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「宅配業者を装った男はその場で身柄を拘束しましたが、ヒョウ柄のタトゥーの男は素早く逃走に転じました。もちろん、我々も懸命に追跡したのですが、途中で格闘になり、捜査員が負傷するなどして、結果的にこの者の逃走を許すこととなったのは残念だったと申し上げなければなりません」
「先ほどの話にはそんな事情も隠されていたのですね。驚きました」
ここまでの捜査事情を明かすつもりはもともとなかったが、番組は生き物だった。巻島の目は〔kossy〕に向いている。おそらくは梅本だ。巻島が提案した囚人のジレンマ的取引にも乗ってきた。最初はつかみどころのない印象しか抱かせなかったが、ここに来て打てば響くような反応がある。こちらが胸襟を開けば、それだけ近づいてくる人間だと思った。
流れはできている。越村のアカウントを使えるほどに、この人物は越村に近い。越村が殺された事件の真相も詳しく知っているようだ。それが八手のことだけなのか。そのさらに後ろにあるものも知っているのか……それを教えてほしい。
[リップマンもポリスマンも八手も逃がしてばかりだな][失態、隠してたな][これ本当に解決できるのか]
視聴者から辛辣なコメントが断続的に上がる。それを横目に巻島は粘り強く待つが、〔kossy〕からの次のコメントはなかなか来なかった。
「今日は少し、コメントの反映にタイムラグがあるようで、その影響もあるかもしれませんね」
そう竹添舞子が言う通り、ほかの視聴者のコメントにしても反応がいつもより遅い感覚はあった。それも理解して、巻島は辛抱強く待つことにした。
番組時間も残り数分となっている。
ようやく中国武将を描いた〔kossy〕のアバターがスタジオ前方のモニターに現れた。その上に吹き出しが出てきてコメントが表示される。
[巻島に告ぐ ワイズマンは……]
最初の一言で巻島は、〔kossy〕が意を決してこのコメントを送ってきたことを感じ取り、にわかに緊張した。
[ワイズマンは]というところまではすんなり目に入ってきたが、それ以降が何やら記号めいていて、一瞬、思考が止まるのを余儀なくされた。
[あ*じ*ろ*さ*……]
意味が伴わないままその文字列を目で追っていると、不意に画面が乱れた。コメントが読めないどころか、巻島たちの顔もゆがんで映っている。
「ええと、ちょっと映像がおかしいですかね」
竹添舞子が困惑気味に言う。
画面はゆがんだままフリーズし、コマ送りのように飛んだ。そんな状態が十数秒続いたあと暗転してしまった。
〈CM入ります〉
副調整室からディレクターの声が届いた。
「通信トラブルですかね?」
腑に落ちないように言う竹添舞子に巻島は視線を向けた。「〔kossy〕のコメント、どう読みました?」そう訊いてみる。「あじろ……」
「さねみつって、書いてありましたね」彼女はそのことにも戸惑っていると言いたげに眉を寄せてみせた。
やはりそうだ……巻島はすっと息を吸いこんだ。
副調整室から倉重プロデューサーが出てきた。
「通信トラブルで、復旧に少し時間がかかります。番組時間も残ってないですし、今日はここまでということになります」
「そうなんですか」竹添舞子が悔しそうな声を上げた。「すごくいいところだったのに」
「ええ、残念ですけど」
そう言う倉重の口調は、言葉に反してあっさりしたものだった。
副調整室からもう一人、見慣れない若い男が出てきた。スーツ姿であり、ディレクターとも違う。巻島たちにちらりと目をやり、無言でスタジオを出ていった。
「お疲れ様でした」
巻島も竹添舞子や倉重らに挨拶し、席を立った。
捜査本部に戻ると、本田や山口真帆ら幹部連中が指令席で待っていた。
「最後、何かの通信トラブルですか?」
座る間もなく、山口真帆が巻島に訊いてきた。
「そうみたいです」
「大事なところで水を差されちゃいましたね」
「わざとかもしれません」
「というと?」彼女はきょとんとして巻島を見る。
「〔kossy〕の最後のコメントは見えましたか?」
「いえ、アバターが出てきたのは分かりましたけど、そこで映像が乱れて……」
彼女は本田や坂倉に視線を向けたが、彼らも同様の認識のようでうなずいているだけだ。
「私はスタジオで一瞬だけ目に入りました」巻島は言う。
「何て言ってました?」
「ワイズマンは網代実光だと」
「網代……?」
「〔AJIRO〕グループの社長です」
「えっ、ええっ!?」
山口真帆は会議室中に響くような声を上げ、目を見開いてみせた。
「何と……」
本田も呆然とした声を洩らし、坂倉は絶句している。
「しかし、それ、本当ですかね?」本田はにわかに眉唾の話に思えてきたようだった。
「〔ネッテレ〕は言わば、お膝元ですからね」坂倉も同調した。「そこでその名前が出てくるというのは、いたずらの可能性も考えられる気はしますよね」
「私も最初はそう思った」巻島は言った。「書き方も何か冗談めいてたしな」
「どんな書き方だったんですか?」
そう問われ、巻島は紙に「ワイズマンはあ*じ*ろ*さ*ね*み*つ」と書いてみせた。
「冗談っぽいとも取れますし、強調しようとしてるとも取れますな」本田が言う。
「それ、コメントのNGワードを回避する書き方なんじゃないですか」山口真帆が言った。「この手のコメント機能って、[殺す]とか[死ね]とか入ってると、弾かれるようになってますからね。一度、[網代実光]と漢字で書いて弾かれたから、そう書き直したのかも」
「なるほど」
彼女の意見はそれなりに説得力があるように感じられた。〔kossy〕のこのコメントが出るまでには少し時間が空いたこともそれを裏づけているような気がした。
「捜査官の番組だけなのか知りませんが、その名前が自動的に弾かれるようになってたとするなら、ずいぶん怪しい話ではありますね」坂倉があっさり見方を変えるように言った。
「〔kossy〕はわざわざ[巻島に告ぐ]と前置きしてきた」巻島は言う。「そこに、何としても私に伝えようとする強い意思を感じたのは確かだ」
本田たちはうなっている。
「それにしても、思わぬ大物が出てきましたね」山口真帆が言う。
彼女は巻島とともに網代実光と顔を合わせている。それだけに信じられない思いが強いようだった。
「〔ワイズマン〕の正体について、何か流れてないか?」
巻島は席を立ち、配信番組に対するSNSなどの情報収集を担当している山手署刑事課の棚部沙月に訊いてみた。
「何か大きな力が働いて、つぶされたんじゃないかみたいな声は上がってます」
巻島も自身のスマホで網代の名前をSNSの検索にかけてみたが、気になるようなヒットはなかった。つまり、スタジオの画面で巻島が目にしたコメントは、一般の視聴者には一瞬も届かなかったということらしい。
突然の暴露のはずだったが……。
それなりに備えていて、うまくつぶしたと見るのが自然のような気がした。
翌日、巻島は魚住を呼び、いつものように山手署の駐車場で会った。
魚住は配下の者たちとともに、逃走した戸部の行方を追っている。そちらはまだ結果が出ていないが、一方で配信番組の〔リップマン〕役を担い、〔kossy〕を引っ張り出した形になっている。
魚住も〔kossy〕の最後のコメントについては見えていなかったようで、彼らしからぬ驚いた表情を浮かべてみせた。
「それで言うと、思い当たる節があります」魚住はそう口を開いた。「戸部の行確で以前、彼が〔AJIRO〕の本社に行ったという報告があったんです。その理由が分からず、かといって特に不審な行動とも思えず、巻島さんが番組の件で彼を使いにやったのだろうくらいに勝手に考えていました」
そのため、巻島にもその行動を伝えていなかったということらしかった。
仮にそれを聞かされていたとしても、巻島自身、戸部の行動の理由は見当もつかなかっただろう。
しかし今となってはすべてがつながる。やはり〔ワイズマン〕は網代実光なのだ。魚住の話によって、図らずもその見方が裏付けられたと言えた。
「それなりに羽振りのいい生活をしている人間ではあるのだろうとは考えてましたが、まさかこれほどの人物が顔を出すとは」魚住はそう言って巻島を見る。「どうやって追い詰めるつもりですか?」
「正直、昨日の今日ですし、何も考えはまとまっていません」巻島は首を振って言う。「正体が分かったところで安易に任同を求めるわけにもいきませんし、それなりの証拠を見つけるしかないでしょう」
「これからが本番ですね」魚住はうなずいて言った。「私も網代の情報を拾ったらお伝えしたいと思います」
暗幕は引き裂かれ、そこに隠れていた顔は露わになった。それを舞台からどう引きずり下ろすか……まさにそれが、巻島にとっての本番と言ってよかった。
「たまにはお茶でも飲んでいくか?」
夜、官舎の前に張っていたサツ回りの新聞記者たちを見つけて、巻島は声をかけた。取材対応は山口真帆に任せているが、記者連中も捜査本部を指揮しているのが巻島であることは承知していて、新たな関連事件が発生したり、捜査が動きそうな予兆が見られるときには何人かが夜討ちに姿を見せる。ただ、そういうときも今までは、話せることは配信番組で話すと言って適当に追い返していた。この日に限って巻島が家に呼び入れたので、記者連中にも少し戸惑う様子が見られた。
「あら珍しい」
園子は記者たちの姿を見てそう言いながら出迎えた。ただ、こういうときもあるという備えを怠っていないのは、普段から巻島が帰るまで風呂に入らず、したがって化粧も落としていないことからも分かる。お茶菓子も抜かりなく買い置きしてあったらしく、彼らをリビングのソファに座らせ、手際よくお茶と菓子を振る舞った。
「昨日の配信番組はいいところでぷっつり終わりましたね」大日新聞の記者がお茶をすすりながら、そう切り出してきた。「あれは番組サイドのトラブルか何かだったんですか?」
「通信トラブルだと言ってたな」巻島は何気ない口調で答える。
「なるほど」
「まあ、〔ネッテレ〕側としてはああいう形で終わらせた以上、そう説明するしかないんだろう」
「というと?」
記者は巻島の言い方に引っかかったようだが、巻島はあえて聞き流し、それには答えなかった。
「もう少し時間があれば、〔kossy〕からさらなる情報が出てきたかもしれない雰囲気があっただけに残念ですね」新都新聞の記者が話の接ぎ穂を充てるように、そんな言葉を向けてきた。
「ん?」巻島は思わせぶりに首をかしげてみせる。「君らはあのコメントを目にしてないのか?」
「あのコメントとは?」
「トラブルで映像が途切れる直前に〔kossy〕が出したコメントだよ」
「八手がどうとかというやつですか?」
「そうじゃない。[巻島に告ぐ]ってやつだ」巻島は言う。「〔ワイズマン〕の正体についてだ」
「いや、目にしてませんが」記者たちは一斉に身を乗り出した。「そんなコメントが届いてたんですか?」
巻島は静かにうなずいた。
「ええと」新都新聞の記者が探り口調で続ける。「では帳場では、その人物の身辺を洗い始めるということでしょうか?」
「そんな簡単な問題でもないよ。相手はかなりの大物だしな」
「大物……」
その先の答えを聞きたいとばかりに巻島に視線が集まるが、巻島は素知らぬ顔をして口を閉じた。
神奈川日報の記者がにわかに緊張したように喉を鳴らし、「ヒントだけでも教えていただくわけには……?」と巻島を上目遣いに見た。
「番組があんなふうにばっさり切られたこと自体が最大のヒントだろう」
巻島がそう言っても、記者たちは、誰かぴんときた者はいないかと互いに目配せで確かめ合うだけだ。
「あの番組で、名前を出されないようにできるのは誰だという話だ」
「つまり、〔ネッテレ〕の関係者ということですか?」神奈川日報の記者がおずおずと訊いてくる。
いつまでももったいぶるように引っ張っていても話が進まないだけであり、巻島はこのあたりで切り出しておくことにした。
「君ら、〔AJIRO〕グループの社長の名前は知らないのか?」
「いえ、網代実光社長ですよね」
「お会いしたことはありませんが、名前くらいは」
「えっ、まさか、網代社長の名が?」
彼らははっとした表情で顔を見合わせた。巻島が否定しないことで、それが事実だと悟ったようだった。
「どう思う?」沈黙を挿んで巻島は訊いてみる。
「いやあ」大日新聞の記者が慎重そうに口を開いた。「〔ネッテレ〕で網代社長の名が挙がるとなると、いたずらの可能性は出てきませんかね?」
「もちろん、それはある。慎重に扱わなきゃいけない話だ」巻島は言う。「ただそれは、可能性として小さいとも思ってる」
記者たちの低いうなり声がリビングに沈殿した。
「生配信をぶった切ったわけですからね。現場の判断でできるとも思えないですし、それなりの警戒態勢ではあったという見方はできますよね」
「驚きましたね。〔AJIRO〕グループと言えば、横浜IRの事業体を担ってますし、網代社長は横浜財界の次世代エースと言ってもいい存在ですよ」
記者たちが口々に洩らす感想を巻島は黙って聞いている。本来ならばこの手の話をリークしたところで、彼らの取材が捜査の邪魔になる未来しか見えず、巻島は極力、捜査情報を彼らに洩らすことはしてこなかったのだが、今回は例外だった。
巻島としても、網代をどう攻略するべきか、手段が見つからない。
だからこそ、マスコミに先に動いてもらい、網代の反応を見たかった。
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「新聞社からの問い合わせが相次いでいます」
網代は苦々しさに顔をしかめながら高鍬の報告を聞いていた。
「おそらく、巻島がリークしたのではないかと」
一昨日の巻島の番組の配信直後も、スタジオの副調整室に詰めていた高鍬は、その足で社長室に報告に来た。
〔kossy〕のコメントに網代の名前が載り、高鍬は即座に番組を強制終了させたということだったが、そのコメント自体は瞬間的にスタジオの画面に映ったようだった。網代自身もこの社長室で番組を視聴していたから、その事態そのものは報告されなくても分かっていた。
〔kossy〕の登場が予想された今回は、網代の名前をコメントのNGワードに設定させた上、高鍬を副調整室にも詰めさせた。そうした備えをかいくぐられた形にはなったが、配信も厳密にはリアルタイムでなく、三十秒のディレイ処理を施してあった。そのため一般視聴者には網代の名前を出したコメントが表示される前に映像を切って、見られないようにすることができた。ただ、スタジオの巻島には見られてしまった。配信が止まってから巻島が竹添舞子にコメントの件で確認しているのをマイクが拾っており、高鍬がそれを耳にしている。
「巻島が流した可能性が高い以上、社長の名前が出たという噂を否定するのは得策ではないと思います」高鍬は言う。「やはり対外的にも、〔kossy〕はアンチ〔Y's〕の工作活動だと見て、今回の件は社長の誹謗中傷を封じたものだとする説明がいいかと」
網代は小さくうなずいた。プロデューサーの倉重に対しても今回の件では、アンチ〔Y's〕の対応を高鍬に任せるようにという言い方で従わせている。強引に対処した理由としては、一番自然だと言えた。
「過剰反応だと見られても違和感が残る。AIが悪質なアンチコメントだと判断して、自動的に処理したとでも言っておけばいい」
「承知しました」
「考えるべきは、なぜ巻島がマスコミ連中にリークしたかということだ」
リーク元は高鍬が言うように、巻島で間違いないと思った。竹添舞子は〔ネッテレ〕の仕事で食べている人間であり、そうした迂闊な真似をするとは思えない。
「〔kossy〕から教えられたところで、どう社長に迫ればいいのか分からないのでしょう。それで、世間の目を借りて社長を包囲し、尻尾を出すのを期待しているのでは」
巻島の考えそうなことであり、高鍬の指摘は当たっているように思った。
「ボヤ騒ぎになるより先に、こちらから火をつけて、さっさと消してしまえ」網代は言った。「アンチ〔Y's〕を装ってSNSに俺の噂を流し、〔Y's〕を使って即座に誹謗中傷だと抑えこませれば、巻島への牽制にもなる」
高鍬が指揮する〔Y's〕の育成チームでは、〔Y's〕の言論を際立たせるために、あえてそれをたたくアンチ〔Y's〕のSNSアカウントを多数管理している。それを使ってマッチポンプを図り、巻島の付け火も同時に消してしまえということだ。
「なるほど」高鍬が感心したように言う。「先に声が上がれば過剰反応にも当たりませんし、言論空間が社長を守る砦と化してしまえば、巻島も簡単には社長に手出しできないと今以上に感じることでしょう」
いったん火が回れば、世間から疑惑の目が完全に消えることはないのかもしれない。しかし、多少の影は政財界を牛耳る人間には付いて回るものであり、ときにはそれが印象形成に効果を与えることにもなる。
要は手錠をかけられるかどうかが問題だ。それは巻島にとっても簡単ではないだろう。
「あとは、巻島の番組を続けさせるかどうかだな」網代はそう呟く。
「アンチ〔Y's〕に罪をかぶせて、番組を終了させるのも一つの判断だと思いますが、過剰反応だと取られ、巻島に疑念を抱かせる懸念は残ります」高鍬は網代に判断を委ねるように言った。
話を聞く限り、〔kossy〕の正体は兼松なのだろう。〔kossy〕のアカウントは凍結されたので、今後出てくることはない。独自のアカウントで出てくるならば、彼は身元をさらすも同然である。八手は逃亡生活に入っているが、兼松を消さなければ網代の前には姿を見せられないくらいには思っている。どこの誰かが分かれば喜んで襲いに行くだろう。
番組を続けるかどうかは巻島の出方を見るしかない。いすれにしても今後は、水面下で巻島と戦うことになる。
「薮田はまだ使いようがあるな」網代は言った。「タイミングを見て、巻島を逆に追い詰めたいところだ」
薮田は関東郊外に逃げたまま潜伏中だが、彼を淡野のように消そうというのも現状では無理がある。
薮田と淡野の違いは、薮田のほうがより悪党である点だ。だからこそ平気で刑事にもなりおおせた。そのふてぶてしいほどの悪辣さを生かして巻島に逆風を吹かせることはできるはずだった。
「薮田さんも喜ぶと思います」高鍬は網代の案に賛成した。
〔kossy〕に自分の名前を出されてうっとうしさが先に立っていたが、ある意味、面白くなってきたとも思った。
この局面を巻島に指一本触れさせることなく乗り切れたら、自分はこの社会でアンタッチャブルな存在になれる……網代はそう思い、そうなるチャンスである気がしてきた。
(つづく)