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17
「大事な課員をお預かりしながら何人も負傷させてしまい、率直にお詫び申し上げます」
 県警本部に足を運んだ日、巻島はまず捜査一課長の増川を訪ねた。
「いや、それぞれがやるべき務めを果たした結果ですから、仕方ないことでしょう」
 これが若宮であれば、特捜隊は何をやっていたのかという嫌味の一つも向けられそうなものだが、増川はあっさりと応じてきた。
「特に久留須巡査部長は顕著な働きをしてくれまして、ぜひとも本部長賞を検討してもらいたいと川岸警備部長にも上申しておきました」
「ありがとうございます。ですが、どうでしょう」増川は冷静さを崩さなかった。「彼が犯人を捕まえたわけでもないですし、怪我をしたから表彰するというのも、おかしな話ですからね。何より、警備部として面白くないでしょう」
 警備部の仕切り案件で、刑事部の一員が表彰されては立場がないだろうと冷静に見ているのだ。確かに、巻島が上申したときも、川岸警備部長の反応は鈍かった。本格的に検討する可能性は低いと言わざるをえない。
 若宮のように捜査一課のプライドをことさら誇示してくるのも対応が面倒だが、増川のように淡泊すぎるのもそれはそれで手応えがなく心配になる……巻島は内心苦笑しながらそんなことを思い、捜査一課のフロアをあとにした。

「お前たちをあの現場に投入したのは俺のファインプレーだったと思わないか?」
 本部長室に赴くと、曾根はいつになく上機嫌だった。そして、巻島たちの務めをねぎらう代わりに、そうさせた自分を自画自賛した。
「紙一重で自分の命が危うかったことは徳永さんも承知している。あの人を総理にしたのは、我々だと言ってもいいくらいだ」
 さすがに「俺」とは言わず、「我々」という言い方をしたが、感覚的には大部分を自分が負っているような言い方だった。
「現場の、特に捜一の者たちが慣れない任務ながら、身体を張って対応に務めてくれました」
 警備部長の頭越しにはなるが、久留須らの貢献にはしっかり触れておくべきだった。
 しかし、曾根の反応はあっさりしたものだった。「今まで散々、俺の顔に泥を塗ってきたんだから、それくらいはやってもらわんとな。これでプラマイゼロと思ってもらっても困る」
 すげない返事に巻島は肩をすくめるしかない。これ以上無理にアピールしたところで、逆効果にしかならなそうだった。
「それはまあいい」曾根は演説会の件をそんな言い方で終わらせた。「帳場のほうは、何も進展がないようだな。これ以上、今の人員をかけてても仕方がない」
 巻島は眉をひそめた。
「まだ、〔ネッテレ〕での呼びかけを再開したばかりです。それに、ここのところは警備の任務に注力するため、番組を休んでいました」
「それもそのうち見極めをしなきゃならんが、どちらにしろ、今の五十人態勢は多すぎる。やることがなく遊んでるやつも多いだろ」
 捜査が停滞している以上、戦力がだぶついているのは事実であるものの、そのことより、巻島は事件解決に対する曾根の執着心がにわかに薄れてきているのを感じ取った。
 あるいは、今回の件が裏金事件の失点を補い、プラマイゼロだと考えているのは曾根自身かもしれなかった。あの雑踏の中で惨事を回避して要人を救い、被害をほぼ警察内にとどめて一般聴衆を巻きこむこともさせなかった。運がよかったとはいえ、世間は素直にポジティブな評価を下している。以前の曾根であれば、それで満足することはなかっただろうが、今は足れりとする考えがあるようだ。
 珍しく叱責のない曾根との面会を終え、巻島は刑事総務課に寄った。
「確かに一昨日の会議でも、本部長、気味が悪いほどに恬淡としてましたからね」山口真帆は苦笑を交えて巻島の報告にうなずいた。「増川さんも本部長に追いこまれないから、余裕持ててるっていうのもあるんじゃないですか」
「ただ、こちらは帳場の規模を縮小せざるをえないわけで、事実上、追いこまれてるとも言えます。ある意味、これを転機と捉え、局面打開の足がかりにしていかないと」
 巻島は、特捜隊と山手署の刑事課員以外は、捜査本部の任務を希望する者を優先的に残して捜査態勢を編成し直す構想を話した。
「特殊班もですか?」
 捜査一課の特殊班は、所属長である秋本こそいなくなってしまったが、今の帳場でも中心的な働きをしている。巻島の古巣でもあり、使いやすい捜査部隊であるのは事実である。
 しかし巻島にも考えがあり、強行班と同じく希望者だけを残したかった。それを説明すると、山口真帆は「なるほど」と納得してくれた。
「そういう意味で局面打開を図るわけですね」
 巻島は帰りにもう一度、捜査一課に寄って増川に会った。山手署の帳場を縮小するので捜査一課員を基本的には戻すことと、希望者については引き続き残ってもらいたい旨を話すと、何の問題もないというように了承された。
 捜査本部に戻ると、夜の会議で早速、捜査態勢の見直しについて報告した。機動捜査隊、捜査一課、近隣署の刑事課などの応援捜査員は所属部署に戻ることを基本とするが、一定数は継続捜査に必要であるため、帳場に残ることを希望する者は週末を目処に申し出てほしいと伝えた。

「今までも停滞感はありましたが、それ以上の緩んだ空気を感じなくもありませんな」
 次の日、各々が進めている聞きこみなどの任務もそこそこに、夕方前には捜査本部にさっさと帰ってくる者たちが多くなった。どうやらそれらは所属に戻ることを決めた者たちであり、そうであれば無理に引き締められるものではなかった。
「まあ、週末までは仕方ない」
 村瀬などはおそらく残ってくれるだろうから質の低下は心配していないが、人数的にもある程度は残ってもらわなければならず、そうなると、簡単に希望者とそうでない者を分けるだけでは済まない。本田がぼやくことしかできないのと同様、巻島も数日間は黙ってこの空気を受け入れるしかなかった。
 その夜、巻島は久しぶりにみなとみらいの〔AJIRO〕本社に行き、〔ネッテレ〕の特別番組に出演した。
「前回の番組から少し時間が空きましたが、この間、横浜であわやという事件がありましたね。総裁選でテロが行われるというこの件について、まずはお話をうかがいたいんですが」
 竹添舞子はそんな話から番組を始めた。
「はい」巻島はそれに応える。「当日は横浜駅西口にかなりの人出が予想されましたので、警備態勢が強化されており、実は我々の捜査本部からも一部の人員が警備の応援に回っていました。ですので、私自身も街頭演説の際には現場を指揮する一人として、近くに設けられていた指令所に詰めていました」
「巻島さんもあの近くにいたんですか?」
「いました。ですが、現場は演説会当時、一万人近い聴衆が詰めかけておりまして、候補者がいるあたりは映像と無線連絡で把握するしかありませんでした。爆発物が投げこまれても、映像では何も分かりませんし、それが爆発してなお、何が起こっているのか把握するには時間がかかりました。瞬時の対応には、現場に配置された警備捜査員の判断に多くを任せるしかないような状況でした」
「なるほど。そんな中で実際、犯人がテロを行う際には、現場の警備捜査員がいち早くそれに気づいて阻止に動いたという報道がなされていますが」
「ええ、それは報道通りでありまして、犯人が爆発物を投げこもうとしたところで現場警備の者がそれを止めに動いたことで、結果的に爆発物は徳永さんが演説をしている車上まで届きませんでした。自家製と思われるその手投げ爆弾を犯人は合計二つ所持していましたし、現場が瞬時に動いていなければ、最悪の事態を招いていた可能性はあったと思います」
「紙一重の対応で最悪の事態は免れたわけですね」竹添舞子が感嘆気味に言う。「犯人を取り押さえようとした方は揉み合いになって拳銃で撃たれたと聞きましたが」
「はい、犯人は爆弾のほかに3Dプリンターで製造された拳銃を持っていました。一般的な拳銃と比べて発射精度に欠けるとはいえ、至近距離であればもちろん危険ですし、殺傷能力もあります。撃たれた者は防弾防刃ベストを着ていましたが、覆われていない肩口に弾が当たったために負傷してしまいました」
「怪我の具合はどうなんでしょうか」
「幸い大事には至らず、今は治療しながらですが仕事にも復帰しています」
[現場えらい][本物の勇者だな][神奈川県警の救世主]など、負傷した捜査員を称えるコメントが画面に並んだ。
「それはほっとしました」竹添舞子はそう言って話を続ける。「犯人はその後、現場から逃走して、捜査員がそれを追いかける形になったようですね。そして最後は犯人が持っていた爆弾が爆発するという衝撃の結末が待っていたわけですが」
「逃走を許したとの報告を聞いた際はかなり冷や汗をかいた次第でしたが、現場は雑踏で混乱していて、そのような事態を招いてしまったようでした。ただ、追跡には何人もの捜査員が向かっており、犯人を取り逃がすおそれはなかったと考えています」
「結果的に犯人は逃げ切れないと悟って、自ら爆弾を爆発させたんでしょうか?」
「そこはまだ、はっきりこうだとは言い切れないです。犯人は逃げ切れないとは悟ったようですが、爆弾を振りかざして追跡していた者たちに近づかないよう威嚇していましたので、誤って爆発した可能性も捨て切れないと思います」
「犯人は茂沢昇司容疑者、四十六歳。環境活動グループの一員だったとも、かつて地元の暴力団に所属していたとも伝えられていますが、この男がどうしてテロに及んだのか、動機は何か分かっているんでしょうか」
「それはおそらく、この事件の捜査本部が現在、調べを進めているのでしょう。私自身は〔リップマン〕の事件の捜査本部にいますし、調べの詳細を知る立場にはありません。ですから、申し上げられるのは当日の状況に限られます」
 茂沢は事件のわずか二週間ほど前に〔財慶会〕系暴力団の〔滝一家〕を破門になり、その後、リベラル系環境保護団体の反政府活動に加わっている。団体メンバーには、徳永は横浜を食い物にしようとしている、総理大臣にさせるわけにはいかない、と強く訴えていたという。
 これは普通に考えて二通りの見方があり、一つは〔滝一家〕の命を受け、関係を切った上でテロに及んだというものである。暴力団組織では末端の組員に事を起こさせるとき、組織との関係を切っておいて使用者責任が及ばないようにしておくやり方がしばしば取られる。
 しかし、そもそも暴力団が組織的に、保守系の大物国会議員にテロを仕掛けるということが構図としては考えにくい。〔滝一家〕は博徒系の武闘派組織で、このところ横浜、川崎界隈の裏カジノの摘発が続いて痛手をこうむっていたという話はある。そこから逆恨みして、横浜でのIR実現を企てている政治家に鉄槌を食らわせようとしたという見方もできなくはないが、市会議員レベルが相手ならともかく、徳永のような大物を狙うというのはよほど背後の奥行きを広く見ないと成立しづらい読みである。個人的な怨恨があったというほうがまだ納得できる。ただ、そのような因縁があったという話は聞こえてきていない。
 もう一つは茂沢が個人的な政治思想で徳永への実力行使願望を募らせ、所属の〔滝一家〕とも揉めて放り出されたという形である。糸の切れた凧と化した茂沢は、左翼活動に身を投じて暴発したということだ。
 この見方は表に見える茂沢の行動を素直に追っていて、一見無理がない。しかし、事件捜査に携わる者の目から見れば素直すぎるとも言え、どこかで疑いたくなるのも確かである。
 どちらにしろ、捜査本部は公安課のほうで立てられており、巻島は関与していない。現場の警備に当たっていた連中が捜査に協力しても、向こうから何か新しい事実を教えてくれるということはないようだ。竹添舞子からは言い方を変えて事件の背景を尋ねられたが、巻島としてはそれ以上は答えようがなかった。
「それでは、この事件についてはひとまずここまでということにしましょうか」
 視聴者からのコメントをいくつか拾ったあと、竹添舞子は番組を進行させた。
「〔リップマン〕に関して、呼びかけを再開してから一カ月以上が経ちましたが、今日もまだ〔リップマン〕が現れる気配はありませんね」
「少し番組の配信が空きましたので、その影響がどうかとは思っています」
「リアタイできているかということですね」
「それからやはり、負傷の回復具合ですね」巻島は言う。「相当な重傷ではなかったかとも思われますので」
「まだ、こちらの呼びかけに反応できるような状態ではないということですか。でも、それほどの重傷を負っているとするなら、そもそも今も生きているのかということも考えたくなりますね」
「当然、その可能性も頭の片隅には置かなければなりませんが、死んでいれば遺体として発見されるのが普通です。そうした報告がない以上、我々としては……」
 前方の液晶画面に映し出されている視聴者のアバターたちが不意に興奮したように一斉に揺れ始めた。見ると、そのアバターたちの真ん中に〔リップマン〕のアバターが出現していた。
[リップマンきたー]
[生きてた!!]
[そろそろ出てくると思った!]
 視聴者のアバターが次々にコメントを発していき、配信画面は一気に活気づいた。
「そんな話をしていたところで、とうとう現れましたね」竹添舞子は息を呑んだような間を置いてから、そう口を開いた。「久しぶりなので、私も少し動揺しています」
 巻島は話すのをやめ、静かに〔リップマン〕のアバターを凝視した。
 やがて、〔リップマン〕のアバターが小刻みに震え、吹き出しが出てきた。
[巻島、久しぶりだな]
[俺はピンピンしてるぜ]
 巻島はカメラに視線を移す。
「〔リップマン〕、久しぶりだ。もちろん、私はお前が生きてると思ってた」巻島はゆっくりと話しかける。「怪我の具合はどうだ?」
 問いかけて〔リップマン〕の反応を待つ。
 しばらくして〔リップマン〕がまた吹き出しを作った。
[怪我? 何のことか分からないな]
〔リップマン〕らしいとも言える、とぼけた返事だった。
「ごまかしは通じないぞ。お前が相当の大怪我を負ったことは、我々はちゃんとつかんでいる」
「逮捕された菅山容疑者の車から血痕反応が見つかって、〔リップマン〕が逃走過程で血を流すような負傷をしたと思われることは、巻島さんもたびたび発言されてますね」竹添舞子はコメントが返ってくるまでの間を埋めるようにそんな話を挿んできた。「その血が〔リップマン〕のものではないという可能性はあるんでしょうか?」
「いえ、菅山容疑者が〔リップマン〕の逃走に関わっているのは間違いないと見ていますし、血痕反応について供述を拒んでいる様子からも、それが〔リップマン〕のものであることは疑いがないと考えています」
 そんなやり取りを続けているうち、〔リップマン〕からのコメントが届いた。
[正直に言えば、もう少しであの世行きだった]
「ほう」
「一転して認めてきましたね」
「何があった?」巻島はすぐに次の質問を放った。「今は大丈夫なのか?」
「やはり、重傷を負っていたのは確かなようですね。そして今は、少なくともこの配信に参加できるほどには快復しているということですかね」
 竹添舞子はそう話をまとめつつ、[やっぱり、リップマンが来ると盛り上がる][巻島さん、嬉しそう]などの視聴者のコメントを拾っていく。
[想定外のことが起きたとだけ言っておく。今は少し動けるようになった]
「相当長い療養が必要だったということでもありますね」竹添舞子が〔リップマン〕のコメントを受けて言う。「さて、巻島さん、番組の終了時間も近づいてきましたが」
「もう一つだけ」巻島は時間を確認して続けた。「〔リップマン〕、ちゃんとした医者の治療を受けているのか? 我流では運よく命は助かっても、あとあと後遺症で苦しむぞ」
「捜査本部が全国の主だった病院を当たっても、〔リップマン〕らしき患者が運ばれた形跡はなかったということですからね。どのように治療したかということも気になりますよね。それと同時に、巻島さんは事件の犯人でありながら、〔リップマン〕のことを一人の人間として身を案じているということでもあるんでしょうね」
「もちろんです」巻島は竹添舞子の言葉にうなずく。「私にとって〔リップマン〕はただの一事件の犯人というだけの相手ではありません。長い刑事人生の中でも特別な存在ですし、その身がどうなっているかということは当然のように心配しています」
 終了時間ぎりぎりになって、〔リップマン〕からのコメントが返ってきた。
[診てくれる医者はいる。体力もある]
「そうか、なら心配はいらないな。だが、新型インフルも流行ってる。せいぜい気をつけて養生することだ。〔リップマン〕、また次の配信で待ってる」
「はい、特別番組『リップマンに告ぐ』。今夜はここまでとなります。次回またお会いしましょう」
 最後は少し慌ただしく終わった。
 倉重プロデューサーが副調整室から出てきて、「とうとう現れましたね」と興奮気味に話しかけてきた。
「視聴者さんも言ってましたけど、〔リップマン〕が現れると、やっぱり盛り上がりますね」竹添舞子が明るい口調で言う。
「我々にもいい意味で緊張感が生まれますし、これからまた、以前の番組の雰囲気に戻りそうですね」
 倉重の喜びの声には微苦笑で応じ、巻島は「また次回お願いします」と言い残してスタジオをあとにした。


18
 徳永が新しい総理大臣に就任し、徳永内閣も発足した。
 彼からは直接網代に、総裁選の支援に対しての謝礼電話があった。選挙が終わってしまえばふんぞり返るだけの政治家は多いが、徳永の態度はそうではなかった。それだけ網代の働きが大きかったのを感じていたからであろうし、また、今後も使えると評価してのことだろう。
 これで横浜のIRも動き出すことは間違いない。徳永は自分の威信に懸けても候補地の一つに横浜を据えるだろうし、横浜市議会なども地元選出総理の意向には逆らえないだろう。
 門馬市長からも祝いの電話があった。徳永の勝利でわざわざ網代に電話してくるのは意外だとも言えたが、徳永が総理の座に就く以上、IRが横浜に誘致される流れは決まったも同然であり、そうであれば、やはり網代を懐に入れておくのが得策だという判断が働いたのだろう。〈あんたは勝負に勝った〉と彼は白旗を揚げたように言った。網代としては徳永総理誕生を機に一気に将来への視界が開け、憂慮すべきものは何もなくなるはずだった。
 しかし、実際にはすっきりした気分を持てていない。上質の布にほころびを見つけ、それが気になって仕方がなくなるような心境だった。見ているうちにも、それは向こうの光が透けて見えるほどの裂け目に変わりつつある。
 どうやら淡野は生きているらしい。
 網代自身、八手がとどめを刺さなかったことを聞いて、その可能性はあると思っていた。
 だが、巻島の呼びかけに反応して、番組に再登場したとなると、その意味合いを読まなければならない。
 淡野は当然、網代に切られたことを自覚しているはずだ。その彼が、ずっと身を隠しておけばいいものを、わざわざ危険を冒して網代の根城である〔ネッテレ〕に現れたのだから、そこには網代に対する反撃の意思があると取らざるをえない。ただ自分が健在であることを世間に示すだけのために、そういう場に出てくる人間ではない。何らかのメッセージを発する意思があると思ったほうがいい。
 巻島の番組に〔リップマン〕のアバターが登場した翌日、網代は越村に電話した。
「単刀直入に訊くが、淡野を匿ってるのか?」
 前置きを省いて、網代は以前から疑っていたそのことを問い質した。
〈いやいや、何の話だ〉越村は当惑したように応じた。
「巻島の番組のことはニュースでも目にしてるだろう」
〈それは知ってるが、淡野くんからは何の連絡もないよ〉
 網代は彼の口調から慎重に真偽のニュアンスを探った。越村独特のとぼけた味わいは残っているが、いつにない警戒心のようなものもその声音に浮いて聞こえる。
「連絡がないというのは、匿ってるから連絡する必要もないってことか?」
〈いやいや、どこにいるのかも俺は知らんよ〉越村はそう答え、逆に探り返すような口調になった。〈何でまた、そんなことを苛立ったように訊いてくるんだ?〉
 越村には網代が淡野にどういう処分を下したかまでは話していないが、薄々は察しているはずだった。彼は基本的に、察すればいいことをわざわざ尋ねてきたりはしない。それをするのは、やはり何かをごまかそうとしているからではないかと思えた。
「あいつが下手を打ったまま姿を見せないからだ」
 網代は曖昧に言い、越村の反応を見る。
〈なら……何かそのうち言ってくるんじゃないか〉
「越村……腹を刺された人間を治療してくれるような闇医者を知ってたら教えてくれ」
〈いや、知らねえな〉越村はかすかに声をかすれさせながら言った。〈あいにく俺は、そういう人脈には疎いんだ〉
 越村に闇医者の紹介を頼んだことはないが、裏世界の人材紹介業者である彼の言葉としては額面通りに受け取ることはできなかった。
 越村は淡野を可愛がっていた。
 だからこそ、手負いの淡野を守ろうとしている。
 網代からはそう見える。
「まあいい。もし淡野に何か伝えられるルートがあるなら、俺が話をしたがってると言っておいてくれ。お互い、誤解があったかもしれない、何も心配しなくていいと」
 越村の反応はまったく煮え切らないものだったが、網代はその言葉を押しつけるようにして電話を切った。

 週末の夜、網代は薮田を呼んだ。
 薮田は先日の横浜駅前の街頭演説会において、茂沢のテロを失敗に終わらせるのに小さくない働きをしたと聞いている。茂沢の情報を得ていたからこそ可能だったことではあるが、負傷もしたと聞いたので、電話で報告を受けたときは大いにねぎらった。実際、あのテロが成功していたらと考えると、ぞっとするほかなく、このときのために薮田を神奈川県警に入れたのではないかとも思え、自分の先見の明に酔いしれるほどだった。
 しかし、今はそのときの高揚感は消え失せている。薮田とソファで向かい合っても、そのことはもう振り返らなかった。
「淡野のほうの捜査はどうなってる?」網代は彼に訊く。
「帳場のほうは特に変わりありません」薮田は答えた。「〔リップマン〕が巻島の呼びかけに応えて現れたというだけで、何か捜査の取っかかりになるような事実が判明したわけでもありませんから」
「うちには使われた端末のIPアドレスの問い合わせもないようだ」
「前回の経験から、端末のIPや電波の出どころを探っても〔リップマン〕にはたどり着けないという判断で、今回は動いてないようです。帳場自体、縮小することになっていて、人員を削減する影響もあるかと」
「縮小? この状況でどうして?」
「それは〔リップマン〕が出てくる前に決まったことで、捜査の停滞感を見てのことだと思います。巻島が望んだわけではありませんし、本部長の鶴の一声でそうなったという噂は聞いています」
 曾根は裏金事件で恥をかかされ、〔リップマン〕を挙げるのに躍起になっていたはずだった。しかし、テロの件では曾根もよもやという事態を避けられて、電話の声からも安堵感が伝わってきたことを思い出した。
 網代は徳永の上機嫌な声も聞いている。あのテロの一件が総裁選において、徳永に党員票を集める流れを作った。自分には何の危害も及ばず、願ったりの出来事だったろうし、仕掛けた〔財慶会〕の片平からすればせつ扼腕やくわんたる結果だったことだろう。
 曾根も裏金事件の失点を取り返したと見ていい。官僚の世界ではプラマイゼロになっているかどうか知らないが、彼はもともとカジノ管理委員会の委員含みで徳永に紹介されている。その徳永から見て合格なら、それで十分だろう。曾根としては進路が開けたと言っていい。
 淡野を追う捜査本部の縮小は、そのことが影響しているのではないか。演説会の警備で点を取り、淡野の事件を何とかしなければならないという焦燥感が薄れた表れではないか。
 網代にとって、それは悪い流れではない。
 だが一方で、巻島からすれば、曾根の気分など関係ないはずであり、人員を削られたところで捜査の手を緩めることなどは毛頭考えてはいないだろう。
「お前はその帳場から外れるわけではないんだな?」網代は気になって確かめる。
「残れるようには動いています」
 網代は小さくうなずく。内部の情報は今後も必要だ。
「巻島としては、〔リップマン〕から届くメッセージにすべてを懸けるというところか」
 それは網代にとって、憂慮すべき流れだった。淡野が何の目的で再び巻島の呼びかけに応じたのか。何を巻島に伝えようとしているのか。
 番組は〔リップマン〕の再登場で視聴数が飛躍的に伸びた。この状況では無理に番組を終わらせることもできない。網代自身、淡野の消息が気になっていたことから了承した番組再開だが、いざ出てこられると当惑しか感じない。
「しかし、あの〔リップマン〕は本当に淡野なんでしょうか?」
 不意に薮田がそんな疑問をぽつりと口にした。
「何が言いたい?」
 網代が鋭い一瞥を投げかけると、薮田は「いえ」と口ごもった。「その、八手がとどめを刺さなかったのはその通りなんですが、自分から見ても助からないだろうと思ったのも確かでして」
「淡野じゃなかったら、誰だって言うんだ?」網代は冷ややかに訊く。
〔リップマン〕のアバターにログインするには「kirino」というパスワードが必要になる。
 もちろん、淡野が霧野を名乗っていた時期に振り込め詐欺などのシノギに参加していた者で、あの指南役が淡野と名前を変えたのだと気づいているならば、そのパスワードを知っていることになる。しかし、今は裏の世界から足を洗っているであろうそうした連中が、わざわざ〔リップマン〕を騙って巻島にアプローチする意味などあるだろうか。
 そう考えると、薮田が口にした疑いなどは、まともに取り合うものではないとしか言いようがなかった。
「以前、巻島が〔ニュースナイトアイズ〕に出て〔バッドマン〕に対話を呼びかけたとき、一時的に偽物の手紙を本物だと認定したことがありました。本物の〔バッドマン〕しか知りえない情報が書かれていると。あれは真実がうやむやになってますが、巻島が本物の〔バッドマン〕を引っ張り出すために自作自演で偽物の手紙を作ったのではという噂が、現場レベルではささやかれてました。そういうからくりが今回の件でも使われていてもおかしくない気がするんです」
「巻島の動きにそう疑わせるような何かはあるのか?」
「いえ、それは何とも」薮田は言う。「帳場の幹部たちは情報を絞っていて、捜査報告も個別に指令席に上げる形が中心になってます。〔ポリスマン〕の情報漏洩を警戒しています。幹部たち独自の動きがあっても、現場には分かりにくくなってます」
「お前はそんなに警戒されてるのか」
 網代は小さく笑い、薮田も釣られるように笑い声を立てた。しかし、網代自身の笑みは長く続かず、頬が引きつるような感覚に変わった。
「そういう見方があるからと言って、事態を甘く見るわけにはいかない」
「もちろんです」薮田も口もとを引き締めて言った。「巻島の動きはこれからも慎重に見ていきます」
 網代はこくりとうなずいた。これ以上、自分を覆う布のほつれを大きくさせるわけにはいかなかった。

(つづく)