神奈川県警の特別捜査官・巻島史彦まきしまふみひこが取調室のドアを開けると、中で長沼ながぬまの取り調べを受けていた菅山すがやまわたるがぎょっとしたように目を見開き、軽く顔をのけ反らせた。
「お、おう……」
 俺を取り調べるならこの捜査を取り仕切っている巻島自ら出てこいと盛んに啖呵を切っているというが、いざ巻島本人を目の前にすると、早くも気圧された様子である。
「おう」
 巻島もフランクに返し、長沼が空けた椅子に腰かけた。菅山渉と机を挿んで向かい合い、彼をじっと見つめる。菅山は少し気まずそうに視線を外した。
 確かに巻島たちが追っている〔リップマン〕と顔立ちが似ているとは言える。ただ、巻島もすでに〔リップマン〕の顔画像は複数、いろんな角度のものを目にしているので、目の前の菅山が〔リップマン〕でないということも確信を持って言えることだった。何より、〔リップマン〕の各画像や映像から自然と感じ取れる知性のようなものが、この男からは感じ取れない。人物が醸し出す空気というものがまるで違う。
「ようやく会えたな、〔リップマン〕」
 しかし巻島は、自分こそが〔リップマン〕だと言い張っているという彼に合わせ、そんなふうに声をかけた。
「お、おう……俺も嬉しいよ」菅山が平静を装うようにして応える。
「シノギの仲間にはアワノと名乗ってたらしいな。アワノヒトシだかタカシだか」
あわさとだよ」
 巻島は小さくうなずく。その淡野の近くにいた人間であることには違いないようだ。一心同体を誇るような言い方に兄弟かとの可能性も考えられたが、菅山には兄も弟もいない。
「お前の車の後部座席から血痕反応が出てる」
 長沼が何度もぶつけているはずの話だが、菅山は無表情を保てず、つらそうに顔をゆがめた。
 彼の愛車のシートは入念に高圧洗浄がかけられた形跡がある。カーナビも取り外されているので、神奈川県警が〔リップマン〕を包囲して元町から関内あたりにかけて緊急配備を敷いた日、鎌倉からがねちようあたりまで来たはずの彼の車がどんなルートをたどったのか、詳しく解明できていない部分がある。後日、菅山が鎌倉海岸でジェットスキーを借りた記録があり、カーナビは海のどこかに捨てられた可能性があった。
 ただ、菅山は犯行すべてを隠そうとしている態度ではない。任意同行してすぐに、彼は自分こそが〔リップマン〕であり、神奈川県警から裏金五千万を脅し取ったと認めたのだ。
 横浜の洋菓子メーカー〔ミナト堂〕の社長親子を拉致し、解放した社長から身代金の金塊を奪った誘拐事件、神奈川県警の捜査一課長からひそかに保管していた裏金を脅し取った事件、それ以前から頻発していた特殊詐欺の事件を含め、それらを首謀していたと見られるのが〔リップマン〕だ。
 菅山はその〔リップマン〕と近しい関係にあった。そして彼をかばっていると見るのが自然だった。
 つらそうに顔をゆがめていた菅山の目が次第に潤み、やがて涙をぽたぽたとこぼし始めた。うっとえつを堪えるようにして喉を鳴らしている。
「どうして泣く?」
「何でもねえよ」菅山は洟をすすりながら強がるように言う。
 長沼が取り調べを務めている間も、菅山は感情の浮き沈みが激しく、何かの拍子で涙を見せることがたびたびあるという。それも自分が警察に捕まったことを悲観してのことではないようだ。
〔リップマン〕の身に何かあったのではないか……謎の血痕反応が示唆しているそんな可能性がどうしても頭をよぎることになる。
 長沼が菅山にそう鎌をかけても、菅山は「俺が〔リップマン〕だって言ってるだろ」と返すだけだという。しかし、その表情は悲痛であり、時には涙を伴う。
 本物の〔リップマン〕──淡野悟志は消えてしまった。鎌倉の老人養護施設にいた入居者の息子であるくつこうが淡野悟志と同一人物だと思われるが、この朽木浩司自身、何者かというのがよく分かっていない。戸籍をたどって出身地を当たっても、朽木親子を知る者らが語る朽木浩司と〔リップマン〕である朽木浩司は重ならない。まったくの別人が戸籍を使っただけではないか……調べを担当した捜査員が抱いた心証はそういうものだ。
 巻島たちが追っているのは、そんな何者かも分からない男である。大胆な犯行を幾度も企て、巻島ら神奈川県警を翻弄し続けた。巻島は電話を通して一度だけ彼の声を聞いた。複数の防犯カメラの映像や裏金の受け渡し現場の映像を通して、彼の姿かたちも目にした。何より強烈な印象を残した犯行の痕跡は、巻島の脳裏のみならずこの社会から消えるものではない。
 しかし、〔リップマン〕自身は忽然と姿を消してしまった。
 もはや彼はこの世にいないのではないか。
 正直なところ、そんな読みがかなりの蓋然性をもって巻島の中にある。
 一方で、それを認めたくない自分もいる。必死に追っていた相手が意味も分からずいなくなっては困るという感情的な思いでしかないのが我ながら心もとないのだが。
 ただ、〔リップマン〕がどうして命を落とさなければならなかったのかと考えると、釈然としない点が多く残る。警察の手がすぐそこまで迫ったことに悲観して、自ら命を絶ったというのがひとまずの自然な仮説だが、配信番組のやり取りで彼の人間性を探ってきた身からすると、あの大胆不敵で挑戦的な人間が取る行動だろうかと首をひねらざるをえない。たとえ母親の死があってメランコリックな心情に陥っていたとしてもだ。
 ほかの可能性となると、〔リップマン〕の背後にいる者たちがどう動いたかという話になる。
「お前が〔リップマン〕なら答えられるはずだが」巻島は菅山に訊いてみる。「お前の上には誰がいる?」
「オーナーだ」菅山は気持ちを立て直すようにして言う。
「オーナーとは誰だ?」
「言うわけないだろ。カタギの人間だ」
 菅山自身、そのオーナーの正体を知っているのかどうかは判然としない。とりあえず自分が耳にしている話から、カタギの人間という情報だけ口にしてみたという感もなくはない。
「〔ワイズマン〕と呼ばれてる男がそのオーナーか?」
「〔ワイズマン〕?」
 菅山は初めて聞いた言葉のように反応した。
「〔ワイズマン〕も知らないのか?」
〔ワイズマン〕は数年前、横浜近辺をテリトリーとして特殊詐欺や恐喝などで荒稼ぎしていた犯罪グループのボスと目されている男だ。参謀役をキリノという男が務め、それが淡野と同一人物ではないかと見られている。
 仮にキリノが淡野でないにしても、その世界で生きてきた者であれば、〔ワイズマン〕の名前くらいは耳にしていておかしくはない。菅山の反応は、彼が裏の世界に深くは足を突っこんでいないことの表れだとも言えた。
「〔ワイズマン〕くらい知ってるに決まってるだろ」それでも菅山は強がるように言い繕った。
「〔ポリスマン〕は誰なんだ?」
「それも言えねえな」
「仲間を売るのは信条じゃないか?」
「そうだ」
「しかし、〔リップマン〕はその〔ポリスマン〕や〔ワイズマン〕に見切られ、裏切られたんじゃないのか?」
 菅山の表情が一瞬にして凍り、目もとだけがぴくぴくと痙攣するように動いた。
 もちろん、警察に追われ、逃走する中で何かしらの事故に遭ったという可能性はあるだろう。
 そしてもう一方の可能性として、警察に捕まるのは時間の問題となったことで、〔リップマン〕は〔ワイズマン〕に見限られ、口封じのために何らかの実力行使がなされたということが考えられる。
 希望的な観測で言えば、どちらの場合もそれは致命的な負傷ではなく、〔リップマン〕は今どこかで治療を受け、ひそかに療養に努めているのだと思いたい。負傷から逃走の過程で彼は一時的にしろ、菅山の車にその身を置いていた。もし死んでいれば、遺体はどこに行ったのかという問題が残る。遺体が見つかっていない以上、ありえない話ではないということになる。
「足を洗うはずだったんだ……」菅山が無念そうにぽつりと言う。
 実感がこもっている。
〔リップマン〕を気取って言っているのではなく、〔リップマン〕を身近に見ていた者として彼の境遇を嘆いている言葉だと巻島は受け取った。

 菅山はつい堪え切れずという様子で本音のようなものを吐くことはあるものの、概して自分が〔リップマン〕だという設定を守ろうとする意志は固かった。ただ、その設定を守るにしては知らないことが多く、例えば水岡みずおか社長親子誘拐事件において共犯関係にあった砂山すなやま兄弟のことを尋ねても、きょとんとしているだけだ。
 その一方で、相模湖で遺体として見つかった寺尾なる男とトラブルがあったことはあっさり吐いた。
「いや、本当に帰ったら消えてたんですよ!」
 故意ではなく、アパートに襲撃してきたてらと揉み合った拍子に彼が倒れてしまい、怖くなって数日留守にしているうちに姿が消えていたという。
 車内の血痕は寺尾のものではないかという見方も捜査本部内で上がったが、寺尾の死因は出血性のものではない上、菅山が車で相模湖まで行った形跡もない。
 菅山の話は核心の部分がぽっかりと抜けているので稚拙な弁解の域を出ないものだが、目下のところは寺尾の事件を取っかかりにして少しでも〔リップマン〕に迫る手がかりを引き出すよりなく、あとは地道な取り調べを長沼に任せることにした。

「どうでした?」
 山手署内の会議室に設置された捜査本部に戻ると、刑事特別捜査隊隊長のほん明広あきひろと県警本部刑事総務課長の山口やまぐち真帆まほが指令席で待ち構えていた。
 元来、この手の捜査本部は捜査一課が主体となるべきものだが、巻島が捜査指揮を担っている関係上、刑事特別捜査隊が陣営の中核を占めるというイレギュラーな布陣になっている。
 捜査一課も長沼ら特殊犯捜査中隊の一部が捜査に加わっているものの、彼らの上司である秋本貴幸あきもとたかゆきは裏金問題の責任を取って依願退職し、この捜査本部の指令席から外れてしまった。
 裏金問題は秋本だけでなく、捜査一課の若宮わかみや課長ら幹部連中数人の身にも降りかかり、捜査一課の指揮系統はほとんど機能不全に陥っていると聞く。ここの捜査本部においても秋本の離脱は痛いが、捜査一課が主体でない分、混乱のあおりは最小限に食い止められているとも言える。
「〔リップマン〕はもしかしたら、もうこの世にいないのかもしれない」巻島は口調に苦みを忍ばせて言う。
「でも、遺体はどうしたんでしょう?」山口真帆が不思議そうに言う。「海に遺棄したとしても、コンクリート詰めでもなければ、どこかに流れ着いてもおかしくなさそうですけどね」
「確かにそのへんの疑問はあります」巻島はうなずいて言う。「だから絶対的な心証ではありません」
「この世にいないとなれば、我々も何を追えばいいのか分からなくなりますからな」本田も希望的観測で現状を捉えたいと考えているようだった。
「ただ、いない者を追ってても仕方ありませんし、それをどう判断するかで今後の捜査方針も変わってきますよね」
 山口真帆が思案顔で言うのに、巻島はとりあえずのところ「そうですね」と応じるにとどめておいた。
「先ほど岩本いわもと部長から連絡があって」彼女は少し言いにくそうに話を変えた。「本部長が顔を出せと」
「そうですか」
〔リップマン〕を取り逃がした今、顔を出せば叱声を浴びるのは必至だが、呼ばれているなら行かないわけにはいかない。
 そう思いながらも同じく腰が重そうな山口真帆と沈黙を作っていると、捜査本部に加わっている足柄署の巡査部長・津田つだ良仁よしひとが近づいてきた。
「巻島さん、少しよろしいですか?」
 何か話がありそうな様子に山口真帆を見ると、彼女は「どうぞ、どうぞ」と苦笑いで巻島を促した。「私も早く行きたくてしょうがないわけじゃないですから」
 巻島が席を立つのに合わせて、会議室の入口近くで一人座っていた特捜隊の青山あおやましようへいもおもむろに立ち上がり、先回りするように会議室を出ていった。
〔リップマン〕と通じている警察内部のスパイ〔ポリスマン〕を特定するため、巻島は挙動に不審な点が見られた青山に津田を付けた。
 そして先日、青山は自らそれについての弁明をした。
 彼自身が今は県警本部の監察官室長を務めている魚住うおずみかずに協力する形で〔ポリスマン〕の正体を探っていたということだった。
 その青山はエレベーターホールで巻島を待っていた。
「魚住さんが来てます」
 青山はほとんどささやくようにそう言い、巻島は視線の交差だけでそれに反応した。
 問題が〔ポリスマン〕に関することだという事情もあるが、警察官の懲戒事項に目を光らせる監察官の姿が見え隠れするだけで、捜査員たちに不要な緊張を呼びこむおそれがある。その意味でも魚住との接触は人目を避けて行われるべきだった。
 山手署の外に出ると、青山は建物裏手の駐車場に足を向け、奥に停まっている黒塗りのセダンを視線で指した。
 青山と津田はそこで立ち止まった。巻島は歩を進める。スモークガラスで中の様子がうかがえないセダンの後部ドアに手をかけ、おもむろに開けた。
 中の後部座席には、巻島と同年配の短髪の男が座っていた。
 男は巻島が隣に座ってドアを閉めるのを待ってから口を開いた。「監察官の魚住です」
「巻島です」巻島は短く返した。
 魚住はマル暴としてのキャリアが長かったせいか眼光が鋭かった。巻島を見る目にも緩みはない。
「彼はとうです」魚住は運転席に静かに座る若手捜査員に目を向けて言った。「青山との連絡係をやってもらってます」
 今回の事情にも通じている部下ということだ。
「我々の動きについては青山が話したことがすべてです」魚住は言った。「捜査官に断わりを入れていなかったことについては、率直にお詫びします」
 もともと県警本部のマル暴だった魚住は横浜の有力暴力団である〔財慶会ざいけいかい〕を担当し、組織の弱体化に成功していた。その反作用のようにして裏の世界で暗躍を始めていた謎のグループの情報を拾った彼は、港北署の次長に収まってから、刑事課にいた青山らを使ってそのグループを追うことにした。
 そのグループはキリノと呼ばれる参謀が犯行を主導しており、〔ポリスマン〕と呼ばれる警察の内通者もいたという。
 そして、グループのトップに君臨していたのが……。
「〔ワイズマン〕と呼ばれる男がいたとか」
 巻島が水を向けると、魚住は小さくうなずいた。
「その名は複数人から確認しています。ただ、その正体を知るのは、〔財慶会〕でもごく一部の人間に限られるようです」
「カタギの人間ですか?」
「一度でもどこかの盃を受けた人間ならば、そんな正体不明の扱いは受けないでしょう。やくざとの関わりはかなり薄い人間だと見ています」
「そのグループのキリノという男が、うちで追っている〔リップマン〕ではないかと?」
「それについては逆に、捜査官の意見をお聞きしたい」
「アワノは漢字では濃淡の淡に野原の野という字を使っていたらしい。キリノが霧雨の霧、霧野だとすると、渡世名として何となくつながりが感じられます。加えて、〔ポリスマン〕が存在するとなれば、やはり同一グループ、同一人物と見ていいかと」
「私もそう思います」魚住は言った。「当初は耳にした噂から、〔ポリスマン〕が本部の刑事部門にいるのではないかと踏んで、青山に情報を拾ってもらっていました。そのうち、おたくの帳場で追っている〔リップマン〕が〔ポリスマン〕の存在をほのめかしたことで、私の中ですべてがつながりました。おそらく、〔ポリスマン〕はここの帳場の中にいるのではないかというのが私の心証です」
 その心証を固めるまでには、青山から捜査本部の様子を含めた内部情報をつぶさに得ているのだろうが、それには目をつぶることにした。巻島としても、魚住とは共闘したほうがいいと考えている。
「〔ポリスマン〕は必ず炙り出さなければなりません。というか、それをしないと、現状を打開できないと思っています」巻島は言った。
「〔リップマン〕は捕まりませんか?」
「ここだけの話、何らかの事情で命を落としている可能性があります」巻島は菅山の車に残っていた血痕反応と菅山の様子について短く語った。「もちろん、どこかに身を潜めて怪我を治しているということも考えられますが」
「難しいですね」魚住も現状の見通しを悲観的に見たようだった。「〔ワイズマン〕のグループは特殊詐欺や恐喝を専門にしていますが、武闘派も配下に飼っていると聞いています。いや、武闘派などという生易しいもんじゃない、人を葬って死体の処分までこなすような人間です。四年ほど前、ある男が突然姿を消しました。そいつは〔財慶会〕にも顔が知られてたんですが、〔財慶会〕が動いた形跡はなかった。シノギは仲間とつるんで、半グレ連中の上がりをたたいてたようです。それで、どうやら〔ワイズマン〕のグループの上がりをたたいて、逆に消されたようだっていう噂が流れました」
「グループ内でも密告に動いた掛け子が殺されて、丹沢で見つかってます。『RIP』の文字が残されてましたが、もしかしたら、実際に手を下した人間は別にいるのかもしれない。水岡社長や砂山兄弟から聞く淡野の冷静沈着な人間像とその暴力性に乖離がある気はしていました」
 魚住はたやすく納得できたようにうなずいてみせた。
「〔ワイズマン〕自体は、邪魔になる相手を容赦なく力ずくで排除していく冷酷性があると思っています。そう考えると、〔リップマン〕も包囲網を敷かれて万事休した中で、〔ワイズマン〕が彼を見限って切り捨てに動いたということは十分考えられます」
 振り込め詐欺に関わっていた社本しやもとや砂山兄弟らは淡野の上にいるオーナーのことをほとんど何も知らない様子である。しかし、淡野自身はオーナー──〔ワイズマン〕のことを何も知らないわけはないだろう。〔ワイズマン〕と近すぎたことが仇になったという見方はできるかもしれない。
「ただ、あくまで憶測でしかありません」巻島は言った。「心情としては〔リップマン〕には生きていてほしいと思っています」
 その可能性は十に一つか二つのものかもしれないが、思いは魚住と共有しておきたかった。
「配信番組での呼びかけは、また再開してもいいんじゃないでしょうか」
 魚住はそう言い、意味深な視線を送ってきた。たとえ〔リップマン〕から反応がなくとも、意味がなくはないとその目が言っている。
「〔ワイズマン〕にたどり着くため、ということですか」
 巻島の言葉に、魚住は視線で語る必要はなくなったということなのか、軽く目を伏せ、こくりと首を動かした。



 神奈川県警本部九階の本部長室にそろった三人の間抜け面を、本部長の曾根そね要介ようすけは腹立たしくにらみつけた。
「本当にそいつは〔リップマン〕じゃないのか?」
「残念ながら」巻島が淡々と答える。
「本人が〔リップマン〕だと名乗ってるんだろ?」
「近くにいた人間ではあるようですが、兄弟ですらありません」
「岩本、お前、〔リップマン〕が捕まったと報告してきたよな?」
 そう言って曾根が刑事部長の岩本りようを詰めるように見ると、官僚然とした男は顔をゆがませた。
「私はその、山口さんからそう報告を受けたので……」
 山口真帆はえっというように目を丸くしている。
「私は菅山が、自身を〔リップマン〕だと言っているとの事実をお伝えしただけですけど」
「それはしかし、この状況下では、誰もが〔リップマン〕が捕まったと受け取るでしょう」
「いやいやいや」
「お前らの誰が一番間抜けかなんて話はどうでもいい!」
 曾根はそう一喝し、二人の首をすくませた。
「大事なのは、裏金問題で全国民に頭を下げ、キャリアに傷をつけた俺がとりあえずの面目を保つには、〔リップマン〕を捕まえるしかなかったってことだ。そしてお前らはそれを無様に失敗した」
「本当に……何とお詫びすればいいか」岩本は土下座しかけて何とか踏みとどまったかのように腰を折り、悲痛な声を上げてみせた。「現場が無能なばかりに、本部長には心労をおかけし続けるばかりで、まったくざんに堪えません。私も責任を痛感しております」
 くさい芝居じみた懺悔を前にして、曾根は鼻白み、やるせない思いを吐息に変えた。
「それで……〔リップマン〕はどこへ行ったんだ? 誰かに消されたのか?」
 捕まえた共犯者の車から血痕反応が出たことは聞いている。〔リップマン〕が消され、行方も分からないとするなら、今後の捜査を期待するのも馬鹿馬鹿しい。今すぐ帳場を畳むべきだとさえ思った。
「そうと決めつけられる状況ではありません」
 巻島は自分の見通しに自信を覗かせるようにして言った。意外な返事だったのか、山口真帆がおっという顔つきで巻島を見ている。
「逃走の過程で負傷した可能性は高いと思いますが、どこかに潜伏して治療していると見るのが自然だと思います」
「なら、潜伏場所は捕まえた男が知っているはずだ。吐かせればいいだろう」
「それが簡単な話でもありません。〔リップマン〕は〔ワイズマン〕と呼ばれる人物が率いるグループに属していると見ています」
「〔ワイズマン〕……?」
 先輩官僚である警察庁官房長のふくただが神奈川県警の本部長を務めていたとき、その名を聞いたと語っていたことを思い出した。
「〔リップマン〕は我々に包囲され、〔ワイズマン〕に助けを求めたものの、見切られてしまい、口封じに消されかけた。そこを菅山が救出してどこかに匿ったというのが私の読みです。菅山はもちろん潜伏場所を知っているでしょう。ですが、〔ワイズマン〕の配下には〔ポリスマン〕がいます。捜査本部内にいる可能性が高く、誰かという特定には至っていません。菅山は自分が〔リップマン〕の潜伏場所を吐いた場合、〔ポリスマン〕を通してその情報が洩れ、〔リップマン〕の身が今度こそ危うくなるということを懸念しているはずです。だからこそ菅山の口は堅く、容易には割れないものと思われます」
 曾根は思わず舌打ちをした。
「腹立たしい話ばかりだな。〔ポリスマン〕はいつになったら特定できるんだ?」
「これは非常にセンシティブな問題ですので、今の段階で見通しをお伝えできるものではありません。特定する手段とタイミングを十分検討する必要があります」
「お手上げと言ってるようなもんだ!」曾根は吐き捨てるように言った。
「とりあえずは仕切り直しをしたいと思います」曾根の反応に構わず、巻島が言う。「時機を見て、〔ネッテレ〕での〔リップマン〕への呼びかけを再開したいと思っています」
「はっ!」曾根は呆れて笑い飛ばすしかなかった。「『お前は包囲された。今夜は震えて眠れ』と大見得を切っておきながら、また何事もなかったように『〔リップマン〕、出てこい』と呼びかけるのか。恥を知らない人間は無敵だな」
 普段は何を言っても応えないような顔をしている巻島だが、曾根の嫌味が多少なりとも耳に刺さったのか、わずかに苦そうな顔を見せた。
「捕まえるためには、やるしかありません」
 口の上では強がるようにして彼は言った。

「惨憺たる有様だな」
 霞が関にある警察庁の官房長室に出向くと、福間のしかめっ面が待っていた。
「一言もございません」
 そう応じた曾根を、応接ソファの向かいに座る福間は嘆かわしそうに見ている。
「まったく君は……昔から殊勝な言葉を吐いても、顔は平然としている」
 そう言われるような表情を作っているつもりはない。窮地でも平然として見えると言えば、すぐに思い出すのは巻島の顔であり、自分はあの男とは似ているとも思わない。
「この前の裏金問題の記者会見も、本当に反省してるようには見えなかったと、私の周りでもずいぶん不評だぞ」
「不徳の致すところでございます」
 曾根はなるべく大げさにうなだれてみせた。
「中の処分は?」
「捜査一課長は入院してしまいましたが、退職の意思を示しています。ほか三人の捜査幹部が関わっており、徹底調査の上、処分を下しますが、一人はやはりすでに退職の意向を伝えてきています」
 これまでは裏金問題など、会計責任者の譴責あたりで収まっていた話だが、今回は捜査一課長以下の捜査幹部が事態の隠蔽を図り、あろうことか脅してきた〔リップマン〕にその裏金を渡してしまうという失態が明らかになっている。神奈川県警の威信を地に落とすような前代未聞の事件であり、厳しい処分は免れようがない。関係した四人は詰め腹を切るほかないだろうし、県警にしがみついたとしても居場所などないだろう。
「まあ、君のことだからそのへんはきっちりやるだろう」福間は言う。「だが、今回ばかりはそれで収まる話じゃないぞ。こっちのほうでも誰か見せしめとして灸を据えるべきじゃないかって声が上がってる」
 こういう非公式な場での小言はいくらでも聞くが、正式な懲戒はたとえ譴責などの軽い処分であったとしてもキャリア官僚にとっては拭えない汚点となる。曾根は思わず顔をしかめた。
「しかし、問題となった“手持ち”と呼ばれる裏金は、それこそ官房長が神奈川にいたときからあったもの。それがたまたま今回、表沙汰になっただけで……」
「馬鹿野郎!」福間はむっとして声を荒らげた。「俺は何とか君を守ろうとしてるのに、その俺に責任をかぶせる気か?」
「いえ、そういうわけでは……」曾根は口をつぐみ、目を伏せることで詫びた。
「いつからという問題じゃない。血税が不正にプールされていただけならまだしも、それを犯罪者にむざむざと奪われたことにみんな呆れているんだ」
「おっしゃる通りです」
「とはいえ、俺も懲戒は避けたいと思っている」福間は少し声を落ち着かせて言う。「となると、秋の定期異動を待たずしての人事がとりあえずの引責ということになる。君か刑事部長の岩本くんか、どちらかがいったんポストを外れるというのが落としどころだろう」
 福間は選択権を預け、言質を取るように曾根を見つめた。
「岩本は自責の念に駆られています。担当部署の不正で私に迷惑をかけたと土下座してきたほどです」
「ほう、土下座を」
「私だけが引責で異動となるのは、彼としては精神的にも耐えられないでしょう。まだ自分が引責したほうがましだと考えるに違いありません」
 福間は曾根をじっと見たまま、ふっと薄く笑った。
「岩本は能力的にはどうなんだ? 将来性のある男か?」
「彼はいい意味で凡百の官僚です」
「そうか」短い一言で岩本の処遇は決まったようだった。「君は徳永とくなが先生にも顔を見せている。印象も悪くないようだし、今回の件でも気にかけている話があった」
「恐れ入ります」曾根は恐縮してみせた。
 地元選出の国土交通大臣・徳永かずは今秋にも予定されている民和党総裁選への立候補も噂されている。総裁選に勝てば、次期総理大臣となる。その大物の覚えがめでたいというのは心強い話だった。
「カジノ委員会への道筋も、俺が各所に根回ししてようやくつけたものだ。簡単に下りてもらっては困る」
「望外の役目と心得ております」
 徳永大臣の肝いりで国のIR計画が進んでいる。カジノを含む複合型リゾートの推進計画である。国政時代に徳永の子分格だったもんあつが横浜市長選で再選を果たし、横浜市がIR計画の立候補地として名乗りを上げることが確実となった。
 そのIR計画を監督する組織として、カジノ管理委員会なるものが作られることが決まっている。警察庁はIR計画に一枚噛みたい構えであり、委員会にも人材を送るべく動いている。その筆頭候補こそが曾根というわけだった。そろそろ官僚としての出世競争を下り、警察組織を離れたどこかへ身を振る頃合いを迎えていたのだ。
「ただ、何があっても安泰というわけじゃない」福間は釘を刺すように言った。「実際、大阪の本部長をやってるふじを推す声もある。大阪も立候補の方向で動いてるから声は大きい。足をすくわれたって文句は言えんぞ」
 藤野は一期上の先輩官僚だが、能力的に自分より優っているとは思わない。出し抜かれるわけにはいかなかった。
「気持ちを引き締め直します」
 曾根が神妙に言うと、福間は小さくうなずいた。
「大臣が秋の総裁選で勝てば、いろいろと事態も定まってくるだろう。それまでに失点はなるべく返しておくことだ」
「挽回に務めます」
〔リップマン〕を捕まえる見込みはまったくないが、口先だけでもそう言っておくしかなかった。

(つづく)