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 あっという間に季節は春から初夏へと移り、気づくと梅本は日常と言えるものを取り戻していた。

 デリバリーのバイトで学費と生活費を賄い、新学期からはゼミにも復帰した。それだけでなく、大型連休中の土曜日に開かれた理論経済学の学会では研究の一部を発表することもできた。

 きっかけは巻島の番組だった。梅本は公安取引委員会が使う課徴金減免制度を研究テーマの一つにしていたのだが、巻島とのやり取りを機に、日本や欧米における司法取引の実情に興味が向かった。本来、課徴金減免制度の構造を掘り下げる上で押さえておきたいものではあったが、興味が深まったことでそれができた。一通りの考察が出島教授にも認められ、学会での発表が決まった。発表後は教授から、「開き直ったのか何なのか、一皮むけた感があるな」との感想をもらった。褒め言葉には違いないらしい。

 そんなふうに、梅本の大学院生活は再起動したように回り始めていたが、とはいえ、本当の意味で何もない日常が戻ってきたわけでもなかった。魚の小骨のような違和感が生活のそこかしこに刺さっている感覚があった。

 通学しているときなど、誰かに車で尾行されている気配にも気づいていた。気のせいではない。車種も分かる。最初はいちいち裏道に入って振り切っていたが、毎日続くので途中から気にするのをやめた。

 おそらく警察だろう。いつ捕まるのか、いつ任意同行で引っ張られるのかと半ば覚悟を決めているのだが、なかなかそのときはやってこない。

 一方で、自分は捕まらないのだろうという自信めいた見通しも半分ある。

 理由はただ一つ、巻島が口にした約束だ。

 犯罪グループの一員に向けた陽動文句であり、あんなものは約束でも何でもないと言われればそれまでだ。あるいは〔kossy〕と梅本を同一人物とは見ていないなどという理屈を繰り出してきてもおかしくはない。

 しかし、あの男なら律義に約束を守るかもしれないという思いも、意外と強く持っている。画面を通して一対一で向き合ったときの感覚が根拠である。番組は終わってしまったが、その感覚は梅本の中で生きている。

 同じ院生である畑村萌絵は、梅本との関わり合いを避けるような態度を見せていたが、ある日ふと、大学院棟の廊下で出くわしたところで話しかけてきた。

「梅本くん、最近何かなかった?」

 何の話か分からず、梅本が戸惑っていると、彼女は言葉を続けた。

「ちょっと前に警察が学校の前うろちょろしてて、梅本くんのこと捜してたんだけど」

「いや……知らない」梅本は平静を装って言った。「交通違反のことかな」

「ふーん」

 萌絵はそれで納得したのかどうか分からなかったが、ほかに梅本との話題もないようで、話はそれで終わり、あっさりと別れた。

 警察が梅本をマークしていることははっきりした。泳がせているということなのか、捕まえるつもりがないのかはまだ分からない。

 ただ、捕まらなければ、すべて丸く収まるわけでもない。

 巻島の番組において、梅本は意を決して〔ワイズマン〕の正体を暴露してみせた。直後、不自然に映像が途切れ、そのまま番組は終わってしまったが、SNSでは〔ワイズマン〕=網代実光説が取り沙汰されるようになったので、おそらく巻島にも伝わったはずだった。番組の最終回となる配信では、巻島は網代を念頭に置いたような〔ワイズマン〕へのメッセージを語ってみせた。少なくとも、梅本にはそう受け取れた。

 しかし、その後、神奈川県警が網代の逮捕に向けて動き出したというような報道はない。

 代わりに、巻島が捜査本部の指揮を外れ、どこかの署長に異動したというニュースをネットで目にした。署長とはいえ田舎署であり、事実上は〔ネッテレ〕の番組に混乱を招いたことの引責人事であるとの論調であった。

 何か、梅本の見えないところでパワーゲームが行われている感はある。そして、巻島がいなくなってしまえば、網代への捜査もいよいよ手つかずとなってしまうのではという気がした。

 番組での暴露は、梅本なりに勇気を奮って行ったことだっただけに、言いようのない空しさが残った。これでは越村も浮かばれない。

 もっと何かできないかとも思った。梅本は越村が八手に襲撃されたときの音源を持っている。それを捜査本部に持ちこむべきではと考えた。

 しかし、情報的には〔kossy〕のアバターからコメントしたことがほとんどだ。そして警察からすれば、せっかく目をつぶってやっているのに梅本のほうから飛びこんでくるなら、さすがに捕まえざるをえないのではないか。それでいて捜査は進まないとなると目も当てられない。

 だから現状は、梅本にとってももどかしいものだった。やれることはやったのだとあきらめるしかないようにも思われた。

 だが、ふと思い出したことがあった。

 越村が殺された葉山の別荘で出会った〔槐屋〕。

 越村からタブレットを渡されたと言い、そのパスワードを知りたがっていた。

 おそらくそこには越村が過去に受けたシノギの備忘録があり、網代のことなども記されているのではないか。

 越村の友人だった槐であれば、仇を取ってやると、立ち上がってくれるのではないか。

 そう思い立って、梅本は槐から教えられていた番号に電話してみた。

 見知らぬ番号からかかってきて怪訝そうに電話に出た槐だったが、梅本が名乗ると〈おぉ兼松くん〉と懐かしそうに声を上げた。

「ご無沙汰してます」梅本は簡単に挨拶してから続けた。「前に、越村さんのタブレットを預かってて、パスワードが分からないとおっしゃってましたが」

〈うん、そうだ〉

「たぶん分かります」梅本は言う。「mtmc1991で試してみてください」

〈ちょっと待ってくれ〉老人は言い、がさごそと物音を立てた。〈mtmc……と〉

「1991です」

 しばらくしてから、〈開かねえな〉という声が聞こえた。

「じゃあ、ただのmtmcか1991かも。それかmtmckg」

 いや、kossyかもしれないなどと考えていると、〈ややこしいな。あんたのとこに持ってくから開けてくれねえか〉という言葉が返ってきた。別に難しいことではないのだが、何度も間違えるとデータが消えるなどの設定になっている可能性もある。若者に任せたほうがいいと考えたようだ。

「大学に来れますか?」

 学内で刑事の影を感じたことはない。尾行するにもさすがに学内までは躊躇するのだろう。

〈分かった〉槐は応じた。

 

 その日、授業終わりの十五時すぎになると、梅本は大学院棟を出て、裏門近くの駐輪場に向かった。

 自転車通学する学生はそれほど多くなく、裏門近くは最寄り駅から遠いこともあって、いつもひっそりしている。駐輪場の隣に植えこみで囲まれた裏庭のような一角があり、そこに置かれているベンチに槐老人が座っていた。

 この日は早くも夏日を迎えたかと思うような陽気に包まれた一日となっていた。Gジャンを羽織っていた梅本は、大学院棟からここまで歩いてくる間にたちまち汗ばむのを感じるほどだった。

「待ってたよ」

 槐は梅本に声をかけ、早速手もとの巾着からタブレットを取り出した。

「mtmc1991では駄目でしたか?」

「いや、分かんねえ。やってみてくれ」

 タブレットを借り、キーボード画面にmtmc1991と打ちこんでエンターキーを押す。するとあっけなくロックが解除された。

「開きました」

「ほう」

 梅本はタブレットを老人に返そうとしたが、老人はすぐには手を出さなかった。

「兼松くん」代わりに彼は梅本を呼んだ。「〔ネッテレ〕であった〔kossy〕の暴露はあんたの仕業か?」

 梅本は無言で彼を見た。

「いや、責めてるわけじゃない」彼は言う。「むしろ逆だ」

 確かに責めるような目ではなかった。

「僕です」

「あんた、勇気があるな」彼は言った。「越村も溜飲を下げただろ」

「いえ、あの程度のことでは」何も変わらなかったと、梅本は首を振った。

「それは俺が持っててもしょうがない」槐は梅本が手にしているタブレットを目で指して言った。「おそらく、〔ワイズマン〕のことや越村が請け負った〔ワイズマン〕のシノギのことが書いてある。見なくても、俺も知ってることだ。だが、俺がそれを外に出すことはできない。越村の仇を取ってやりたい気持ちはあるし、〔ワイズマン〕がどうなろうが知ったこっちゃないが、うちにはほかの取引相手もいる。〔槐屋〕が取引相手の秘密を警察に売ったとなったら、もう裏の世界では生きていけない。〔ワイズマン〕の敵だろうと味方だろうと、うちを見限るしかなくなる。俺はもう老いぼれだからどうでもいいが、息子や孫がいるからな。だから、それは兼松くんに渡しておくよ」

 思いがけず最後の切り札を託された形となり、梅本は戸惑った。

「どう使おうがあんたの自由だ」老人は穏やかな口調で言った。「あんたなら誰かに悪いなんて考えなくていい。うちのことも出てるかもしれないが、おそらくS屋とかそんな感じで書いてあるだけだろう。うちは倉庫も転々としてるし、昔のネタを警察に知られて困ることもない。もちろん、気が進まなきゃ、適当に捨てちまってもいい。あんたは十分戦った。越村も怒らねえだろうよ」

 この老人は、すでにタブレットの中身を見たのだと思った。

 何らかの手でパスワードを解除し、〔ワイズマン〕に関するメモがそこに入っていることを確認したのだろう。自分が扱える代物ではないと思っていたところに梅本から連絡が来た。あるいはそのときに初めてタブレットの中を見たのかもしれないが、とにかくそれで梅本に託そうと決めたのだ。

「分かりました」槐に暴露する気がない以上、話を受け入れるしかない。「僕が預かります」

「それが一番だ」

 老人はくしゃりとした笑みをその顔に浮かべてみせた。そして話は終わったとばかりにベンチからのそりと立ち上がった。

「この先、もう会うことはないだろうが、達者でやってくれ」

 これを最後に関係を切るという意味でもあると受け取った。

「これは越村さん本人から預かったことにします」梅本はタブレットをぽんとたたいて言った。「槐さんもお元気で」

 梅本は槐と別れて大学院棟へと戻る。タブレットは受け取ったものの、それをどうするかは何も考えていなかった。

 匿名で警察に送りつけても、せっかくの証拠が死んでしまいかねない。出所不明の情報では、捜査の根拠とするのに限界があるのだ。番組での暴露が網代への捜査につながらないのも、おそらくはその理屈によるのだろう。

 本当にこのタブレットを生かそうとするなら、やはり梅本自身が警察に接触するしかないのではないか。

 しかし、それをすれば、せっかく戻りかけているこの日常がどうなってしまうか分からない。

 それでもできるのか……?

 とりあえず、中身を確認してみないことには何も始まらない……梅本は結論にそんなふたをして、考えるのをやめた。

 不意に背後で槐老人の声が上がったような気がした。

 梅本は学部棟に沿って曲がっている歩行路を歩いており、裏門付近はすでに見えなくなっている。

 気のせいかと考え、再び歩き出したところに「兼松」と後ろから声がかかった。反射的に振り返りながら、それが槐とは似ても似つかない声であることに気づいた。

 校舎の陰から骨太そうな身体つきの男が現れていた。サングラスにマスクをしていて表情は何も分からない。学内では出会うことがない異様な空気を身にまとっているのは感じ取れた。

 梅本が状況を把握しようとしているその一瞬の間にも、男は小走りに距離を詰めてきた。この汗ばむ陽気の中で革手袋を嵌めている。その手に紐のようなものがぶらぶらと揺れて見える。

 男の首筋に妙な柄があり、それがタトゥーだと気づいて、梅本は総毛立った。

 八手だ。

 槐を尾けてきたか。

 逃げようとして走りかけたが、すぐに捉まった。あっという間にものすごい力で引きずり倒された。

 起き上がろうとしたところに石を投げつけられたような衝撃が顔面を貫いた。殴られたらしいと理解したときには、八手のこぶしはみぞおちにも容赦なく入っていた。梅本は悲鳴も上げられない痛みの中、ひたすら身をよじらせた。

 八手が梅本の足をつかんで、力任せに引っ張る。梅本は背中を引きずられながら歩行路脇の木陰に引っ張りこまれた。

 そうしてから八手は、手にしていた紐を梅本の首に巻きつけてきた。

 こんな白昼堂々、キャンパスの中で俺を殺そうというのか……。

 何とか首と紐の間に指をこじ入れたが、すぐに引き剥がされた。

 紐を引っ張られ、一瞬で意識が遠のいた。

 終わった……。

 しかしすぐに、いくつかの怒声と鈍い衝撃が、梅本を現実に引き戻した。

 気づくと、八手の手は梅本から離れていた。そして八手だけでない何者かの気配が梅本の周囲で騒がしく動いていた。誰かが救出に駆けつけてくれたらしい。

 何とか身体を起こして状況を把握する。中年の男二人が八手を挟み、特殊警棒で牽制をかけながら、にらみ合っている。

 刑事だと梅本は悟った。自分を尾けている車の運転席をまじまじと見たわけではないが、彼らのような体格のいい男たちのシルエットがそこにあったような気はする。

「もう逃げんな! 逃げてばっかの人生は嫌だろうが!?」

 恰幅がよく、柔道でもやっていそうな刑事がどっしり構えながら八手を挑発する。

「おら、この前みたいにかかってこいよ!」

 もう一人も角刈りで、骨太そうながっしりとした体格をしている。

 八手はサングラスが取れ、鋭い目がマスクの上に覗いていた。

 八手は恰幅のいい刑事に殴りかかるようなフェイントを見せたと思いきや、身を翻して、もう一人の角刈りの刑事に回し蹴りを見舞った。

 角刈りの刑事が手にしていた特殊警棒が八手の足に弾かれて宙に舞った。一方で、警棒を手放した刑事は、その手で八手の蹴りをがっちり受け止めてもいた。

 八手がケンケン立ちしながら、足を懸命に振りほどく。バランスを崩したところに恰幅のいい刑事が横から組みつき、八手の身体を巻きこむようにして腰技で投げ飛ばした。

 二人は地面に転がりながら、互いを制しようと揉み合っていた。刑事が巧みに八手の背後を取って、足を彼の胴体に絡ませながら、太い首に腕を回した。

 八手は激しく身体をくねらせて暴れた。角刈りの刑事が八手の足を再度抱えて、抵抗を抑えようとしている。

 恐ろしいほどの生命力を発していた八手の身体が、にわかに動きを止めた。

「落ちた」八手の首を締めていた恰幅のいい刑事が荒い息を吐きながら言った。「ワッパ、ワッパ」

 その刑事はなおも慎重に八手の首に手をかけたまま離れなかったが、角刈りの刑事が八手の両手を後ろに回して手錠をかけたところで、ようやく自分の腕をほどいた。

 彼は起き上がって自分の服に付いた砂埃を払いながら、梅本に目を向けた。ゆっくりと近づいてくる。

「怪我はないか?」

 背中に擦り傷ができている気はしたが、梅本はこくりとうなずいた。

「じいさんから何か受け取ってたな」

 そう言われて思い出し、梅本は足もとを見回して転がっていたタブレットを拾った。

 そしてそれを刑事に差し出した。

「見てもいいのか?」刑事が訊く。

「パスワードはmtmc1991。元町の子音を取ったmtmcに1991です」

「元町……越村のだな。分かった」刑事はそう言ってタブレットを受け取った。「行っていいよ。あとはやっとく」

 耳を疑ったが、刑事はあっさり梅本に背を向け、携帯でどこかに連絡を始めた。

 異様な捕り物劇に気づいた学生らが遠巻きに足を止めて眺めている。

 梅本は静かにその場から離れて、大学院棟へと戻った。

 

 

(つづく)