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「おそらく私は捕まるでしょう」
社長室を訪れた高鍬は、網代を前にしてさばさばとそう言ってみせた。
六月に入ってしばらく経った頃、横浜地検が先の市長選における植草陣営の公職選挙法違反容疑の捜査を進めているという記事がある週刊誌に上がった。
それからはいろんな情報が噂として各メディアを駆けめぐり、そこから〔AJIRO〕が植草の後ろ盾になっていたという話や、〔AJIRO〕から市会・県会議員に金が流れたという話もまことしやかに飛び交い始めた。
高鍬は横浜地検に勤める司法修習同期に探りを入れる一方で、〔Y's〕の論客たちを使って、〔AJIRO〕に関する疑惑は事実無根のデマにすぎず、〔Y's〕をつぶそうとする左翼系の謀略であるとする論陣を張らせた。
そうした〔Y's〕の主張はSNSで拡散され、この問題を語る中ではかなりのボリュームを持った勢力となっている。
しかし、〔Y's〕がそうやって先鋭的な検察バッシングを繰り広げる間も、横浜地検は粛々と捜査を進めていたようだった。
そしてついに、市会議員数人が植草陣営から金を受け取ったことを認めて逮捕される事態にまで発展した。植草市長は、自分はまったく関知していないことであり、何かの間違いだと思っているとの声明を出した。それでも検察の手は緩まず、高鍬に対して任意の事情聴取に応じてほしい旨の連絡が入った。事実上の出頭要請であり、網代から見ても高鍬の逮捕は避けられない状況だと言えた。
「出頭前に、もう一度、論客たちを集めて話をしておきます。検察は議員たちから強引な取り調べでストーリーありきの自供を引き出して、〔AJIRO〕グループをつぶそうとしているという主張を押し出していきます。横浜地検の幹部にはハニトラも始まってます。引っかかれば週刊誌が動く手筈になっているので、それなりの動揺は与えられるでしょう」
高鍬はまだまだ勝負は決まっていないとばかりに、強気な口調でそんな報告をしてみせた。
「検事には何もしゃべらなくていい」
網代の言葉に高鍬は「そのつもりです」と応じてから、「ただ」と続けた。「検察は社長にまで無理やり捜査の手を伸ばそうとするかもしれません」
「証拠もなく俺を挙げられるわけがない」網代は一笑に付してみせる。
「真偽は不明ですが、曾根が捜査協力に応じたという噂があります」
「まさか」網代は信じられなかった。「あいつだってズブズブでやってたんだ。黙ってれば済むことを、わざわざリスクを負って踏みこむとは思えん」
そう言いつつも気になり、網代は携帯に手を伸ばす。
「おそらく出ないと思います」高鍬は言った。「私の電話にも出ません」
高鍬が言う通り、曾根は網代の電話にも出なかった。
「くそっ」
網代は携帯をソファにたたきつけた。
「もし検察が強行突破を図ってくるなら、私のところで食い止めるためにも、捨て石となることをお許しください」
高鍬はそう言って、網代の前に辞表を置いた。
網代は悲壮な覚悟を示してみせた高鍬を見つめる。
「お前がいてくれてよかった」
そう言うと、高鍬は子どものような笑みをその顔に浮かべた。
淡野が消え、薮田が隠れ、八手も警察に捕まった。
網代は裸にされたも同然だが、高鍬の献身はかつての淡野たちの姿勢にも通じるものであり、その点で網代の自尊心はかろうじて保たれていた。
しかし、その高鍬も検察の手にかかろうとしている。
しばらくは大人しくしておくしかないか……裏の世界で誰はばかることなかった数年前を少し懐かしく感じながら、網代は差し当たっての身の処し方を考えた。
高鍬は検察の任意聴取に応じた日、そのまま逮捕された。
そしてその三日後、今度は網代本人に横浜地検特別刑事部から任意聴取の要請がもたらされた。
「検察は何をイキってやがるんだ!」
この三日は加速度的に下落していく株価を尻目に、連日、会社の幹部を集めて取引先への説明対応の打ち合わせに明け暮れていた。その幹部らが居並ぶ中で、検察との電話を終えた網代は悪しざまに文句を吐き捨てた。
「検察が何と……?」秘書室長の松原がおずおずと訊く。
「今度は俺が呼ばれた」
そう言うと、幹部たちの顔から血の気が引いた。
何、だからどうしたというのだ……網代の胸の内にはもはや開き直る思いが湧いていた。
「倉重を呼べ。出頭する俺を撮れ。横浜地検前に〔Y's〕を集めろ」
網代の声に弾かれたようにして、〔ネッテレ〕の制作局長らが社長室を飛び出していった。
網代が出頭する約束の時間前になると、〔ネッテレ〕プロデューサーの倉重が撮影クルーと竹添舞子を引き連れて姿を見せた。
慌ただしく打ち合わせをして、すぐにカメラが回り始める。
「網代社長、本日急遽、横浜地検から出頭の要請があったということですが」竹添舞子がマイクを手に、網代に声をかける。
「任意で私の話を聞きたいということです」
「〔AJIRO〕では市長選にまつわる贈賄疑惑で先日、渉外部長が逮捕されたばかりですが、これに関することでしょうか?」
「当然、そうでしょう。私がそれに関わっていないか、あるいは何かそれについて知っていることはないか、訊きたいのだと思います」
「実際、網代社長はその疑惑に関わっているんですか?」
「まったく関わっていませんし、何も知りません」
「巷では網代社長も関わっていて、逮捕も秒読みではないかという声も上がってますよね」
「何もしていない人間に対してそういう声が上がること自体、恐ろしいことですよ。得体の知れない勢力が我々を攻撃しようとしていることは感じています」
「これは〔AJIRO〕に対する何者かの攻撃だと?」
「私を陥れ、〔AJIRO〕を食い物にしようと考えている者たちがいるということです」網代は言い、不敵に笑ってみせる。「しかし私は負けません。〔AJIRO〕は私の会社であり、横浜にとどまらず、日本の未来のために尽くしていく会社です。誰にも渡しませんよ」
網代は会社を出てリムジンに乗りこんだあとも、カメラマンとともに同乗した竹添舞子相手に自分の主張をひたすらぶちまけた。
横浜地検前には〔Y's〕の論客たちが待ち構えていた。論客たちがSNSで呼びかけたのか、そのフォロワーたちも〔Y's〕のTシャツを着て、数百人が集まってきていた。
網代がリムジンから降り立つと大きな歓声が上がり、彼らはスターを前にしたように、一斉にスマホを向け始めた。
「網代さん、がんばってください!」
「社長、検察なんかに負けないでくださいよ!」
〔ヨコバナ〕や〔ネッテレ〕をきっかけに世に出てきた論客たちは、網代をほとんど生みの親のごとく見ているようだった。普段はほとんど表には姿を出していなかったからか、まるで神を目にしたように顔を上気させている者もいた。彼らはすがりつくように網代の手を握り、目に涙をにじませながら熱く語りかけてきた。
「心配するな。負けるわけがない」
網代は言い、論客たちを一人一人ハグしてやった。
「みんな、ありがとう」
フォロワーたちにも手を振り、エントランスに向かう階段を上がる。竹添舞子もカメラマンもそれ以上は追ってこなかった。
「網代! 網代! 網代!」
自然発生的にコールが上がり、すぐに〔Y's〕の声が一つになった。
網代は一人階段を上がり切ったところで振り返り、こぶしを突き上げて、彼らの声援に応えた。
61
〈本日、淡野の殺人容疑において、網代実光を再逮捕しました〉
長い夏と短い秋が終わったその日、巻島は山手署の帳場にいる本田からそんな報告の電話を受けた。
「そうか……ご苦労さん」
〈取り調べはこれからになりますが、これで主だった容疑については一通り逮捕までこぎ着けたことになります〉
「そうだな」
検察が贈賄容疑で網代を逮捕してから、すでに半年がすぎた。足柄の山野にも木枯らしが吹いている。
検察の贈賄罪での起訴が終わってから、山手署の捜査本部は一連の特殊詐欺事件や裏金恐喝事件、向坂篤志殺しや越村侑平殺しなどで網代の再逮捕を繰り返し、検察とともに起訴へと持ちこんでいった。途中、偽のパスポートを使ってフィリピンに逃れようとした戸部が羽田空港で捕まり、捜査本部はその対応にも追われたようだった。
難しかったのは、〔ミナト堂〕社長親子誘拐事件と淡野悟志殺しについてだったと聞いている。
〔ミナト堂〕社長親子誘拐事件に関しては、網代が取り調べで黙秘を貫いている上、砂山知樹が淡野立案のシノギであって、上からの指示があったとは思えないと供述している。さらには、越村が残したメモからも、淡野が独自に動いていたことをうかがわせる記述があり、網代が関与していたことを立証するのは困難だとして起訴は見送られた。淡野は網代の指示に関係なく勝手に進めていたシノギもままあったようだった。
淡野殺しについては、当の淡野の遺体が見つからないのがネックとなった。
風向きが変わったのは、八手こと尾方利弥を落として逮捕した村瀬がその後、取り調べを担当し、粘り強く相手を続けて、そこでも彼を落としてみせたことだった。
八手は黄金町の空きテナントに潜伏していた淡野をナイフで刺したことを自供した。立ち去るときにはまだ淡野の息はあったが、おそらくこのまま死ぬだろうと思ったという。
その後、戸部も捕まり、彼からも腹部を刺された淡野の姿を見たという供述を得た。
救出に訪れたと見られる菅山渉は頑なに淡野の存在を否定していたが、八手や戸部の供述を突きつけると、もし自分以外に〔リップマン〕がいたとするなら、その〔リップマン〕は死んだと、淡野の消息をほのめかすような言葉を口にし始めた。そして最終的には、淡野の遺言に従って、事切れた彼を鎌倉の海に流したと、泣き崩れながら明かしてみせたのだった。
その供述により、遺体不明ながら殺人罪で網代や八手を立件できる見通しが立った。
もう一つ、淡野にまつわる謎として、淡野の正体は本当に朽木浩司なのかという疑問が残っていたが、これについては捜査の途中で気になる情報が寄せられていた。
十七、八年前、福井の坂井市で前科持ちの漁師が殺された事件があった。事件当時は助手席に血痕がある車だけが見つかり、数カ月後、その漁師と思われる遺体が山中で発見された。事情を知っていると見られる漁師の妻と息子は、事件を境に消息を絶っていた。
その漁師の息子が芦津怜志という名前だった。漁師の妻・芦津令子を知る者は、鎌倉の〔汐彩苑〕に入居していた朽木くみ子の写真を見て、令子に似ていると語ったという。
これらのことが公判資料の中でどう記されるかは分からないが、巻島自身、淡野という男を考える上で小さくない意味を持つ話として受け止めている。
結局、巻島は生身の淡野に会うことはできなかった。一度だけ、電話を通して声を聞いただけだった。
「一度でいいから、淡野に会ってみたかったな」巻島はぽつりと言った。「秋本が羨ましい」
〈捜査官にそう思われるなら、淡野も犯罪者冥利に尽きるでしょうな〉
本田は今でも巻島のことを「捜査官」と呼ぶ。当初は「捜査官……じゃなくて署長」と言い直していたが、いつまで経っても癖が抜け切らず、本人もあきらめたようだった。
また、それが抜け切らないからこそ、今でもこうしてまめに報告を寄越してくれるとも言える。
〈この件が片づけば、いよいよ帳場も閉じることになります〉
「長かったな」巻島はそうねぎらった。「よくやってくれた」
一連の事件の容疑に対して網代の再逮捕が続く中、網代は〔AJIRO〕グループ代表の座の辞任を余儀なくされた。しかし、それでも会社の動揺は収まらず、業績も急速に悪化して、〔AJIRO〕の社名を変更した上、スマホゲーム会社やブロックチェーン開発会社など傘下の子会社を切り売りしてしのいでいる最中である。
また、横浜IRの事業者からも当然のように外されることとなったが、そうでなくても、横浜のIR計画自体が事実上、白紙に戻ってしまった。植草は市長選での贈収賄事件には無関与を主張していたが、網代が数々の凶悪事件に関わっていたことが明らかになると、問責の声に抗い切れなくなり、ほとんど放り出すようにして市長の座を降りた。
一方、カジノ管理委員会の曾根は、ひっそりと健康上の理由で委員を辞任したことが、噂として洩れ伝わってきた。
網代が検察に逮捕されてしばらくは〔Y's〕のデモが騒がしかったようだが、それも今ではすっかり落ち着いたという。ただ、ネットでは今もなお、網代がグレートリセットを企む勢力に嵌められたという陰謀論がしつこく飛び交っている。
そんなふうに各方面への余波を残しながらも、一連の事件の捜査は収束しようとしているのだった。
〈津田長は一足先にそちらにお返しします〉本田は言った。〈長期間、本当にがんばってもらいました〉
津田は捕まった戸部の取り調べを担当していた。帳場勤めの間も休みにはたびたび足柄へと帰り、巻島の官舎を訪ねてもきてくれていたので、それらの話もちらりと聞いている。
「刑事が道を踏み外したというより、もともとそういう輩だったのが刑事の仮面をかぶっていたということですな」
津田は青山とともに帳場の面々を注意深く観察していたのだが、巻島が偽装捜査を仕掛けるまで、戸部が怪しいとはまったく思わなかったそうだ。老刑事の勘をもかわしてみせた戸部の大胆不敵さを、津田自身、苦笑気味にこぼすしかないようだった。
「ただまあ、そんな彼も、身体に流れている血のいくらかは、刑事のものになっていたんでしょう」
戸部は、八手のようには網代との関係性を認めようとしなかった。粘り強く取り調べに当たっていた津田は、そんな彼の網代への忠誠心の高さを読み取り、そちらへの追及を捨てた。代わりに、互いに携わった事件の話をするだけの時間が続いたという。しかしそうすることで、津田は戸部自身も気づかないうちに、彼の懐へと入っていったのだ。最終的に戸部は淡野のアジトに八手を送りこみ、その襲撃の現場にも居合わせたことなどを自供するに至った。
津田らしく、決して簡単ではない仕事を堅実にこなしてくれた。そうして、ようやくお役御免となったわけだ。
「そうか……じゃあ、こちらで慰労会でもするかな」
肩の荷が下りたあとでは、津田の気持ちもやはり違うだろう。一緒に鍋でもつつきながら、長かった帳場勤めのあれこれを改めて語り合いたいと思った。
「本田も一息ついたら、こっちに遊びに来てくれ」
〈ぜひぜひ〉本田は口調に朗らかさを覗かせて言った。〈村瀬を誘ってお邪魔しますよ〉
「うん」
本田との電話を終え、巻島は静かな署長室で物思いにふけった。
自分は途中で離れざるをえなくなったが、本田が抜かりなく指揮を引き継いでくれ、村瀬らもそれぞれ自分の仕事をやり切ってくれた。
気持ちとしては、帳場にいた一人一人に声をかけ、ねぎらいたかった。自分がそうする立場ではなくなっていることが、少しだけ寂しく感じられた。
とはいえ、最後まで捜査に携わっていた捜査員たちも、帳場が閉じれば、またそれぞれ次の仕事に向かわなければならない。県下では新たな難事件が日々発生している。
もう少し、長かった一連の捜査に思いを馳せていたかったが、執務席の電話が鳴ったことで、巻島はそれを打ち切った。
〈本部長の垣内です〉
「お疲れ様です」
曾根の後任である垣内とは、署長会議で顔を合わせたことがあるくらいで、一対一で話すのは初めてだった。
〈特別捜査官時代の巻島さんの働きぶりは、〔ネッテレ〕などの番組を通して拝見していました〉垣内はそんな前置きを口にしてから切り出してきた。〈ついてはお願いしたいことがあります。明日にでも本部のほうに来てもらえたらと思いますが〉
彼の要請に、巻島は短く息を吸いこんでから、「承知しました」と応えた。
(了)