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 街頭演説の警備当日、山手署の捜査本部に入っている特捜隊と捜査一課二班は、現場に出る前に最終的な打ち合わせに臨んだ。
「午前中の千葉駅前、そして、間もなく行われるさいたま新都心駅前の映像が入ってきている」
 会議室のスクリーンに偵察隊から送られてきた千葉と埼玉の街頭演説の群衆の映像が映し出された。
「うわあ、盛り上がってるなあ」
 小川は今日の警備で一緒に班を組むことになった特殊班の村瀬次文と並んで座り、それを見ている。
「千葉駅前でおよそ三千人、さいたま新都心駅前では五千人規模の見物人が集まってきているということだ。候補者の熱烈な支援者たち、あるいは反民和党のデモ隊などは、そのまま横浜にも流れてきて、さらにふくらみを見せると思われる」
 現地でのオペレーションの最終確認をして打ち合わせは終わり、しばらく会議室で待機することとなった。
「一万人と聞いたときはまさかと思ったが、全然ありうるな」
 村瀬が恰幅のいい身体に防弾防刃ベストを着込みながら、ぼやくように言う。
 雑踏警備という畑違いの任務に加え、オペレーションに参加しないほかの捜査員には休みが与えられているとあって、特殊班の主力である村瀬といえど、あまり士気は上がらないようだった。
「〔Y's〕の論客が煽ってますからねえ」
 小川の言葉に村瀬は「ワイズ?」と眉をひそめて反応した。
「〔ワイズマン〕のことじゃないですよ」小川は説明する。「〔ヨコバナ〕っていう動画サイトから出てきた論客たちが、〔ネッテレ〕の討論番組とかで活躍してるんですよ」
「それを〔Y's〕っていうのか?」
「彼らと彼らを支持するフォロワーの一大勢力ができてて、それが〔Y's〕と呼ばれてるんですよ」
「小川くんは、意外とそういうの、詳しいんだな」
 村瀬に感心したように言われ、小川は反射的に肩をそびやかした。
 小川は県警内の人事情報や派閥争いにも詳しいが、最近は国の政治問題にも目覚めてきているのだ。
「無知は罪ですよ」小川は少し得意になって言う。「知らないでいると、“ガラポン”にいいようにやられちゃいますからね」
「ガラポン?」村瀬はまた耳慣れない言葉を聞いたというようにぽかんとする。
「ガラガラポンですよ。今の社会秩序を全部リセットして、国際規模の新しい制度で世界を一から作ろうっていう勢力です。日本の伝統も何もあったもんじゃない。〔Y's〕はそれに対抗して、日本を守ろうとしてるんですよ」
 村瀬は呆気に取られたような顔から、ふっと表情を緩めた。
「何だか陰謀論みたいな話だな」
「いやいや、現実ですよ」小川は言った。「とにかくそういうことで、〔Y's〕には勢いがあって、それが徳永さんを総理総裁にしようと熱烈に応援してるんです」
「何だ、小川くんはネトウヨだったのか」
 口調から小川自身も〔Y's〕にかぶれているのが伝わったのか、村瀬にはそうからかわれた。
「ネトウヨとか、そういうレッテル貼りはよくないですよ」小川は抗議した。「日本の将来を憂えている一人の青年というだけです」
「そうか、そうか」村瀬は笑いつつも、少し引っかかるように頬を引きつらせた。「しかし、何で徳永さんなんだ? あの人はどちらかというと風見鶏のイメージで、保守派でもタカ派でもないと思うけどな」
「いやあ……」そう言われると、小川にもよく分からない。「昔はどうあれ、今は保守派の重鎮ということじゃないですか」
「それは、自分をそう見せるのが得だと思ってるあの人のやり口なんじゃないか」村瀬が辛辣に言う。
「それにほら、徳永さんはIRの旗振り役じゃないですか」
「IRなんて、それこそ誰がおいしい思いをするかってだけの話で右も左もないだろう。横浜の民和党市議団も真っ二つに割れてるっていうし」
「まあ、確かに」
 しかし、〔Y's〕はIRを横浜に誘致すべきという論調である。
「けど、それで観光客も呼べますし、何より、我々にとっては有力な再就職先が増えるじゃないですか」
「なら案外、〔Y's〕の大部分は神奈川県警なのかもしれないな」
 村瀬はそう言って笑い飛ばした。

 やがて小川らは時間が来ると、移動車に乗って横浜駅に向かった。
 横浜駅の西口は、まだ街頭演説の開始予定時間には早いにもかかわらず、すでに多くの観衆が集まりつつあった。
「よし、入れなくならないうちに入っとけ」
 本田が現場に入る小川らにそう指示して離れていった。本田や巻島は警備部の幹部らと同様、近くにある西口派出所に拠点を作って警備状況を見守ることになっている。
「人混み、嫌だなあ」
 横浜モアーズの前にある車寄せの隅にはすでに街頭演説用の車が停められており、そこを起点に見物人の輪が広がっている。小川らが任されているのは、演説車の前から三十メートル以内のゾーンに入っている観衆の中の不審者チェックなので、そこに入っていかないといけない。
「マスクしよっかな」
 新型インフルエンザが流行り始めており、群衆の中でもマスク姿がちらほら目立つ。
「ウイルスはマスクじゃ防げないって聞くぞ」マスクを着けた小川を見て、村瀬がにやりとそんなことを言った。
「いやあ、多少は違うでしょう」
〔Y's〕の論客たちもマスクを否定しているが、それはそれ、これはこれである。
「何せ、死者も出てるって話ですからね」
「お年寄り連中は危ないらしいな。まあ、俺たちは、罹ったら罹ったときだ」
 村瀬は若い頃には柔道で国体にも出ていたと聞く。そんな体力自慢の人間なら心配いらないかもしれないが、小川は何年か前にインフルエンザに罹ったとき、四十度近くまで熱が出て死にそうな思いをしたことがある。あのような思いをするのはごめんこうむりたいのだ。
「セキュリティーの関係上、手荷物を確認いたします。ご協力ください」
 腕章をつけた警備部の捜査員が制服警官と組んで、そこかしこで持ち物検査を実施している。
「バッグの中を見せてください!」
「何の権限があって言ってるんだ!?」
「なぜ見せられないんですか!?」
「それは任意か、強制か?」
「いいから見せて!」
「千葉や埼玉じゃ、こんなことやってなかったぞ。俺たちを犯罪者扱いする気か!?」
「こんなことやってる暇があったら、神奈川県警は裏金返せ!」
「そうだ、裏金返せ!」
「裏金返せ!」
 群衆には「民和党許すまじ」と書かれた小旗を手にした市民活動家のデモ隊も交じっている。歴戦の強者である彼ら相手には任意の持ち物検査も捗らず、終いには「神奈川県警は泥棒!」というコールが湧き起こって、担当者たちも閉口するしかないようだった。
「左翼は帰れ!」
「何しに来てんだ! 帰れ!」
 徳永のイラストが描かれたTシャツを着た〔Y's〕と思しき一団からはそんな声も飛び、群衆の中でも一触即発の空気が生じている。
 村瀬のあとに付いて人と人の狭い隙間をかき分けてゆっくり進むうち、小川たちもすっかり群衆に呑みこまれていた。後ろを振り返ると人垣は遥か向こうの巻島や本田らが陣取っている派出所のほうまで延びているように見え、一万人という予想も当たりそうに思えてきた。
〈デモ隊をもっと、演説車から遠ざけるように〉
 耳に挿したイヤフォンから、拠点で指揮をとる勝間警備課長の無線による指示があり、警備捜査員らが活動服の機動隊員らと協力して対応に当たっているが、相手はまったく言うことを聞こうとしない。
「ちょっと無理があるな」
 村瀬がその様子を見て、そうぼやいている。
「加勢しますか?」
 小川たちがいる場所もデモ隊からは遠くなく、村瀬にそう訊いてみたのだが、彼にはその気がないらしく、首を振っただけだった。
 そのうち、警察側とデモ隊の間で小競り合いが起き、あたりは騒然とし始めた。警察側に腕をつかまれて激昂した一人が暴れて、いよいよ収拾がつかなくなった。現場から報告を受けた勝間が〈引きずり出せ〉と指示を飛ばし、暴れて抵抗していたその活動家は何人かの手によって群衆の中から引きずり出されていった。
「確かに、ちょっと無理がありましたかねえ」
 街頭演説にわざわざデモを仕掛けにくるほうが間違っているとは思うが、かといって、それを無理やり排除しようとする警察側のやり方も余計な騒乱を煽っているだけのようにも見える。
 村瀬も通常業務とは違う任務ということも加わってか、腕を組んだまま様子見の態度を決めこんでいる。
 十六時が近づき、演説車の周りで民和党関係者の準備の動きが活発になってくると、警察側もいったん手を引いて大人しくなり、群衆内の空気もある程度の落ち着きを取り戻した。
 人混みの密集具合にはそれなりの秩序が保たれているものの、前後左右の間隔は狭く、自由に動くことはままならない。そんな中、革のライダースジャケットを着たマスク姿の男が、人をかき分けながら小川の横を進んでいった。手には「民和党許すまじ」の小旗を持っており、市民運動のグループに合流した。総勢で百人近くはいるだろうか。一人、警察によって連れ出されたが、一人新たに加わって勢力は維持されている格好だ。先頭のほうは最前列に張りついていたのが警察の働きかけで何メートルか下がらせることはできたようだ。ただ、演説車の上に立つ候補者からは目障りであることに変わりはないだろう。
 十六時を回ってもなかなか演説会が始まる気配がなかったが、十分ほどすぎたところで不意に前方から拍手が起こった。候補者たちが到着したようだった。
 やがて三人の候補者が演説車の屋根に設えられた演説台に登ってくると、後方まで拍手の輪が広がった。今や、駅前の歩行者スペースは演説の聴衆でほぼ埋め尽くされていた。
〈民和党総裁選もいよいよ明日の投票を控え、この横浜の地での演説会を残すのみとなりました。今回の総裁選、全国各地を回り、国民皆さまの応援の声の大きさを感じ、民和党政治への関心の高さをひしひしと実感してまいりましたが、この横浜の盛り上がりはどうでしょうか。我々民和党は皆さまのご期待に応えるべく、今回の総裁選で生まれる新しいリーダーのもと、よりよい日本を作るために邁進していきたいと思っています〉
 立会人を務めるベテラン議員がマイクを使って挨拶をする中、候補者たちが聴衆に手を振り、拍手が湧く。
「応援じゃねーぞー!」
「民和党許すまじ!」
「許すまじ!」
 一方で市民運動グループからは痛烈な野次が飛んでいる。圧倒的アウェーの環境ながら、臆するところはまったくない様子である。
 その後、小園玲子を残して徳永一雄と大塚清志は演説台から下り、候補者たちの演説が始まった。演説台では警視庁のSPが候補者の左右に立ち、聴衆たちの様子に目を光らせている。
 小園、大塚と演説が続いたが、聴衆の多さの割に拍手などの盛り上がりはそこまで高まらなかった。市民運動グループの野次も乗り切らないかのように散発的である。
 ところが最後に徳永一雄が演説台に姿を見せると、地鳴りのような歓声と拍手が湧き起こった。まるでお目当ての人気アーティストがステージに登場したかのようであった。日が傾いていて、ちょうど演説台に照明が点いたこともそうした雰囲気づくりに一役買っていた。
 小川も何だか興奮してきて、周りの聴衆と一緒に拍手した。
〈横浜のみなさん、元気ですか!? 横浜が元気なら徳永も元気! 徳永が元気なら横浜も元気!〉
 徳永が発するだみ声に拍手喝采が上がる。
〈私はこの元気を日本全国に広げていきたいんです! 徳永が元気なら、日本が元気だと言われるようにしていきたいんです!〉
 徳永は以前、心臓の持病で倒れたことがあるので、体調に問題がないことをことさらアピールしたいようだ。実際、顔色は悪くないように見える。
〈日本経済はようやく長い病を脱しつつあります。言うなれば、五年前の私のように病み上がりです。これを今の私のように元気にしていかなきゃならない。横浜から元気にしていきましょうよ。そこそこ食えればいい、国は税金使って余計なもの作るな、一部の権益層がおいしい思いをするだけじゃないか、こういう後ろ向き思考に縛られて、日本経済、国際競争力はどうなりましたか? 我々は挑戦しなきゃいけないんですよ。新しい時代を切り開かなきゃいけないんです〉
「そうだ、そうだ!」と聴衆から合の手が上がる。一方で小園や大塚の演説では比較的大人しかった市民運動グループも「日本経済を駄目にしたのは民和党だろ!」「税金はお前らの金じゃないぞ!」と意気が上がってきた。
〈IRもその一つです。日本はすでに観光立国であって、多くの外貨を得ています。しかし、ここで踏みとどまっていてはいけない。さらなる投資をして、新たな魅力を作っていかなきゃいけない。そのためにもIRが必要なんです。そのロケーションは横浜が一番相応しいと私は思っています〉
 小川は聴衆とともに拍手をした。計画が順調に進んでもIRが完成するまでには十年以上かかるのかもしれないが、小川の定年には十分間に合う。いや、定年まで待たなくても、小川の本部長賞のキャリアを引っ提げていけば、県警にいるよりいい給料でカジノ会社に雇われるかもしれない。
 小川がそんなことを考えている一方で、市民運動グループの野次も大きくなってきた。
「横浜はお前んちの庭じゃない!」
「国がギャンブル中毒者を作るな!」
「利権が欲しいだけだろ!」
 拍手が終わっても野次は続き、徳永は演説を再開しようとしてやめ、市民運動グループのあたりをにらんだ。
「民和党許すまじ!」「民和党許すまじ!」
 市民運動グループが勢いに乗り、小旗を振りながらシュプレヒコールを上げる。
〈何でも反対、何でも反対。みなさん、こういう考え方で日本がよくなると思いますか? こういう人たちが日本を駄目にしたんじゃないんですか?〉
 徳永の煽りに聴衆全体がわっと沸いたが、同時に市民運動グループの怒りの導火線にも火をつけたようだった。
「徳永一雄許すまじ!」「徳永一雄許すまじ!」
〈あなたたち、お願いだから私を呪い殺そうとするかのようなことは言わないでくれよ〉
 徳永が呆れたように言い、聴衆から笑いが起きる。
〈デモ隊がヒートアップするようなら、議員の演説を妨げない範囲で鎮静に動くように〉
 無線に勝間警備課長のそんな声が乗ったが、なかなか無理のある指示だという感想しか湧かなかった。今警察が動けば、演説前以上の混乱を呼ぶだろう。
 しかし、その指示が耳に届いたかどうかというときには、隣にいた村瀬がなぜか動き出していた。人垣をかき分け、前へと突進していく。とはいえ、人の壁は厚く、なかなか進んでいかない。
 前方、市民運動グループの中でも何やら人の動きがあった。小川のところからは頭の揺れしか見えないが、誰かが前へと突き進んでいこうとしているようだった。
 喧噪の中、突き上げられる小旗に交じって、違う何かを持っている手が見えた。そして、それを奪おうとする手も見えた瞬間、そこからこぶし大の何かが投げ放たれた。
 徳永一雄も左右のSPも、何が起こっているのかすぐには把握できないように棒立ちになっていた。実際何も起こらず、何かゴミでも投げられただけかとも思われたが、それから数秒して銃声のような乾いた破裂音が鳴り響いた。
 演説車の上では、SPが慌てて徳永一雄に覆いかぶさり、その場に伏せていた。被害があったのかどうかは分からない。そこに追い打ちをかけるように、地鳴りのような鈍い爆発音が上がった。その瞬間、演説車が衝撃で揺れたように見えた。煙が立ち上り、やがて火の手が上がった。ガソリンに引火したのか、みるみる火柱が大きくなっていく。演説台からSPたちが徳永を抱きかかえるようにして降りていく。
〈何があった? 現場は報告しろ!〉
〈爆発物が投げこまれた模様。演説車が炎上しています!〉
〈発砲音もありました!〉
〈議員は!? 議員の被害を確認しろ!〉
〈議員はSPに抱えられ、車に避難! 被害の程度は不明!〉
 無線では拠点と現場との間で緊迫したやり取りが飛び交っているが、小川の場所から確認できる以上の詳しい報告は上がってこない。
 聴衆たちには炎上する演説車をスマホで撮っている者も多いが、後方へと逃げようとする者たちも少なくなかった。小川もどちらかに属したい気分だったものの、あとから本田に何を言われるか分からない。仕方なく、村瀬を追うようにして前へと進むことにした。
 しかし、逃げようとする人の波に圧されて、結局のところはその場で足踏みをしているのと変わらなかった。
〈犯人が逃走! 現場捜査員一名が被弾!〉
 ぎょっとするような報告が無線に乗った。
〈犯人は黒い革ジャンの男! 発砲して現場捜査員を振り切り、モアーズ方向に逃げました!〉
 あのライダースジャケットの男ではないか……小川は犯人に思い当たって、思わず「うげっ」という声を上げた。
〈逃がすな! モアーズ前にいる警備隊は犯人確保に動け!〉
 警備課長の悲痛な叫びのような指示が耳に響いた。

(つづく)