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38

 

「葉山に資産家の別荘がある。冬の間は周りも静かなもんだ。そこにしばらく身を隠したらいい」

 事務所を出た越村は槐に連絡を取って着替えを用意してもらい、ぎし森林公園や久良岐くらき公園などを服装を替えながら渡り歩き、尾行されていないのを慎重に確認しながら最後は本牧ほんもく市民公園で槐のトラックに拾ってもらった。その夜を〔槐屋〕の倉庫で寝袋に包まってすごすと、槐は当面の潜伏先を探してくれていた。

「ありがとよ。恩に着る」

 資産家自身は脳梗塞を患ってから老人ホームに入っていて、身寄りもないという。その別荘をはじめとする所有不動産は顧問弁護士が管理していて、もしものときは慈善団体に寄付する手筈も整っているが、今はまだ融通が利き、その顧問弁護士と付き合いのある槐がそこを使えるように取り計らってくれたのだった。

「俺の潜伏先は誰にも言わないでくれよ」

 越村は拝むようにして別荘の鍵を受け取る一方で、念のための言葉も忘れずに言っておいた。

「もちろんだ」

「〔ワイズマン〕にもだ」越村はしつこく念を押すようにして言った。

「分かってる」槐は言った。「〔ワイズマン〕の胸の内は分からんが、気をつけるに越したことはない」

 槐によれば、〔ワイズマン〕は依頼していた拳銃の調達をキャンセルしてきたのだという。越村にもあれ以後、運転手の斡旋をせっつくような電話もない。おそらく計画自体、つぶれたのだ。

 もしかしたら、越村が片平に注意を促したことが影響しているのではないかという気もしている。片平が何か動いたのであれば〔ワイズマン〕もただで済む話ではなく、そのあたりはよく分からないのだが、〔ワイズマン〕は〔ワイズマン〕でうまくごまかしたのかもしれない。

 いずれにしろ、越村が余計な真似をしてくれたと〔ワイズマン〕が怒っている可能性はあり、警察に加えて彼からも追われるような事態は避けておきたいのである。

「まあ、とりあえずその別荘で大人しくしとくことだ」槐は越村の肩をたたいて慰めるように言った。「親父も暇してるから、そのうち遊びに行かせるよ」

「ああ、将棋盤と駒を忘れないように言っておいてくれ」

「分かってる」

 槐には横須賀までトラックで送ってもらった。防犯カメラの目がなさそうなどこかの裏路地の月極駐車場で降ろしてもらったときには、越村は大きなダウンコートに身を包み、ニット帽に耳当て、サングラスにマスクと、おそらく元町を歩いていても顔見知りにさえ気づかれない格好になっていた。

 その月極駐車場には資産家の愛車と同じだというミニクーパーが停められていた。越村はそれに乗って葉山に移動し、当面の食材をスーパーで買いこんだあと、海沿いにある外壁の白い塗装が剥がれかけたコンクリート造りの別荘に入った。冬なので雑草が生い茂っているわけではないが植栽は長く人の手が入っていない様子であり、逃亡者が身をひそめるには相応しいとも言える寂れた建物だった。隣近所も誰かの別荘のようだが人の気配はない。

 それでも去年の夏までは資産家もここを使っていたという話で、電気も水道も通っている。ひっそりと逃亡生活を送るには何も問題はなかった。

 

 土建会社や解体業者など付き合いのある仕事関係者には、個人的な事情でしばらく仕事ができないと伝えておいた。

 一通り仕事関係の手当てを済ませるとやることがなくなり、三、四日はただ物を食べ、テレビを観て寝るだけの生活を送った。

 元町の事務所にいたときも普通の会社勤めが送るような仕事生活ではなく、ずいぶん気楽に日々をすごしていた自覚はあったが、この逃亡生活の無為さというものは、そうしたかつての日々を輝かしく感じさせるほどだった。

 淡野も警察に追われ、今の自分と似たような思いで孤独な逃亡生活を送っていたのかもしれない。危険を承知で越村の事務所に顔を見せに来ていた彼の気持ちも今ならよく分かる。

 逃げるべきではなかったのではという後悔もじわりと湧いてきた。茂沢とのつながりなど、知らぬ存ぜぬでかわし切れたのではないか。逃げたことで逆に何かあるはずだと見られかねなくなるのだ。

 弱るのは、こういう逃亡生活では出口戦略が見つからないことである。元町には戻れない。ほかの街で城を構えて仕事を一から始めるのも、この歳では億劫でしかない。何よりそれまで手持ちの金が持たない。

 どうするべきかと思いながらもどうしようもない今の状況に悶々としながら一日を送っていると、リビングのテーブルに並べた連絡用携帯の一つに着信があった。

 液晶画面には「W」の文字。〔ワイズマン〕からだった。

 ややこしい関係であり、心情的にはもはや敵対しているとも言える相手だが、電話に出なければそれを明確なメッセージとして伝えることになってしまう。〔ワイズマン〕が越村に対してどういう感情を持っているのかまだはっきりとはしていないだけに、この着信を無視するという選択は取れなかった。

「はいよ」越村は努めて何気ないふりをして電話を取った。

〈俺だ〉〔ワイズマン〕の口調も何気ないものだった。〈お疲れさん〉

「先日の件なら、まだちょっと探せてないんだ」越村は先回りして言った。

〈いや、その件はもういい。計画を取りやめた〉

「そうか。ならよかった」予想された返事だったが、越村はほっとしたように言ってみせた。「そのことで?」電話をかけてきたのかと訊く。

〈それもあるが〉〔ワイズマン〕は言った。〈何やらあんたが警察にマークされてるって聞いてな〉

「誰に聞いたんだ?」

〔槐屋〕が口を滑らせたのなら、ここを出たほうがいいのではと警戒心を募らせた。

〈使ってるのに警察の人間がいる〉

〔ポリスマン〕だ。

〈担当が違うからすぐには分からなかったようだが、ある班があんたをマークしてることに気づいて俺に知らせてきた〉

「テロの件か?」

〈テロ……総裁選の?〉〔ワイズマン〕は訝しげに訊き返してきた。〈あんた、あれに関わってたのか?〉

「いや、実際には何も関わっちゃいないんだが……」越村はもごもごと言い、話をごまかすように続けた。「実は警察に張られてるのは俺も気づいてて、だから元町を出てきたとこなんだ」

〈そうか……もう動いてるならいい〉〔ワイズマン〕は安心したように言う。

 どこに逃げたか訊いてくるのではないかと越村は身構えたが、〔ワイズマン〕は訊いてこなかった。

〈とはいえ、急いで逃げ出してきたんなら、手持ちも乏しいだろ。カードを使ったりしてたら、それだけで足がつく〉

 彼が気にしてみせたのは金のことだった。もともと蓄えも多くはないが、当座の逃走資金として引き落としていたのは五十万ほどであり、半分は〔槐屋〕に渡している。警察が越村の行方を追っているのであれば、カードもATMも使うべきではないだろう。

〈二、三百はあったほうがいい〉

〔ワイズマン〕の言葉に越村は小さくうなる。人の別荘に身を隠し、当面そこまでの必要はないが、こちらの今の環境を説明するのも抵抗があり、何となく話だけを聞くことにした。

〈〔槐屋〕に渡しとくから、連絡を取って持ってきてもらえばいい〉

「え……?」

 その申し出を意外に感じ、越村は口ごもった。

〈何か不都合でもあるのか?〉

「いや、そうじゃないが」越村は言う。「どうして俺に金を用立ててくれるんだ?」

〈何を遠慮することがある〉〔ワイズマン〕はふっと笑って言った。〈実際問題、あんたに捕まってもらっては困るからな〉

「俺は捕まったところで余計なことは言わねえぜ」

〈もちろんそうだろうが、捕まらないに越したことはないだろう〉

「まあな」戸惑いを残したまま、越村は相槌を打った。「俺がどこに逃げたのか、あんたは訊かないのか?」

〈悪いが、どこだろうと俺は見舞いに行ってやれない〉〔ワイズマン〕は言う。〈その代わりに先立つものくらい用意してやろうってことだ〉

「いや別に、会いに来ないのを責めたいわけじゃないよ」

〈それに、俺の下に警察の人間がいるのも気になるだろう〉彼は構う様子もなく続けた。〈薮田は薮田で、身バレに気をつけてるから、俺はあんたにもやつを会わせてない。俺があんたの居場所を知って、やつにそれを話したところで、やつが捜査班にその情報を流すとは思えない。だが、あんたからしたら、会ったこともない警察内部の人間に自分の居場所が知れるかもしれないと思うだけで落ち着かないだろ。こういうときは用心深すぎるほど用心深くていい。ただ、〔槐屋〕くらいは味方にしておかないと、これから先、苦労するだろうからと思って、こう言ってるんだ〉

 越村としては〔ワイズマン〕本人を警戒しているのだが、彼自身は越村の味方であることを貫き通そうとしている。そこに何かの企みがあるかどうかは分からない。口調からは長年の付き合いによる腐れ縁がそうさせているようにしかうかがえない。

 そうすると、拳銃を使う何らかの計画が立ち消えになったのも、越村が片平に注意を促してみせたことと特に関係はないのかもしれない。もちろんそれを〔ワイズマン〕に確かめることはできないが、越村は感触として、そんなふうに考えたくなった。

「いや、悪いな。恩に着るよ」

 どちらにしろ、この潜伏先を用意したのは〔槐屋〕であり、〔槐屋〕を信用しないことにはこの先の逃亡生活など続けられるものではない。〔ワイズマン〕が〔槐屋〕を介すと言うなら、それは安全だと判断するしかなかった。

〈お互い様だ〉

〔ワイズマン〕は最後まで気味が悪いほど優しかった。

 もちろん、昔から彼はよく気が回る男であり、表の社会でも苦もなくやっていけるほどには人当たりのよさを持ち合わせているのも知っている。

 だがそれは彼のごく一面でしかなく、もう一方では限りなく冷酷無比であり、自分に盾突く者、邪魔になる者は容赦なく抹殺していく人間であるのも長い付き合いで分かっている。

 電話が終わっても、彼の話をどう取ったらいいかは分からなかった。何かの罠だろうと考えるほうが自然な気もした。

 

 それから三日ほどして槐春生から連絡があり、昼すぎ、廃車寸前のような軽自動車に乗って見舞いに訪れた。

「あんた一人か?」

 越村は慎重に出迎えたが、軽自動車の後部座席を覗きこんでも差し入れの品々があるばかりで同行者はいなかった。

 荷物を越村に運ばせ、槐老人は悠々と別荘に入って、リビングのソファにくつろいだ。

「快適そうだな」

「快適なもんか」越村は頬をゆがめる。「元町の狭い事務所のほうがよほど落ち着くよ」

「まあ、住めば都と言うからな。じきにここのほうがよくなる」槐老人は言いながら、上着の内ポケットから厚手の封筒を取り出した。「〔ワイズマン〕からの陣中見舞いだ。聞いてるだろ?」

 封筒の中には使い古しの紙幣で二百万ほどが入っていた。

「何て言ってた?」

「せがれが〔ワイズマン〕に付いてる男から受け取ったんだが、特には何も言ってなかったようだ」槐老人は言う。「いきなり現金封筒を寄越してきてびっくりしたと」

「俺の潜伏先がどこかってことも訊いてこなかったのか?」

「連絡取って渡しに行ってきてくれということだけだったらしい。うちが隠れ家を用意したとも思ってなさそうだったとよ」

 越村が電話で相手をしたときの〔ワイズマン〕の様子と基本的には変わらない。

「どう思う?」越村は端的に訊いてみた。

「あんたとぎくしゃくしてるって聞いてたから、気味が悪いと言えば気味が悪い」槐老人は呑気な口調で言う。「淡野くんのこともあるしな。あんたが淡野くんを匿ってると〔ワイズマン〕が疑ってるんなら、あんたが身を隠すのに淡野くんと同じ場所に行くんじゃないかと考えてもおかしくない」

「そうだよな。それすら探らないってのは、俺からしても気味が悪いんだよ」

「ただ、せがれが言うには、〔ワイズマン〕自身にわだかまりはないんじゃないかってことだ。あんたが一方的に気まずく思ってるだけで、向こうは何も思っちゃいないかもしれないというのは、接してて感じたと言ってたな」

「うーん、そうか」

 越村としても、現状を無難に理屈づけるにはそうした見方を取るしかないと思っていただけに、小さくうなりながら聞いた。

「〔ワイズマン〕も市長選にだいぶ首を突っこんだらしいが、新市長が勝って気分もいいようだ。先も開けて、今までのごたごたはもう穏便に収めようって考えても不思議じゃない。あんたにもそういうメッセージとして受け取ってほしいっていう思いはあるかもしれねえぞ」

 つまり、向こうから歩み寄ることで、こちらも窮鼠猫を噛むような真似はするなと言いたいわけか。〔ワイズマン〕は越村が淡野を匿っているとしつこく疑っている。その淡野にも〔ネッテレ〕に出て軽率なことを言わせないようにしてほしいのだ。居所を探って力づくで口を封じるより、休戦協定を結んだほうが早いということでそうした態度を取ってきたのだ。

 考え方としては、それなりに説得力があるように感じられた。

「まあ、油断は禁物だが、疑心暗鬼にすごしてても身が持たんだろ。ここにいる間は気を休めてればいいんじゃねえかな」

「そうだな」

 槐老人と話して気持ちが落ち着き、そうなるとあとは将棋を楽しむだけだった。

 久しぶりに知り合いと会い、好きな将棋を指して午後をすごす。それだけのことで、越村は自分の人間性を取り戻したような感覚になった。ここ数日の息をひそめた生活はまったくもって人間的ではなかった。

「気をつけて帰れよ。本当ならあんた、免許返納しなきゃいけない歳なんだからよ」

「はん、なら、あんたはそんなボケ老人に負けたのか」

 久しぶりに将棋で越村を負かした槐老人は、海の見える風呂で温まったあと、日が暮れる前に上機嫌で帰っていった。

 

 久々に人と会って、越村は余計に人恋しくなった。

 そろそろ梅本に連絡してもいい頃合だろう……そんなふうに思い、夜、風呂から上がると、リビングのソファでくつろぎながら携帯をスピーカーモードにして梅本に電話してみた。

 梅本はすぐに出た。

「よう、兼松くん、元気か?」

〈こっちは大丈夫です。そちらは?〉

「葉山まで逃げてきたよ」

〈葉山ですか。優雅そうですね〉

「人の別荘だから優雅と言えば優雅だが、やっぱり元町の事務所のほうがいいよ」梅本の口調から、彼のほうは特に問題なさそうだと思いながらも訊いてみることにした。「あのあと、警察の尾行は大丈夫だったか?」

〈中華街に入ってすぐに振り切りました〉梅本は何でもないことのように言った。〈連中も一通を逆走してきましたけど、ちょっと無理がありましたね〉

「そうか。ならいい。油断は禁物だが、こういう潜伏生活は初めてだから、人寂しくてな」

〈遊びに行きますよ。葉山のどこですか?〉

 梅本の返事が嬉しく、越村はこの別荘の住所を言った。

「警察はおそらく防犯カメラを頼りに動いてる。外に出るときは注意してくれ。兼松くんも尾行されかけたってことは、警察に存在を認識されたってことだ。今はもう、連中の捜査対象にされてると思ったほうがいい」

〈僕を捕まえたところで、大したことは何も知らないですけどね〉

「知らないで済むことは知らないほうがいい。連中は俺や君が目当てなんじゃなくて、その向こうにあるものを暴きたいんだよ」

〈〔ワイズマン〕とか〔ポリスマン〕ですか〉梅本は言い、ふと興味が頭をもたげたように訊いてきた。〈もし捕まったら、越村さんはそれをしゃべるんですか?〉

「ふふ」越村は笑う。「〔ワイズマン〕の正体を話せば、連中はぶったまげるだろうな。ただ、そうして俺に何の得がある? 得になるんなら話すが、そうじゃないなら意味がない」

〈墓場まで持っていくってことですね〉

「格好いい言い方をすりゃあ、そういうことだ。知らないでいられたらいいんだが、あいにく知っちまってるからな……」

 話している途中、不意に部屋の外からの物音を聞いて、越村は身体を強張らせた。

 何だ……?

〈いろいろ面倒くさいってことですね……〉

「ちょっと待て」

 越村は梅本の話をさえぎって、ソファから立ち上がり、耳を澄ましながらドアのほうに近づいてみた。

 バリッ、バリッと、ガラスを割る音が聞こえ、越村は総毛立った。

 風呂場だ。あそこはカーテンも雨戸もなく、庭伝いに回りこめば唯一、外から中を見通せる。

 警察が嗅ぎつけたのかと思ったものの、一瞬ののち、その考えを捨て去った。さすがに自分は警察が強行突入して身柄を押さえようとする人間ではない自覚はある。

 とすると……。

〔ワイズマン〕だ。

 槐が売ったのか?

 しかし、槐老人のここに来てのくつろいだ様子や越村に対する同情的な態度を思い返しても、それは考えにくかった。昔から将棋を指しながら何でも語り合った。付き合いは〔ワイズマン〕より古く、裏社会の片隅で根を張る業者同士の絆というものがある。

〔ワイズマン〕は〔槐屋〕に金を渡すから、連絡を取って受け取れと言った。

 渡しに来る槐を尾けたのだ。

 わざわざ力づくで裏切らせなくても、そうすればここにたどり着ける。

「ちょっと黙っててくれ。しゃべるんじゃないよ」

 こうなれば助けを求めても遅い。警察を呼ぶ気はないが、呼んだところで間に合わない。

 いっそ電話を切ろうかとも思ったが、このあとの事態を予想すると、それを一人で迎えるのはたくさんだと思った。

 今まで散々一人で生きてきた。若いときに水商売の女とくっついたが、やくざに寝取られ、結婚生活はすぐに破綻した。別れるときになって身ごもっているのが分かり、あなたの子だと言われたが、もはやそんな言葉は信用できなかった。

 誰の子だろうとよかったじゃないか……今ふと、そんなふうに思う。自分の子かもしれなかったのだ。誰の子だろうと何もかも呑みこんで黙って育てていれば、今こうして一人でいることもなかった。わずかの間連れ添った女房はいつしか横浜を離れていき、子どももどうなったのか分からない。

 それからずっと一人で生きてきた。それはそれで気楽だったが、もう十分だ。

 淡野はおそらく一人で死んでいったのだろう。〔ワイズマン〕さえ知らないどこかへ最後の力を振り絞って逃げこみ、そこで息絶えた。今も誰も見つけられない。可哀想に。彼こそ誰かに看取られて死ぬべきだった。自分がそうしてやりたかったと越村は思う。

 自分も〔ワイズマン〕に葬られる……何者かが侵入する気配を察して強烈に迫ってきたのは、そんな予感だった。それはもう、どう足掻こうが避けられないと思った。ただ、自分の命脈が尽きるかもしれないというとき、一人でいたくはなかった。死に水を取ってくれというつもりはない。一人でいたくないだけだ。

「誰か来たようだ。せいぜい、俺が無事でいることを祈っててくれ。適当なところで切ってもらって構わないが、声を出すんじゃないぞ。じゃあな」

 越村は一方的に言い終えると、近づいてくる廊下の足音を耳にしてリビングのドアに取りついた。しかし、磨りガラスの向こうに黒い影が揺らめいたと思った次の瞬間、強烈な力でドアを押し返された。

 黒装束の男が二人、リビングになだれこむようにして入ってきた。

「何だ、お前ら!?」越村は震える声ですいした。

 一人は目出し帽をかぶり、木刀を手にしていた。ぎょろりとした目だけが覗き、若い男なのは分かる。

 もう一人はニット帽をかぶっているだけで顔は隠していなかった。首筋にヒョウ柄のタトゥーがある。手にはスタンガンらしきものを持っていた。

「越村だな?」

 顔を出した男が肩をそびやかして近づいてくる。越村はその分、後ずさりする。

「八手か?」

「知ってるんなら、話は早い」

 八手は気味悪く薄笑いを浮かべた。

〔ワイズマン〕配下で汚れ仕事を請け負うとされるこの男が顔も隠さずここに立っていることの意味を考えると、それだけで足の力が抜けていきそうだった。

 目出し帽の男が回りこむように近づいてきた。

「手間取らせんなよ」

 男は木刀を振り上げ、反射的に逃げようとする越村の肩を容赦なく打ち据えた。一撃で鎖骨が折れたかのような衝撃があり、越村はうめきながらソファに倒れこんだ。

 男はさらに木刀を振り下ろした。越村の左側頭部を捉えて、左耳は高周波数の耳鳴り以外聴こえなくなった。気絶しなかったのが不思議なほどであり、越村はひたすら痛みに耐えるしかなかった。

「待て」

 八手が目出し帽の男を制した。越村に近づき、上から見下ろしてくる。

「淡野はどこにいる?」

「し、知るか……」越村は頭を押さえながら、うめき声とともに応える。

「知ってるはずだ」

「お前らが殺ったんだろ」

「強がってどうする? 状況を理解してんのか?」八手はいたぶるように言った。「話せば、命だけは助けてやる」

 右耳に届いたその言葉は、分かりやすいほどに嘘の響きで作られたものだった。

「知らねえって言ってんだ」

 そう返すと、八手は何の躊躇もなく、越村の太ももにスタンガンを押しつけた。

 強烈な痛みが全身を貫き、越村はぐわっと声を上げながらのけ反った。

「ほら、思い出したか?」

 八手が冷たい目で見据えてくるが、越村は荒い息を吐くことしかできない。

「はあはあうるせえよ。ちょっと絞めて大人しくしてやれ」

 目出し帽の男が越村の後ろに回りこみ、腕を首筋に巻きつけてきた。八手は地下格闘技で実戦の勘を養っていると淡野が語っていたが、手下らしきこの男もその手の経験は積んでいるらしく、腕の力は越村に抵抗できるものではなかった。あっという間に目の前が暗転し、それからさして時間が経たないうちに、強烈な衝撃とともに意識が現実へと引き戻された。

 またスタンガンを当てられたらしい。八手が顔を近づけ、じっと越村の様子を見ている。

「戻ってきたか」八手は嗜虐的な笑みを覗かせて言った。「次は戻ってこれないかもしれねえぞ。言え。淡野はどこだ?」

「知ってても言うか」

 口が思うように動かず、声もかすれていたが、八手には届いたようだった。

 スタンガンを当てられ、越村は悲鳴を上げる。衝撃で身体がすくみ、微塵も動けない。ひたすら情けない声を上げ続けていると、それを封じるようにして、目出し帽の男の腕が再び首に巻きついてきた。

 命が尽きるまで、人形のようになぶられるだけだ。

 再び意識が飛ぶ。

 遺せ。

 不意にそんな声が脳内にこだました。

 お前の証を遺せ。

 幻聴か。

 それとも一瞬の夢か。

 自分の最後の意思が燃え上がっただけかもしれなかったが、それにしては、その声は懐かしく聞き覚えのある響きをしていた。

 間違いなく淡野の声だった。

 醜い現実が戻ってくる。朦朧とした頭でその現実を捉える。

 目出し帽の男が越村のみぞおちを強く押していた。

「だいぶ深く落ちたな」八手がにやりとして言う。

 お前の証とは何だ……声を聞いた実感が急速に薄れていく中、越村はその言葉を懸命に手繰り寄せて自分に突きつける。

 何もせず、むざむざ虫のように殺されるなということだ。

 一人で死んでいった淡野は、しかし今、越村に付いてくれている。

 梅本も付いている。

 墓場まで持っていく義理などどこにあるだろうか。

 だいたい、自分には墓場などないかもしれないのに……。

 遺せ。

「もう一度だけ訊く」八手は越村に顔を近づけた。「淡野はどこに匿ってる?」

「誰の……指示でやってんだ?」

 越村が逆に問いかけたことで、八手は眉をひそめてみせた。

「〔ワイズマン〕、網代の指示か?」

「は?」

「〔ワイズマン〕こと網代の指示でこんなことやってんのか?」

 八手は目出し帽の男のほうを焦ったようにちらりと見てから、越村を殴りつけてきた。

「何言ってんだ!」

 目出し帽の男は淡野にとっての渡辺であり、〔ワイズマン〕が誰かということなど聞かされていないのだろう。目出し帽の男の表情はうかがえなかったが、それはもうどうでもいいことだった。

「淡野くんは〔ワイズマン〕が指示して、お前が殺ったんだろ。どうして俺に居場所を訊く?」

「俺がその場を離れたときにはまだ息があったからだよ」八手が面倒くさそうに答える。「それで戻ってきたときにはもう、やつの姿はなかった。菅山がどこかに運んだんだ。菅山が捕まったあと、警察がやつの周辺を捜したが、淡野は見つからなかった。死んでたらどこかで見つかるはずだし、そうでない以上、お前が絡んでるとしか考えられないじゃねえか。〔ワイズマン〕じゃなくても分かる理屈だろ」

「じゃあ、どこかで生きてるのかもな。巻島の番組に出てる〔リップマン〕も、誰かが騙ってるのかと思ってたが、案外本人なのかもな。いいじゃねえか、生きてるんなら。しかし、あいにく、俺は何も知らねえ。〔ワイズマン〕も俺のことをよく分かってねえようだな」越村は声を振り絞り、まくし立てるように続けた。「いいか、〔リップマン〕が淡野くん本人なのかどうかは知らねえが、俺という人間のことはいくらでも教えてやる。俺はな、お前らなんかが生まれる前から元町に事務所を構えてやってきてるんだ。一九九一年だ。元町一九九一と憶えとけ。元町でも寿町でも知らない者はいねえ。それだけ憶えとけば、どこでも通用する」

「何言ってんだ、お前?」

「いいから聞け。趣味は将棋でアマ二段。“コッシー”の通り名で、その界隈でもちょっとは知られてんだ。俺はそれだけの人間だ」

「意味わかんねえこと、べらべらしゃべってんじゃねえよ!」

 目出し帽の男が苛立ったように言い、越村のこめかみにこぶしをぶつけてきた。

「お前らみてえのには分かんねえだろうな」越村は構わずに続ける。「学が必要なんだよ。俺は大学は中退したが、大学院で勉強した。そういう人間なら分かる。俺を助けろと言ってるんじゃない。ほっとけばいい。自分自身を守るときに学がいる。それを武器にすればいいんだ。こぶしじゃ何も守れねえよ!」

「こいつ、いかれちゃってますよ」目出し帽の男が呆れたように言った。

 八手が忌々しげに舌打ちし、越村を見つめる。

「もういい。終わらせようぜ」

 彼はそう結論づけるように呟いた。

 

 

(つづく)