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〈門馬さんの給付案は単なる高齢者のご機嫌取りなんですよ。預貯金いくら持ってても、今現在収入が少なければ四万円もらえるんだから、高齢者はそりゃ喜ぶでしょう。でも、もらったお金はどうなりますか? 預貯金が四万円増えるだけですよ〉
〈高齢者だって、余裕のある人ばかりじゃないですよ。植草さんは自分のお祖父さん、お祖母さんのイメージで言ってませんか?〉
〈もちろん、その日暮らしの人もいるでしょう。金遣いが荒くて、金が入ったらすぐにパチンコ屋に行って使っちゃうような人。でもね、現役層が一生懸命働いて納めた税金を使って、そういう人たちに大盤振る舞いすることには、私は反対ですね〉
〈お金に困ってる高齢者はパチンコで散財してるとか、それはちょっと偏見がすぎるんじゃないですか?〉
〈何の偏見ですか? パチンコみたいなろくでもないことで散財する高齢者は少ないとおっしゃりたいんですか?〉
〈高齢者の貧困層に対しても偏見だし、同時にパチンコのイメージを悪くしようという意図も感じますよ〉
〈私は別にイメージを悪くしようと思っては言ってませんよ。お金が入ったらパチンコ屋に行く。そのときめきは大事だし、自由な生き方は尊重します。でも、あえて市の財政を使ってそういう人に給付金を支給しようとは思わないってことですよ。イメージを悪くするなとか、門馬さんはパチンコの話をするとなぜかムキになりますよね。どうしてですか? IRからの撤退を突然表明したことと何か関係あるんですか?〉
〈関係あるわけないでしょう。変な言い方はやめてください。第一、私は撤退を表明したわけじゃないんですよ〉
〈えっ、撤退を表明して出直し選挙に打って出たんでしょう?〉
〈市民に撤退論が優勢なら、それに従わざるをえないということです。市政は門馬に任せたいけど、IRもやるべきだという声も届いている。撤退か推進か、選挙後に改めて市民の声を拾っていきたいと思ってます〉
〈いや、何を言ってるんですか……〉
投票を二日後に控えた金曜日、網代は社長室で〔ネッテレ〕の市長選候補者討論会を観ていて、笑いを禁じえなくなった。門馬がみっともないほどに迷走している。
もともとこういう男なのだ。
徳永という後ろ盾がなくなり、市政を動かすにはIR撤退の大勢に乗るしかないと舵を切って出直し選に臨んだのはベテラン政治家ならではの勝負勘を発揮したと言ってやってもいい。しかし、民和党県連には徳永ジュニアをはじめ門馬に背中を見せる者が多く、党の推薦を得ても支持団体の積極的な動きに広がらない事態を招いている。
そして〔財慶会〕も様子見を決めこんだことで、それをバックに強気に出ていたIR反対派の連中も意気消沈せざるをえなくなった。そうした陣営の勢いの衰えは門馬自身、敏感に感じ取っているだろう。
一方で植草は完全に勢いづいている。相変わらず演説に中身はないが、本人に言わせるとそれも戦略であり、弁舌は爽やかなので清新さは十分感じさせる。そして討論になると門馬の痛いところを突くしたたかな攻撃性も見せてくれる。
金を握らせた民和党の県連議員たちは、党の推薦にかかわらず、植草の街頭演説に駆けつけ、ビラ配りを手伝ってくれている。これにより保守分裂の構造が形成され、民和党支持層からかなりの票が植草に流れると見られている。
さらには〔Y's〕が草の根的に動き、ボランティアで選挙活動を支えるほか、街頭演説を切り抜いてSNSや動画サイトに競うようにしてアップしている。中には、門馬の街頭演説は閑散とし、植草の街頭演説は聴衆でごった返しているように画像を加工してSNSに投稿する者もいる。ただ、そこまで小細工を使わなくても植草の追い上げムードは世間に伝わっているようで、後半に入ってから大手メディアも植草のことを取り上げる比重が増えた。
〔ネッテレ〕では電話とネット回答による選挙戦の世論調査を実施しており、中間調査の結果は報道チャンネルの配信番組でも公表しているが、非公表の調査も期間中、何度か行っている。
昨日行われた調査では、門馬二十八ポイントに対して植草は二十七ポイントと、ほとんど差がなくなっている。選挙戦前には四十ポイント近くあった門馬の支持は減り、十ポイント足らずだった植草の支持はぐんぐん上がっている。流れが植草に傾いているのは明らかだ。
それを意識して焦ったのか、門馬はIR撤退を公約に掲げて出直し選に挑んでおきながら、IR推進もやぶさかではないと言ってしまった。これでは撤退を公約に掲げているからこそ門馬を支援していた人々も呆れ返るしかないだろう。
「SNSでも〔Y's〕が大騒ぎしてますね」
網代と並んで配信番組を観ていた高鍬が言う。番組内でも視聴者のアバターが[門馬ぶれぶれ][風見鶏の本領発揮]と騒ぎ立てているが、番組外にも余波が及ぶのは時間の問題だと言えた。
「すぐに記事にして上げさせろ」
網代の指示に、高鍬が社長室を飛び出していった。グループ内のネットニュース配信会社が、番組が終わる頃にはこたつ記事を配信するはずだった。
番組が終わってしばらくした頃、高鍬が戻ってきた。
「早速、記事が配信されました」彼はそう報告してから続けた。「それから番組を終えた門馬が、社長に会いたいと言っているそうですが」
なるほど、先ほどの発言はこちらへの秋波だったわけか。推進を許容する姿勢を見せて、最後の最後、網代にすがりつこうということなのだろう。
それに応じて会ってやるのも一つの手ではある。まだ浮動票が三割あり、植草が勝てると言い切れる状況ではない。門馬が勝った場合に保険をかけておく考えもある。
しかし、一度裏切った人間は必ずまた裏切るというのが、網代が理解している世の理である。
「会うことはない。帰せ」
門馬のみっともない弁明や泣き言を聞いてみたい気持ちもあったが、網代は冷ややかに応えて話を終わらせた。
いよいよ投開票日を翌日に迎えた土曜日、植草は各所で多くの聴衆を集めた街頭演説をこなし、その盛況ぶりは〔AJIRO〕の社長室に詰めている網代にも刻々と知らされた。
そして晩冬の短い日も暮れ、最後のお願いである横浜駅西口での街頭演説が始まったという報告が届いた頃、網代の携帯に秘匿性が高いアプリでのメッセージが届いた。〔財慶会〕の片平からで、〔RISKY〕で待っているということだった。
網代は広い室内に響くほどに舌打ちを鳴らした。こういう相手は一度下手に出ると、人の鼻面を取って引き回すようになる。先週会ったばかりであり、そう何度も反社と顔を合わせていられるかと思うのだが、何か話があるようであり、行かないわけにもいかない。
二十時前、横浜駅での街頭演説が無事に終わったという知らせを聞き、網代は本社ビルを出た。リムジンに乗り、関内へと走る。二十時を回って街宣などの選挙活動が終わった横浜の街は静けさを取り戻していた。
高級クラブ〔RISKY〕では黒服が店の前で立っており、リムジンのドアを開けてくれた。そのまま店の中へと案内され、網代は先週と同じ個室に足を踏み入れた。
個室では片平がすでにソファに座って飲んでいた。目礼程度の挨拶を交わし、網代もソファに座った。
黒服が何やら片平に耳打ちしたあと、網代の水割りを作って出ていった。
「片平さん」網代のほうから先に口を開いた。「先週会ったばかりなのに、またこうして軽々しく呼び出されるのは困りますね」
「ちょっと訊きたいことがあってな」片平は言った。
無表情であり、どんな感情でいるのかは読みづらい。
「何でしょう?」
「じゃあ、単刀直入に言おう。あんたが何か、よからぬことをしでかそうとしてるんじゃないかって噂を耳にしたんだが」
まさか、もう気取られたのかという思いは湧いたが、その驚きは顔に出さず、網代はかすかに眉をひそめてみせた。「というと?」
「心当たりはないのか?」彼は鎌をかけるように訊いてくる。
「そう言われましても……」網代は白を切った。「誰から何を聞かれたんですか?」
片平は水割りのグラスに口をつけながら、舐めるように網代を見ている。ここでの多弁は疑惑を増大させるだけであり、網代は困惑気味に彼の視線を受け止めることに徹した。
「あんた、俺をどうこうしようなんてことを思っちゃいねえか?」
「どうこう?」網代はあくまでとぼけた。「消そうとか?」
そう言い、ふっと笑ってみせる。わざとらしくない程度に抑制は利かせた。
片平はその笑いに付き合わず、じっと網代を見つめている。
「まさか。いったい誰がそんなことを言ってるんです?」
高鍬が情報を洩らしているとは思えない。八手には片平を消すことを伝えているが、さすがに実行役自身がそれを周りに吹聴するとは思えない。今までの八手の仕事を見ても、疑うには無理がある。そもそも彼は今、ハワイに飛んで射撃訓練をこなしている。
あとは拳銃とバイクの調達を頼んだ槐と運転手の斡旋を頼んだ越村が計画の一端を知っていることにはなるが、ターゲットが片平であることは伝えていない。
「まったく身に覚えがない話だと?」
ネタは完全に割れていると言わんばかりの口ぶりで片平は網代を追い詰めてくる。もしかしたら、自分は生きてここを出られないのでは……そんな可能性がちらりと頭をかすめる。
「ありませんね」網代は小さく首を振った。「片平さんとは先週握ったばかりでしょう。私としては、懸案事項が一つ片づいてほっとしているのが正直なところです。選挙戦が正常に動き出して、それに集中できている。門馬陣営が守勢に回り始めたのも実感してますし、片平さんには感謝してますよ」
「ずいぶん譲らされた、気に入らねえって思いはないのか?」
「一人勝ちする気はありませんよ」網代は言う。「本音を言えば、片平さんのような方々がその腕力で動かせるものは、これから先、ますます少なくなっていくでしょう。昔のようなギラギラした栄華は望めないと思いますし、先行きが明るいとは思えません。ただ、それはそれとして、今の時点ではまだその存在を無視することはできない。譲ったほうが結果的にうまくいくのであれば譲るしかない。私は単純なビジネスの論理で動いているだけです」
「噂されるようなことは何もしてないと言い切れるか?」
片平は小首をかしげ、念を押すように訊いてきた。疑念そのものは自分の情報網に向きつつあるようでもあった。
「いったい、誰が何を言ってるんですか?」網代は逆に訊いた。「私は選挙戦に集中してましたから、そういう疑いをかけられても戸惑うだけです」
片平はすぐには答えず、無言で水割りに口をつけた。考えをまとめているようでもあった。
「一人で来るとはな」彼は不意にそんなことを呟くように言った。
選挙戦最終日ということで高鍬は植草陣営に張りついている。網代一人で来たのを迎えに出た黒服が確認して、片平に報告したのだ。
後ろ暗い企みを抱えているなら、用心して誰かを同行させるのが普通の感覚だろう……片平はそんな論理で網代への疑念が揺らいでいるようだった。
「こんな疑いをかけられていると分かっていれば、一人でのこのこ乗りこんできたりはしませんが」網代は皮肉っぽく言った。
「〔元町興業〕は知ってるだろ」
網代は慎重な反応に徹してうなずかなかったが、片平は網代が知っていることなど当然のこととして話を続けた。「あのおっさんにばったり会ったとき聞いた。おっさんも噂として聞いたようだが、どうもあんたが物騒なことを企んでるようだと。兄さんが揉めてるようならと、これは山下町の一件を耳にしたんだろう、十分気をつけたほうがいいぜと言ってきた」
「なるほど」
越村には運転手の斡旋を頼んだだけだが、それで片平に注意を促すとはずいぶん勘が働くのだなと、冷ややかな思いで感心したくなった。〔槐屋〕からも何か聞いたのかもしれない。
「思い当たる節はあるか?」
「なくもないです」網代は冷静に頭を働かせた末に、それが最善の言い訳だろうと判断して言った。「実のところ、越村には腹を据えかねてましてね。選挙戦とは別の話です。シノギを担当してた私の子分が下手を打ったので切ったわけですが、どうもあの男が匿っている節がある。少なくとも潜伏場所は知っていると思われるので私は何度も訊いているんですが、このところは私を避けるようになってましてね。ある意味私は敵も同然だと彼のことを見るようになってるんです」
「敵も同然……」片平は網代の言葉を反芻するように口にしながら、次第に唇を冷笑の形に吊り上げた。「注意を促してきた人間が、実際には標的だというわけか」
「間抜けな話です」網代も笑う。
「なら近々、あのおっさんの身に何かあるわけだ」
片平が目を不気味に光らせてみせたのに対し、網代は無言で応じた。それが肯定の表現だと受け取られることは分かっている。
「であれば、その事実をもって証拠とさせてもらうよ。何もないなら、この話はただの言い訳で、やはり俺を狙うつもりだったとなる。そのときは覚悟してくれ。あんたの正体は俺の下に付いてる者も知ってる。街頭演説の一件や山下町での一件を仕切ったやつだ。俺も敵は多いが、今後、俺の身に何かあったら、そいつはあんたの仕業だと判断する。死に物狂いで仇を討ちに行くだろう。無事に済むと思わないほうがいい」
「そんな馬鹿なことは考えませんよ」
網代は肩をすくめて淡々と言った。
片平に無理やり退路を断たされた鉄砲玉のような扱いを受け、網代ははらわたが煮えくり返るような思いで〔RISKY〕を出てきた。
越村を殺らなければならない。
救いがあるという言い方はおかしいが、この成り行きがまだ納得できるのは、標的が越村であるということだ。
彼は淡野が消えてから、明らかに網代への態度を変えてきた。今回の件でもこちらの斡旋の依頼に対して、引き受けたとも何とかするとも言わず、時間をくれの一点張りで、あげくには新型インフルに罹ったとの見え透いた嘘まで口にしてきた。お前に従うつもりはないと言わんばかりであり、その心根は、網代の企みを読み取って片平にわざわざ忠告してみせたことでもうかがい知れる。
もはや越村という男の存在は、網代にとって害悪でしかない。片平に迫られなくても早急に摘み取る必要があった。
翌日日曜日は市長選の投開票の日であり、網代は午前中、投票を済ませると、日が落ちるまで自宅であるみなとみらいのタワーマンションの部屋で休養を取った。
〈〔スマート・デリバリー〕です〉
夕方、スマホアプリで注文した中華街の炒飯と小籠包が届いた。配達員を居住階まで通すと、目もとまで前髪を伸ばした陰気そうなマスク姿の男が品物を持って現れた。
「ご注文の品は間違いありませんでしょうか」
「はい」
網代は料理をまったくしない。食にそれほどこだわりもなく、女がいるときは全部任せる。今はそうではないので、休日のこうした食事にはよくデリバリーサービスを使っている。
中がつぶれていないことだけを見て配達員を帰した。アプリで確認すると、梅本という名の配達員だった。学生のバイトかあるいは若手社会人の副業かは分からないし、どうでもいいことだが、おそらくは投票所に足を運ぶこともなく、この日曜日は配達の仕事で明け暮れたのだろう。網代は特に問題がなかったという意味でgoodボタンを押しておいた。
食事をとりながら、高鍬から送られてくる選挙情報をチェックする。比較的穏やかな晴天の日だったことも手伝ってか、現時点での投票率は前回選挙より高いようだった。特定の支持団体を持たない植草には悪くない条件だと言える。
ただ、〔ネッテレ〕が行った出口調査によれば、植草と門馬の票は拮抗している。おそらくどのメディアもかなり開票が進まない限り、どちらにも当確は打てないだろう。
二十時頃、網代は迎えに来たリムジンに二分ほど揺られ、同じみなとみらいの〔AJIRO〕本社に移った。社長室に入り、壁の大画面に〔ネッテレ〕の報道チャンネルを合わせる。〔ネッテレ〕で地方選の開票番組を配信することはめったにないが、横浜市長選に関しては昨年に引き続き、今回も特別番組を組んでいる。二十時を回り、それはすでに始まっていた。
しばらくして、高鍬が神奈川県警の曾根を伴い、社長室に姿を見せた。開票速報を見守るべく、曾根を呼んでおくよう、高鍬には指示をしていた。
「だいぶ競ってるようですね」
曾根はやきもきした口調でそんなことを言いながら、網代の向かいのソファに腰かけた。選挙戦が始まる前は首を突っこむことにすら困惑する様子を見せていたが、甥の植草を投入した以上、彼も他人事ではなくなった。今では堂々とした裏の選対本部の一員である。
「優勢の手応えはありますが、もしかしたら実際の開票が終わらないと結果は出ないかもしれません」網代は言う。
「ずぶの素人がよくここまで健闘したと言ってやってもいいが」と曾根。「ここまで来たからには勝ってもらわないと」
「金曜の討論番組での門馬の日和った言動から、植草さんへの流れは加速しています。ただ、票差は一万もないでしょう」
高鍬の見方は、勝敗は浮動票次第であり、まだまだ楽観視はできないというものだ。曾根は息苦しそうに小さくうなっている。
〈植草さん、初めての選挙戦を戦っての感想を教えていただけますでしょうか〉
〈いやあ、あっという間でしたね。このあっという間という感覚こそが選挙なんだろうなと思いました〉
当落はまだ決まっていないが、植草が選挙事務所との中継で竹添舞子のインタビューに答えている。自信があるのか単に選挙が終わってほっとしているのか、口調は滑らかだ。
「こいつでよかったのかどうか……」
曾根のぼやきは、これほど気を揉むなら自分が出たほうがよかったかもしれないと言いたげのものだったが、ここまで流れを呼びこめたのは、植草という男の若さと、ある種の中身のなさがあればこそだったと網代は思っている。
植草とは逆に、門馬のほうは選挙事務所も閑散としていて、門馬本人は別の場所で開票の行方を見守っているという。植草は〔ネッテレ〕に恩義があるため結果前のインタビューにも応じているが、門馬はそうする義理もないということでもある。
開票が少し進み、革新系候補者二人の落選が確定した。投票率が上がったことで浮動票の上積みがあり、事前予想よりも健闘はしたようだが、今回、野党は前回の井筒のような大物候補者を用意できず、門馬の不意打ち戦略に対応できなかった形となった。
植草と門馬二人のサバイバルレースに突入してからは長くなった。番組では刻々と票が積み増される区ごとの開票状況の情報が伝えられる。植草が優勢な区もあれば、門馬が優勢な区もある。若干今は、門馬のほうが優勢にも見える。しかし大票田の港北、青葉、鶴見、戸塚といったところの開票はまだそれほど進んでおらず、植草も力を入れて回ったところだけに悲観するには早い。
政治評論家が二人の選挙戦略を何度も振り返り、〔Y's〕の論客やタレントゲストが取りとめもない政治談議に花を咲かせる。それが長時間続き、さすがに気持ちが倦んでくるが、その間も少しずつ開票は進んでいく。
大票田の区の開票率が九十パーセントを超えた。どこも僅差ながら植草がリードしており、その差は八十パーセント台のときより広がったように見えた。集計は候補者ごとに票がまとめられ、あとからどんと増える場合があるので何とも言えないが、網代はひそかにどうやら勝ったようだという予感を得た。
「日付が変わる頃までには決まってほしいところですな」
曾根も見通しに明るさを見出したように、そんなことをぽつりと言った。
「高鍬、アルマンドがある。用意しとけ」
網代は焦れる思いで先走るように指示した。高鍬が部屋のワインセラーからシャンパンを出し、氷を詰めたクーラーに入れて、シャンパングラスとともにワゴンに載せて運んできた。
そのタイミングを待っていたように、高鍬の携帯が鳴った。
「はい、お疲れ様です……」電話に出た高鍬が、一瞬ののち、彼には珍しくはっとしたように顔色を変えて網代を見た。「分かりました。よろしくお願いします」
彼は電話を切ると、その手でシャンパンをクーラーから取り上げてみせた。
「倉重プロデューサーから、植草さんに当確を出すと。NHKでは速報が出たそうです」
「よし!」
網代は思わず曾根を見た。曾根は呼吸を忘れていたかのように、言葉にならない声とともに大きな息を吐き出した。
ほとんど同時にお互い、手を差し出し、力強く握手を交わした。
「乾杯しましょう」
高鍬が手際よくシャンパンをそれぞれのシャンパングラスに注いだ。
「勝利を祝して」
網代が言い、自分のグラスを曾根のグラスに合わせた。
曾根はほとんど一気にグラスのシャンパンを喉に流しこんだ。その様子からも彼の高揚ぶりがうかがい知れた。
「いやあ、網代さんはすごい」彼は少ししてから、感嘆混じりにそんな言葉を吐いた。「まさか本当に現職市長を破ってみせるとは」
「植草さんの努力の賜物ですし、その彼を見出した曾根さんの眼力があればこその結果ですよ」
網代は淡々と応えたが、曾根ははっきりと首を振った。
「いや、今回ばかりは思い知りました。甥はただの警察官僚で、本来なら思いつきで選挙に出て現職市長を打ち負かせるようなタマじゃない。驚きです」
植草の当選がほとんどすべて網代の働きによるものだと正確に認識している人間は何人もいないだろうが、曾根はその一人であるようだった。網代は彼の言葉に満足した。
速報のチャイムが鳴り、〔ネッテレ〕の配信画面に[植草壮一郎氏、当選確実]というテロップが出た。
〈速報です! 植草壮一郎氏に当選確実が出ました! 新顔の植草氏が現職の門馬市長を破って当選です!〉
竹添舞子の興奮した声が速報を伝えている。
日付が変わる頃には曾根も帰り、大画面の配信番組も消されて、社長室は静かになった。
「片づけたら、今日はいい」
シャンパングラスを片づけ終えた高鍬に言う。
「では、失礼します」
一礼して社長室を立ち去ろうとする彼を、網代は「高鍬」と呼び止めた。
「八手はまだハワイか?」
「もう少し慣れたいということでしたので、帰ってくるのは水曜か木曜頃かと」
淡野の件で下手を打っただけに、今回の八手は汚名返上とばかりに気合が入っている。ただ、事情が変わった。
「片平の計画は中止だ。向こうに洩れた」網代は言う。「銃もキャンセルしろ」
「洩れたとは?」高鍬は少し驚いたような顔を見せた。
「越村だ」網代は忌々しい名前を口にした。「やつが勘よく察して、片平に注意しやがった」
「何と」
「片平には何とかごまかしたが、その代わり、越村を消すことで帳尻を合わせることになった」
「それは当然の報いでしょう」
「越村相手に銃はいらない」
「分かりました。八手をすぐに呼び戻します」高鍬は言った。
(つづく)