今月のベスト・ブック

写真=©Diana Lee Angstadt/Getty Images
装幀=新潮社装幀室

『魂に秩序を』
マット・ラフ 著
浜野アキオ 訳
新潮文庫
定価 1,705円(税込)

 

 新潮文庫史上最長とされる1088ページ、謝辞や解説を除く、小説本体だけでも1055ページ超となるマット・ラフ『魂に秩序を』(浜野アキオ訳)は、作品内で起きることが本当にタイトル通りの総合小説である。主役アンドルーと準主役ペニー(マウス)はいずれも多重人格であり、個々の人格は「魂」と呼び表される。物語はその全体をかけて、この2人の内面に秩序立たせていくのだ。
 と言っても物語開始時点でアンドルーの精神には秩序があるように見える。彼は脳内で、湖の傍に立つ大きな家を構築し、その中で、多数の他人格と意思疎通しつつ一緒に暮らしているのだ。肉体を操作するのは基本的にはアンドルーであり、他の人格と協議し合意の上で、肉体を時々明け渡す。ある人格が身体を操作している間も、他の人格は意識を保っており、脳内の家の「観覧台」と呼ばれる場所に行けば、他の人格が身体をどう動かしているかもリアルタイムで体験できるのだ。ということでアンドルーの生活は落ち着いているが、彼が実は主人格ではなく最近生み出された人格であり、主人格は既に亡くなっていることが示唆される。脳内に家を作りこの体制を作り上げた人格「父」は、既に疲れ果てていて肉体を操作することは滅多にない。多重人格が生まれた大きなトラウマは序盤から匂わされるが詳しくはアンドルーの人格は知らされていない。いかにも何かありそうだ。
 一方、準主役のペニー(マウス)は、フィクションにおける一般的な多重人格者のイメージに近い混乱の中にいる。実母から事実上の虐待を受けていたペニーは、元人格を維持しつつも様々な他人格を創出。他の人格が身体を操作することをペニー本人は全くコントロールできず、その間、ペニーの意識は途切れている。一部の親切な他人格がメモを残していない場合、ペニーは大いに困るし、まともな社会生活を送ることも困難なのである。
 物語は前半、ペニーの精神にアンドルー型の秩序をもたらそうとする話として進む。後半はアンドルーの(他の人格が抱える)秘密が前面に出てくる。ミステリっぽくなるのは600ページを越えた辺りからで、その後400ページもずっとミステリ要素は強いままだ。
 主要登場人物の数は少ないが、主役と準主役の主要人格分だけ実質的な頭数が増加しており、様々な者の思惑や性格、情熱、ドラマが交錯する。この交錯が、人格間×2で行われるのが面白い。アンドルーの脳内の設定が特殊なことも手伝って、他では味わえない読み味の作品になっている。しかも結構読みやすく、感情移入も容易なタイプの作品なので、サクサク読めてしまう。ミステリの他、ジェンダー小説、青春小説、恋愛小説(失恋の切なさではここ10年で読んだ小説の中でピカイチだった)、ロードノヴェルの要素も色濃く、アンドルーの「家」をインナースペースと捉えればSF小説やモダンホラーとも言い得る。読み応え満点、感動的/印象的な場面にも事欠かない。BMはこれにします。

 しかし今月は対抗馬が多い。ピエール・ルメートルの最後のミステリという触れ込みの『邪悪なる大蛇』(橘明美・荷見明子訳/文藝春秋)は、本人曰く既に80年代に書いていた未発表作品で、凄腕の女性殺し屋マティルドが、齢63にして認知症になってしまい、手口が乱暴になり大変なことになってしまう物語である。コメディでは全くない。登場人物を情け容赦ない悲劇惨劇暴虐が襲い、読み進めるほど心の痛みが増す。マティルドに意味不明に殺される人々はもちろん、マティルド自身も、自らの様子がおかしいことを薄々気付いていて、焦り、怒っており、見ていられない。だが加速度的に凄惨の度を増す事態は、ルメートルの他の作品同様に、どこか品の良い悲哀と諦念を湛えていて、「見ていられない」という感想とは裏腹に、さらりと読めてしまう。終盤の展開も、数奇な運命の皮肉を感じさせて味わい深い。ルメートル好きには強く薦めます。

 ベンジャミン・スティーヴンソン『ぼくの家族はみんな誰かを殺してる』(富永和子訳/ハーパーBOOKS)は、オーストラリアのスキー・リゾートを舞台にした事実上のクローズド・サークル・ミステリである。語り手アーニーの兄が3年ぶりに戻って来るのでカニンガム一族は一堂に会す。一族内での軋轢や過去が読者に徐々に明かされていく中、見知らぬ男が最近話題の連続殺人事件と同様の手口で殺される。現地は外部との往来が困難となり、緊張感はじわじわ高まっていく。
 冒頭に掲げられたノックスの十戒は、物語が本格ミステリであることを事実上宣言する。加えて、プロローグでは、1文目でタイトル通りの家族が皆人殺しであることを語り手が保証し、自分を「信頼できる語り手」と称した上で、何ページで人が死ぬかすら明示する。これらの誓約は実際に遵守されており、終盤で強烈なカタルシスをもたらすのである。家族のドラマとしても緊張感と不穏感が良く、意外な展開を迎える個所も1個や2個では済まない。読者として翻弄されてください。

 約60年前の予言に縛られた人物が実際に殺される特異な設定、遺産を賭けた推理合戦、精緻な伏線配置が見事なクリスティン・ペリン『白薔薇殺人事件』(上條ひろみ訳/創元推理文庫)は、現代パートの老人たちが60年前のパートで青春の当事者として登場して、情感を揺さぶって来るのも面白かった。