今月のベスト・ブック
『エイレングラフ弁護士の事件簿』
ローレンス・ブロック 著
田村義進 訳
文春文庫
定価 1,210円(税込)
アンソニー・ホロヴィッツ『死はすぐそばに』(山田蘭訳/創元推理文庫)が素晴らしい。ホーソーン&ホロヴィッツ・シリーズの第五弾となる今回は、「助手役が、自分が助手ではなかった時期に名探偵が手掛けていた、過去の事件を語る」形式に挑む。ホームズの昔からあるこの形式に、ホロヴィッツは新機軸を打ち出しているのである。
ホーソーンの小説化の続篇をせっつかれたホロヴィッツは、渋々ホーソーンと相談して、過去の事件の話を書くことにする。ただしホーソーンの意向で、ホロヴィッツは事件の真相を知らないまま書き始める。5年前、テムズ川沿いの高級住宅地で、敷地内のご近所さんから総スカンを食らっていた金融業界のやり手が殺される。物語は、住宅地内の住民トラブルを三人称で活写し始める。
伏線配置は相変わらず上手い。解決シーンで触れられると、すぐにちゃんと思い出せる。しかし読んでいる最中には、伏線だとは気付けない。この絶妙なバランス! そして今回、語り手ホロヴィッツは、関係者の言動や性格で記録されていないものを、想像で補っている。だが事件の結末を一向に説明してくれないホーソーンに業を煮やし、ホロヴィッツは、中盤で、自分で関係者に会いに行く。そこからの話の流れは、謎解きを抜きにしても読み応え満点で、本書の白眉となる。過去の事件にはこういう描き方があったかと膝を打つ思いであり、犯人当て小説の新たな可能性すら見えてきた。本格ミステリ好きなら必読だ。
よってベストは『死はすぐそばに』でも良いのだが、今月は敢えて、ローレンス・ブロックの素敵な短篇集『エイレングラフ弁護士の事件簿』(田村義進訳/文春文庫)だ。特徴は何と言っても主役のエイレングラフである。高級品で身を固め、彼は弁護士として、刑事事件で捕まった依頼人が、裁判が始まりすらしない段階で、必ず無罪放免となることを約束する。報酬は高額だが成功報酬で良い。ただし、仮にエイレングラフが何もやっていないように見えても、無罪放免になったら依頼人は必ず報酬を払わなければならない。
ミステリの世界には、無実の依頼人を助ける正義の弁護士が大量に生息しているが、エイレングラフは全く違う存在である。多くの場合、彼の依頼人は本当に殺人事件の真犯人である。しかしエイレングラフは、自分の依頼人は必ず無罪になるので、自分の依頼人は無実なのだとの論法を押し通す。仮に依頼人が目の前で自白しても、勘違い扱いして聞きやしないのだ。そして、全ての依頼人は確かに、無実の人間として放免されるのだ。エイレングラフがそのために何をやるかは、直接的な描写こそないが、読者は簡単に推測できるように書かれている。そして、報酬を払わなかったり減額したりした依頼人は、必ずや悲惨な目に遭ってしまう。
エイレングラフは、神のような手腕を、手段を選ばず発揮する。悪徳・悪辣・闇が深い程度の言葉では到底足りない。邪悪なトリックスターに導かれた物語は、皮肉な黒い笑いに溢れている。本書はそのエイレングラフの全12短篇を収録した全集であり、1976年から38年という実作期間の経過とともに、手口やプロットが複雑化していく。キャラクターに厚みが増す。これらは巨匠ローレンス・ブロックの熟達の軌跡に他ならないからである。その意味でも素晴らしい短篇集だ。
ガレス・ルービン『ターングラス 鏡映しの殺人』(越前敏弥訳/早川書房)は、反対向き・上下逆さまで印刷して、表裏どちらからも読めるテート・ベーシュという手法で印刷製本されたミステリ長篇である。電子書籍ではわかりづらいので、紙の本で読んでもらいたい。表の物語は、1881年エセックスを舞台に、死につつある司祭の居館で起きる変事の謎を、司祭の親戚の青年が調べる。裏の物語は、1939年が舞台で、大富豪の息子が亡くなり、友人である青年が、その死の謎に挑む。いずれの物語も、ゴシック寄りの独立した謎解きミステリとして、重々しくも華麗に完結する。その一方、2つの物語はなかなか面白い影響関係に立つ。それが何かを確認するだけでも書籍代の元は取れそうだ。
R・J・エロリー『弟、去りし日に』(吉野弘人訳/創元推理文庫)では、10年以上口をきかなかった弟を殺された保安官が、その真相を探る。傍らでは少女の連続殺人も発生し、小規模ながらモジュラー型捜査小説の面も生じる。弟の人生、兄である主人公の後悔と転機、物語の中で新たに生まれた絆を、抑制した筆致で描いているのが素晴らしい。アメリカのカントリー・サイドの雰囲気がよく出ているのも◎。作者は英国人だが、これが描きたいから舞台をアメリカにしたのだろう。
『止まった時計』(夏来健次訳/国書刊行会)は、四半世紀前に日本の翻訳ミステリ・ファンの話題をさらった『赤い右手』の著者であるジョエル・タウンズリー・ロジャーズの、全3巻を予定するコレクションの第1回配本である。かつて美人女優として浮名を流した女性が、襲撃されて死にかけている場面から始まる。彼女がこのような運命に見舞われた経緯を物語は語り始めるが、時系列に加えて、偶然と必然のシャッフルが読者を翻弄する。『赤い右手』に比べて本格ミステリ度が若干低下し、代わりにスリラー度が高いと評価してよいが、そういう分析を撥ねつける勢いで、物語は読者の翻弄と酩酊に向けて驀進する。