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「今どき、チンドン屋ですよ。これからってときに大音量の軍艦マーチ流されて、本当参りますよ」

 一日の疲れをさらけ出すようにソファに大きく背中を預けながら、植草が憤慨してみせる。

 ほとんど深夜に近い時間、〔AJIRO〕の社長室に網代と高鍬、曾根と植草が集まっている。高鍬と植草は選挙事務所での打ち合わせをこなして移動してきたようだが、ここは裏の選挙事務所と言ってもよかった。

 植草が憤りをあらわにしているのは、門馬陣営の妨害工作についてだった。演説中に救急車が呼ばれる工作が続いていたが、この日は新横浜駅前において、突然どこかのパチンコ屋の新台入れ替えを知らせるチンドン屋が目の前を回り始めて、演説を中断せざるをえない事態に陥っていた。

「まあ、その手口そのものはこちらが先ですからね」

 網代の話に、その妨害工作を成り立たせている曾根がうなずく。門馬の街頭演説に対しては、初日から一一〇番でパトカーを呼んでいるし、曾根もサイレンを派手に鳴らし続けろと内々に指示を飛ばしているはずだった。

「それを向こうはすぐにやり返してきてるんです。侮れないというか、手段を選ばない連中が向こうにも入ってますよ」

 その言い方は、こちらにも手段を選ばない連中がいると言っているも同然であり、それが網代たちを指しているのは間違いないのだが、植草自身は何の悪気もなく口にしているようだった。

 曾根が少し気まずそうに咳払いをする。

「まあ、こういうのがエスカレートしても得になることはありません。こちらから手を引くことで、お互いいったん矛を収めて、良識的な戦いをしようっていうメッセージを送るのも一計でしょう」

「致し方ない」網代は言った。「選挙戦の中盤に当たる次の日曜はみなとみらいで五千人規模の演説を成功させたいと思ってます。そこで潮目の変化を世間に印象づけたいだけに、何としても邪魔をされたくはありません。それまでは、少し大人しくしていましょう」

「そうしましょう」植草も網代が示した方針に乗った。

 妨害工作についてだけでなく、民和党県連議員の買収工作の進捗についてもこの場で話し合った。話し合うと言っても、ほとんどは高鍬の一方的な報告である。植草は話を聞いていないかのようにそっぽを向いているし、曾根は気まずそうにしかめっ面を作っている。別に彼らのいないところで聞いてもいいのだが、網代はあえて彼らの耳があるところでそれをやり、彼らに背徳の連帯感を持たせておきたかった。

 選挙戦をくぐり抜けたのち、その連帯感は生きてくる。

 

 選挙戦は日々情勢が変わっていく。

 門馬はサプライズ的に出直し選挙を仕掛けて一部から顰蹙を買ったものの、桐谷が力を握る民和党県連からの推薦を取りつけ、本命として選挙戦を引っ張っている。

 革新系からは党派ごとに二人の候補者が出ているが、前回、井筒孝典を担ぎ上げて痛い思いをした記憶が新しいからか、今回の候補者は小粒である。

 無所属新人の植草は当初、一般的には革新系の候補者と変わらない程度の重要性でしか扱われていなかった。

 しかし、徳永明雄を中心に、門馬ではなく植草に民和党の推薦を与えるべきだという動きが県連の中にあることが内外に知れ渡り、また〔Y's〕の後押しも強烈にあったことで、市長選が始まる頃には保守分裂選挙の構図が出来上がった。

 選挙戦が始まると高鍬が作った選挙対策チームが大がかりなSNS工作に乗り出した。AIによって植草賛美の投稿を間断なく生み出すと同時に、〔Y's〕による応援動画も無数の工作アカウントでいいねし、バズらせていった。あるいは過去の門馬の政治発言を悪意的に切り取り、彼の人格を疑わせるざんとして拡散した。

 こうした仕掛けによって、選挙戦の後半では植草の勢いが門馬を凌駕していくことを目論んでいる。差し当たって、中盤の日曜に向かって植草には地道に市内を回り、一人でも多く支援者を増やしてもらいたいところだった。

 しかし、週末に近づいていく中で、門馬陣営の策略と思われる動きが出てきた。

〈横浜市長選、植草の演説会場に爆弾を投下します〉

〈茂沢の同志です。威力は総裁選のときの10倍。何人かお陀仏します〉

〈聴衆の荷物検査してもムダです。遠くからカタパルトで打ちこみます〉

 何者かの物騒な犯行声明がSNSに投稿され、植草陣営は対応を余儀なくされた。

「夕方、帰宅時間帯にきくよしで演説を予定してましたが、取りやめざるをえないようです。今日明日は街宣車での活動だけで、市民との接触も避けることになりそうです」

 植草陣営と対応を協議した高鍬が、そんな報告を網代に上げてきた。

「馬鹿馬鹿しい。こんな門馬サイドの嫌がらせでしかないような話にいちいち振り回されるな」

「私もそう言ったんですが、警察も動き始めていて、とにかく何かあってからでは遅いと」

 網代は苛立ちを覚えながら、曾根に電話をかけた。

〈現場からも執拗な犯行予告で無視はできないという報告が上がっています〉曾根は自身も困惑しているように状況を語った。〈もちろん捜査は進めますが、今日明日の大規模な街頭演説は見合わせてもらうしかないということで植草陣営にも了解を得ているそうです〉

「こんなSNSの投稿にいちいち反応してたら、まともな選挙活動なんてできませんよ」網代は不満をぶつけるように言った。

〈私もそう思います〉曾根はそう理解を寄せてきた。〈ですがやはり、総裁選のときのこともありますし、県警としては慎重に対応しなければならないんです。日曜のみなとみらいは警備も厳重に固めて、何としても実施させます〉

「それだけじゃ駄目です」網代は言った。「門馬の街頭演説もテロの危険があると言って、見合わせるように説得してください」

〈しかし……〉

「何もおかしいことじゃありません。曾根さんならできるはずです」

〈分かりました……やってみましょう〉

 網代は半ば強引に曾根を説き伏せ、警察側に対応を委ねた。

 その日の夜、門馬側の動きを探っていたチームスタッフの報告を高鍬が持ってきた。

「警察は自粛を申し入れたようですが、門馬事務所は、犯行予告は我々には無関係だと言ってあざみ野での演説を強行しました」

「畜生」網代は歯噛みして悪態をついた。「自分たちが企てた話だから、害がないのも分かってやがるんだ」

「ただ、警察側も簡単には手を引かなかったようで、聴衆を近づかせないがんじがらめの警備で、演説が盛り上がることはなかったようです」

 曾根もそれなりには手を尽くしたらしい。

 しかし……。

 この問題は早急に何とかしたほうがいいと思った。

 こちらの妨害工作の上手を行くように仕掛け返してきているのは、向こうにそうした実行部隊が控えているからだと言っていい。前回の市長選では、門馬の後ろでそれをやっていたのは網代であり、ほかにはいなかった。

 おそらく、今回、門馬の後ろにいるのは県遊協の人間だろう。パチンコ団体の誰かだ。

 そしてそのさらに後ろには〔財慶会〕の片平がいるはずである。門馬はさすがに承知してはいないだろうが、後ろの者たちにも各々の事情があり、門馬を盾にして戦いを仕掛けてきている。門馬は半分気づき、半分気づかないふりをしながら、彼らに利用され、また彼らを利用しているのだ。

 ダーティーな争いでは、さすがにやくざは負けない。執拗さでは向こうに分がある。

 手を打つしかない。

「明日」網代は低い声で高鍬に言った。「片平に申し入れてこい。網代が一度会いたいと言っていると」

「分かりました」

 

 土曜日、網代は夜になって、関内の高級クラブ〔RISKY〕を訪れた。片平の愛人がママとして切り盛りしている店であり、網代は以前、ここで飲んでいたときに片平から声をかけられたことがある。

 一度は襲撃を企ててきた相手だけに、高鍬も会談のセッティングには慎重になっていた。当初は自分も同席することを考えていたようだが、そうなると片平側の人数も自ずとふくれ上がり、密談には適さなくなってくる。網代が店にいる間、高鍬は外の車の中で控えている。

 網代としては、この会談における安全面についてはそれほど心配していなかった。互いに顔が見えないところでは物騒な仕掛けを繰り出してきたとしても、顔が見えるところでは膝をつき合わせた話し合いができなければ、やくざも務まらない。

 店では黒服の案内でVIP室に通され、すぐにママが姿を見せた。

「お久しぶりです」

 涼しげな笑みで網代に挨拶した彼女は、緩やかな手つきでウイスキーの水割りを作りながら、「少し寒さも和らいできましたかしらね」などとたわいもない話を向けてきた。

 網代がそれに付き合っていると、数分して五十絡みの黒いスーツを着た男が入ってきた。数年前に会ったときより髪に白いものが混じり、渋みが加わっている。片平だった。

「本日はお時間いただきまして」

 言いながら立ち上がろうとする網代を、彼は手で制した。

「この俺と一席持ちたいとは、相変わらず、危ない遊びがお好きなようで」そう言って、網代のはす向かいに悠然と腰を下ろした。

 ママは片平にも酒を作り、「では、ごゆっくり」と微笑んで、静かに部屋を出ていった。

「それで?」

 片平は半分ほど水割りをあおったあと、本題を求めるように言った。

「早速ですが」網代は切り出した。「このあたりでお互い手を引くのがいいのではと思いまして」

「ふむ」片平は顔色を変えず、小さく首を動かした。「その条件は?」

 網代側から持ちかけた席であり、網代側から提案する話である以上、その話には網代側の譲歩があって当然だというのが片平の考えになる。網代としてもそれは理解しており、何を条件とすべきか考えていた。

「ひと山、包ませていただきます」

 一億――妥当だと思われる線を網代は口にした。

 二度ほど片平はうなずいてみせたが、了承したという意味ではなさそうだった。

「まあ、それくらいが落としどころなんだろうが、これについては難しいね」彼は言った。「こちらもカジノを横浜に引っ張りこむ運動の煽りを受けてシノギがだいぶ傷んだ。きゆう猫を噛むってな、国に比べたら俺たちみたいなのは路地裏のネズミそのものだよ。やっとの思いで生きてるのに、追い詰めすぎだ。そこまでやられたら、こっちも全力で噛みに行くしかない」

「心情としてはよく分かりますが、同時に危なっかしく思いながら見てました」網代は言う。「徳永さんへのやり方など、任侠の人が取る手ではない。めくれたら、系列全部つぶされるでしょう」

「それはお互い様だ」片平は薄笑いを覗かせながら言った。「あんたも普通のIT社長がやらないことをやってる。危なっかしくてしょうがない」

「お気遣いありがとうございます」網代は軽く応じて続けた。「それはともかく、時代の流れというものがあります。街中で開くような賭場が成り立たなくなるのも、これは時代です。片平さんのところはオンラインのほうも手を出しているんでしょう。これからはそちらに力を入れていくしかないんじゃないですか」

「オンラインなんかも過当競争でな。外国の業者と客を取り合うのもなかなか難儀だ。それにうちみたいな組織は古い人間も多くて、やっぱり生の鉄火場じゃないとシノギにできないっていう考えが強い。まあ、そういうのも含めて時代遅れだと言いたいんだろうが、代わりのシノギがあるわけじゃなし、本人たちは認めにくいもんだ。パチンコ連中も同じだよ。時代だ何だと言われたら、悪あがきするしかない。時代の波に乗ってるやつの足をつかんで引っ張り、同じように這いつくばらせるしかないじゃないか。だから、そこまで追いこんじゃ駄目なんだ。賢いやつなら、そのへんの機微は分かるはずだ。なあ、〔ワイズマン〕」

「まったくその通りですね。現実というのは厄介で、時代の波に乗ってるように見える人間も、実際には必死に付いていっているだけで、ほかの者のことなどは気にかけている余裕もないものです。足を引っ張られたら、蹴り飛ばすしかないとなる」網代は水割りを口にしてから続ける。「ですが、それでは何も解決しないと、今の片平さんの話を聞いて、つくづく気づかされました。ときには立ち止まって考えることも必要だ」

「ようやく同じ席に着けたようだ」片平はグラスを掲げて乾杯の仕草をしながら言った。

「逆に尋ねます」網代は訊く。「お望みは何でしょう?」

「ここまで話が進めば分かるだろうよ」片平は眉を動かして言った。「俺たちもその波に乗せてもらいたいってことだ」

「つまり、IRに噛ませろと……?」

「俺は今までにあんたの裏の顔を暴こうと思えばいくらでも暴けたが、そうはしなかった。たたこうと思えばいくらでもたたけたが、本気でそうはしなかった。それどころか、〔ワイズマン〕という名を方々で意味深に口にして、裏社会での響きをよくしてやったりもした。今でもうちの中で〔ワイズマン〕の正体を知ってるのは俺の手足として動く数人だけだ。なぜか……?」

「すべては今日この日のためだと?」

「俺はそう思うね」片平は言った。「どこかで組めると思ったからこそ、今まで好きにさせてた。つまり今日のためにだ」

「大変光栄な話で感慨深いことですが」網代は冷静に受けた。「この話にはいささか無理があります。IRは国策であり、事業の性格的にも、反社との関係にはことのほか厳しい目が光っています。おたくの構成員が関わっているような会社とは一切取引ができません」

「建前はどうでもいい」片平は鈍く光る目を網代に向けたまま小さく首を振った。「あんただって別にカジノ王になりたくて、IRに手を出したわけじゃないだろう。あんたは事業の元手十億をカジノやFXで生み出したなんて話が都市伝説のようにして語られてるが、もちろんそうじゃない。多少はFXで増やしたのかもしれんが、もともとそれはシノギで得た稼ぎだ。そしてそれを外国のカジノで洗っただけのことだ。つまり、あんたにとってカジノとは、マネロンのための装置でしかない。そしてその装置を自分でも手にしたいと思った。大きな金が動くわけだから、当然旨味も大きい」

「ご想像は自由ですが、IRはマネロン対策も厳重です。そんな簡単に装置として使えるような代物じゃありません」

「建前はどうでもいいと言ってるんだ」片平は低い声で言った。「俺は別に今まで通り、あんたらの足を引っ張り続けてもいい。政治に深くは首を突っこんでこなかったが、普通に行けば現職の門馬が有利だろうということは分かる。結果が出たら、あんたの悔しそうな顔を思い浮かべながら、一杯飲らせてもらうよ」

 網代はじっと片平を見返し、沈黙を作った。最大限の譲歩を想定して第二案を考えていたが、どうやらそれを出す必要がありそうだった。

「分かりました。腹を割りましょう」網代はそう口を開いた。「IRでのマネロンが難しいのは嘘ではありません。ただ私はそこにクリプトを絡ませたいと思ってます。いわゆる仮想通貨です。大小の取引所とつながることで、そこにマネロンの余地が生まれる。それだけでなく、〔AJIRO〕では新しいクリプトを発行する計画を進めています。これも〔AJIRO〕が関係しているサービスのネット決済はもちろん、IRでも使えるようにする。最大の旨味はここに発生するという目算です」

「なるほどな」片平はうなるように言った。「網代コインか。うまくいけば桁違いの旨味だ」

「私が片平さんに融通できるとしたら、発行時にその一部を差し上げるということです。もちろんこの場合でも特別なスキームが必要にはなるでしょうが、不可能ではないと思います」

「どれくらいの額が可能なんだ?」

「相場は変動するのではっきりとは言えませんが、だいたい十億を想定したいと思います。五億から十五億あたりを考えておいていただければいいかと。それ以上は足も付きやすくなるでしょうし、換金するにも現実的ではないでしょう」

 片平は落ち着き払って話を聞いているが、表情からは明らかに剣呑な色が薄れてきていた。

「悪くないな」

 片平は納得したように言った。

「IRともども今すぐ動く話ではありませんが、楽しみに待っていただけたら」

「いいだろう。それでこそ、あんたを遊ばせておいたかいがあったというもんだ」

 上機嫌に言った片平は、やくざらしい凄みを顔つきから消し、これまたやくざらしい人懐っこさを満面に見せて、網代に手を差し出してきた。

「まあ、よろしく頼むぜ」

「こちらこそ」

 網代も笑顔で応え、その手を握り返した。

 

 店を出てリムジンに乗りこむと、高鍬が「お疲れ様です」とねぎらいながら、すかさず「いかがでしたか?」と会談の首尾を尋ねてきた。

「まとまった」網代は嘆息を交えて答えた。「もう演説に邪魔は入らないだろう」

「そうですか」

 高鍬は網代の口調から、その交渉に対する複雑な気分を嗅ぎ取ったのか、やるせないように短く反応しただけだった。

 これまで、足もとを走り回っては舌を出して小馬鹿にしてみせ、散々庭を荒らしてきた相手にとうとう首根っこをつかまれた。それで、利子をつけた代償を払わされることになったのだから面白いわけがない。ビジネスには何の関係もない相手に十億くれてやらなければならないのだ。馬鹿馬鹿しく、はらわたが煮えくり返る思いだった。

 そしておそらく、将来的にはその十億で終わることはない。いったん譲れば彼らはそこに乗じる。横浜でカジノが続く限り、網代は彼らを養い続けなければならなくなる。

 とにかく、選挙戦を乗り切ることだ。

 選挙が終わったときに片をつける。

「明日、八手を呼べ」

 網代はささやくような低い声でそう口を動かした。

「分かりました」高鍬も前を向いたまま、小声で応じた。

 

 

30

 大学院棟の院生室を覗くと、畑村萌絵が修士の後輩たちとホワイトボードを使いながら市長選の見通しを分析していた。

「やっぱり、民和党支持層の変化だけ見てたら駄目なのよ。門馬さんは無党派層のIR反対派からも支持を得てる。中間調査で優勢なのも大きいし、差を縮められたのも意外と終盤に向けて有利に働く気がする。バンドワゴンとアンダードッグ両方が期待できる流れだと思うのよね」

「でも、植草さんの支持の伸びはかなり驚異的ですよ。〔ネッテレ〕のSNSアンケートじゃ、無党派層でも民和党支持層でもすでに優勢だそうですし」

「〔ネッテレ〕ねえ。最近あそこ、好き勝手やりすぎじゃない?」

「まあ、それはもとからでしょう。でも、影響力は侮れませんよ」

 選挙戦も折り返し地点をすぎ、いくつかのメディアが中間世論調査を発表した。おおむね門馬が三十パーセント前後。植草が二十五パーセント程度。革新系の二人が数パーセントずつ取り、残りの四割弱が態度を固めていない浮動票となっている。

 告示前は門馬が四十パーセント近くまで伸ばし、植草は十パーセントにも届かない程度だったから、情勢は動いている。それほど選挙に注目しておらず、植草を泡沫候補に毛が生えた程度の存在だと思いこんでいた梅本にも、彼への市民の注目度が上がっているのは肌で感じられるようになっている。デリバリーのバイト中にも、門馬や植草が街宣車で街中を回っていたり、支持者を集めて街頭演説していたりするところに行き合うこともある。勢いを感じるのは植草のほうだ。昨日のみなとみらいでの街頭演説も大勢の聴衆を集めて盛況だったらしい。

「あ、そうだ。試験監督の説明会があるんだった」

 萌絵は梅本の顔を見て、思い出したように時計を見た。

 明日、大学の入試があり、大学院生の中には試験監督のバイトを引き受けている者がいる。梅本もそうで、春休みになってほとんどキャンパスには来ていなかったが、今日は顔を出すことになった。

 キャンパス内の教室で開かれた説明会に出たあと、梅本は大学院棟に戻った。出島教授に、一度研究室に顔を出すようにというメールをもらっている。結局梅本はこの年度の後期、取るべき単位をほとんど取れていなかった。

 出島教授の研究室を覗くと、出島教授は珍しいものを見たというように目を見開いてみせた。

「そこに座りなさい」

 教授は鼻から軽く息を抜き、梅本をミーティングテーブルの席の一つに座らせた。

「君は新年度からどうするつもりだ?」

 出島教授は向かいに座り、単刀直入に訊いてきた。

「研究をがんばりたいと思ってます」

「続けるということか?」

「はい」

 出島教授の反応からして、梅本の返事にはいい印象を持たなかったようだった。唇をかすかにへの字に曲げた。

「まあ、君の人生だから私がとやかく言うことではないけれど」彼はそう前置きしてから続けた。「私は、今のままじゃ務まらないと思う。学究の道は果てしなく長い。君はまだどんな一里塚にもたどり着いていない。でももう、へばっている」

「学費や生活費の工面をしないといけないので」梅本はぼそぼそと言い訳した。

「そういう問題もあるだろうが、私が見ているのはもっと根本的な資質だよ」出島教授は冷ややかに言った。「研究者としてモノになるのは三通りだ。抜群の英才か、石ならぬ机にかじりついてでもやり遂げる根性があるか、あるいは要領がいいか。君はお世辞にも英才とは言いがたいし、机にかじりつく根性も体力もないようだ。要領に関しては絶望的と言ってもいい」

 畑村萌絵のような要領のよさも研究者には必要な資質というわけか……梅本はぼんやりそんなことを思った。

「もちろん、長い研究生活の中にあっては、いろいろ寄り道をすることもあるだろう。そうやってふらふらしながらも何とか研究をこなしていった院生たちも見てきた。ただ私はね、君が本当に研究がしたくてドクターまで進んだようには見えないんだ。何か、自分の居場所がなく、自分の居場所を探して、とりあえずの居場所を求めているうちに、何となく今の環境に身を置いてしまっているように見える。決して少なくない時間とお金を使ってね」

 ずいぶん手厳しい言い方ではあったが、さすが担当教官というべきか、自分のことを歯牙にもかけていないように見えて、意外なほどしっかり見ているのだなと感心したくなった。梅本自身も自分のことをそう見ているのだから間違いない。

「決して意地悪を言うわけじゃないが、この世の中、君のような人間は損をするようにできている。同じ労力で他人は十、二十の利得があるところ、五、十しか得られない。それを承知で生きていくのはずいぶんストレスがかかることだ。でもそういうものだとしてやっていくしかない。そして、少しでも無駄な労力をかけなくて済むよう、道を考えることだよ」

 梅本はどんな返事をしたらいいのか分からなかった。今までは、自分の覇気のなさを出島教授が生理的に毛嫌いして冷たくしているのではないかと漠然と思っていたが、そう考えていたときのほうが、まだ救いがあった。理詰めで徹底的に客観視された自分の姿を教えられるほど酷なことはないなと思った。

 

 考えてみると、梅本はこのところ、行き場のなさを持て余して、越村に会いに行っていたのだった。だからこの日も大学を出たあとは自然と元町に足が向いた。

「何だい、今日はしけた面して」

 越村は事務所に入ってきた梅本を見るなり、開口一番にそう言った。梅本自身は自分の表情などいつも変わらないと思っているが、越村には違いが分かるらしい。

「大学院の先生にきついこと言われちゃいまして」

 正月、実家で両親の期待を感じ取って、新年度からはまたがんばらなければと多少なりとも気持ちを新たにしていたところに、出島教授に極めて客観的に先行きのなさを指摘された。そのことを越村に話すと、彼は哀しげな微笑を作ってみせた。

「俺はそれ、先生がなっちゃいないと思うよ」彼は淡々と言った。「学者としてはどうか知らないけど、客観的な人物評なんて得意になって口にしてる時点で、指導教官としては三流だよ。大学の教授なんてただの専門馬鹿なんだから、誰かの人間性を偉そうに語るほどの素養なんて持っちゃいねえんだよ。指導するのも威張ってるのは駄目だ。どうせ研究なんてものは学生たちが自力で進めていかなきゃいけないんだから、教官はモチベーターに徹するべきなんだよ。教授の一言でやる気が出てきた。研究が面白くなった……そういう方向に持っていけないのは指導者として力がないってことなんだよ」

 越村の言葉は梅本の肩を持つがゆえのものであるし、彼のその言葉で梅本の今後に何か展望が開けるわけでもないのだが、気持ちを軽くしてくれたのは事実だった。

「まあ、一局指そうや」

 越村はすべてをなかったことにするように言い、ソファの前に将棋盤を置いた。

「でもまあ、研究者として身を立てるとか、一流企業に入るとか、それだけが人生の成功かっていうと、どうなんだろっていうのもあるよな」

 越村は盤上に駒を並べながら、ぶつぶつと言う。

「俺が若い頃、血迷ってそういう志を抱いてたとしても、すぐに音を上げてただろうしな。俺は自由気ままに生きるのが性に合ってたんだからよ。まあ、そんなんでも何とか食っていけてるんだから、深刻に考えるほうが損だよ」

「そうですね」

 それまでずっと黙って聞いていた梅本がほとんど無意識に相槌を打ったところ、越村は梅本をちらりと見てふっと笑った。

 それからしばらく、黙々と将棋を指した。ごくまれに梅本が勝つこともあるが、この日は実力通り、越村が優勢に手を進めていった。梅本がいくら落ちこんでいても、勝負事ではまったく手加減しないのが彼という男であり、梅本が反撃の手に悩んでいるのを見ながら、うまそうにお茶をすすっている。

 不意に、ローテーブルに三つほど置かれていた彼の携帯の一つが鳴った。

 液晶画面には「W」の文字が表示されていた。それを目にした越村の表情が少し曇ったように見えた。

 彼はすぐには電話を取らず、少し逡巡するようにその携帯を見ていた。しかし結局は仕方なさそうに電話を取った。

「はい、もしもし、どうも」

 越村はそんなふうに電話に応じ、あとは低い相槌を打ちながら相手の話を聞いている。その相槌の声には少なからず困惑の色が混じっているように感じ取れた。

「まあ、探してはみるけど、少し時間はかかるよ……いや、そのときの子はもうやらないってさ……いやいや、お金じゃないってさ。結局、淡野くんが手配されて、自分も捕まるんじゃないかって怖くなったんだよ」

 もしかして自分のことを言ってるのかと気になり、梅本は顔を上げた。越村と目が合ったが、彼は何食わぬ顔で電話の相手を続けている。

「いや、ちょっと分かんねえな。俺も新型インフルに罹っちゃってさ、三日前から寝込んでるとこなんだ」

 越村はそう言うと、早速ゴホゴホと咳をし始めた。

「え? ああ、淡野くんから名前は聞いたことあるけど、会ったことはねえな。どういうシノギか分かんねえけど、とにかくちょっと時間をくれよ……いや、相変わらずこっちには連絡もないよ。いや、本当に」

 越村は何とか話をかわすようにして電話を終わらせ、携帯をテーブルに置くと、やれやれと言いたげな息をついた。

「〔ワイズマン〕ですか?」

 梅本は液晶画面に表示された「W」という文字から想像できる名を口にしてみた。

 越村は気まずそうに梅本を見たものの、否定はしなかった。

「何か、俺が淡野くんを匿ってると疑ってるんだよな、あの人」

「〔ワイズマン〕は淡野さんのボスなんですよね?」梅本は首をかしげて訊いた。「匿ってるのを疑うってどういうことですか?」

「知らねえよ。向こうにも何か事情があるんだろ」越村は面倒くさそうに言った。「淡野くんは別に悪くねえよ」

 越村の態度からすると、淡野と〔ワイズマン〕の関係がこじれており、越村は淡野の味方に付いているようであった。

「俺の話、してませんでした?」

「え?」

「淡野さんが手配されて、自分も捕まるんじゃないか云々っていう」

「ああ」越村は軽く頬をゆがめてうなずいた。「運転手を用意してくれって言うから、ちょっと言い訳としてな」

「どういうシノギですか?」

「いやいや」梅本の問いかけを乗り気な反応だと受け取ったらしく、越村は慌てた声を出した。「やらねえよ。俺はもう〔ワイズマン〕の依頼は受けないって決めたんだ。百万だろうが何だろうが、駄目なものは駄目だ」

「運転手で百万なんですか?」

「兼松くん」越村はたしなめるように梅本を見た。「それだけ危ないシノギだって決まってるだろ」

 確かにそうかもしれない……多少なりとも興味を惹かれかけていただけに、梅本は我に返る気分になった。

「八手が仕切るって話だ」

「八手?」

「俺も淡野くんから名前を聞いたことしかないが、相当ヤバいやつらしい。話が通ったと思って、ここに押しかけてくるかもしれない。首筋にヒョウ柄のタトゥーを入れてるやつに出くわしたら要注意だ。関わらないほうがいい」

 言われなくても、そんな人間と関わり合うのはごめんだった。

「でも、新型インフルで寝込んでるってのは、ちょっとわざとらしかったですよ」

「そうか?」越村は心外そうに言った。「あれで〔ワイズマン〕も、なら仕方ないかって感じになってたぞ」

 越村としてはとっさの演技でうまく切り抜けたつもりらしい。

「ならいいですけど」梅本もそう言って話を終わらせた。

 高額のシノギは今でも魅力的だが、越村は先日からもう関わらないと言っているので、その分、あきらめはつきやすい。

 第一、春からの学費が必要なのか、このまま大学院に居続けるのかも今となっては気持ちが定まっていないのだった。

 

 

(つづく)