んで、それぞれの個性を活かして手がかりを探し、妨害に抗い、真相に迫る。この過程で、彼らは、LGBTQや異人種を含めた、これまで見ようとしていなかった世界と徐々に和解していくのである。

 身も蓋もないことを言えば、アイクとバディ・リーの行動は自己満足に過ぎない。肝心の息子は既に墓の中だ。愛も懺悔も届きはしない。しかし彼らもそんなことは百も承知で、取り返しが付かないことを痛烈に悔やみながら、やむにやまれぬ想いに駆られて復讐を果たさんとするのである。だからこそ、家族、父子、再生、多様性といった複数の主要テーマが哀切に読者の心に響くのだ。しかも、劇的で迅速なストーリー展開と、小粋な会話をも併せ持つ。現代的テーマが厳粛に息づいた、今世紀屈指の犯罪小説といえよう。

 ということで普通に考えれば『頬に哀しみを刻め』が今月のベストのはずだ。問題はマアザ・メンギステ『影の王』(粟飯原文子訳/早川書房)である。1935年に始まったイタリアによるエチオピア侵略を題材とした小説で、これが実に素晴らしいのだ。

 まず文章が凄い。詩的なメタファーや手の込んだ表現が多用され、ストレートな表現はほぼ皆無。「」で括られた台詞も一切出てこない。代わりに、古川日出男の特に初期を想起させる強烈なドライブ感、グルーブ感にあふれる。随所で挟まれる「合唱」と呼ばれるパートでは、前後の状況の情感を、まるでオラトリオ(バッハの受難曲を思い浮かべていただいても良い)の合唱ナンバーのように歌い上げる。神話的・叙事詩的な叙述形式であり、なおかつ、歌や音楽、それも長大な楽曲を、歌詞対訳を読みながら聴き通すような、類例の少ない読書体験をすることができる。

 その文章で描かれる内容も凄い。物語の軸は、エチオピア貴族の召使の少女ヒルト、ヒルトの主人である貴族夫人アステルなど、現地女性も銃を手に戦うことと、皇帝ハイレ・セラシエが亡命した後に平民の楽士ムヌムが偽の皇帝に扮して民衆を鼓舞することである。とはいえ、女性や民衆の抵抗を描いた小説と単純化してはならない。実際には、全体主義国家が前近代的国家を侵略した場合に現地で立ち現われる、あらゆる事象が込められているからだ。たとえば侵攻開始直前の、ヒルトとアステルを描く部分では、封建社会、歪んだ因習、女性同士にも厳然と存在する階級格差などが明確に打ち出される。被侵略側のこれらのマイナス面も一切取りこぼさない。他にも、近代戦の凄惨、人種差別(アフリカ人差別はもちろん、ユダヤ差別も登場する)、ファシズムの狂気、良心の痛み、勇気、民草の矜持、支配層の弱腰、怒り、利己主義、人間の弱さ、人間の強さなどなどが、めまぐるしく交代する多くの視点人物――一人の例外もなく善と悪との両面を併せ持つ――が体験した、大量のエピソードとシークエンスを通して表出される。そして文章は先述通りの凄まじさ。読者としてはただただ翻弄されるのみであった。最高の戦争小説の一つなのは間違いなく、今月のベストはこちらにしたい。

 マウリツィオ・デ・ジョバンニの『寒波』(直良和美訳/創元推理文庫)は、ナポリが舞台のP分署捜査班シリーズ第3作である。同地のピッツォファルコーネ署は過去の不祥事ゆえ廃止の瀬戸際にある。このため署に集められた刑事は全員、訳ありで、警察内でははみ出し者だ。しかし捜査能力は意外や高かった――というのがシリーズ設定の概要である。丁寧な捜査描写はもちろん見所だ。しかし最大の特徴はレギュラー陣の個性にある。マフィアとの癒着を疑われる者、暴力に歯止めが利かない者、同性愛者であることを親にも隠す者、障害がある子との生活に疲れ果てた者、実家が大金持ちの不真面目な者、ナポリで連続殺人が起きているとの自説に固執する者。問題を抱える彼らはしかし、私生活でのターニングポイントをも何度か経験しつつ、刑事として職務を全うするのである。

『寒波』では、同居する若い兄妹が自宅で殺害される事件がメインとなる。捜査が進むにつれて亡き被害者、特に妹の人生と性格とが鮮やかに立ち現われる。捜査対象の人々の人生模様が交錯する一方、レギュラー陣の人生も起伏が激しく、一筋縄では行かない。今回も、モジュラー型の警察小説はかくあるべしというお手本のような、安心安定の逸品だ。