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「しかし、あのお坊ちゃん課長が本当に市長になっちまうとはね。まったく、おったまげですよ」
週明け、朝の会議後の指令席で本田が持ち出した話題は、やはり前日の市長選の結果についてだった。
「何か盛り上がってるからみたいな、空気に流された人が思った以上に多かったんでしょうな」
「でも、選挙戦略は意外と考え抜かれてたと思いますよ」選挙戦を終始、興味深そうに見守っていた様子の山口真帆が言う。「出馬を表明した当時はIR推進を前面に押し出してましたけど、選挙戦に入ったらそれは脇に置いて、とにかく若さや新しさをアピールする感じでやってましたからね。それが刺さった気がしますし」
「イメージ戦略が嵌まったってことですか」本田はどこか嘆かわしそうに言った。「よほど優秀な選挙参謀が付いたんでしょう」
「そんな皮肉っぽく言わなくても」山口真帆は笑う。「知ってる人が市長だなんて、ちょっとテンション上がるじゃないですか。またこの帳場にも挨拶に来られるかもしれませんよ。そしたら市長って呼ばないと」
「当選したら来やしませんよ」本田は一笑に付した。「これからは市長の椅子にふんぞり返るだけです」
「まあ、何にしろ、これで中も外も落ち着く」巻島は淡々と言った。「それが一番だ」
防犯カメラのデータ収集も選挙活動とかぶって、思うように進まなかったケースがあったと聞いている。そうしたわずらわしさから解放されて捜査が通常に戻ることが重要だとの意味で巻島は口にしたのだが、山口真帆は「本部長も機嫌がいいでしょうしね」と、いたずらっぽく笑ってみせた。
「あとから選挙違反だとか何とか、変な味噌をつけなきゃいいですけどね」
本田はなおもそう言い、選挙結果に釈然としていない気分を隠そうともしなかった。
山口真帆が県警本部に戻っていったあと、まだ帳場に残っていた津田に呼ばれ、巻島は隣の小部屋に移った。本田も何気なくあとを付いてくる。
隣の小部屋では津田に加え、村瀬に小川、小石と、巻島が特命を与えた面々が待っていた。
「例の男を特定しました」村瀬が言う。
テロの日、現場近くにいた兼松と合流し、バイクに同乗して立ち去った年配の男である。
「越村侑平、六十四歳。日雇いの人材派遣業を元町で細々とやっているようです」
日雇いの人材派遣業者……。
その男がどういうつながりであの日、あの場所に現れ、兼松と行動をともにしたのか……それは考えてもよく分からない。
ただ……。
「元町を拠点にしているのは少し引っかかるな」
淡野が小川に発見されたのは寿町であり、元町はそのすぐ近くである。越村の人材派遣業自体、寿町に出入りする日雇い労働者を相手にして成り立たせているものだろう。
そして、もともと淡野は、元町や中華街あたりの出没頻度が高かったことも、過去のデータ解析から明らかになっている。AI予測の結果を踏まえ、そのあたりの警邏を強化した捜査も過去には行っているし、だからこそ小川による発見にもつながった。
その淡野の行動には、この越村の存在が影響しているのではないか……単純に思い浮かぶのはそうした関係性である。シノギを動かした淡野と運転手役としてシノギに参加した兼松。その二人の間にいたのは越村ではなかったかということだ。
「この男、闇社会とつながってるような影は見られないのか?」巻島は訊く。
「まだ周辺に少し当たってみただけですので、そこまでのことは分かってません」村瀬は言う。「ただ、事務所の入口ドアは防犯カメラで警戒がされているようで、妙な胡散くささは感じさせますね」
入口の防犯カメラなど今どきは珍しくもないが、実際に現場で様子をうかがってみると、刑事の感覚に引っかかるような何かがあるのだろう。
「分かった。とりあえずは本人に触らないようにしながら、周辺をもう少し探ってみてくれ」
「行確は付けますか?」
津田の問いかけに巻島は考えこむ。
「そうだな。日中だけでいいし、無理はしなくていい。普段、越村がどういう行動を取ってるか探る意味で、小川と小石は行確に回ってくれ。兼松班から松谷と青山も回して交代でやってもらおう」
「聞いたか?」本田が小川を見る。「今度は居眠りするなよ」
「い、居眠りなんてするわけないじゃないですか」小川が目を剥いて言い返した。
兼松については担当している特捜隊の関倫紀から直近の報告を受けているが、まだ人物の特定には至っていないらしい。彼はおそらく、淡野が指名手配され菅山が捕まってから、警察の目を警戒している。街中ではマスクをしているのだろうし、Nシステムに捉えられた画像を見ても前髪が目にかかっており、画像解析にも引っかかりにくいのかもしれない。
ただ、去年の夏から収集しているデータにさかのぼって解析にかけてみるとヒットするものも多く、行動圏もおよそ絞られてきている。彼の姿は主に保土ケ谷区内で捉えられており、自転車で行動していることが多い。
スーツ姿がほとんど見られず、近くには横浜公立大があることから、学生ではないかという見立てが担当班の中でもあるという。そうだとしても大学は春休みに入っており、人物の特定にはもう少し時間がかかるようだ。
どちらにしても兼松はシノギの運転手であって、〔ポリスマン〕や〔ワイズマン〕までたどり着く糸としては細い。兼松よりは越村のほうが糸としては有望であるようにも思えていた。
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薄暗いドアの前に立つとライトが照らし始めたので、小川はぎょっとした。
これ見よがしに設置されている防犯カメラのレンズが不気味にこちらを向いている。
そのほかは古びた鉄製のドアに〔元町興業〕という小さな表札が付いているだけの殺風景なエントランスである。
津田が昔の小さな暴力団事務所の玄関に似た雰囲気があると言っていたが、小川は暴力団には関わらない刑事生活を送ってきたので、そのたとえはよく分からない。何となく異様な感じはするが、それも津田からそういう言葉を聞いたから思うだけかもしれない。
中から様子を見られているかもしれず、小川は村瀬に教えてもらった通り、伝票を確認するような芝居を入れた。特殊班から借りた宅配業者のユニフォームを着て、荷物風の段ボールを小脇に抱えている。場所を間違えたという体でいったん三階へと上がり、しばらくして下りた。二階の〔元町興業〕のドアをちらりと見ながら階段を下りるが、留守であるかのようにひっそりとしている。
〔元町興業〕が入ったビルは川沿いの河岸通りに面しており、ビルから少し離れた道路脇に小型のバンが停められている。小川は後部ドアを開けて中にもぐりこんだ。
「何か寒々しい事務所だったよ」
中で待機していた小石亜由美にそう報告した。
「まだ冬ですからね」
膝にかけたブランケットで暖を取っている亜由美が応える。
「いや、そういう意味じゃなくて」
「本人はいました?」
「いや、呼んでないし」小川は言う。「触るなっていう巻島さんの指示だから」
「ドア見に行くだけのために、わざわざ変装したんですか?」
「いやいや、百聞は一見に如かずって言うでしょ」
小川としては十分意味がある仕事だったのだが、亜由美には通じなかったらしく、「ふーん」と返されて終わった。
彼女と組むのは〔ミナト堂〕の張りこみ以来だが、当時とは小川を見る彼女の目が変わってしまっている。実にやりにくい。
川沿いの日陰は日中から冷え冷えとしていた。本田からはガソリンの無駄遣いをするなと、張りこみ時は車のエンジンを止めておくよう言われている。小川は宅配業者のユニフォームの上からダウンジャケットを羽織っているが、足もとからの冷気には対処できていなかった。
「しかし、こんなところに関係者がいたとはね」
小川は行確相手の越村が〔リップマン〕一味に関係がある人物だと確信を持っている。
この近くにある寿町で淡野と遭遇したのもそうだが、それ以前にも小川はちょうどこの川沿いの道をもう少し駅のほうに歩いていったあたりで、淡野に職質をかけたことがあったのだ。
そのときは女が現れて菅山渉の免許証を見せてきた。小川は中華街で菅山にも職質をかけていたのだ。のちに菅山も彼と付き合っていたスナック勤めの女も、中華街で二回職質をかけられたと供述しているのだが、二回目は淡野だったに違いないのだ。
ただ、淡野だろうと菅山だろうと同じ一味に変わりはなく、彼らがこのあたりを行動圏にしている理由があるはずだった。それが越村の存在で説明できる。
だから、この行確任務の重要性は重々承知している。亜由美は小川が凝りをほぐそうと首を少し動かすだけで眠たいのではないかと鋭い一瞥を向けてくるが、そんな怠惰な感覚は持っていないのである。
ただ、寒さには勝てないので「使い捨てカイロ買ってこようかな」と口にしてみると、「暖かいと眠くなりますよ」と非情の一言が返ってきた。彼女がブランケットの中にいくつもの使い捨てカイロを忍ばせているのを知っているだけに悔しい。村瀬や津田のほうがどれだけ優しいだろうかと思った。
寒さに震えながら張りこんでいたが、夕方になって我慢できなくなり、「ちょっとトイレに行ってくる」と一方的に言って、近くのコンビニに行き、使い捨てカイロを買いこんだ。
ところが車に戻ってみると、亜由美の姿が消えている。
まずい。
またやらかしたかと思いながら携帯で連絡を取ってみたところ、何とかつながった。
〈出てきたんで尾けてます〉
「どこ? 追いかけるから」
〈もう遅いんで、車で待っててください〉
〔ミナト堂〕での張りこみの一件以来、彼女は小川を出し抜いて手柄を立てる味を占めてしまっている。
参ったなとそわそわしながら、そして眠気とも戦いながら車の中で待っていると、一時間ほどして越村が戻ってきた。続いて亜由美も姿を見せ、震えながら車に乗りこんできた。
「寒っ……次からは絶対に小川さんが行ってくださいよ!」
越村は寿町の公園で日向ぼっこし、二、三の労務者風の男たちと談笑していただけだったらしい。それを物陰に隠れて見張っていた亜由美は身体の芯から冷え切って帰ってきたようだった。
「言ってくれれば応援に行ったのに」
手柄を独り占めしようとするからそうなるのだ。小川は少しだけ愉快な気分になりながらそう言っておいた。
翌日は松谷鈴子と青山の班が行確を担当し、翌々日はまた小川たちが担当した。
夕方、越村は外出し、小川が尾行した。彼はどうやら、寿町で仕事を探している日雇い労働者と毎日そうやって会っているようだった。日ごとに春の訪れを感じさせるようになり、道端で張りこんでいてもこの日はそれほどつらくはなかった。
元町に戻って、車の後部ドアを開けると、首を折っていた亜由美が瞬時にすっと顔を上げた。
「寝てませんよ」予防線を張るようにそう言われた。
何も起こらないまま三回目の張りこみが回ってきたが、その日の十七時すぎ、〔元町興業〕が入る雑居ビルの前に一台の自転車が停まった。越村は少し前に寿公園から戻ってきている。
「あれ、もしかしたら兼松じゃないですか?」
亜由美が自転車から降りてビルに入っていく男の姿を見て言った。
「え?」
夕暮れ時である。外灯が点いているとはいえ、スマホゲームのやりすぎで視力が落ち気味の小川には判別が難しかった。
男は帽子にマスク姿で一瞬のうちにビルの階段に姿を消した。亜由美も何かの確信があって言っているわけではなさそうだった。
「どうかな? 若い男っぽくはあったけど、マスクしてたし、分かんないよね」
「いや、兼松ですよ」亜由美は考えているうちにも、そうとしか思えなくなったようだった。「出てきたら尾けてみましょうよ」
「尾けるって、相手は自転車だよ」
「こっちは車があるじゃないですか」亜由美が馬鹿馬鹿しそうに言い返してくる。
「いやいや、僕らの任務は越村の張りこみだよ。それを責任持ってこなさないと」
そう言ったとたん、亜由美が胡散くさいものを見る目になった。小川は前にもこれに似たやり取りを彼女と交わしたのを思い出した。彼女は、小川の意見の逆を行けと本田に教えこまれていたのだ。
「分かったよ。本田さんに訊いてみる」
小川は渋々携帯を出して本田に連絡を取った。
「お疲れ様でーす。あのー、越村のとこに兼松かもしれないしそうじゃないかもしれない男が来てて、マスクしてるし、よく分かんないんですけど、これ、念のために尾行したほうがいいのかどうかと思いまして……」
〈相変わらず要領を得ん報告だな〉本田はいつものぼやき口調で言った。〈小石は何て言ってるんだ?〉
「いやあ、僕は越村の行確に専念すべきと思ったんですが、彼女は兼松だと思うから尾行したほうがいいんじゃないかって……」
少しばかり向こうで検討するような間があった。
〈分かった。長沼と松谷が帰ってきてるから、そっちに向かわせる〉
「それまでに出てきたらどうします?」
〈そのときはお前らで尾けてみろ。兼松を特定できるチャンスかもしれん〉
「ほらほら」
電話を終えて本田の指示を伝えると、亜由美からは、それ見たことかと言いたげな反応が返ってきた。
「あ、出てきましたよ」
それから五分と経たない頃に亜由美が声を上げた。ビルからマスク姿の男が出てきた。
「早すぎない? 本当に兼松かな?」
越村のシノギ仲間なら、何かの打ち合わせで立ち寄ったにしても、帰るのが早すぎる気がした。やはり兼松とは関係ないのではないか。
「とにかく追いましょう」
小川の疑念などどうでもいいとばかりに亜由美が言う。応援が間に合わないことは確実なので、自分たちで尾けるしかない。
「早く、早く」
亜由美に急かされながら、小川は運転席に移った。エンジンをかけ、車を出す。
男は自転車を軽快に走らせ、河岸通りから中華街の朱雀門に向かう橋を渡っていく。
「あ、張り番の小石です。今、兼松らしき男がビルから出てきたので小川さんと車で尾行します。男は自転車に乗って中華街方面に向かっています」亜由美が本田と思われる相手に電話で報告する。
小川も車のハンドルを切り、朱雀門への橋を渡る。中華街に入ったところで自転車がまた曲がり、小路へと入っていく。
「あ、一通じゃん」
小川が小路の前でブレーキをかけると、亜由美が「いいから行って!」と無茶を言ってきた。その声に押され、小川は一方通行の小路を逆走するが、案の定、向かいから車が来てクラクションを鳴らされた。尾行でサイレンを鳴らすわけにもいかず、すごすごとバックするしかない。
自転車は北に曲がっていったように見えたので、小川は中華街大通りから回りこんで北門に出てみた。しかし、男の姿はもう見つからなかった。
「中華街の裏道に入られて見失いました~」
亜由美が電話で本田に報告している。そして、「『尾行下手くそか』ですって」と、本田の反応を小川にぶつけてきた。
「いやいや、さすがにこれについては僕の落ち度じゃないよ」
小川としてはそう開き直るしかない。
ただ気になったのは、自転車の男が中華街の小路に入るときと、さらに北へと曲がって行ったとき、ちらりと後ろを振り返ったように見えたことだった。もしかしたら尾行に気づいて撒こうとしたのかもしれないという気がした。
応援に飛び出した長沼や松谷鈴子は帳場に引き返したらしく、小川たちも元町の河岸通りに戻ってきた。
「あ、明かりが消えてる」
亜由美の声に雑居ビルを見ると、二階の窓から洩れる明かりが消えていた。越村も帰ってしまったらしい。
「じゃあ、僕らも帰るか」
越村がこの近くにある長者町のマンションに住んでいることは捜査班の中で突き止めているが、行動確認は日中を対象にしていて、夕方以降、越村が帰途に就いたと判断したら帳場に戻っていいとの指示を受けている。
とはいえ、戻れば本田の小言の一つくらい待っているだろうなと思った。
「いやあ、あれは誰が尾行しても無理ですよー」
捜査本部に戻り、指令席に本田の顔を見つけると、小川は機先を制するように大声でそんなことを口にした。
しかし、意外にも本田はこちらをちらりと見て若干眉をひそめただけで、大した反応は見せなかった。
代わりに、後ろにいた亜由美が、戸部がやるような遠慮のなさで小川の背中をどやしつけてきた。
「特命なの忘れたんですか」
小川の声が大きすぎたらしい。
本田の小言は聞かずに済んだが、この日の出来事の影響は翌日に現れた。
行確の担当は青山と松谷鈴子だったが、肝心の越村が事務所に現れなかったという。
念のため、長者町の自宅マンションを見に行ったものの、そこにこもっているかどうかは分からなかったらしい。
小川たちの張り番の日になっても同様だった。越村は事務所に現れず、マンションにこもっている気配もない。
「宅配装って、チャイム鳴らしてみろ」
午後になって帳場に呼び戻され、本田からそんな指示を受けた。それで小川は再び宅配業者のユニフォームに着替えることになった。
長者町のマンションを訪ねてインターフォンを鳴らすが、何の反応もない。その足で元町に向かい、張りこみ先の雑居ビルに入り、二階に上がった。
入口の前に立つと、明かりが灯り小川を照らし出す。チャイムを鳴らそうとして、ボタンがどこにもないことに気づいた。
「あれ……?」
いくら探してもない。ノックするしかないらしい。
昔の田舎の家でもあるまいし、こういうところもやけに怪しい。
「すいませーん」
小川はドアをノックし、中の様子をうかがう。二度、三度とノックしたが、誰も出てくる気配がなく、逆にほっとした。
戻るか。
そう思って階段のほうにきびすを返すと、ちょうどその階段を上がってきた男と目が合った。相手は同じ宅配業者のユニフォームを着ていたので、小川は少し慌てた。
「いや、違うんです。ちょっと間違えまして」
作り笑いを浮かべながら、言い訳にもならない言葉を口にし、彼と入れ替わるようにして階段に向かった。
宅配業者の男はマスクをしていたものの、いかつい顔立ちなのは分かり、首筋にはタトゥーも覗いていた。近頃の宅配業者はこんな感じかと思いながらも、怪訝そうにこちらをにらみつけてくる視線に首をすくませ、小川は「お疲れ様でーす」と取り繕うように言ってそそくさと階段を下りた。
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数日前から越村は身体にかゆみを覚えるようになっていた。
気がつくと背中や腰のあたりをかいている。冬はもう終わりに近づいているが、多少寒気が和らいでも乾燥はしているので、肌にはよくない。六十代半ばの肌ともなると、それでなくてもカサカサなのである。
帰りに薬局で保湿剤でも買っていこうと思いながら、寿公園で折り畳み椅子を出して、日雇いの応募者を待っていると、公園の外に人影があることに気づいた。
仕事の応募だろうかとその人物が公園に入ってくるのを待っていたが、意に反して人影は離れていった。木とフェンスにさえぎられてどういう人物だったのかはよく分からなかった。
その後、公園を出て帰る途中、何となく振り返ったとき、数十メートルほど後ろを歩いている男の姿に目が留まった。向こうも何気ない様子で歩いていて、普段であれば気にもならなかっただろうが、そのときはふと、尾けられているのではという可能性が頭をよぎった。
淡野が昔、警察の手が間近に迫っているときは産毛が逆立つような感覚があると言っていた。自分の身体のかゆみもそれに近いものではという気がしてきて、背中をかきながら警戒心をにわかに高めた。
もちろん、相手が警察であるとは限らない。もともと越村は元町にあっても寿町にあっても中華街にあっても、そして裏社会にあっても、敵を作らず、面倒見よく、人付き合いできることが取り柄でもあった。
だがここ最近、うまく立ち回ることに少し疲れてきた。自分の感情を脇に置いて人にいい顔をしていることに嫌気が差してきた。
特に、〔ワイズマン〕に対してそれを感じ、今となっては彼と敵対している感覚さえある。〔財慶会〕の片平に注意喚起してみせるなど、以前ならしなかったようなことにも手を出してしまっている。
そうした空気はおそらく〔ワイズマン〕にも伝わっている。その証拠に、運転手を用意してくれという依頼に返答を保留して以降、彼からはせっつくような連絡も来ない。
ただ、片平への注意喚起がばれでもしない限り、〔ワイズマン〕が越村に対して危害を加えようとまでは考えないはずであり、ひそかに行動を見張るような真似もしてくるとは思えない。
やはり、普通に考えれば、相手は警察なのだ。
元町通りの薬局で保湿剤を買ってから事務所に戻った。そう言えばと、また思い出した。二日ほど前だったか、事務所のドアの前で様子をうかがうような男の姿を防犯カメラが捉えていたのだ。液晶画面に映し出されたその男は箱を抱えた宅配業者のように見えたので、何か通販で注文したものでもあっただろうかと思い返しながら、ソファから立ち上がりかけたのだが、男はノックをすることもなく、立ち去っていった。そのときは配達先を間違えたように見えたものの、あれなど思い返すと怪しい。というか、今日越村の後ろを歩いていた男ではないかという気がしないでもない。
一度警戒心を働かせると、次の日からも自分のアンテナに引っかかるような違和感は続いた。監視されているのは間違いない。連中はここ最近、前の道路脇に停まっているのを見るようになった小型バンを拠点にしているようだった。夕方前、寿町に向かいながら歩きスマホのふりをして後ろをさりげなくカメラに収めたところ、前日とは違う人物ではあったが、やはり越村を尾けているような男がそこに写っていた。
夜になって自宅マンションに帰るときには、そうした監視の気配も消える。思い切って振り返っても視線は空を切るので、気のせいではない。警察の張りこみとしてはやり方が甘いような気もしたが、内偵捜査の初期段階なのかもしれないと思った。
尻尾はおそらく、総裁選のテロ現場だ。報道では茂沢の単独犯として片が付いたかのような形になっているが、警察はしつこく捜査を重ねているのではないか。茂沢が警察に追われる先で、逃げるようにその場を離れた一台のバイク。付近の防犯カメラの映像を解析して、そのバイクがいかにも不審ではないかという声が上がっても不思議ではない。そこから調べを進めて、越村が警察の監視対象になった可能性は小さくない。
淡野がいれば〔ポリスマン〕から捜査情報を取ってきてくれたかもしれないが、頼みの彼はもういない。関係が微妙になっている〔ワイズマン〕から情報が入ってくることも期待できない。それどころか、越村が警察にマークされているとなれば、自分とのつながりを切ろうとして、消しにかかってきてもおかしくない……そう考えて、越村はぞっとした。
しばらくどこかに身を隠すしかないか。
しかし越村は淡野と違い、裏社会だけで生きている男ではない。普段は土木建築の日雇いや期間労働の口を斡旋し、肉体労働者の生計を立てさせる手助けとなる仕事をしているわけで、元町界隈も後ろ指を指されることなく堂々と歩いている。もともとシノギの紹介をしていたのも、社会の底辺であえいでいる者たちに糊口をしのがせる一面がそこにあるからだった。
そんな自負が邪魔をして、元町から出るという決断は、すぐにはつかなかった。
次の日もいつも通り、事務所に出て、寿町にも行った。
寿町から帰ってきて、翌日の作業現場への送迎手続きを済ませたあと、熱いコーヒーをすすりながら冷えた身体を暖めていると、不意に電子音が鳴って壁際の液晶画面に防犯カメラの映像が映し出された。
一瞬、警察が来たかと思ってどきりとしたが、画面に映っていたのは梅本だった。しかし、ほっとする一方でまずいことになったとも思った。外で張っている警察が総裁選のテロ現場を洗って越村のところまでたどり着いたとするなら、あのとき運転手として待機していた梅本がここに現れるのは、まさしく飛んで火に入る夏の虫というやつだろう。事務所には来るなと言っておくべきだった。
「まずいよ、兼松くん」
梅本が中に入ってくるなり、越村は言った。
「何ですか?」
「外で警察が張ってる」
「えっ?」梅本もさすがにぎょっとしたようだった。
「すぐそこに停まってるバンの中にいる」
川沿いに面した窓を小さく開けて、梅本にそのバンを見せる。
「最近、誰かに尾けられてるような気配はなかったか?」
「いや、特には」梅本は首をひねって言う。
「なら、おそらくテロの件だ。淡野くんの件なら、君のほうからたどってくるだろうしな」越村は言った。「どちらにしても、尻尾をつかまれたら面倒なことになる。ここを出たあと尾けられる可能性があるから、それは振り切らなきゃいけない」
「車だったら、中華街の中で撒けるでしょう」
「だといいが、のんびり将棋を指してる暇はない。うかうかしてたら応援を呼ばれる」
「越村さんはどうするんですか?」
「俺も逃げるよ。ここにはもう来ちゃ駄目だ」
梅本と話している間に越村の気持ちも固まってきた。警察はいずれ、越村を何らかの容疑で引っ張ろうとするだろう。すぐにでもここから姿を消すべきだった。
「どこに行くんですか?」
そんなことを訊いてくれる。可愛い若者だと思った。
「まだそこまで考えてない。落ち着いたら連絡するよ」
越村は事務所にある数台の携帯をバッグに放りこんだ。
「あれ、赤いカバーのタブレットがねえ」
小型のタブレット端末が一台見当たらず、越村は焦って捜す。
「これですか?」
梅本が新聞に隠れていたそのタブレットを見つけてくれた。
「おう、それだ。これが一番大事なんだ。警察に渡ったら、全部めくれちまう」
越村はシノギ関係の備忘録が入っているタブレットをバッグの奥に仕舞った。
そのほかの普段使いのタブレットやパソコン、ここを訪問した者たちの映像データが入っている防犯カメラのデータカードも取り外してバッグに入れる。
「僕が先に出て撒きますから、その間に出てってください」越村の様子を見て、梅本がそう申し出てきた。「警察が僕を尾けてきたらですけど」
「大丈夫か?」
「大丈夫です。だてにシノギの運転手は引き受けてませんよ」
「そうか」越村は彼の言葉に甘えることにした。「注意してくれよ。連中が尾けてきたとしても、完全に疑ってかかってるとは限らない。はなから逃げるように撒くんじゃなくて、さりげなく裏道を使って撒いたほうがいい」
「分かりました」
越村の支度が整うのを待って、梅本は「じゃあ行きます」と入口に向かった。
「気をつけてな」
「越村さんも」
シノギの現場に入っても表情を変えないのがいいと淡野が評していたが、その言葉通り、梅本は危機が迫るほど度胸が据わるようだった。心配はいらないなと思った。
梅本が出ていき、越村は窓を小さく開けて外の様子をうかがった。思った通り、道路際に停まっていたバンは梅本を追うようにして発進した。
越村はバッグを抱え、静かに事務所を出た。
古くさいところはあるが、通い慣れ、すごし慣れた事務所だった。ここに戻ってこれる日は来るだろうか……そんなことを少し感傷的に思いながら階段を下りた。
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「どうやら飛んだようですね。マンションにも事務所にもいません」
いないものは仕方がないと開き直るように八手は報告してきた。
「何か、こちらの気配を悟られるようなことでもしたか?」
「まさか」八手は首を振る。「下調べでもしようと思って行ってみたらいなかったんです。条件がよかったら、その場で殺ろうかなと思ってましたけど」
植草を当選させた余勢を買うようにして越村の件も一気に片づけてしまいたかったのだが、思うようにはいかない。淡野のときの失態を埋めるべく、この案件では並々ならぬ意欲を見せていた八手は、その分、肩透かしを食ったと言わんばかりに緊張の抜けた顔になっている。
「警察がいましたよ」
「警察?」
網代はこの社長室での打ち合わせに同席している薮田をちらりと見た。薮田は首をかしげている。
「宅配業者を装ってましたけど、あれは警察ですね。こっちも同じ格好してたんで焦ってましたし、張りこみの車に入っていきました」
「巻島の捜査本部とは別の動きか?」網代は薮田に訊いてみる。
「そうかもしれませんが」薮田は迷うように言った。「巻島は〔ポリスマン〕の存在を気にして、かなり強く情報統制をしています。特命任務を与えられている者もいるようで、私も特命がどうこうと一部の者が口にしているのを耳にしたことがあります。その捜査情報はほかの捜査員には共有されません」
「その特命任務に指名されないお前は、それなりに怪しまれてるということか?」網代は意地悪くそう訊いてやる。
「巻島の子飼いか、いかにも安牌な連中が任務を受けているようで、私が特別怪しまれてるというわけではありません」
「俺が会ったやつも、刑事とは思えないような、とぼけ面したやつだったな」八手が言う。「本物の宅配業者とかち合ってまずいなと思ってたところに、向こうが一方的に焦って馬脚を露わしやがった」
「帳場にいる人間ですね」八手の話を聞いて人物の目星がついたのか、薮田が確信したように言った。「宅配業者の変装をさせること自体、特殊班っぽい手口ですし、そこでのキャリアが長い巻島や本田の意向を受けた任務に違いないと思います」
淡野の捜査が越村まで迫ってきたということか。
巻島らがどこまで理解しているのかは分からないが、淡野の消息を知る人物を追う過程で越村が浮上してきたのかもしれない。
越村が捕まったとして淡野の居場所を簡単に吐くとは思えない。しかし、網代との関係が微妙になっている今、彼が淡野の存在を隠すために網代を警察に売る可能性は大いにあると思った。
警察より先に越村を見つけ、始末しなければならない。
「お前、何人か動かせるのはいるか?」網代は八手に訊く。
本来なら越村に斡旋してもらえば済む話なのだが、その越村が標的であり、しかも雲隠れしてしまったのだから、自分たちで何とかするしかない。
「タタキで使ってた連中なら」八手がにやりとして言う。
網代が低劣なシノギだと呆れていた老人相手の緊縛強盗も、回りまわって役立ってくると言いたげな彼のしたり顔だった。
網代は当面の軍資金を封筒に入れて八手に渡した。
「〔槐屋〕をマークしろ。特に隠居したじいさんのほうは、仕事もないから頼られれば世話を焼きたがる」
(つづく)