最初から読む

 

45

 

 小川たちの前から行方をくらませた越村が何者かに殺されて発見されたことで、小川もさすがに寝覚めがよくない日々が続いていたが、いろいろ考えた末、考えても仕方がないという結論になった。小川たちは見つからないように見張っていただけなのに、向こうが勝手に見つけ、勝手に逃げたのである。逃げた先で誰かに殺されるなどとは越村自身、思っていなかっただろうが、小川たちにも分かるわけがない。できることは何もなかったのだ。

 越村が殺されたことが分かった段階で、小川は小石亜由美とともに、兼松の身元を突き止める任務に移った。兼松はどうやら横浜公立大の学生ではないかということまでは分かっているらしく、まだ春休み中ではあるものの、大学周辺を聞きこんで回るのだ。

「〔kossy〕って越村と関係あるのか?」

「越村のアカウントを使ってるって言ってますよ」

「〔リップマン〕が偽者って、じゃあ、誰が『kirino』のパスワード使ってログインできたんだって話だよな」

 足を使う現場の捜査をよそに、巻島の番組も続いており、配信当日はみな帳場に残って大型画面を囲むのが常となっていた。

「いやあ、今日は久しぶりに面白かったなぁ」このところ、巻島と〔リップマン〕の同じ話を繰り返すようなやり取りが続いていたので、この日の新たな展開には小川もわくわくした。「僕が推理するところ、〔kossy〕って兼松なんじゃないかなと思うんだけど」

 帰り支度を始めながら小石亜由美にそんな見解を向けてみると、「関係者、兼松しか知らないから、そう思うだけでしょう」とにべもなく返された。「私だって、それくらい言えますよ」

「いやいや、そうなんだけど、でも兼松が怪しいよ」

「何、小川は今、兼松を追ってるの?」

 近くで同じく帰り支度をしていた戸部が口を挿んできた。

「さあ……どうなんでしょう。極秘任務なので」小川はにやにやして言う。

 戸部は防犯カメラデータの収集という通常任務であり、小川は特命任務に就いている。そのことが多少の優越感を生んでいた。

「何が極秘任務だよ」

「いやあ、戸部さんが〔ポリスマン〕だと困りますからね」

「偉そうに」戸部が呆れたように言う。「長い付き合いの俺を疑うのかよ」

「僕は情には流されませんから」

「四月からは俺も特捜隊だぞ。そんな疑わしいやつを巻島さんが直属の部下にすると思うか?」

 戸部はそう言って、近くを通りがかった久留須に「なあ?」と声をかけた。久留須は話の半分も聞いてはいなかっただろうが、「ですね」と適当に話を合わせている。

 戸部や久留須や河口らが特捜隊への異動を希望していることは聞いていたが、先日、ついにその内示が出たらしい。

 小川としてはまったく歓迎できない話である。伊勢佐木署の富田あたりはまだ謙虚で可愛い後輩という感じがするが、小川いじりを趣味としている戸部や、同期の久留須や河口といった連中が隊に加わっても、小川の隊内の地位が下がるだけだからだ。

 そういう小川の気分を敏感に察してか、「嫌な話を思い出したみたいな顔するな」と戸部に頭をはたかれた。

 

 巻島が持っている信頼感は、まだまだ実績を積んでいる小川に分があると思いたいが、戸部や久留須もテロの一件で名誉の負傷をしてから巻島の覚えがめでたいようである。

 自分も何か新しい結果を残さなければと、小川は焦りを募らせていた。

 そんな中で続けていた横浜公立大学周辺の聞きこみで、小川は巻島に「持っている」と褒められた引きの強さをまたしても発揮したのである。

 その日、小石亜由美とともに大学周辺を回っていた小川は、聞きこみがてらラーメン屋で昼食を済ませたあと、付近の商店を尋ねて歩いた。自分の手で何らかの収穫をという思いは強かったものの、カラオケ店も雀荘も聞きこみは空振りばかりだった。

 そうなると、今無理しなくても、新年度になれば身元が分かるだろうという気持ちにあっさり傾いていく。春休みである今は、大学の前をうろついていても、学生らしき若者の姿をあまり見かけないのだ。

 それでもキャンパスの出入りは少ないなりにもあるようなので、この日は聞きこみの仕上げとして、大学の正門を出てくる学生に当たってみることにした。

「すいません、ちょっと人を探してるんですけど、この人、知りませんかね?」

 そう声をかけて兼松の写真を五、六人に見せたものの、いずれも首をひねられて終わった。横浜公立大は七千人くらい学生がいるらしい。学部や学年が違えば顔を知らないのも当然であり、顔見知りを見つけるほうが難しいのだ。最悪なのは兼松がこの春で大学を卒業してしまっている可能性だが、それはもう、そうでないことを祈るしかない。

「そろそろ帰ります?」

 一日歩いて何の収穫もないことに嫌気が差した様子の亜由美が言うので、小川も「そうだね」とうなずいた。しかし、ちょうどまた一人、女子学生が大学の正門から出てきて、それがいかにも育ちのよさそうな、小川のタイプでもあったので、「あともう一人」と考えを変えた。

「すいません、警察のほうから来たんですが、ちょっといいですか」小川は女子学生を呼び止めて、写真を見せた。「この人、知りませんかね?」

 スプリングコートに身を包んだ女子学生は、写真に目を落としてから、「ん?」と二度見するようにそれを覗きこんだ。

「知ってます?」

「ええ」女子学生はあっさりと言った。「博士の同級生です」

「博士?」

「大学院の博士課程です」

「ああ、大学院」高卒の小川からすると大学院など別世界であり、兼松の正体がそんなインテリだというのは意外だった。「の誰ですか?」

「梅本っていう人です」

「梅本っていう人……」

 ついに引き当てたという思いで、小川は思わず鼻息を荒らげた。

「どういう人ですか?」亜由美も後ろから身を乗り出して彼女に問いかけた。

「どういう人って言われても、あんまり深く絡んだことないんで」女子学生は言う。「真面目そうっていうか、何考えてるか分かんなそうっていうか」

 梅本の下の名前を訊くと、彼女は手持ちのファイルから研究発表で使うレジュメとやらを取り出して確認し、梅本佑樹だと教えてくれた。経済学の博士課程で同じ指導教官の下に付いているほど近い関係らしいが、交流と言えるものはほとんどないという。

「自習室は開いてるんで、院生は春休みでも割と来てますね。梅本くんはたまにしか見かけないですけど」

 彼女から拾えた情報はそれくらいであり、亜由美がなおも粘って梅本のレジュメとやらを近くのコンビニでコピーさせてもらったが、小川は早く帳場に戻ってこの収穫を巻島に報告したかった。

「兼松の身元が分かりましたよ!」

 山手署に帰ってきて、捜査本部の指令席に巻島の姿を見つけた小川は、勢い声が大きくなった。巻島の隣にいた本田には眉をひそめられ、後ろにいた亜由美には襟首をつかまれた。

 一瞬気まずくなったが、巻島が「向こうで聞こう」と立ち上がり、ほかの幹部連中も彼に続いて隣の別室へと向かい出したので、小川はまたしても興奮が抑えられなくなった。

「兼松は偽名。本名は梅本佑樹で、横浜公立大の大学院生です」

 別室で小川が息せき切って報告するのを、巻島は黙って聞いていた。

「院生かぁ……砂山知樹といい、どこで間違っちゃったのっていう若者が闇バイトに手を染めてますよね」

 山口真帆のそんな感想にも、巻島は目をつぶってうなずいているだけで、頭の中ではいろいろ思考をめぐらしているようだった。

「分かった。ご苦労さん」巻島はしばらくして目を開けると言った。「兼松の任同を予定してたところだから、ちょうどよかった」

「え? 兼松の身元、分かってたんですか」

 小川には言っている意味がよく分からなかった。身元をようやくつかんだところなのに、任意同行をそれ以前に予定していたとはどういうことか。

「そうじゃないが、この件はいったん預からせてくれ。時機が来たら、その梅本を洗うことにもなるだろう」

 何やら奥歯に物が挟まったような言い方をされ、小川は首をひねる。

「じゃあ、君らには先に話しておこう」巻島は言った。「兼松の身元が判明した。本名はまつけんで横浜公立大の学生だ」

「えっ!?」

「明後日、任意同行に動く予定で、明日、その担当を集めて打ち合わせをする。君らにも担当に加わってもらう」

「はあ」

 狐につままれた感覚であり、巻島が何を言っているのか分からない。

「分かったか?」本田が無理やり納得させるように言う。「梅本という男は忘れろということだ」

「いやいや、そう言われましても、何でそうなるのか、ちっとも分かりませんよ」

 小川は兼松の写真でちゃんと女子学生に確認を取っている。その松井健人なる男がいきなりどこから浮上してきたのか分からない。

「〔ポリスマン〕問題を解決するためだ」

 巻島の言葉に亜由美が何かを察したらしく、「罠ですか?」と声を上げた。

「詳しい話をするつもりはない」巻島は否定しなかった。「ただ、この数日は梅本という存在は帳場内でも伏せておかなきゃならない」

 どこがどう罠になっているのかは分からないが、彼ら幹部たちが何か得体の知れないことを企んでいて、小川の立場ではそれに口を挿めるものではないのは察することができた。

「さっき、兼松の身元が分かったって、大きな声を上げてたけど」山口真帆が諭すように言う。「誰かが詳しいこと訊きに来ても、教えちゃ駄目よ」

「分かりましたよ」小川はすべてを呑みこんで言った。「てか、僕も特命任務を担ってる自覚はありますから、捜査情報を誰かにべらべらしゃべったりなんかしませんしね」

「本当か?」本田が疑いの目を向けた。「兼松は横浜公立大の学生らしいとか、周りに得意になってしゃべったりしてないだろうな?」

「言うわけないじゃないですか」小川は口を尖らせて言い返した。「僕は戸部さんから何を調べてんだってしつこく訊かれても、全部はぐらかしてるくらい口が堅いんですよ」

「ほう、戸部はそんなことを訊いてくるのか」巻島が興味深そうに聞き咎める。

「あの人は僕が巻島さんに信頼されて特命任務を任されてるのが気に入らないんじゃないですかね。俺も特捜隊に移るんだからとか言ってますけど、信頼なんてちょっとやそっとで勝ち取れるもんじゃないってことを僕は言いたいんですよね」

「まあ確かに、小川さんは巻島さんに目をかけられてるとこあるもんね」

 山口真帆は調子よさそうに言って巻島を見る。巻島は半分、考え事をしていたように、「ああ……ええ」と気のない返事をした。

「本当なら、とっくに特捜隊をお払い箱になっててもおかしくないんだけどな」

 本田が意地悪く言ったが、真帆が「でもやっぱり、この人は持ってますよ」と小川に肩入れしてくれた。その通り、今日は成果を手にしてきただけに、本田もそれ以上は何も言えないようだった。

「小川もそうだし、戸部にしてもそうだ。俺はみんなに期待してる」

 最後は巻島がそう言って話を終わらせた。戸部にも期待しているというのはある種の取り繕いのようにも聞こえ、小川はやはり自分が特別に見られているように感じ取れたので、悪い気はしなかった。

 

 翌日夕方、本田から招集がかかり、小川は会議室隣の別室に入った。

 その部屋には巻島と本田が待ち構えていた。呼ばれたのは小川のほか、亜由美と戸部に富田だった。

「これは極秘任務だ」巻島はそう断ってから話し始めた。「小川と小石が昨日、兼松の身元を突き止めた。兼松の本名は松井健人。横浜公立大に通う学生で、現在、戸塚で一人暮らしをしている。検討した結果、この松井に任同をかけることにした。そこで君たちには明日早朝、松井が住むアパートを訪ねて、彼を首尾よく連れてきてもらいたい」

 巻島と本田が醸し出す緊張感が尋常ではなく、でたらめな任務だと知っている小川も雰囲気に呑まれそうだった。

 巻島は松井健人の住所と明朝五時の集合場所を四人に告げ、今日はこのまま帰って、明日の出動に備えるようにと言い渡した。

 打ち合わせが終わり、小川は妙な緊張感を抱えながら山手署を出た。すると本田から電話がかかってきて、戻ってくるよう命じられた。亜由美も同様だったらしく、二人で会議室隣の別室に戻った。

 そこには小川たちのほか、久留須と河口が集められていた。

「これは極秘任務だ。小川と小石が昨日、兼松の身元を突き止めた……」

 巻島のデジャヴのような話があり、ぴりついた空気の中、打ち合わせは終わった。松井健人の住所は同じ戸塚ながら先ほどの打ち合わせとは違っていた。集合時間もこちらは七時だった。

「小川、遅刻すんなよ」

 久留須は自身の緊張感を押し隠すように言って、帰っていった。

「ええと、僕らはもう帰っていいんですかね?」

 巻島と本田が別室から帳場のある会議室に戻ってきたので、小川は訊いてみた。また呼び戻されては敵わない。

「おう、帰れ帰れ」

 あっけなく本田に言われ、小川も帰ることにした。

「結局、どういうことかなあ?」

 何やら〔ポリスマン〕に関する策略を立てているらしいことは分かっているものの、何をどうしようというのか分からない。小川は一緒に署を出てきた亜由美に問いかけてみた。

「だから、罠を仕掛けてるんですよ」

「誰に?」

「そりゃ、私たちと一緒に任同に行く四人でしょ」

「え!? あの四人に〔ポリスマン〕の疑いがかかってるってこと?」

「そうなんじゃないんですか」

 四人とも、来月には特捜隊に異動してくる者たちである。その意気込みを買って起用されたのだとばかり思っていた。

「でも、どうやってそこから〔ポリスマン〕だっていうのを見るのかな?」

「そこまでは知りませんよ」

「もしかしたら僕たちが見極めることになるのかな。だって、巻島さんも本田さんも現場には出ないんだし」

「当然、それくらいの意識は持ってるべきでしょうね」

 亜由美はすでにその気でいるようだ。彼女は腹をくくると、意外とやる女ではある。

 小川も負けずに覚悟を決めるべきだった。

「でも、四人の何をチェックすればいいんだろ。本田さんは何か言ってた?」

「何も言ってませんよ」

 自分で考えろということか。

 責任が重大すぎて、今夜はろくに眠れそうもなかった。

 実際、夜は二十一時に布団に入ったがまったく寝つかれず、ようやくうとうとしたところでセットしたアラームが鳴った。それを切っても動けず、そのまま寝坊してしまいそうだったが、追加のアラームが四時に鳴り、ようやく布団から出ることができた。

 慌てて身支度し、寮を出る。

 タクシーを拾い、集合時間の五時ぎりぎりに山手署に着いた。

 しかし、集合場所の駐車場には、五時をすぎても小川以外、誰も現れなかった。

 

 

46

 

「君たちには兼松の住まいと設定した戸塚のアパートにそれぞれ行って詰めてもらう」

 任意同行班との打ち合わせの前、巻島は張りこみ二班を集めて、オペレーションの説明をした。

「〔ポリスマン〕からどんな反応があるかは分からないが、一番警戒しなければいけないのは、彼らの実行部隊が情報漏洩を恐れ、兼松を襲撃、拉致、あるいは説得するために、その住まいに乗りこんでくることだ」

 警戒しなければいけないとしつつも、その事態はまさに巻島が待ち望んでいるものであった。だからこそ、用心を重ねておかなければならない。

 戸部と富田が小川らとともに任意同行班に命じられたA班は、その現場アパートの部屋に村瀬、関、飯原、青山を張りこませ、久留須と河口が任同を担当するB班の現場には長沼、森安、古井、常川を充てることにした。

 村瀬と関はかつて国体やインターハイで好成績を収めた柔道家でもあり、A班とB班にそれぞれ分けることを考えていたが、小川が口にした戸部の話が気になった。兼松の捜査について、小川に進行のほどを探ってくることがあるという。そのことだけで戸部を怪しむべきではないかもしれないが、留意しておく必要はあった。巻島は熟考の末、村瀬と関を同じA班に入れた。ほかも剣道や空手など武道の心得がある者が多く、何者かの襲撃があっても対応できる布陣ではあるものの、防弾防刃ベストの着用など、念には念を入れた準備もさせるようにしている。

 彼らは打ち合わせが終わると、速やかにそれぞれの現場に向かうことになった。

 この日の夜の会議がないことをオペレーションに参加しない捜査員らに携帯で通知し、次に任意同行班を班別に呼んだ。もともとのメンバーは少し違っていたが、小川が帳場内で兼松の身元が分かったと大声で発言したいきさつがあり、それに合わせてA班B班の双方に小川と小石を入れることにした。

 両班とも打ち合わせに臨んだメンバーは、巻島の指示を緊張した面持ちで聞いていた。その態度だけでは、そこに〔ポリスマン〕が紛れているかどうかなど分からない。明朝の集合を告げて、両班は解散した。戸部、富田、久留須、河口の四人については、魚住の指揮下で動いている者たちが行動確認をしているはずだった。

 捜査本部の指令席には巻島と本田、山口真帆と坂倉が残り、会議がないこともあって、十九時をすぎた頃には内勤の者を含め、所属の捜査員はすべて帰宅の途に就いた。

 事実に即さない非公式のオペレーションであり、現場との連絡は警察無線ではなく、携帯を通してやり取りしている。その連絡も、張りこみ両班が十七時頃アパートに入り、待機態勢を整えたという報告を最後に途絶えている。

「食事にしましょう」

 十九時半をすぎて坂倉が弁当を取り、指令席を囲む面々に配った。みな口数は少なく、黙々と箸を動かす時間が長かった。

「しかしまあ」本田が嘆息気味に口を開いた。「同僚の誰かを嵌めるというのは、つくづく気分のいいものではありませんな」

「ねえ」山口真帆も我が意を得たように言う。「それでも、〔ポリスマン〕がいるなら誰か引っかかってほしいって心のどこかで思っちゃうんですから、我ながら性格が悪いというか、嫌んなっちゃいますよね」

〔ポリスマン〕の存在が配信番組に登場した〔リップマン〕によって言及されてから半年以上が立っている。それまで手をこまねいていたわけではないが、本腰を入れて特定に乗り出すにはあまりにもセンシティブな問題であり、巻島としても慎重に時期と方法を見定めるほかなかった。

 しかし、事ここに及んでは、すべてを割り切らなければならない。誰であろうと、〔ポリスマン〕として巻島たちを欺いてきたならば、この罠にかかってくれという思いが巻島にもある。

 食べ終わった弁当のケースをそれぞれ片づけ、指令席に腰を落ち着け直すと、物音も立たない時間になった。

 時計は二十時半に近かった。

 不意に本田の携帯が鳴り、本田が発信元の表示を見てスピーカーモードにした。

〈A班の村瀬です! 不審者二名が宅配業者を装って現場を襲撃、格闘の末、一名を確保、一名は逃走して関と青山が追ってます!〉

「来たか!」本田が思わずうなるように言った。

「至急、応援を向ける」

 巻島は言い、A班の現場から徒歩五分ほどの現場にいるB班のメンバーを呼び出して、応援に向かわせることにした。

 さらには坂倉も山手署の刑事課に残っている者たちを現場に差し向けた。山口真帆も現場近くの戸塚署に連絡を取り、周辺の警邏に人員を出してもらうよう調整に入った。

 その一方で、巻島は魚住に電話した。

「A班の現場が襲撃されました」

〈何と……〉魚住もこの計画に対して、これほどはっきりした反応が出るとは思っていなかったのか、驚きの声を上げてみせた。

「戸部の様子はどうでしょうか?」

〈自宅に帰ってきたという報告はありましたが、それ以降、不審な動きは見られないようです〉

 電話やメッセージで襲撃犯を動かしているということなのだろう。私物の携帯などを詳しく調べるしかない。

「任同をかけてください。応援が必要なら人員を送ります」

〈こちらでやります〉魚住は言った。〈念のため、富田も押さえさせてもらいます〉

 富田は振り込め詐欺の社本の店を摘発したときに活躍した伊勢佐木署の若手であり、巻島もその働きを認めて、折に触れ声をかけてきた。富田自身もそれを意気に感じて特捜隊への異動を希望してきたはずで、〔ポリスマン〕を疑う点は薄い。

 しかしそれでも念を入れるのが魚住のやり方なのだろう。携帯履歴などを一通り調べれば、疑いは簡単に晴れると思われた。

 戸部にしても富田にしても、同じ帳場で長く働いてきた者たちであって、目的はどうであれ特捜隊への異動を希望していた者たちである。巻島のもとで〔ポリスマン〕の疑いをかけるのは少なからず抵抗があり、それに関しては魚住にすべてを委ねることにした。

 巻島のほうでも襲撃犯への対応で忙しかった。逃走した一人を追跡していた青山から連絡があり、逃走車が用意されていたらしく、逃げた男はその車に乗りこんで姿を消したとのことだった。また追いすがった過程で道路上でも格闘となり、関が不意打ちの飛び蹴りを食らって昏倒してしまったという。青山も何らかの怪我を負ったようだった。

 しばらくしてB班の長沼らが応援に駆けつけたが、逃走犯は車で逃げたあとであり、発見は難しそうだった。山口真帆には周辺への緊急配備の手配を進めてもらうことにした。

 そこに、魚住から報告が来た。

〈申し訳ない。応援を集めている間に、戸部に逃げられました〉

 監察室に任意同行をかけるため、態勢を整えている間に戸部が南区にある自宅から出てきたという。逃げた襲撃犯から何らかの連絡があったのだろう。行動確認していた現場の刑事が慌てて身柄を押さえようとしたものの、それを振り切って姿を消してしまったとのことだった。

 こちらにも山口真帆が南署を含む近隣署や機動捜査隊に捜索の要請を行った。

 魚住に任せ切りにしてしまったのが凶と出たか……巻島の中に後悔の念が湧いた。しかし、この帳場も縮小に次ぐ縮小をたどっていて、すぐに動かせる捜査員は何人もいない。応援を向けるにも時間がかかっただろうし、結果は同じだったかもしれない。

 言えることは、非公式のオペレーションならではの粗があり、戸部の防衛本能がそれを上回ったらしいということだった。

 やがて、襲撃犯の一人を連行して村瀬らが帰ってきた。

「おそらく逃げたほうが主犯格かと思われます」

 逮捕した男が宅配業者の変装をして村瀬たちが待ち構えていたアパートの部屋を訪ねてきたという。兼松に扮した飯原がドアを開けたところ、その男が隠し持っていた鉄パイプで殴りかかってきて、後ろから別の男が乱入してきたらしい。

 それが村瀬たちの「警察だ!」の一喝を機に逃走に転じた。村瀬が宅配業者に変装した男を取り押さえ、関と青山が外に逃げていった男を追ったという。

「帽子にマスク姿で顔はよく分かりませんでしたが、首筋にヒョウ柄のようなタトゥーがありました。背丈は百七十五、六というところでしょうが、身体つきはがっちりしていて、首も太かったです」

「ほかの者の怪我の様子はどうだ?」

「飯原は頭を鉄パイプで殴られたんで、一応病院に行かせました。意識もはっきりしてますし、たぶん大丈夫だと思います。逃げた男を追っていった関がまともに飛び蹴りを食らったらしく、ノックアウトされてしまって動けない状態でした。青山も膝を蹴られて動きを止められたところにきついストレートで簡単にダウンさせられたようですし、相手は何か格闘技をやってる人間には違いないかと。逮捕した男もそれっぽい動きをやたら見せてきて、取り押さえるのにもかなり手こずりました」

 関は今は現役から退いているものの、長く柔道部で鍛え、大学時代はインターハイでも勝ち抜いていた猛者である。それを意表をついた飛び蹴りとはいえ、一撃でノックアウトしているのだから、相手はただの素人ではないのだろう。

「ご苦労さん。少し休んでくれ」

 相手を策略に嵌めた形にはなったが、襲撃犯の一人を取り逃がし、現場に投入した捜査員にも負傷者を作ってしまった。〔ポリスマン〕を炙り出すために動いたものの、痛みを伴う結果となり、巻島の中には苦いものが残った。

 魚住たちの監視を振り切って逃げた戸部も行方知れずのまま、その日の夜は明けた。

 

 翌日以降も捜査本部では、戸部と逃げた襲撃犯の行方を追う捜査が続けられた。一方で、小川たちが突き止めた兼松こと梅本佑樹への対応も考えなければならなかった。

「任同をかけて〔ポリスマン〕を追放したことを告げれば、何かしゃべってくれるんじゃないですかね」

 本田はそう進言してきたが、巻島としては悩みどころだった。

 担当班を作り、ざっと洗い直した結果、梅本の素性は居所も含めて明らかになった。分かったのは、梅本という男は何の変哲もない大学院生であり、学費や生活費を工面するために闇バイトに手を出したらしいということだった。

 もちろん、梅本自身も運転手として淡野のシノギに参加していると見られるだけに、被疑者の一人として身柄を確保する方向で動くのが当然という考えはあるだろう。

 しかし、任意同行にしろ逮捕にしろ、物理的な接触が梅本にどういうショックを与え、その結果、どういう心境の変化を起こさせるかは予想できない。砂山兄弟といい菅山渉といい、逮捕しても知っていることをすべて吐いたとは思えない者たちも見てきている。

 正直なところ、巻島にとって梅本を逮捕するかどうかは二の次の問題だった。淡野のシノギにおいて、梅本はトカゲの尻尾の末端でしかない。

 重要なのは、彼が〔kossy〕である可能性が高く、巻島に何かを伝えようと番組にアプローチしてきたことである。

 その動きを邪魔したくない。彼が越村の死の真相や淡野の行方について何か知っていて、捜査に有益な情報を教えてくれるなら、彼の罪自体は見逃してもいいとさえ個人的には思っている。

 巻島がそう思うようになった一つのきっかけは、彼の身辺に関する情報が絡んでいた。

 小石亜由美が大学院での梅本の研究発表の概要資料を彼の同級生からコピーさせてもらってきていた。研究発表のテーマは「課徴金減免制度の事例におけるゲーム理論的考察」というものである。

 巻島は法学部出であり経済学の素養を持っているわけではないので、その概要資料から研究内容の詳細までイメージすることは難しいのだが、巻島が持っている知識の範囲でふと思うこともあった。

 課徴金減免制度というのは、公正取引委員会が使う制度で、カルテルや談合に加わった企業が自主的にその内容を報告した場合、制裁金が減免されるというものであり、司法取引にも似たシステムである。

 一方、ゲーム理論というものも、司法取引の裏付けになる理論として巻島は理解している。それに接したのは特殊班での警部補時代だった。特殊犯罪における交渉人役を各県警から集めた研修が警察庁の主催で行われ、巻島もそれに参加したのだが、そこでの座学でゲーム理論の中でも有名な囚人のジレンマについての講義を受けたのだ。

 実際の事件ではもっと複雑な要素が絡み合うとはいえ、与えられる条件や利得によって被疑者が自白すべきかどうかという意思決定を変えていくという話は単純に興味深いものだった。この理論を交渉人のテクニックとして応用することはもちろん、囚人のジレンマの例として取り上げられる司法取引そのものにも巻島は興味を覚えた。

 司法取引は日本にも導入されたが、基本的には検察の権限内で行われるものであり、巻島たち警察の人間が自由に駆使できるような代物ではない。そして、これまで検察が適用した司法取引も数例にとどまっている。

 ただ、そうした現実はともかくとして、巻島の裁量が及ぶ範囲でこうした司法取引に似た手が使えないかという思いも湧いたのだった。

 世間的に物議を醸すかもしれない。

 しかし、〔kossy〕にその交渉を持ちかけ、その発信者が梅本であったとするなら、彼は巻島ら警察が自分の正体をしっかり認識していると察することにもなるだろう。その上で持ちかけられる条件は、彼にとって十分検討に値するものになりうると思うのだ。

 そんなことをあれこれ考えているうちに、〔ネッテレ〕の番組配信の日が来た。

 巻島は夜になると自分の考えをまとめ、一つの勝負を挑むような気持ちを固めて〔AJIRO〕の本社へと向かった。

 

 

(つづく)