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横浜駅西口前で日曜日に開かれる総裁選の街頭演説に向けて警備計画を確認しなければならず、曾根はこの数日、緊張感を持ちながら忙しく動いていた。
そこに網代から呼び出されたので、少なからず腹立たしい気分があった。人の都合も聞かず、呼びつければ来ると思っている。あの若い実業家は将来の待遇をちらつかせながら、早くも曾根をあごで使おうとし始めているのだ。
しかし、重要な話だと言われれば行かないわけにはいかなかった。電話があった日の翌日、曾根はみなとみらいの〔AJIRO〕本社を訪ねた。
前回は秘書の案内があったが、この日は受付に来意を告げても、そのまま上がってくれと言われただけだった。セキュリティーゲートをフリーパスで通り、最上階のセキュリティードアも勝手に開いた。どうやらすでに、曾根の顔がセキュリティーシステムに登録されているらしかった。
社長室のドアをノックして入ると、網代は応接ソファのかたわらで待っていた。
「どうぞ」
網代は言葉少なに曾根をソファに促した。前回の大げさな歓迎ぶりとは打って変わって、表情が硬い。
「裏金事件の件では、曾根さんにも責任の一端が及ばないかと気を揉んでいました」網代が挨拶代わりにそんなことを言った。
「お恥ずかしい話です」曾根は言った。「警察庁の先輩にはきつく絞られました」
「刑事部長のほうはさすがに交代になったようですが、落としどころとしてはそのあたりなんでしょう。裏金自体、長年の慣習だったのでしょうし、その責任を取らされるのは、たまたまそういうポストにいたというめぐり合わせにすぎない」
幹部人事は新聞に出るため、知っていてもおかしくはないが、岩本の更迭人事をしっかりチェックしているのは、この男の警察機構への関心と抜け目のなさを表していると言えた。IRの事業者として立ち回るには、そうした細心さが必要なのだろう。
「しかし、言い訳はできません」曾根は謙虚に言っておいた。
「さすが神奈川の県警本部長を務められるような方は、吏道と言いますか、心構えができてますね」網代は称えるように言った。「まあしかし、少し落ち着かれたのでは」
「今は総裁選の演説会警備を前に、違う意味で慌ただしくしています」
曾根が呼び出しの迷惑さを少しだけ口調に覗かせて言うと、網代はその言葉を予期していたように、「実はお呼び立てしたのも、そのことに関してです」と切り出してきた。
曾根は意外に思い、わずかに眉をひそめた。〔ネッテレ〕の巻島出演について何かあるのかというくらいにしか考えていなかった。
「というと?」
「根拠については勘弁してください」網代は慎重な口ぶりで言った。「だから、戯言と聞こえるかもしれません。しかし、私も公私あわせてこの街に根を張った人脈を築いております。そうすることで、なかなか一般には流れてこない情報なども拾えることがあります。もちろん、そういうものの中には嘘も交じっていますから見極めは必要ですが、まともに取り合う話ではないと思えば、こうして曾根さんをお呼び立てしようとは考えません」
「かなり重要な話のようですね」
前置きの長さへの苛立ちを抑えながら、曾根は先を促すように言った。
「横浜の演説会で徳永さんが狙われる可能性があります」
「狙われるというと?」
「テロです」網代は大真面目な顔をして言った。
「誰が狙ってるんですか?」
「IRの反対派です」
曾根はさらに眉をひそめた。訝しさが顔に出てしまっているはずだった。
網代が事業者の立場からIRの候補地選定の行方にやきもきしているのは分かるが、一歩離れてみれば、しょせんIRであり、数ある国策のうちの一つである。そのことで総理総裁候補の徳永の命が狙われるような計画が進んでいるというのは、にわかには信じがたい。
「もちろん、具体的な根拠を挙げられるものではない以上、こんなことを誰に伝えたとして、横浜の街頭演説を中止にすることはできないでしょう。だからこそ、警察の警備は厳重にお願いしたいのです」
「もちろん、警備は厳重に執り行います」
「テロがあることを前提に、念には念を入れていただきたいのです」
根拠は挙げられないという一企業の経営者の進言を、そこまで真面目に取り合わなければならないものかという思いがどうしても頭をもたげる。しかし、網代は確約を取るように曾根を見つめてきた。
「横浜の街頭演説には、我々は社を挙げて応援に駆けつけますし、フォロワーの多いインフルエンサーの動員力も最大限活用するつもりです。しかし、当日は民和党に批判的な市民運動グループもここぞとばかりに集まってきて、政治批判の声を候補者たちにぶつけるはずです。この者たちを候補者たちに近づけてはなりません」
網代が政治思想的にリベラルを嫌っているのは知っている。曾根もスタンスは近いので、そのこと自体は理解できる。
ただ、そうしたグループがIRに反対するため、それを推進する政治家にテロを仕掛けるとなると、左翼嫌いが高じての思いこみが度をすぎていないかと思わざるをえない。
「演説の妨害をする徴候が見られれば、速やかに排除に動くでしょう」曾根は冷静に言った。
「当日の会場は立錐の余地もないような人出が想定されます。そんな状況下では、相応の臨戦態勢を取っていないとテロ行為には対応できないでしょう。通常の警備はもちろんのこと、聴衆の中に不審人物をマークして即座に阻止に動けるような捜査員を何十人か入れておくことが必要だと思います」
警備の方針まで指図され、曾根はさすがに馬鹿馬鹿しく思った。
「まあ、何かの犯行予告でもあれば、そういう対応も必要でしょうが」軽くいなすように言った。
「それで曾根さんが動きやすくなるのであれば、うちのほうで出しましょう。誰か第三者のSNSのアカウントを足が付かないように乗っ取って、街頭演説で何かあるというようなメッセージを出すことくらいは簡単です」
「いやいや、そういうことを言っているわけじゃ……」曾根は閉口しつつ慌てた。
「おそらく、使用するのは密輸入された拳銃やライフルではありません。ハンドメイドの銃か、あるいは爆弾です」
犯行に使用する武器をも特定する言い方に、曾根はようやくただならぬ信憑性を感じ取った。この男はいったい何を知っているのだ?
「根拠はあくまでも言えないと?」
「言ったところでどうなるんでしょう」網代は逆説的な言い方をしてきた。「曾根さんはさらに警備を強化するとして、〔AJIRO〕の社長がそう勧めたからと周囲に説明するんですか?」
「いや……」
「そんな説明が通用しない以上、私が誰から何を聞いたかなどは意味のないことです。要は曾根さんが私の話を受けてどう行動するかという問題だけです」
網代は以前、横浜市長選を前にして、自分の力で門馬を勝たせてみせるというようなことを言った。そして実際、対抗馬の井筒孝典がスキャンダルで脱落し、苦戦が予想されていた門馬が当選した。
網代がどう動いたかまでは知る由もないが、何かを成し遂げるのに必ずしもクリーンな手段だけで勝負する人間でないのは、おぼろげながら想像できる。だとすれば、彼の人脈には法すれすれのグレーゾーンに生きる者たちが多く存在するはずであり、その者たちはアンダーグラウンドから様々な犯罪情報を拾って網代に届けていることと思われる。
だからこそ、網代は情報の出どころを口にすることはできないが、信憑性には太鼓判を押すことができるという理屈は成り立つのかもしれない。
「分かりました。警備計画はさらに強化し、県警の威信に懸けて、テロを未然に防ぐことをお約束します」
曾根は結果的にそう請け合って、社長室を辞することになった。
網代の話は根拠がないだけに、どこかつかみどころがなく、〔AJIRO〕の本社ビルを出たとたんにすべてが嘘なのではないかという気さえした。
しかし、裏金問題に加えて、徳永の身にもしものことがあれば、曾根のキャリアは今度こそ終わり、将来設計など何もなくなってしまう。
そう考えると、網代が口にしたテロの可能性については備えておくに越したことはない。
街頭演説会に際しては、候補者の脇を警視庁の要人警護官、いわゆるSPが固めることになっている。演説中は候補者と同じく演説車の屋根に上がり、銃声でもしようものなら身を挺して候補者を守ることになる。
そしてそのほか、見物人の雑踏整理や付近の交通整理を含めた会場警備を神奈川県警が担当する。公安二課の警衛警護室をはじめ、警備部全体から精鋭五十人余りを動員して不審人物の動きに目を光らせ、さらには機動隊や周辺各署の応援警官を並べて雑踏整理に当たらせることになっている。
しかし、それでは十分でないと思わなければならない。
県警本部に戻ると、警備部長の川岸定晴ほか、警備計画に関わっている幹部たちを本部長室に呼んだ。
「例の横浜駅西口前の警備計画について、内容を吟味したが、十分な警備態勢と言えるのかどうかという疑問が残ってる」
一度は曾根自身了承した警備計画に対し、ちゃぶ台返しのようなことを言い始めたわけであり、幹部たちはそれぞれの顔に動揺の色を浮かべた。
「一応、前回の総裁選と比べても手厚い計画となっておりますが」川岸が恐る恐るという調子で言った。
「候補者に地元の徳永大臣がいる。前回と比べることには何の意味もない」
曾根がぴしゃりと言うと、川岸は「おっしゃる通りです」と目を伏せた。
「徳永大臣はざっくばらんな言動から毀誉褒貶ある人だ。保守層には熱烈に支持する人々がいて、次の総理へと推す声が上がる一方、リベラルからは日本を軍国主義へと引き戻す男だとして、蛇蝎のごとく嫌われている。さらに、横浜には大臣肝いりのIR計画への候補地選定問題もある。保守リベラル関係なく市民の間で意見が割れて、大臣を総理にさせないよう足を引っ張る動きもあると聞く。大臣にとって今回の横浜演説は地元凱旋でありながら、鬼門に当たると考えておく必要がある」
困惑を隠しきれない様子だった幹部たちも、説き伏せられるようにして神妙な表情に変わりつつあった。
「坂巻」曾根は極左団体を担当している公安三課長を呼んだ。「三課がマークしてる中で怪しい動きはないか?」
網代は左翼グループを徳永に近づけないよう忠告していた。
「今のところ、そのような報告は上がってきていませんが」
「ほかはどうだ?」
右翼団体を担当する公安二課、外国人の工作活動を監視する外事二課の課長にも確かめたが、彼らも一様に首を振った。
彼らが何もキャッチしていないということは、それだけ危機に鈍感で付け入れられる隙が大きいということでもある。
「勝間」曾根は警備課長に問いかける。「当日はどれくらいの人出があると予想してる?」
「地元選出の徳永大臣がいらっしゃいますし、五千は集まる可能性があると考えています」
警備計画もその見込みを前提に作成されている。
「それが甘い。倍は想定しておかなきゃいけない」
「一万ですか?」勝間はぎょっとしたように言った。
「そうだ。駅前広場を埋め尽くして裏通りまでごった返すくらいだ。お前らの見込みはすべて甘い」
「申し訳ありません」勝間は戸惑いがちに謝った。
「雑踏整理にかける人数を倍にしろ。そしてもちろん、候補者の周辺に置く警護員も倍にする。特に徳永大臣に対しては三好」
曾根は警衛警護室長を呼んだ。
「いざというとき盾になれるやつを十人付けろ。SPの外をさらに取り囲むように配置しろ」
公安二課に属する警衛警護室は要人警護に特化した部署だ。警視庁のSP並みの訓練を受け、危機に際しては身を挺して要人を守る意識をたたきこまれている。
「かしこまりました」三好が硬い表情で返事する。
「左翼は演説車の二十メートル以内には絶対近づけるな。不穏なヤジを飛ばす輩は強制的に排除していい」
「分かりました。徹底させます」
警備部長の川岸が代表して返事をした。
「テロは起こるものと想定して動け」
曾根は念を押すように言った。
警備計画の強化を指示し、一応の手当てをつけた気はしたが、担当の幹部たちを退がらせると、これで本当に十分だろうかという一抹の不安がしつこく残っていることに気づいた。網代の危機感は十分すくい取ったつもりだが、川岸以下、部下の連中は曾根ほど頭が冴えているわけではないので、曾根の危機感が正しく伝わったかどうかも分からない。大げさなことを言っていると受け取っているようであれば、そこが破れ目になる恐れはある。
いろいろ考える一方で二日後、〔AJIRO〕渉外部の高鍬なる人物から電話がかかってきた。
〈弊社代表・網代の代理としてご連絡差し上げました〉高鍬は言った。〈本日、〔ネッテレ〕の政治討論番組において、一般視聴者のアカウントから総裁選の横浜演説会で何らかの事件を起こす旨のコメント投稿がされたことを確認しましたので、巻島さんの番組で情報提供の窓口として使っている県警のアドレスに通報しておきました〉
曾根は話を聞いて、内心舌打ちをした。余計なことはしてくれるなと言ったはずなのに、助太刀のつもりか、やらせの投稿をでっち上げて告発してきたのだ。
あるいは曾根がしっかり警備強化を図るかどうか確信が持てず、尻をたたくつもりで動いてきたか。
「話は承りました。網代社長によろしくお伝えください」
曾根は事務的に応じて電話を切った。犯行予告をでっち上げる時点で立派な犯罪であり、それを県警本部長にのうのうと知らせてくる。いったい網代という男はどういう神経の持ち主なのか。
しかし曾根はそんなふうに困惑する一方、この強引な一手を受けて、一つの踏ん切りがついたことを意識した。
山手署の捜査本部にいる巻島を呼ぶことにした。結局のところ、一番融通が利くのはこの男である。警備に刑事部門を動員するのは変則すぎる対応だが、この際、そんなことには構っていられない。何もなければ、それに越したことはない。何かあってからでは遅いのだ。
至急だと急き立てて本部長室に呼び出した巻島はいつものように無表情ではあったが、曾根にはそれが、今日は何を言われるのかと身構えている顔つきに読み取れた。
「お前が逃した〔リップマン〕は、すっかり呼びかけにも応じなくなったな」
まずは挨拶代わりに、軽い嫌味を向けた。この男に言うことを聞かせるには、こうやってさりげなく首根っこを押さえておくことである。
「まだ呼びかけを再開したばかりです。出てくるとしても、もう少し待つ必要があります」
もう少しいたぶってもいいが、今現在の曾根の関心はそこにはない。
「どちらにしても、これから数日、帳場のほうは休みだ」曾根はそう言い渡した。「日曜に横浜駅西口で総裁選の街頭演説がある」
「街頭演説が何か?」
山手町の捜査本部に何の関係があるのかと、巻島が当然のように問いかけてきた。
「〔AJIRO〕側からちらっと聞いたが、〔ネッテレ〕に何か犯罪予告めいたコメントが投稿されて、そちらに届けたということだ」
「はい」巻島は承知しているという返事をした。「山口課長のほうから警備部に回してもらいました」
「どんな投稿だ?」
「[横浜演説会をぶっ壊す。総裁候補は〇ね]と。まあ、[〇ね]というのは[死ね]と書くと、コメントが自動的にはねられるからだと思われます。そのコメントがあるアバターから繰り返し上がってきて、政治討論をしていた出演者が犯罪予告だと取り上げたので、番組内でちょっとした騒ぎになったようです。ただ、確認した範囲では、そのアバターを使っている本来のユーザーは、自分が投稿したものではなく、アカウントを乗っ取られたと言っているそうです」
「ふむ……」
曾根はしかつめらしい顔を作って巻島の話を聞き、自分の方針を確認するように一つうなずいてから、おもむろに口を開いた。
「特捜隊を警備の応援に振り向けろ」
巻島が困惑気味に眉を動かしたが、曾根は構わず続けた。
「それから、お前の帳場には特殊班はじめ捜一の連中もいるな。そいつらも遊ばせておくことはない。お前が率いて投入しろ」
「どうして街頭演説の警備に我々を?」
「この犯行予告は脅迫や威力業務妨害に当たる可能性がある。刑事部門が動いて何もおかしくはない。警備でありつつ、捜査の一環でもあるということだ」
「だとしても、我々は山手の帳場を持っていますので……」
「テロがある」曾根はあえてストレートに言った。「確度が高いとは言えないが、極めて注意が必要なレベルの情報が俺の耳に届いている。だから、あるという前提で警備を強化する必要がある」
ひとまず緊迫度は理解したように、巻島は黙った。
「特捜隊は身代金の受け渡し現場の雑踏の中で不審人物を見分けるような経験を積んでる。特殊班も同様だ。街頭演説の現場は一万人規模の聴衆でごった返す可能性があるが、不審人物をマークして不測の行動に備えろ」
「実行犯については、何か像のようなものはつかめているんですか?」
「地元選出の徳永大臣が狙われてる。左翼グループは要注意だ。ちゃんとしたライフルやショットガンなんかは持ってないだろうが、密造銃や爆弾なんかは使われる可能性がある。怪しいと見たら、すぐさま職務質問かけて、所持品検査しろ」
「分かりました」
小さく一礼して本部長室を出ていく長髪の男の背中を見送って、曾根はようやく自分なりの手を打った気になり、一息つくことができた。
(つづく)