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「徳永総理の死が横浜のIR誘致に与える影響を我々は非常に憂慮しています」

〔AJIRO〕とのカジノ運営会社の合弁相手であるシンガポールの〔SKインターナショナル〕ウィリアム・タン社長は網代との会談が始まるとすぐ、通訳を介して率直な懸念を伝えてきた。

「おっしゃりたいことは分かりますが、IRは国策であり、それ自体が徳永総理の死で揺らぐわけではありません。門馬市長からは推進の言質を得ていますし、要は横浜が候補地から撤退するようなことにならない限り、憂慮することは何もないと思っていただいてけっこうです」

 網代の説明にもタン社長は慎重な姿勢を崩さなかった。〔SKインターナショナル〕自体、アメリカ資本との合弁であり、タン社長もシンガポール人ではなく中国系アメリカ人である。日本的に言うなら鉄火場の切り盛りで頭角を現した人間であり、融通の利かない非情さが顔つきにも出ている。

「徳永総理の死を機に、反対派が動いて、市長が揺れているという話も聞こえてきています」

 合弁会社に入れている人間から、そういう情報が入っているということだ。

 門馬が徳永の死に動揺しているのは事実である。自分の後ろ盾とも言えた大物政治家が突然この世を去ったのだから、当然だとも言えるし、もともと門馬というのは肝が据わっていない男なのである。

 しかし、こちらとしても徳永を頼れない以上、そういう門馬をなだめすかして盛り立てていくしかない。

「門馬市長の性格は分かっています。不安からあれこれ勝手なことを口にしますが、コントロールできない人間ではありません」

「ここまで来ての横浜の候補地撤退は、あってはなりません。そのためには、できることをすべてやっていただきたい。資金が必要であれば用意します」

 タン社長は中途半端な対応を許さないように言った。

「ありがとうございます。もちろん、甘く見ているわけではありません。全力を挙げて対処していきますので、ご安心ください」

 網代がそう請け合ってみせると、タン社長はようやく納得したようにうなずいた。

 

〈申し訳ありません。門馬はただいま公務中でございまして……〉

 年明け、新年の挨拶にかこつけて西麻布のラウンジにでも誘い出せば門馬ものこのこ出てくるだろうと考えていたものの、門馬はどこか網代を避けているかのように電話に出なくなってしまった。

 大阪は府市一体となってIR実現に歩み出しており、区域整備計画もこのほど国交省に承認された。

 対して横浜は〔AJIRO〕と〔SKインターナショナル〕との合弁会社である〔AJSK〕が事業者に選定されたところまでは進んでいるが、区域整備計画の提出までには至っていない。

 中身は出来上がっている。県のほうは横浜市次第という態度で特に反対の立場でもない。ただ、市議会に反対派がいるので、計画にあれこれ難癖をつけられ、そこで止まってしまっている。結果的に大阪には一周差を付けられた形だ。

 徳永総理の誕生でさすがに横浜も動き出すかに思われたが、彼の急死でまたしても雲行きが怪しくなってきた。

 総裁選では神奈川県警の裏金事件で得た金を運動資金として徳永に送り、テロの動きも事前に曾根の尻をたたいてまでして封じこめた。それら一つ一つの努力が今は空しい。

 徳永という政治家は、網代が表の世界で成り上がるための大きな足がかりとなっていた。IRの件ばかりではない。彼が首相の座に就いたことで、まだ非公式ながら、各省庁の有識者会議への参加を打診されてもいた。徳永政権が長期に及べば、それほど遠くない未来に網代は国の要所をグリップできる存在になれるという手応えがあった。

 そうした目論見も無に帰してしまった。網代は徳永急死の一報を社長室で聞いたとき、衝動的に、近くに置いてあったゴルフクラブで応接セットのガラス製ローテーブルをたたき壊した。

〔Y's〕は徳永の死に陰謀論を持ち出していた。網代は、彼らが普段繰り広げている陰謀論は笑止だと思っている。世の中はとかく複雑で、裏にひそむ特定の誰かの意思一つで何か大きな事象を起こせるものではない。ただ同時に、誰かが必死に動かなければ世の中は動いていかない。その意味で社会の変化の裏に誰かの強い意思が介在するのは当然であり、それを陰謀と呼ぶのは、何もせずに変化に呑みこまれるしかない無能たちの言い訳でしかないとも思う。しかし、この徳永の死に関しては、むしろ陰謀であってもらったほうが、まだ納得できる気がした。

 網代が蹴散らかしたはずの〔財慶会〕の片平の高笑いが聞こえてくるようだった。

 とはいえ、いなくなってしまった者のことをいつまでも悔いていても仕方がない。差し当たっては横浜でIR推進の声が消えないように善後策を講じなければならない。

 鍵を握っているのは市長の門馬と市議会議長の桐谷である。門馬は議会対応に苦労して態度をコロコロ変えている。桐谷の協力がなければIRだけでなく、予算をはじめとした諸議題が何も進まないからである。

 網代は以前、桐谷に付け入る余地があるかどうか、渉外部の高鍬に探らせたことがあったが、なかなか難しいようだった。

「金にはがめついようなので、学校に寄付金を弾めば喜びはするでしょうが、一千万や二千万で態度を変えるとは思えません」

 桐谷は横浜みらい学園というみなとみらい地区に作られた私立学校の理事長を務めている。IR予定地と隣り合うような近さにあるわけではないのだが、周辺に文教地区並みの環境を求めているらしく、カジノや遊興施設などけしからんという立場を取っている。

 ただ、もともと保土ほどの丘陵地にあった冴えない学校を生徒集めのためにみなとみらいに移したのであり、環境を求めるのであればみなとみらいに作らなければいいのだという冷めた声も聞かれる。

 結局のところ、桐谷がIRに反対しているのは、子どもの教育的な見地などではなく、自身に何の旨味もないからにほかならない。そして市議団内で発言力の強い彼のところに、パチンコなど既存の遊興ビジネスとつながっている議員らがすり寄り、一派を形成しているのだ。

「やはり、手っ取り早いのは市長だと思います」高鍬は見通しをそう口にした。「あの人は背骨が通ってませんから、向こうにぐらついても、いくらでも引き戻せます」

 網代も門馬の腰の据わらなさには散々手を焼いてきたので、言いたいことは分かる。了承を取りつけ、これでもう大丈夫だと思っても、次に会うときにはころっと態度が変わっているのだ。

 だがそれは、相手側にとっても同じだと高鍬は言っている。だから粘り強く面倒を見て、こちらに引きつけておくのがいいという考えだ。

 

 数日後、網代は山下町の産貿ホールで開かれた横浜商工会の新年パーティーに出席した。普段、こういった表舞台のような場に顔を出すことはまれなのだが、門馬が挨拶に出てくると聞いたので、急遽出ることにしたのだった。

 会頭の挨拶のあと、門馬が壇上に立ち、数分間、ほとんど中身のない話をした。IRの話も出てこなければ徳永の急死の話も出てこない。網代はそれを適当に聞き流し、乾杯が終わると会場の前方へと近づいていった。

 門馬はパチンコ団体の代表である県遊協の柴田に捉まっていた。以前、徳永の政治資金パーティーでも見かけたが、こういう場では政治家や有力者の周りに必死にまとわりついている印象だ。

 ただ、門馬は特別うっとうしそうにもしていない。割合和やかに話をしている様子だ。

 それだけに彼との話が終わり、網代を見た瞬間、かすかに表情を引きつらせたのもよく分かった。

「やあ……こういう場で見かけるのは珍しいな」

 門馬はとぼけた調子でそう口を開いてみせた。

「新年のご挨拶をと思いまして。本年も何とぞよろしくお願い申し上げます」

 門馬は何やら気まずそうに軽く視線を外し、小さくうなずいているだけだ。

「予定がいろいろ立てこんでいると思いますが、また近々息抜きのほうに……」

 網代がそう言いかけると、門馬は「馬鹿言っちゃいけないよ」と言葉をかぶせてきた。

「新型インフルが猛威を振るってるのに、羽目を外してるのがばれたら、世間に何を言われるか」

「では、静かに話ができる日本料理の店などはいかがかと」

「いや、そういうのも今は遠慮しておくよ。まだ徳さんの喪も明けてないんだから」

「市長、徳永先生の死を悼む気持ちがおありでしたら、先生が今のあなたに何とおっしゃるだろうかと考えてください」

 網代が顔を寄せて言うと、門馬はかすかに顔色を変えた。

「徳さんが何を言うかなんて、そんなものは分からんよ。私にそれを教えたかったら、イタコでも連れてきたらどうだ」門馬は開き直ったように言った。

「市長、腹を決めてください。一度決めた道を進めばいいんです。徳永先生がいなくなったからといって、態度を曖昧にするのは、政治家としての信頼を失うだけですよ」

 このところ顔を合わせることを避けられていただけに、言えるときに言っておこうと、勢い口調も強くなった。

「言うほうは簡単でいいな」

 門馬は毒づくように返してきたが、網代がじっとにらむようにして彼を見ていると何やら気まずそうに喉を鳴らし、網代の肩に手を置いてきた。

「いろいろ難しいんだよ」彼は一転、丸めこもうとするように薄笑いを浮かべてみせた。「あんたが事業者の立場として必死になるのは分かる。別にあんたをなめてるわけじゃないよ。市長に再選できたのも少なからずあんたの力があったおかげだとも思ってるし、怒らせたら怖い相手なんだろうというのは接してたら分かる。でも、反対派だって、あんたより怖そうな連中の影がちらついてる。そういう圧力も私は受けてるんだ。何より、市民の声は相変わらず反対優勢だ。それを問答無用で押し切れるのは徳さんだけだったんだよ」

「あなたの腰が引けてるから、反対派も勢いづくんです」網代は自分の肩から彼の手を外し、低い声で迫った。「何も難しいことじゃない。今なら、盟友だった徳永総理の遺志を継ぐという姿勢を前面に打ち出せば、押していけるんです。むしろ、今このときがチャンスなんですよ」

 門馬は鼻白んだように顎を引いてみせた。

「はっ、徳さんの死がチャンスとか、普通の神経なら思えんよ。政商は言うことが違うな」

 門馬の背中を何とか押そうと思って言っているのに、言葉尻だけを捉えていちゃもんを付けてこられ、網代は内心で舌打ちした。

「反対に転じれば薔薇色の市政運営が待ってるとお思いですか?」網代はそう言ってにらみつける。「それは、今いる味方を敵に回すということですが」

 門馬はぎょっとしたように網代を見返し、抗するかのごとくむっとしてみせた。

「き、君は私を脅すつもりか?」

いばらの道ですよ」

 網代はさらにそう言い残し、立ち尽くしている門馬に視線を向けたまま、ゆっくりとその場を離れた。

 

 脅しと取られようが、あれだけ強い言葉で尻をたたいておけば、少しは気持ちを入れ替えてくるのではないか……網代はそう期待ししばらく時間を置くことにした。二週間ほどあれこれ考えさせてから何もなかったように食事にでも誘えば、門馬のことだから、ほっとして飛びついてくるだろう。そうなれば多少なりとも聞く耳を持つようになるに違いない。

 そう思いながら一週間ほど様子を見ていると、IR賛成派として網代が押さえている室川むろかわという市会議員から慌て気味に電話がかかってきた。

〈市長がケツまくりましたよ〉

 市長選から半年も経っていないというのに、門馬が市長を辞任する意向を表明したという。

〔ネッテレ〕の報道チャンネルを観てみると、門馬のぶら下がり会見の様子が流れていた。

〈辞任の理由は何なのでしょうか?〉

〈議会が機能不全を起こしているということです。特にIRの問題で与党が割れ、収拾がつかない事態になっている。これを打開するには今一度、選挙を通して市民の信を問う必要があると考えました〉

〈出直し選挙に打って出るということですか?〉

〈その通りです。私は今回、IR計画からの撤退を公約として、この選挙戦に臨みたいと思います〉

〈え? IR推進ではなく、撤退の立場を取るということですか?〉

〈そうです。大きく方針転換するからこその出直し選です。およそ半年前の市長選の頃にはまだIRの議論も煮詰まっておらず、市民の意見は何となく賛成、何となく反対というものが中心でした。IRは反対だけど、それはひとまず置いておいて門馬に票を入れたという方々も多くいらっしゃいました。

 しかし、議論が本格的に進み出すと、潜在的に反対派だった方々の声が私の耳にも届くようになりました。横浜が大事に育ててきた文化を守ってくれ。ギャンブルは横浜にそぐわない……そういった声を聞き、私自身も考えさせられました。私は横浜を愛しています。横浜の気高い文化を守っていきたいと思っています。そこにIRというものを無理に持ってきたとき、横浜という街がそれ一つで壊れてしまうのではないか……私はそうした危惧を自然と抱くようになりました。

 撤退するなら今このときをおいてありません。動かなければ、計画はずるずると進んでいきかねない。だからこそ、私は今日この日、大きな決断をしたのです〉

 徳永という後ろ盾がなくなり、IR賛成派と反対派の板挟みに陥って、自身の政治家生命を守るには世論の風に乗るしかないと決意したようだった。

 網代がこの会見の前に本人からこの決意を聞いていたら、その場でぶん殴っていただろう。しかし、もはや門馬と顔を合わせる機会はなくなったと言っていい。

 網代はすぐに渉外部の高鍬を呼んだ。

「門馬の辞任を徹底的にたたけ。自分で喪が明けてないと言っておきながらのこのやり口だ。徳永イズムの裏切り者。軽薄。臆病者。ビジネス保守。ポピュリズムの権化……ありとあらゆる言葉を使ってたたけ」

「〔Y's〕の論客を招集して、今夜にも特別番組を配信します」高鍬は言った。

「ネットにも噂を流せ。IRのおこぼれにあずかれない地元暴力団が計画の妨害に動いていると。総裁選のテロもそういう事情で仕掛けられたと。次の標的は自分だという噂を聞いた門馬は、たちまち震え上がってあっさり推進の旗を放り投げたと」

「承知しました」

 高鍬が社長室を出ていくときには、網代の思考は次の懸案事項に向いていた。

 門馬を市長選に勝たせてはならない。

 対抗馬を立てる必要がある。

 

 

23

 横浜市長の門馬が電撃辞任を表明した次の日の夜、曾根は網代に呼び出された。

 ほとんど一方的に店を指定され、こちらの都合も聞いてこない。彼のような一回りも下の若造に振り回されるのは愉快ではないが、総裁選のときのようなこともある。曾根は大人しく従い、夜になると指定された山下町の日本料理の店に出向いた。

 仲居に案内されて個室を覗くと、網代はすでに日本酒で始めていた。

「お先にらせてもらってます」

 彼はそう言って曾根に向かいの上座の席を勧めた。腰を落ち着けた曾根に酒の好みを言う間も与えず、盃を取らせて日本酒を注いできた。強引でありながら、彼なりに礼は尽くしているらしい。彼の立ち居振る舞いは一事が万事そんな調子だとも言え、曾根はやはり振り回されている感覚が拭えない。

「献杯しましょう」

 盃を掲げてそう口にした網代に、曾根はうなずく。

「徳永総理は本当に残念でした」

「まったくです」網代はしみじみと言った。「総裁選では曾根さんたちに守ってもらい、ようやく悲願の総理の座に就いたというのに……空しいものです」

「生前、総裁選の警備担当を激励しに、県警本部までお見えになりました。義理堅く、気さくで人間味あふれる人でした」

「政治家というのは二種類ですよ。義理人情の人間か、ただの利己主義者か」

 網代の言い方に、曾根は昨日辞任を表明した門馬への憤懣ふんまんを感じ取った。

「門馬さんにも困ったもんですね。徳永さんがいなくなっていろいろ不安なんでしょうが、あんなにコロコロ言動を変えていては有権者も付いてこないでしょう」

 曾根が網代の心情に寄せるようにしてそう言うと、網代は厳しい顔つきで小さくうなずいた。すぐには何か言葉を返してくることはなく、憤りを胸の中で醸成させているようだった。

 網代が無言で曾根の盃に酒を注ぐ中、すでに注文してあったらしい料理が運ばれてきた。仲居が部屋を出ていき、曾根は箸を取る。

 網代も少し遅れてから箸を取り、同時に口を開いた。「門馬を勝たせてはなりません……何があろうと」

 不気味な決意表明だった。このようなことを口にするからには、彼が何かしらの行動を起こそうとしているのは分かる。しかし、それが何かは読めなかった。

 網代自身の思い詰めたような表情から読み解こうとすると、妨害工作のようなきな臭い香りさえ漂ってくる。

 そこからは距離を取っておきたいと思い、「対抗馬でも立てるおつもりですか?」と傍観気味に訊いてみた。

「もちろんです」網代は言う。「立てなければ、勝てるものも勝てません」

「門馬さんは選挙には弱いから、それなりの人を立てれば十分勝算はあるでしょう」その選挙を支持するくらいのことはたやすいという思いで曾根は言った。「問題は世間の風でしょうが、IR撤退の公約にどれだけ賛同の声が上がるかどうか」

「強固な反対派は一定数います。ですが、市民の大多数は風で動きますから、要はイメージ戦略次第です」

「昨日の門馬さんは、そういう意味では先手を打った形ですね。IRは悪で、自分は今までのしがらみを断ち切ってそれに立ち向かうことにした勇者だというイメージを市民に植えつけましたから」

「まったく、してやられました」網代は自嘲気味に言い、しかし、すぐに目の中にぎらつきを覗かせていた。「ただ逆に言えば、門馬の攻勢は昨日で終わりです。乾坤一擲けんこんいつてき、初手で全部出し尽くしました。あとはこちらがじっくり反撃するだけです。選挙戦が始まる頃には世間の風も引き戻します」

「なるほど」曾根は網代の強気の姿勢に感心しながらも、少々門馬の力を侮りすぎではという思いも湧き、そのあたりを突いてみたくなった。「とはいえ、相手は仮にも三選目の現職市長ですから、それなりの人間を立てないことには返り討ちに遭う可能性もあるのでは」

 出直し選挙は、来月には執り行われるのだろう。ひと月で有力な候補者を立て、選挙の準備を整えるのは簡単なことではない。ましてや昨日の今日であり、網代がいくら虚勢を張ろうと、その頭にはまだ誰の顔も浮かんではいないはずだった。

 曾根が見る限り、網代は徳永や門馬といった地元の有力政治家の懐には入っていたようだが、政財界へ広く顔を売るのはこれからというところであり、こういうときにすぐ誰かを引っ張ってこれるほどの人脈はまだ有していないように思われた。

「それです」

 網代も曾根が懸念してみせた点を素直に認めた。

 刺身が運ばれてきて会話が中断する。間を持たせるように網代が曾根の盃にまた酌をする。曾根も代わって彼の盃に注いだ。

「曾根さん」仲居が部屋を出て、網代が再び口を開いた。「市長選、出る気はありませんか?」

「え?」

 網代の目を見ると、本気で言っていることは分かった。さすがに彼がそういう提案を投げかけてくるとは思っておらず、曾根は少なからず狼狽した。

「冗談でしょう」曾根は引きつり気味の笑みを作って言う。「私は市長など務まる人間ではありません」

「門馬でさえ務まっているんですよ」網代はにじり寄るように身を乗り出し、曾根を見据えた。「あなたは自分の能力を門馬以下だと思っているんですか?」

「いや」曾根は冷や汗が湧く思いで言い訳に回った。「門馬さんの政治的実務能力はどうかと思いますが、彼はあれで中央政界との人脈や外面のよさというものがあるでしょう。そういうのも首長としての資質の一つです。私は自分で言うのも何ですが、愛想もへったくれもない人間なので、市民の支持を得られるとはとても思えません」

「愛想などないほうが警察官僚出身ぽくていいじゃないですか。門馬の軽薄さに辟易していた市民には頼りがいがあるように感じられますよ」

「いやいや、それに、横浜市民には裏金事件の記憶が新しいはずです。県警の本部長だったというだけでマイナスに受け取る人たちも多いでしょう」

「確かにあれはまずかった」網代は渋い顔をしてみせた。「しかし、総裁選の爆弾テロでは県警の働きが称賛されています。それを打ち出してイメージを塗り替えることは可能でしょう」

「いやいや」曾根は閉口して言う。「急なことで焦っておられるのは分かりますが、私に目をつけるのはお世辞にも妙案とは言えません」

 網代はそこでようやく水をかけられたように黙り、もどかしげに大きく息をついた。曾根が拒んでいるからというより、裏金事件のマイナスイメージを無視できず、曾根を立てる案が強引にすぎたことを自覚せざるをえないという様子に感じられた。

「なら相談ですが」網代は話を変えるように言った。「曾根さんのお知り合いで誰かこれはという方はいらっしゃいませんか?」

 とりあえず自分が検討対象から外されたことで、曾根は胸を撫で下ろした。

「すぐには思い浮かびませんが」慎重に考えながら言う。「官房長の福間なら、中央政界にも明るいですし、一人や二人、心当たりを教えてくれるかもしれません」

「なるほど」網代が希望を取り戻したようにうなった。「福間さん自身は候補者としてどうでしょうか?」

 よさそうな人材なら誰でも食いつきそうな勢いだ。

「いや、福間自身は近い将来の長官の座がほぼ約束されているので、こういう話には見向きもしないはずです」

「そうですか」網代は言い、納得した顔になった。「分かりました。ぜひ福間さんに相談してみてください。能力は問いません。それっぽいキャリアがあれば、いくらでも飾り立てられる。高邁こうまいな思想もいらない。ただ、IRにポジティブでありさえすればいいんです。気分よく担がれてくれる人を教えてもらってください」

 網代の言い方はまるで、そういう見方で曾根にも目をつけたと言っているようでもあり、まったく愉快な気はしなかったが、自分から口に出した以上は乗りかかった船として引き受けるしかなかった。

 

「ははは、君を市長選に担ぎ出そうとする者がいるとはな」

 二日後、警察庁を訪れて福間に事の次第を説明すると、彼は曾根が慌てた様子が目に浮かんだのか、大笑いしてみせた。

「実際、市民に手を振り、ペコペコしながら握手して回る君を見たら、笑いもこの程度じゃ収まらんだろうな」

「ご勘弁ください」

 曾根自身も自分のそういう姿は想像できない。市長の仕事自体はこなせないとは思わないが、選挙活動そのものが自分の性と相容れないので、結局のところ拒否反応しか湧かないのだ。

「しかし、徳永さんを失ったのはつくづく痛いな」

「まったくです」

 福間としてもそれを言わずにはいられないようだが、曾根としてもうなずかざるをえない。

「正直、今の大塚さんはIRにほとんど興味がない。国策だけにちゃぶ台返しはしてこないだろうが、徳永案件だと思ってるから、優先度は下がるだろう。来月には内閣改造して、閣僚の顔ぶれを自分仕様に改めると見られてる。徳永派の国交大臣も外されるはずだ。そうなると先行きも分からなくなる。俺も徳永さんには可愛がってもらった分、大塚さんとのつながりはないに等しい。大塚政権の間は長官の芽もないだろうと思ってる。それはともかく、委員の選定もこちらの言い分が通るかどうか分からなくなった。君にも影響がある話だ」

 雲行きの怪しい話を聞かされ、曾根は顔をしかめたくなった。

「これからは自治体レベルから国に突き上げていく動きが必要になる。そういう意味では横浜が撤退するのはIRにとって死活問題だ。それだけ事業規模が縮小されるということだから、委員会もしょぼいものになるだろうし、警察庁が享受できる旨味も半減する」

 言葉を選ばない福間の言い方に危機感が表れている。

「だから、その市長選は何としても推進派を担いで勝たなきゃならない」

 市長選に勝たなければ、曾根の委員会入りの約束も空手形になりかねないということは分かった。

「問題は誰を立てるかということです」

 曾根の言葉に福間は分かっているとばかりにうなずいた。

「うちにいる若いのがいいだろう」彼は言う。「現職に対抗できるとすれば若さや清新さだ。資質はどうでもいい。喜んで担がれるような軽さがあればなおいい」

 網代と同じ見解であり、曾根にとってはもはや常識的な話を聞いている感覚である。

「それで君が口説きやすい相手となったら、だいたい候補は見えてくるんじゃないか」

 彼はそう言ってにやりと笑った。

 

 

(つづく)