5
「しかし、冴えねえな」
山手署の捜査本部も長期戦となり、会議終わりのアルコールの差し入れも滅多に出なくなった。今日は久しぶりに出たと思ったら、安い缶チューハイだけで、「一人一本ですから」という制限が山手署刑事課の河口敬彰によってしつこく言い渡された。
その缶チューハイをちびちび飲みながら、先輩刑事で捜査一課特殊犯中隊所属の戸部幸成が思わずというように愚痴っている。
「一課の裏金があれば、こういうのも、もうちょっと違うんでしょうけどね」
刑事特別捜査隊の小川かつおがそう言うと、「不謹慎すぎるんだよ」と戸部に頭をはたかれた。
ただ、そのはたく手には、小川をいじることを趣味にしている戸部にしてはいつもの力がない。
「戸部さんもパワハラが駄目だってことがようやく分かってきましたかね」
「何の話だよ?」
「力の加減が」
「そんなんじゃねえよ」
戸部は面白くなさそうに言い、缶チューハイをあおる。
「何か肩身、狭いっすよね」
そんな戸部を見て、捜査一課強行犯中隊所属で小川の同期でもある久留須理が苦笑しながら近づいてくる。
「一課はこういう帳場、肩で風切って歩くのが普通でしたからね」
「久留須んとこはまだ上が無事だからいいよ」戸部が言う。「俺は一課に来てからの上司、二人ともアウトだからな。何か、俺まで悪いことしてたように見られてる気がするよ」
戸部は強行犯中隊時代は中畑課長代理の下に付き、この春からは特殊班に横滑りして秋本課長代理の下に付いていた。その二人の課長代理がそろって一課の裏金問題に絡んでおり、現場から外れてしまっている。
「まあ、カラ出張の請求くらいは手伝ってただろうって疑われちゃいますよね」
小川が言うと、戸部は「お前みたいなのにな」と、今度は強く頭をはたいてきた。
「いやあ、俺もだいぶサゲサゲですよ」久留須が言う。「やっぱり、若宮さんが倒れたのがショックですよね。別に好きも嫌いもなかったですけど、大将は大将らしくしててもらわないと」
若宮は〔リップマン〕に一課の裏金を脅し取られた事件が表沙汰になり、本部長に呼び出されたところで卒倒してしまい、即入院となった。今は退院したようだが一課長を外れて総務部付となっており、現場に戻ってくる見込みはない。
「新しい一課長は鉄道警察から来てますけど、その前は監察官だったそうですからねえ。一課はこれから大変ですよね」
このほどようやく若宮の後任が決まり、鉄道警察隊長だった増川保という男が捜査一課長兼理事官として赴任してきたようだが、任されたのは捜査指揮ではなく綱紀粛正だとばかりに口うるさい勤務指導が始まっていると聞く。
「まあ、帳場勤めしてるうちは関係ないけどな」戸部が言う。
一課長だけでなく、刑事部長も岩本から稲葉という男に替わった。これも裏金問題を受けての引責処分だと思われるが、警察庁の人事であり、刑事部長などほとんど会う機会はないので、やはり現場には関係ない。
問題が大きかったことから、本部長にも責任が及びそうな気はしたが、曾根本部長は何もなかったように現職にとどまっている。
「でも、ここはここで特捜隊が幅を利かせてるから、微妙なんだよな」戸部が嘆きどころはそこだとばかりに言う。「小川みたいなのがでかい顔してるし」
「僕の顔は物理的にでかいんですけどね」小川はそう切り返した。「まあ、これからは特捜隊の時代ですよ。来年にもまた人員を増やしていくんじゃないですか。お二人も何だったら、僕が巻島さんに口利いてあげますよ」
「いらねえよ」戸部が馬鹿馬鹿しそうに言う。「こちとら腐っても捜一だぞ」
「“でんぐりくん”の世話になるほどプライドは失ってはないっすよね」久留須がにやりとして言う。
「で、でんぐりくんって何だよ?」
知らないうちにまた新たなニックネームが広まっているようだ。
「しかし、相変わらずお前は人事の話が好きだよな」久留須は小川の焦りをよそに言う。「青山とも気が合うだろ」
「いやいや、青山は何考えてるか分かんないやつだからね。僕はむしろ近づかないようにしてるんだよ」
青山祥平は小川と同じ刑事特別捜査隊に属しているのだが、小川は彼こそが〔リップマン〕と通じているとされる〔ポリスマン〕ではないかとにらんでいる。同期だからといって青山と仲よくしていたら、彼が〔ポリスマン〕だと分かったときに小川まであらぬ疑いをかけられかねない。そのため、彼とはしっかり一線を引いていることを強調しておかなければならない。
久留須には「何だそれ」と言って不思議そうな顔をされたが、刑事総務課長の山口真帆に他言無用を言い渡されているので、事情は明かせない。
しかしと、小川は会議室の隅で足柄署の津田と缶チューハイを片手にぼそぼそ話しこんでいる青山を見ながら首をかしげたくなった。
小川は前に、この疑念を山口真帆に打ち明けた。真帆は話の重大性を理解し、巻島にも伝えたと思われ、やがて巻島の盟友でもある津田が青山のバディとして付くことになった。これは巻島が青山を見張るために付けたのだと小川はひそかに興奮した。
だが、それからかなり日が経っているものの、青山の様子に変化はない。相変わらず小川らとともに捜査に参加し、捜査本部にいるときは何やら観察するような目をしてほかの捜査員たちの姿を眺めている。
それどころか、このところは津田も一緒になって会議室の隅でぼんやりと捜査本部の光景を眺め、時折青山とぼそぼそ話しこむようなすごし方をするようになった。前はもう少し青山のほうに目を向けていたように思う。
青山が容易に尻尾を出さないのか、あるいは津田自身も青山に取りこまれてしまったか……小川は自身の推理を働かせながらもこれという答えは見えず、もやもやとした気分になるのだった。
「何、青山さんのこと見てるんですか、でんぐりさん」
気づくと、戸部や久留須は飲み干した缶チューハイの缶を捨てに行っており、特捜隊後輩の小石亜由美と刑事総務課長の山口真帆がそばに寄ってきていた。
「君か、また変な呼び名を流してるのは」小川は小石亜由美をにらんで文句を言う。
「やっぱり、いねむりさんのほうがいいですか?」
「いやそれは、でんぐり返りのほうがましだけど」
「じゃあ、いいじゃないですか」
「どっちもよくないよ」
〔リップマン〕に対して緊急配備を敷いた日、そのきっかけは小川が寿町で当の〔リップマン〕に出くわしたことだった。
小川は向かいから歩いてきた人物が〔リップマン〕に似ていることに気づいて、職務質問を試みた。身分証を提示させ、怪しい言動を見せるならば、腰にしがみついてでも相手の動きを封じて助けを呼ぶつもりだった。
ところが、〔リップマン〕に機先を制された。胸を突き飛ばされ、小川が路上をでんぐり返りしているうちに彼は逃げ出していた。起き上がったときには、その背中はもう遠くなっていた。
このときの状況を、小川は捜査本部に帰ってから、巻島や山口真帆らに迫真の演技で再現してみせた。会議室の床をごろごろと転がり、臨場感たっぷりに報告したのだ。
それがいつの間にか小川の新しい呼び名になってしまっているらしい。明らかな失態である居眠りよりはましだが、刑事の呼び名としては何とも格好がつかない。第一、あのときの状況では、それが巻島であろうと本田であろうと、小川のように路上を転がされていたと思うのだ。
「それよりでんぐりさん、青山さんを〔ポリスマン〕だと疑ってるらしいじゃないですか」
「な、何でそれを!?」小川はぎょっとして目を剥いた。
「そんな証拠もなく人のことを疑ってかかったら駄目ですよ」
「ちょっと小石さん」真帆が苦笑している。「その話は秘密だって言ったでしょ」
「でも、この人、相変わらず青山さんをじろじろ見て疑ってるみたいだから」亜由美が構わず言う。「青山さんは〔ポリスマン〕じゃないらしいですよ」
「えっ?」
「だから、それも秘密なんだってば」真帆は仕方なさそうに笑っている。「本当、小石さんはおしゃべりなんだから」
「あなたがおしゃべりなんでしょう!」小川は思わず真帆を責めた。
「ごめんごめん」彼女は軽い口調で謝った。「でも、青山さんが〔ポリスマン〕じゃないってのは、その通りらしいのよ。それ以上は詳しく言えないけど」
詳しく言えないというのは、それなりの根拠があるということか。どうやら自分は見当違いの疑いを抱いていたらしい。
「だけど、青山じゃなかったら、小石さんの可能性だってあるんですよ。それをべらべらしゃべって」小川は何となく収まりがつかず、そう矛先を変えた。「〔ポリスマン〕なんて呼んでおいて、実は女だってこともありえますからね」
「でも、小石さんは一人で砂山兄弟の家を突き止めて、彼らの逮捕に貢献したじゃない」
「う……」
その話を持ち出されると、小川は居眠りの失態を責められているようでつらい。
「そうですよ」亜由美も勝ち誇ったように言った。「居眠りしたりでんぐり返りしたりして犯人を逃がしてばかりいる小川さんが疑われるんなら分かりますけどね」
亜由美の言葉を聞いて、真帆がぷっと吹き出す。
「でもまあ、それも無理があるわよね。小川さんが疑わしかったら、巻島さんたちも青山さんの件、本気で耳を貸そうとは思わないでしょうし」
「そうですね」亜由美もうなずいている。
「その言い方は失礼でしょう。まるで僕が疑う価値もないみたいに」
「疑われないのはいいことよ。人徳、人徳」
小川としては本気で抗議したのだが、真帆には笑ってかわされて終わった。
「まったく」
おしゃべりを続けながらその場を離れていく二人を見やりながら、小川は嘆息する。
しかし……。
青山が〔ポリスマン〕でないとするなら、いったい誰だというのだ。
6
十月に入り、下旬に行われる民和党の総裁選に向け、神奈川2区選出の実力派議員で現国交大臣の徳永一雄が立候補を表明した。
ほかに前外務大臣の大塚清志と党政調会長の小園玲子も相次いで立候補を表明した。現総裁の外木場総理大臣は不出馬を決めており、党内基盤の弱い小園をダークホースとして、実質徳永と大塚の一騎討ちになると見られている。
徳永が出馬表明した翌日、網代は三枚重ねにした〔ミナト堂〕の紙袋を手に提げ、徳永を激励すべく永田町の衆議院議員会館前に降り立った。
会館に入り、エレベーターを待っていると、開いたエレベーターから知った顔の男が降りてきた。
「ほう、政商が来とるか」
横浜市議会の議長を務めている民和党神奈川県連の重鎮、桐谷文治だった。市議会議員の身ではあるが、歳は八十を越え、政治家としてのキャリアは徳永より長い。国会議員、県会議員、市会議員が所属する県連においても徳永に次ぐ発言力を持っているとされ、こと横浜市政においては市長の門馬も彼の機嫌を損ねては何も前に進めることができないと言われる。
網代はもともと、横浜の政財界の面々とはあまりつながりを持ってこなかったが、IR計画に乗っかっていく中で必然的に自身の顔を売っていくことになった。それだけに桐谷あたりからは、にわかに徳永や門馬の懐に入ってきた怪しい実業家というイメージを持たれている。またそれは、客観的な人物評価としては極めて正しいと言えるのだった。
「これは桐谷先生、ご無沙汰しております」
桐谷はその挨拶には応えず、網代が手にしている〔ミナト堂〕の紙袋をちらりと見やった。
「あの人も相変わらず甘いものが好きなようだな」
政治の世界が長い男だけに、菓子の差し入れと見せかけながら、そこに数百万程度の札束が一緒に入っているくらいのことは承知しているだろう。彼の言葉にはその意が含まれている。
しかし、紙袋に入っている包みの中身すべてが札束とまではさすがに思っていまい。
「徳永さんもIRなんて馬鹿馬鹿しいものに手を出さなきゃ、何の問題もなく総理総裁になれるんだろうがな」
桐谷は陰湿そうな目を網代に向けながら、そう言い捨てて歩き去っていった。
桐谷は市長の門馬が打ち出したIR計画の横浜誘致案に対して、反対する立場を取っている。私立学校の理事長を務めている立場からの姿勢らしいが、その実態は、遊技場協同組合やホテル業界などIR計画を阻止したい地元財界の一部が彼のバックに回ってこそのものである。
市議会には桐谷の影響下にある者も少なくなく、IR誘致に関しては党内でも意見が割れている。門馬が夏に計画推進を唱えて市長に当選したものの、事業地立候補の採択を市議会で採るにはまだまだ時間が必要だと見られている。
「やあ、網代くん、待っとったよ」
エレベーターでフロアを上がり、徳永の事務所が入っている部屋を覗くと、徳永が快活な声で出迎えてくれた。数年前に心臓の持病で倒れ、バイパス手術を受けたこともある徳永だが、今は総裁選への出馬を表明し、気力がみなぎっているのが顔色にも表れている。
「このたびは出馬表明、おめでとうございます。私も陰ながら、精いっぱい応援させていただきます」
「うん、うん」徳永は感じ入ったようにうなずきながら、網代を応接ソファの向かいに促した。「君のような若い者の力を私は頼りにしとるんだよ」
「甘いものがお口に合うか分かりませんが」網代は応接テーブルの上に〔ミナト堂〕の紙袋を載せた。「陣中は体力勝負ですので、ささやかながらお届けに上がりました」
徳永は紙袋のずっしりとした重みを確かめ、にやりと笑った。
「これを待っておった。私の大好物だ」
紙袋には現金五千万が入っている。ただ、それが神奈川県警の捜査一課から淡野が奪った裏金であることは、さすがの徳永も想像が及ばないだろう。
党の総裁選は公職選挙法の縛りを受けず、票を集めるのに現金が飛び交うのが通例だ。だからと言って違法献金や、ましてや犯罪で得た金が認められるわけはないが、誰かの懐に入って消えていくだけのものなので、出どころなど問われることもない。
「下で桐谷さんにお会いしました」
「おう、来た来た」徳永は顔を大げさにしかめてみせた。「市会議員風情が偉そうな口たたきおって。IRを撤回しないと神奈川の党員をまとめ切らんと抜かしおったわ」
「徳永先生に撤回を迫るとは、ずいぶん強気ですね」
「徳永はもう、国にしか目が向いてない。横浜のことを何とかできるのは桐谷だっていう空気をうまく作り上げてる。うちの秘書連中も、徳永さんは偉くなりすぎて逆に頼れないなんて、地元で言われて困ってるらしい」
「国の論理で進めてる話じゃないことくらい、地元の人たちにも分かってもらいたいものですけどね」
「カジノを作るなんてありがた迷惑だって考える連中はいっぱいいる。だいたい、地元のやくざからして、横浜の風紀が乱れるなんて言って、IRに反対してるらしいからな」
徳永の冗談に網代は笑ってみせたが、〔財慶会〕がIRに腹を立てているという話はちらりと耳にしている。風紀云々という理由ではなく、県警が前準備として、闇カジノなどを徹底的につぶしている実情があるからだ。横浜の街中にある闇カジノにはほとんど例外なく〔財慶会〕が噛んでいる。連中にとってはシノギをつぶされているのだから、死活問題だと言っていい。
「だからと言って、推進の手を緩めてはなりません」
網代の言葉に、徳永は「もちろんだ」と呼応するように言った。「もともと、私がこの日本にカジノを作ろうと言い出したんだ。それを実現させるのに、地元の横浜を抜きにしてどうする。徳永一雄ほどの政治家がやると言ってることを止めようとするほうがおこがましいんだよ」
「その言葉を聞いて安心しました」
徳永は鷹揚にうなずいて続ける。「だが実際問題、市議会レベルの意見形成まで私が面倒を見るわけにもいかない。そこは門馬に任せてるが、彼も桐谷らにはほとほと手を焼いてるようだ。君も一度門馬に会って、しっかりしろと尻をたたいてやってくれよ」
「激励させていただきます」網代は応えた。
数日後、網代は横浜市長の門馬を西麻布に誘った。
市長に当選して以降、門馬は会員制ラウンジなどをダシにしない限り、網代と会うのをどこか面倒くさがるようになっていた。新進の実業家風情にいちいち構っていられるかという門馬の元来の政治家気質がどうしても顔を出すようだ。
ただ、西麻布で飲みませんかと誘うとほいほい乗ってくるのも門馬らしい軽薄な一面である。車で送り迎えし、網代が出資している会員制ラウンジの個室で飲ませる。支払いはもちろん網代が持つが、領収証は割り勘の体で店に切らせる。至れり尽くせりであり、門馬にはお気に入りのキャストもいるので、余計に、俺と話がしたいなら西麻布に連れていけという態度になるのだ。
ラウンジの個室に入ると、もう網代のことなど見えていないかのように羽目を外してキャストと飲み始める。政治の話など差し挟もうものなら、無粋なことをするなとばかりに舌打ちを返されるだけだ。
なので、門馬との話は社用のロールスロイス・リムジンに並んで座る間ということになる。
「徳永先生もいよいよ一世一代の大勝負のときが来ましたね」
車が夜の首都高の流れに乗ったところで、網代はそう切り出した。
「そうねえ」門馬は軽い口調で受ける。「でもまあ、難しい戦いだよ」
「苦戦と見ますか?」
「いや、ただの顔見せだった十二年前と比べたら、今回は本命だし、よくぞここまで登り詰めてきたと思うよ。ただ、俺から言わせたら、本当に出るべきだったのは六年前だね」
多少なりとも旬がすぎつつあると言いたいらしい。失言が多く、政治勘にも乏しい男だが、一人前の評論めいたことは図太く口にする。
「徳永先生が六年前に総理総裁になられてたら、私など知遇を得る機会もなくなっていたでしょうね」網代は彼の話をそんなふうに受け止めた。「徳永先生としては今回、満を持しての出馬ということになりますから、それだけ懸ける思いもひとしおでしょう」
「俺ももちろん、徳さんには勝ってほしいよ。でも、選挙ってのは気持ちだけじゃできないからな。冷静に算盤を弾かないと。今回、それができる参謀があの人の周りにいるかどうかだ」
「市長が国政に残っておられたら、その役目を担われていたでしょうが」網代は馬鹿馬鹿しいと思いながらも、そんな言い方で門馬を持ち上げた。
「どうだろうねえ」門馬は言う。「まあ、俺が側近をやってたら、いったんIRの件は脇に置いときましょうとは言うかもね」
何を言い出すのかと、網代は横目で怪訝に彼を見やった。
「IRは徳永先生の宿願ですから」
「そんなことは分かってるけど、あれは本当、地元で評判悪いんだよ。あの計画のせいで神奈川の党員票もまとまらないなんて言われてるんだから」
「市長は推進の旗を堂々掲げて当選されたじゃないですか」
「俺のときは運よく井筒が自爆してくれたからね。今回、大塚や小園にスキャンダルが出るなんてことを期待するわけにもいかないだろ」
井筒孝典がスキャンダルで戦線脱落したのは網代が動いたからだが、この男は幸運の女神が自分に微笑んだからだと思っているらしい。
「門馬先生は市長になるべくしてなられた。井筒孝典は落ちるべくして落ちたと私は思っています。それは、門馬先生には果たすべき役割があるからです。もちろんIRのことですよ。それを推し進めるべきだという天の声、神の意思だと私は思っていますよ」
「神の意思だなんて」門馬は声を立てて笑い飛ばした。「網代くんは何かの思想に嵌まってるの?」
「そういうわけではありませんが、運命とも言うべき大きな意思は存在すると思っています」網代は言う。「人間社会だからこその大きなうねりがあって、我々は好むと好まざるとにかかわらず、そのうねりに呑みこまれるしかないと思うんです」
「それは世論のことか? 我々が言うところの風ってやつじゃないのか」
「それもうねりの一つでしょう。ただ、風というのは簡単に向きが変わります。もっと強いベクトルを持った意思の集合体のようなエネルギーがこの世には存在するはずです」
「ははは」門馬は再び笑った。「それはある種の陰謀論だな。そのエネルギーの正体は何だね?」
「正体などどうでもいいことですよ。陰謀論だというレッテル貼りにも意味はありません。大事なのは、エネルギーの向きを見誤らないことです」
「大仰な話だが、風を軽んじないほうがいい。方向を見るのに風を読むのは政治家が自然と身につける術であってね、徳さんも昔は政界風見鶏なんて言われた。私があの人から学んだものは、それ一つだと言っても過言じゃないよ」
「徳永先生は門馬市長の手による地ならしを期待されています」
「私だっていろいろ動いてるんだよ。それで手を焼いている。動けば動くほど、潜在的な拒否反応がわらわら出てくるんだ」
市議会与党内の反対派の抵抗が予想以上に強く、門馬としても嫌気が差しているらしい。
「矛盾するようだけど、風を変えられるとすれば、徳さんが総理になるしかない。だが、総理総裁になりたければ、本当はIRを引っこめたほうがいい」
「徳永先生はIRを掲げた上で総理総裁になられると思います」
「網代くんとしてはそれに懸けるしかないわな」門馬は訳知り顔に言う。「いや、私も同じだよ。徳さんが総理になれば、反対派も仕方ないかとあきらめが入る。だから、私があの人の側近ならIRを捨てろと言うが、そうじゃないから言わない。どうせあとひと月も経たないうちに結果が出るんだ。それまでは様子見でいいじゃないか」
場合によっては推進の旗をあっさり捨てかねない言い草である。
もし本当に捨てようとするなら、そのときは恫喝してでも翻意させるしかないが、今はまだどれだけ無能であろうと自分が担いだ市長であり、その見解をありがたく聞いておくしかない。
(つづく)