55
県警本部から山手署に戻ると、捜査本部の指令席で山口真帆が待っていた。
「本部長の指示で、帳場から特殊班が外れることになりました」彼女は残念そうに伝えてきた。「もう本部長も残りわずかだから大丈夫かなって思ってたんですけど、最後にやられちゃいましたね」
「そうですか」巻島はさらりと受け止めて言う。「実は私も異動を言い渡されてきました」
「えっ!?」
山口真帆だけでなく、隣で聞いていた本田や坂倉も声を上げた。
「足柄署長だそうです。栄転だから喜べと」
「馬鹿馬鹿しい」彼女は憤然と言って立ち上がった。「抗議して撤回してもらってきます」
「無駄ですよ」巻島は静かに制した。「この時期の人事ですから、明らかな意図があってのことです」
山口真帆が黙りこんだ。本田たちも言葉がないようだった。
「網代社長への内偵の動きを気取られたんでしょう。それで向こうから何とかしてくれとせっつかれたあたりが裏ではないかと思います」
「網代社長の高笑いが聞こえてきそうですね」山口真帆はそう言って唇を噛んだ。
「くそっ」本田はやり切れなさそうに悪態をついた。「最後の最後にちゃぶ台返しとは」
「もともと足柄署は向坂殺しでこの帳場にも関わってますし、津田長らを送りこんでます。足柄に引っこんでも、捜査の行方は見守らせてもらいますよ」
巻島はさばさばとそう言ってみせたが、捜査幹部らの沈んだ表情は変わらなかった。その気分は巻島にも容易に理解できた。黒幕の正体が見えたとはいえ、その人物である網代に迫る手立ては見えていない。今後地道に捜査を続けて何かつかんだとしても、稲葉刑事部長や新しい本部長に曾根の息がかかっていれば、網代の逮捕など到底覚束ない。
しかし、力をもぎ取られてしまった巻島にはどうすることもできなかった。結局、巻島の力は曾根の後ろ盾があってこそのものだった。上役としては何とも付きづらい苛烈な性格の相手だったが、巻島は何だかんだ無難に関係性を保ってきた。曾根としても巻島は難事件を遠慮なく任せやすい捜査幹部であっただろうし、巻島もその期待に応えるべく働いてきたつもりだった。
ただそれも、曾根の期待が事件解決に向けられている限りの話だ。そうでなくなったことで、曾根との関係性は保てなくなった。そうなればあっさり切られるだけだ。
組織の人間は切られれば脆い。ポストを外され、行使できる力を失う。無力なのである。
夕方をすぎ、捜査会議を開いた。
普段は本田に進行を任せるこの会議で、巻島は冒頭、前に立って挨拶した。
「急な報告となりますが、本日、本部長より私に、刑事総務課付の特別捜査官の任を解き、足柄署長に就かせる旨の辞令がありました」
会議室内がざわついた。特に特捜隊の面々は、衝撃の強さがその顔にありありと浮かんでいた。
「捜査本部を率いた在任中、ここでの捜査を終結に向かわせることができなかったのは私の力不足であり、最大の心残りとなります。これまで捜査に尽力してくれた捜査一課特殊班所属の者も当捜査本部を離れることが決まりました。該当する捜査員にはこれまでの献身的な働きに感謝したいと思います。人員編成の縮小も捜査の停滞を受けてのものであり、指揮をとってきた立場としては責任を感じざるをえませんし、みなさんにはお詫びいたします」
ざわついていた会議室内も巻島の言葉を受けて神妙な静けさに包まれた。
「ただ、捜査がこれで終わったわけではありません。私の志は残ったみなさんに引き継いでもらいます。本田隊長を中心に、これまで通り地道な捜査を積み重ねていき、遠くない日に必ずやその努力を結実させていただきたい。私の願いはそれに尽きます。事件を覆っていた暗幕は裂けて、隠れていた者の姿ははっきり見えました。みなさんの手でぜひともその身柄を引きずり出してほしい。報告を心待ちにしています。悪党に安息を与えてはなりません」
会議が終わると、村瀬が目を赤くして巻島のもとに来た。
「これからまた捜査官のためにと思ってたところで……」彼はかすかに唇を震わせ、無念そうに言った。
村瀬は四月から籍を特捜隊に移している。これまでも同じ捜査本部で汗を流してくれていたが、名実ともに巻島の下に付く形となったのだ。本人としても気持ちを新たにしていただろう。しかし、巻島のほうが期せずしてこの場を去ることになってしまった。
「悪いな」巻島は嘆息混じりに言った。「俺がいなくなってもやることは同じだ。頼むぞ」
村瀬は二月の警部試験を突破し、特捜隊では副隊長の任に就いている。本来ならば指令席に座って本田の補佐に回ってもいいところだが、人員編成の縮小が続く中では現場の手が少しでも欲しいのが現実だ。
また、村瀬自身も現場の仕事を続けることを望んでいる。〔ポリスマン〕を炙り出すために仕掛けた偽装捜査でグループの重要人物である八手の逃走を許してしまい、そのことを悔やんでいる。追跡の過程でノックアウトされた関とともにリベンジを期して行方を追っているのだ。
「泥臭くやらせてもらいますよ」村瀬は鼻をすすりながら、捜査の成功を誓うように言った。「待っててください」
ほかの特捜隊員たちとも個々に別れの挨拶を交わしたあと、津田も何とも言えない哀しげな顔をして近づいてきた。
「私がまだ帳場に残ってるというのに、巻島さんが足柄に引っこむとは」
「皮肉なもんだな」巻島は小さく笑った。「一緒に連れていきたいとこだが、この帳場にはまだ津田長の力が必要だ。帰ってきたときにはまた、丹沢で釣りでもしよう」
一通り、個々の挨拶を終えると、巻島は隣の別室に移って監察官の魚住に電話をかけた。
巻島の異動の報告に対し、魚住は数秒の沈黙と大きな吐息を聞かせた。
〈私が足を引っ張ってしまったかもしれませんね〉彼は詫びるように言った。
彼が行方を追っている戸部は、依然として所在がつかめない。網代に匿われ、どこかに潜伏しているという推測は立つものの、その網代に捜査の手が伸ばせていないのでどうしようもない。潜伏中の戸部に言いたい放題の反論動画を上げられたことで巻島が窮地に陥ったように見えることは確かである。
「揚げ足を取られた感はありますが、実質的に捜査は何も混乱してませんし、一歩一歩進んでいます」巻島はさばさばとして言う。「この捜査は虎の尾を踏まざるをえないものでした。そして実際、踏んでしまったというだけのことです」
〈噂ですが、二課のほうで市長選の選挙違反のネタをつかんで動こうとしたら、本部長につぶされたということがあったとか〉
「私も聞いています。もともと植草さんを出馬させたこと自体、本部長が噛んでなかったらありえない話だと思います。網代社長と本部長の間で、門馬に勝たれたら横浜IRが消えてしまう、誰かを立てなければいけないという話し合いがあったはずです。当然、一介の警察官僚にすぎなかった植草さんがどう選挙資金を用立て、地元有力者の支持を取りつけたかということも、本部長がまったく関知していなかったということはないでしょうね」
〈だから、当然のようにつぶしにかかったと〉
「山口課長は本部長が退任したら、二課長の尻をたたくと言ってましたが、どうなんでしょう。本部長のカジノ委員会入り自体、本部長自身の希望というよりは警察庁の意向があってのことでしょうし、もっと上のほうまでつながっている話だとすれば、二課長も簡単には動きづらいのではないかと」
〈選挙違反で裏の作りが世間に見えてしまったら、本部長の委員会入りもご破算になるでしょうからね。警察庁の上層部もそれは望んでないでしょう〉魚住はそう受け止めながらも、受け入れることには抵抗があるようだった。〈だからといって、我々が大人しくしてなきゃならない道理もないわけですが。何かいい手立てがあるかどうか……〉
最後は独り言のようになっていた。結論が出るような話でもない。ただ、ここですごすごと引き下がりたくはないという気持ちだけは感じ取ることができた。
「足柄に戻ることになった」官舎に帰って、巻島は妻の園子に報告した。「署長だそうだ」
「へえ」
園子の探るような視線が何となく滑稽であり、巻島はネクタイをほどいてソファに腰かけながら、「『へえ』とは?」と訊いた。
「あなた、あんまり嬉しそうじゃないから」園子がいたずらっぽく言う。「それとも、それはドヤ顔なのかしら」
「違う」巻島は苦笑する。「まあ、急に決まったからな」
「来月から?」
「いや、週明けには向こうに顔を出さなきゃならない。しばらくはホテル住まいで、こっちの荷造りはほとんどお前に任せることになりそうだ」
「本当に急ねえ」彼女はさすがに呆れるように言った。
「でも、お前は向こうのほうがいいんだろ」
「どうだろ……こっちはこっちで、それなりに楽しめることも多いからね」園子は少し考えて言う。「いずみは喜ぶんじゃない? 私たちが横浜に移ってきて、一平を自然に触れさせられなくなったなんて言ってたくらいだから」
「そうか」巻島は小さく笑う。「喜ぶのがいるならいい」
急な転勤をどう捉えたのかも分からなかった園子も、巻島が風呂から上がる頃には家事そっちのけでスマホをいじっていた。どうやら足柄暮らし時代の友人たちに早速連絡を取っているようだった。
その様子が少なくとも沈んでいるようには見えなかったので、巻島も自分の気持ちを少しずつ切り替えていかなければと思った。
56
「しかし、参ったな」夜の捜査会議後、久留須が小川の隣まで来て深々と嘆息してみせた。「小川に嵌められたよ」
「え、何が?」
「お前が、捜一より特捜隊のほうが将来性があるなんて言うからさ」
志願して特捜隊に異動してきたことを、ひと月足らずで早くも後悔し始めているらしい。
「いやいや、もともと久留須は僕が何言っても、花形は捜一だって言い張ってたじゃないか」
「俺だっていろいろ迷うんだよ。捜一が長かった戸部さんさえ特捜隊に行くって言うし」
「じゃあ、戸部さんが悪いんじゃないか」
不思議なもので、〔ネッテレ〕の配信番組が終了し、さらには巻島が特捜隊の統括から外れてしまうと、山手署の捜査本部は室内の明かりが間引きされてしまったかのように地味で薄暗さが漂う場所になってしまった。
捜査本部の雰囲気がそうだから、特捜隊自体も捜査態勢の中心を占めているとはいえ、活気に満ちているとは言いがたい。所属捜査員は増えたものの、ムードの地味さで言えば、巻島が統括に就く前の特捜隊はこんな空気だったなぁとしみじみ思い出すほどである。
先月までは捜査本部にも活気があった。巻島の配信番組には〔kossy〕という謎のアバターが現れ、小川たちも会議室の大画面の前で、どんなコメントがされるのか、固唾を呑んで見守っていた。現場の捜査でも小川自身、兼松の身元を突き止めるという殊勲を挙げた。特捜隊は輝いていて、捜査一課をはじめとする他部署所属の者たちも特捜隊への異動を希望し、それが叶う四月を心待ちにしていたように見えた。
それらの中には小川の天敵である先輩刑事の戸部もいて、特捜隊の人気も考えものだなという思いさえあった。彼が特捜隊入りすれば小川の隊内での立場がますます悪くなってしまう。それをひそかに危惧していたのだった。
しかし、ふたを開けてみると、あろうことか、彼こそが捜査現場を疑心暗鬼の渦に陥れていた〔ポリスマン〕であった。異動を希望した者たちにあって彼一人は特捜隊に憧れていたわけでなく、捜査一課が外れても帳場に残れるようにとの思惑からの行動だったのだ。それは驚愕の事実であったが、戸部の底意地の悪さは小川をいじる一挙一動ににじみ出ていたのであり、その正体も今となれば納得できるものであった。とにもかくにも戸部の特捜隊入りが幻に終わって、その結果自体には、小川も胸を撫で下ろしたのである。
ただ、〔ポリスマン〕を炙り出したことで帳場が落ち着き、捜査も前へと進んでいくかと思いきや、そう単純にはいかなかった。戸部は逆襲の独白動画をネットに上げて、捜査本部を再び混乱に陥れた。
それと前後して〔ワイズマン〕が〔AJIRO〕の社長であるという話が伝わってきた。途中終了した巻島の番組で〔kossy〕がそうコメントしたらしい。それを受けて、捜査本部でも網代への内偵捜査が始まった。網代実光とは何者かという情報集めには小川も駆り出されたのだが、すでに〔ポリスマン〕がいないにもかかわらず、誰かの目を気にしているかのような秘密裏の動きを強いられ、思うような収穫は上がらなかった。
そして今、巻島が捜査本部から外れ、組織の核が失われたような形になってしまった。巻島は捜査会議で毎回訓辞を垂れるようなトップではなく、進行を本田に任せて座っているだけのことも多かった。そういう意味では捜査会議の何が変わったというわけでもない。むしろ本田は以前より気を張っているように見える。しかしそれでも、帳場内に漂う停滞感はいかんともしがたいのである。巻島は指令席に座っているだけで存在感があった。捜査が混迷していても、いずれ彼が乾坤一擲の打開策を打ち出してくるのではという期待感があった。
今はそれがすっかりなくなってしまった。久留須のような新加入の特捜隊員が、話が違うと嘆くのも無理はないのだった。
「特捜隊がどうっていうより、捜査自体の見通しが立たなくなってるのが問題だよな」久留須と同じく特捜隊に移ってきた河口が横から口を挿んできた。「網代が本当に〔ワイズマン〕なのかってことも、本当のところは誰も確信持ててないようだし」
「とりあえず追ってはいるってだけで、明確じゃないよな」久留須が同意する。「本部長に変な口出しをされないように動きを抑えてるなんて説もあったけど、それもどこまで信憑性がある話か……」
「巻島さんが飛ばされたくらいだから、本部長が目を光らせてるのは事実なんじゃないの」河口が言う。「ただ、巻島さんの狙いが芯を食ってるからそうなったのか、それとも的外れなことをやってるから怒りを買ってそうなったのかは、よく分からないんだよな」
「巻島さんのは街宣車の抗議が効いたんじゃないかな」小川が言う。「本部の前でも派手にやってたっていうし」
「まあ、それもあるだろうな」河口がうなずいた。
「あれは戸部さんが呼んだようなものだし、転んでもただでは起きない人だよな」久留須が感心するように言った。「あの人が〔ポリスマン〕じゃなかったら、今頃特捜隊も一味違ってた気もするよな」
「いやあ、戸部さん一人いたからって、そんな変わんないでしょ」小川は異議を唱えておいた。「雰囲気なんてのはメンバー一人一人の働きにかかってるわけで、中堅どころの僕たちが盛り立てていくべきことなんだよ」
「ご大層なこと言うけど、お前は何か盛り立てるようなことをやってんのか?」
「僕は兼松の正体を突き止めたじゃないか」小川は胸を張って言った。
本部長賞ものとまで言うつもりはないが、今回は居眠りもでんぐり返りもしていないどころか、小石亜由美が聞きこみを打ち切ろうとしていたところを小川が粘ってつかみ取ったネタだった。正真正銘の殊勲であり、小川は時々、こういう手柄を立てることがあるのだ。それでこれまで刑事生活を続けてこられたと言ってもいい。
「ああ、それがあったな」久留須も仕方なさそうに認めた。「でも、梅本の担当は何でそのままお前たちがやってないの?」
「いやあ、それはよく分からないんだよね」小川はそう言うしかない。
兼松の正体は小川たちが突き止めたものの、その件はいったん巻島の預かりとなった。〔ポリスマン〕を炙り出す偽装捜査が進行していたからだと小川は理解しているが、その後も梅本については身元がざっと洗い出された程度で、これを糸口に捜査を推し進めようという流れにはなっていない。
しかし、梅本は〔kossy〕である可能性が高く、今の状況では彼を追わないと捜査が動いていかないと思うのだ。そしてそれを担うのは、彼を見つけてきた小川であるべきなのである。
考えているうちにも理不尽な気がしてきたので、小川は捜査幹部たちに一言言いたくなった。久留須たちとの輪を離れて指令席に向かったところ、本田が何しに来たという目でにらみつけてきたため、山口真帆のもとに回った。
「梅本はどうして引っ張らないんですか?」
小川が単刀直入に訊くと、真帆は「藪から棒に何?」と笑った。
「藪から棒じゃないですよ。僕が梅本を見つけてから何日経ってると思ってるんですか。捜査を動かすには、梅本を引っ張るしかありませんよ」
「梅本ってただの運転手だからね。引っ張ったところで大した話は取れないと思うよ」
「でも、〔kossy〕の可能性があるわけですよね」
「だから、なおさらね」真帆は言う。「巻島さんも、情報をくれたら捕まえないって約束しちゃったし」
「えっ、番組で言ったことを律義に守るんですか?」小川は驚いた。「相手は犯罪グループの一員ですよ」
巻島が番組で言っていたように、捜査の手が足りないわけではないのだ。
「だけど、約束は約束よ。それで情報が取れたんだし、少なくとも巻島さんは、本気で梅本には触らないことに決めてたはずよ」
「いやあ、でも、それはどうなんですか」せっかくの成果が宝の持ち腐れになってしまっている気がして、小川はしつこく反論した。「事件解決のためには、どんな相手でも出し抜いていかないと」
「相変わらず小川は、口だけは立派だな」横でやり取りを聞いていたらしい本田が白い目を向けてきた。
「僕は捜査の進展に力を尽くそうと思ってるだけですよ」小川は言い返す。
「心配しなくても、梅本はちゃんと行確してるし、野放しにしてるわけじゃないから」真帆が取りなすように言った。
「えっ、そんなの聞いてないですけど」小川は驚いた。
「巻島さんがちゃんと手当てしてるのよ」
「いやいや、巻島さんがどう言ったか知りませんけど、梅本を見つけた僕を差し置いて……」
「何だ、行確班に入りたいなら入れてやるぞ」本田がにやりとして言う。「八手が襲いに来ても、迎え撃つ覚悟があるならな」
「嫌だなぁ、誰も入りたいなんて言ってないじゃないですか」小川はあっさり考えを翻した。「聞いてなかったから、ちょっと心配してただけですよ。まあ、そこは巻島さん、抜かりがないみたいで安心しました。僕は僕でほかにやることがありますからね」
「そうそう、小川くんは忙しそうだから、巻島さんも声をかけなかったんじゃないの?」
「そういうことですかぁ」
真帆に冗談っぽく話を合わされ、小川は少々気まずい思いをしながら指令席を離れた。
先日の偽装捜査では、八手が兼松のアジトと設定した現場に乗りこんできたことで、戸部の情報漏洩が明るみに出たのだった。消息不明の八手が本物の兼松である梅本を襲いに来る可能性は十分あると言っていい。
八手は〔ワイズマン〕のグループの殺し屋であり、越村や淡野は彼が襲ったと〔kossy〕も主張している。実際、現場では、追いすがった関や青山をノックアウトしている。身のこなしからは格闘技の経験も見て取れたという。
そういう物騒な輩にはなるべく近づかないようにするというのが小川の信条である。公務員のロマンはつつがなく生きて豊かな年金暮らしをすることにあると思うのだ。
自席に戻ると、久留須や河口たちの姿はもうなかった。ほかの捜査員たちもほとんどは帰宅の途に就き、捜査本部は会議が終わってどれだけも経っていないのに閑散としてしまっている。
自分も帰るか。
気づけば新型インフル禍もすっかり落ち着き、街宣車もぱったり来なくなり、そして帳場は物寂しくなってしまった。昨年からのあの騒々しい日々は何だったのかという気がしてくる。
内外のいろんな声に小川自身もずいぶん振り回された。疑心暗鬼になって人を見ていたし、右からも左からも飛び交う陰謀論に頭が混乱した。網代実光が“ガラポン”の陰謀によって〔ワイズマン〕の汚名を着させられたと聞くと、そうかもしれない、巻島もそれに騙されているのではないかと思った。
しかし、巻島が“ガラポン”の手先であり、彼が仕組んで網代を嵌めたのだという声が聞こえてくると、さすがに首をひねりたくなった。小川が普段目にしている巻島は一日中捜査のことしか考えていなそうな人間であり、政治思想などをそれに優先するようなタイプではない。実態と噂がかけ離れすぎている。
だから街宣車がいろいろがなり立ててきても、素直に耳を傾ける気にはならなかった。何が正しく何が間違っているのか、大手メディアやネットも含めて、小川は誰の話を信じればいいのか分からなくなった。
こういう中で正しく正義を遂行し、犯人を捕まえていくのは大変だなと改めて思わざるをえない。
結局のところ、自分の肌感覚で誰が信じられるのか、近いところから見極めていくしかないのだろう。
そうやって考えると、巻島はいろいろ型破りで秘密主義のところもある指揮官だが、小川には優しく、人間的にはまあ信じられる。
本田は小川に当たりが強く、暇さえあれば文句ばかり言っているが、仕事熱心であり、人間的にはまあ信じられる。
山口真帆も苦労知らずのお嬢さん育ちっぽいところは拭えないが、人当たりのよさがあっておじさんの扱いもうまく、人間的にはまあ信じられる。
戸部は自分が捜査一課所属であることを鼻にかけ、小川と特捜隊を散々いじってきたのに、急に手のひらを返して特捜隊入りを志願してきた。その後、捜査本部から姿を消し、動画を上げていろいろ訴えてきたが、その人間性からして、まったく信用できない。
そういうことなのだ。
だから、戸部は〔ポリスマン〕なのだろうし、網代は〔ワイズマン〕なのだろう。
ただ、世の中には依然として、それに疑いを挿む声も上がっている。
そして、巻島がいなくなり、捜査本部はかつての輝きを失っている。
疑惑の反動のようにして一部から時代の風雲児のごとく見られ始めている網代に対し、今の捜査本部がどこまで迫れるのだろうか。
小川が多少の活躍をしたところで、どうにもならない距離がある気はする。
うーん、難しい。
小川は山手署を出てから捜査本部のある建物を振り返り、冴えないうなり声を上げることしかできなかった。
(つづく)