今月のベスト・ブック
『象られた闇』
ローラ・パーセル 著
国弘喜美代 訳
早川書房
定価 4,070円(税込)
ネレ・ノイハウス『友情よここで終われ』(酒寄進一訳/創元推理文庫)は、刑事オリヴァー&ピアのシリーズ第10作目だ。今回はオリヴァーの家庭が惨状を呈する。今の妻の連れ子がパーソナリティ障害を強く疑わせる状態になり、これに妻が共依存。オリヴァーの連れ子も苛めを受け始めたので、遂に彼は別居を決意するが……この後の展開は是非実際に読んで確かめてほしい。この家庭事情だけで1本のホラー・ミステリが書けそうな密度である。おまけにオリヴァーの元妻は肝臓癌で入院中だ。オリヴァーは時々捜査を抜けてはこれら私事の問題に対処せざるを得ない。大変ですな。とはいえ今作は捜査される事件の方も面白い。最近出版社をクビにされ、腹いせなのか担当していた著名作家の盗作を暴露した名編集者が失踪する。この失踪の捜査を契機に、名門出版社の闇が芋づる式に明るみに出る。複雑かつドロドロした人間関係が読者の前に徐々に姿を現す様は圧巻。中には、今まで信じていたものを根こそぎ否定されてしまう登場人物も生じ、同情を禁じ得なかった。本書単独でも楽しめる内容なので、ノイハウスをまだ1冊も読んでいない人や、暫くシリーズから離れていた人にもお薦めできる。出版業界を舞台にした話は、小説好きなら親しみやすくも感じられよう。これを機会に読んでみてはいかが?
ただし今月は、『友情よここで終われ』のドロドロっぷりすらまだ甘かったと感じさせる、漆黒の闇が口を開ける作品がある。それが、今月のベスト、ローラ・パーセル『象られた闇』(国弘喜美代訳/早川書房)である。
舞台は19世紀ヴィクトリア朝期のイギリスで、主人公は2人いる。1人目のアグネスは切り絵作家の独身中年女性で、過去にいた婚約者を未だに引きずりつつ、母と甥(亡き妹の息子らしい)と暮らしている。弟のように思っている同年配の男性医師との交流も深い。2人目はアルビノで身体が弱い11歳の少女パールである。インチキ霊媒師である姉に育てられているパールは、自身も霊媒師であり、降霊会ではトランス状態に入ることが多く、姉からは、パールこそが本物の霊媒師であると言われている。
アグネスの客が連続で怪死するのが起きる事件の主軸であり、アグネスは霊媒の手でも借りたいと考え始める。これを契機に、2人の主人公の人生の軌道が交差する。
いかにもヴィクトリアン・ミステリらしく、ゆったり進む物語で、若干もどかしいぐらいだが、そこで作者は主人公2名の来歴と置かれた状況を、稠密に、丹念に描き込んでいく。物語の中で立ち上る彼女たちの人生は、とても実感に満ちたものだ。味わい深いです。霊媒の要素も強く出てくるため、物語が推理小説として落ちるのか、幻想小説の方向に転ぶのか予断を許さないのも良い。
ところがラスト20%で、物語は急転し、凄い追い込みをかけてくる。こういう雰囲気の物語では普通は起きないことが起きて、意外かつ酷薄な真実が明かされる。この時点で既にかなりショッキングなのに、物語は更に追い討ちをかけてくる。ここから先は本当に、もうどう言ったら良いのか……。正直に言おう。闇の深さに、私は震えた。
一応断っておく。本書は、ただ意外なだけで深みのない無意味な驚きを用意するような作品ではない。怒濤の追い込みを開始するその時までは、慌てず騒がずじっくりと小説を紡ぎ、仕込みを済ませたからこそ、最後の20%で我々は「なんとアレが実は」とか「まさかあの人が」などとショックを受けるわけである。本書が読者にもたらす驚きは、作者の丁寧な仕事の結果に他ならない。
今月はもう1冊、重要な作品がある。1937年作のホレス・マッコイ『屍衣にポケットはない』(田口俊樹訳/新潮文庫)だ。無暗な正義漢が敵を作りまくって幾多の苦難に巻き込まれ、それでも止まらず更に敵を作りまくる物語である。主人公は地方紙の記者ドーラン。彼は街の不正義を暴き立てる記事を書きたいが、広告収入を確保したい会社に却下され続けていた。堪忍袋の緒が切れたドーランは退職し、新たな雑誌社を立ち上げて、手持ちのネタを暴露し始めた。
本書の決め手は、一にも二にもドーランのキャラクターである。スラングを使って申し訳ないが彼はいわゆる「正義マン」で、正義は正しいから正しいのだ、としか考えていない。噛みつく相手を選ばない上に、攻撃する問題の種類も雑多で脈略がない。正義を貫くことが自己目的化しており、標的は「大物」に限られないし、身内や友達も一旦目を付けたら激烈に批判するのである。自分が所属するアマチュア劇団が、昔に比べて性質が変化して活動内容や体制が初志からずれてきたことすら、攻撃対象になってしまう。もちろん敵は増える。当意即妙の受け答えを得意とし、口がとにかく回るため、難局を乗り切ることは多いけれど、その場を乗り切れるだけで、中長期的な問題は放置しがちである。そして自分を絶対に曲げない。これではさぞや生きづらかろう。いかにもファム=ファタルめいた重要な女性登場人物の言うことを、結局何も聞いていないのは笑う。こういう人がアクセルを踏むと、最終的には自滅するのは容易に予想できる。もちろん、実際にどうなるかは読んでのお楽しみだ。