10
「えっ? 街頭演説の雑踏警備ですか?」
山手署の捜査本部に戻って本田に話をすると、案の定、怪訝な顔をされた。
本部長室を辞したあと、巻島は刑事総務課に寄って山口真帆に曾根の指示を報告したのだが、やはり「どうして特捜隊が?」と眉をひそめられた。その後、警備部長の川岸のもとに挨拶に行ったが、彼は何も聞かされていなかったようで、ただただ困惑していた。
「どうやら警備部でもそれほど警戒度を高めるべき情報はキャッチしてないらしい。とすると、本部長が独自に何らかの情報を耳にしたか、あるいは徳永大臣に警備を強化してくれと依頼されたか……というところだろう」
「〔ネッテレ〕の投稿だけじゃなく、大臣に対しても直接、犯行予告があったんですかね?」本田は無理に理屈づけるように言った。
「それならそう言うと思うがな」巻島も軽く首をひねる。「こればかりは本部長のほうがかなり先回りしたんじゃないかという気もする。裏金問題に続いて何か不手際でもあったら洒落にならないという思いが高じたのかもしれない」
「それで特捜隊まで駆り出そうということですか。便利屋扱いは以前からだとしても、とうとう雑踏警備にまで使ってくるとは」
「捜一の捜査員も動員しろということだから、特捜隊だけ割を食う話でもない」
この捜査本部に残っている捜査一課の班は、木根貞二が中隊長として率いている特殊犯捜査中隊と、丹沢の向坂篤志殺害事件から移ってきた大池幸長中隊長率いる強行犯捜査中隊であるのだが、この両中隊長は捜査一課の裏金作りに関わっていたらしく、本部から訓告処分を下され、すっかりしゅんとしてしまっている。特に木根は、若宮ら上層部の指示があったとはいえ、この捜査本部を撹乱させるような言動を故意に繰り返していたことも分かっており、帳場内での身の置き場もなさげな有様だ。
県警本部では新しい一課長の増川にも挨拶してきたが、捜一の班を警備に投入することには「そうですか」というだけの淡泊な反応だった。なので、巻島の手で彼らを動かすこと自体は難しい問題ではない。
「まあ、よくも悪くも本部長は捜査官のことを頼りにしてるということですかな」本田はそんなふうに感想をまとめた。
「いずれにしろ、それほど時間もない。早速、オペレーションの詳細を詰めて、班の編成に取りかからなきゃならない」
「そうですね」本田も仕方なさそうにうなずいた。
〔ネッテレ〕での〔リップマン〕への呼びかけを再開してから、二回の番組出演をこなしたものの、〔リップマン〕からの反応はまだない。〔リップマン〕が現れないことには番組もまったく盛り上がらないが、しばらくは淡々と続けるしかなさそうだった。
日曜日の街頭演説に向けては、特捜隊と捜査一課二班で二人一組の班が編成され、それぞれに現場の下見を行わせた。
巻島は県警本部内に設置された対策本部の幹部会議にも本田とともに顔を出した。当日は警備部警衛警護室の警護員たちが警視庁のSPとともに総裁選の候補者たちの周囲に張りつく。演説中、演説車の上に乗って候補者の脇を固めるのは警視庁の役目となるが、演説後、候補者たちが支援者らに近づいて握手して回る時間があるようで、そのときは警衛警護室の警護員も候補者の背後を囲むようにして不測の事態に備えることになる。
人数としては、大塚清志、小園玲子両者に四人が付けられるのに対し、徳永一雄には倍以上の十人が付けられるという。これは曾根本部長が下した徳永大臣を重点的に警護するという方針を受けてのものだ。
ほかに、機動隊や近隣署の警備課を中心にして三百人態勢で雑踏整理を行うことになっている。当日の人出は最低五千人以上を見込み、曾根も口にしたように一万人近い規模にふくれ上がることも想定しているという。
そうした警備態勢の中で、特捜隊と捜一の二班は集まった群衆の中に入り、不審者に目を光らせる役目を担う。同じように極左グループを監視している公安三課なども群衆の中に入るらしいが、彼らが具体的にどういう人物をマークするのかということは、公安ならではの極秘事項らしく、巻島が訊いても明かされることはなかった。ただ、三課長の坂巻の反応を見ても、彼らがマークしている相手の中にテロを起こすような徴候は見つかっていないようでもあり、彼ら自身もどこか疑い半分で今回の重警備を担うことになっているように感じられた。
11
デリバリーのバイトから戻るのが遅れ、梅本は早足で大学院棟に向かった。
ここ二週間ほど、自習室には出入りしていたものの、出島教授のゼミには顔を出していなかった。ゼミに出れば何かしら直近の研究成果を発表しなければならないが、何かを発表するほどには梅本の研究は進んでおらず、すっかり壁にぶち当たっていたのだ。
さすがに何とかしなければと思い、とりあえず、関連する先行論文を二本ほど読みこみ、そのことを発表することにした。
大学院棟に入り、三階にエレベーターで上がると、ドアが開け放たれたゼミ室から出島教授の張りのある声が洩れてきていた。
「じゃあ、バイトで忙しくて来れないってこと?」
「自習室ではちょくちょく顔を見るんですけど、最近はいつも大きなバッグを持ってるんですよ。あれ、バイトで使うデリバリーのバッグが入ってるんです。それを畳みながら入ってきたときもあって、たぶん忙しくやってるんじゃないかと」
畑村萌絵の声が聞こえる。自分の話をしていると気づき、梅本は反射的に歩みを緩めた。
「じゃあ、ここで何か注文したら、梅本くんが届けに来るのかな」
出島教授が軽口のように言い、ゼミ生たちが笑う。
空き時間を見つけてはデリバリーのバイトを入れているのは事実だが、それがゼミを休んでいた直接の理由ではない。金銭的な苦労を茶化すように話題にされているのは、耳にしてまったくいい気分ではなかった。
「しかし、それでゼミに来れないなんていうのは本末転倒だな」出島教授は一人で話を続けた。「彼もちょっと厳しいね。そうやって消えてくのはいっぱいいるから。結局、ドクターになると、ちょっとやそっとの努力ではどうにもならない素養の差が出るんだよ。せっかくマスターで学歴ロンダできたんだから、それで満足してさっさと就職決めればよかったんだ。私は最初から難しいだろうなとは思ってたけどね」
うっすらと感じ取るだけだった出島教授の本音の評価を耳にして、さすがにぎょっとせざるをえなかった。
そもそも指導教授がこうした考えでいるのであれば、梅本がどうがんばったところで先々の目はないのではないか。
「さあ、始めよう。誰かドア閉めてきて」
そんな声がして、萌絵がドアに取りつきながら廊下に顔を覗かせた。
「あ」彼女は梅本の姿を見て、部屋のほうに顔を向けた。「梅本くん、来ましたー」
梅本が会話を聞いていたことには気づいてもいない、あっけらかんとした言い方だった。
「おう、千両役者だな」梅本がゼミ室に入っていくと、出島教授も明るい口調で声をかけてきた。「ここんとこ顔を見ないから、寂しいなと話をしてたとこだ」
「……すみません」
梅本は顔を引きつらせてぼそぼそと言い、空いている席に腰を下ろした。
夕方、元町にある越村の事務所に寄った。
「何か兼松くん、今日は元気がないな」
ソファで向かい合って黙々と将棋を指していると、越村がぽつりとそう言った。
このところ、毎週のように越村の事務所を訪れているのは、闇バイトの話がないか待っているということより、越村の様子が気になるからだった。
越村の元気のなさを気にしているつもりが、逆に気にされている。
「いつもと変わらないでしょう」
普段から、越村を前に明るく振る舞うようなことはしていない。
しかし彼は、「いや、俺には分かる」と言い切った。「何があったか……言いたくないなら、言わなくていいけどよ」
「いや、大したことじゃないですよ」梅本は仕方なく言った。「研究のほうがあんまり順調ではなくて」
複雑な胸の内を明かすにしてはだいぶ表面的な言い方になったが、それでも、この程度のことでさえ口にできるとすれば、その相手は、今の梅本には越村しかいなかった。
「そうかい」越村は静かに受け止めるように言い、ぱちりと歩を進めた。「でも俺は、兼松くんはいい学者になると思ってるよ」
「え?」
「だいたい学究の徒なんてのは、象牙の塔にこもってるのが普通だろ。世間のことなんて、データでは見てても、肌感覚じゃあ分かってない。その点、兼松くんは自分の足で動いて世の中の裏側まで見ようとしてるからな。持ってる視点からして違う」
「そんな格好いいもんじゃないですよ」梅本はふっと笑った。「手っ取り早く、まとまったお金が欲しいだけで」
「そう言えば……」
越村は梅本の言葉を受けて何かを口にしかけたが、その先は出てこなかった。梅本は戸惑いながらもとりあえずは盤面に意識を向け、自分の歩をぶつけた。それから越村をじっと見る。
越村は自分が何かを言いかけたことなど忘れたように梅本の手を見て考えこみ、ぶつかっていた梅本の歩を取った。顔を上げ、ようやく梅本がじっと見ていることに気づいたようだった。
「何だ?」
「いえ……何か言いかけてたような」
「ああ」越村はかすかに頬を引きつらせながらうなずいた。「三十万の仕事の話があるんだが、言おうかどうしようかと思ってな」
「え……教えてくださいよ」
食いつくというほどにはガツガツした反応は見せなかったつもりだが、勝手に引っこめられては困ると思った。
「うーん」越村はなおもためらうようにうなっていたが、梅本がじっと見ているので渋々口を開いた。「筋のほうからの話なんだよ」
越村が口にする「筋」とは「その筋」を略したものであって、具体的には横浜に縄張りがある〔財慶会〕を指していることは梅本も知っている。しかし、この手の仕事をこなすときは、余計な事情など知らなければ知らないほどいいというのが越村の教えであり、梅本は「どういう仕事なんですか?」とだけ訊いた。
「仕事自体はバイクの後ろに誰かを乗せて運ぶ……いや、逃げるって言ってたな。どちらにしろ、そういうのだ」
具体的にどういうシノギなのかは、越村自身聞かされていないような口ぶりだった。
「ただ、淡野くんのシノギじゃないから、どうしても計画の細かい部分は雑だと思ってたほうがいい。まさかその額で身代わりに使われることはないだろうが、ただの運転手にしてはいい金額だから、自分の身は自分で守らなきゃならない、それなりにヤバいシノギだと思うよ」
口調的に、越村が梅本に引き受ける気をなくさせようとしているのは分かる。
「でも、僕が引き受けないと、越村さんも困るんじゃないんですか?」
「そんなことはない。こういう話に飛びつくやつはいくらでもいる」越村は言った。「実際、君が来る前、俺はめぼしい相手にこの件で電話しようとしてたんだ」
「じゃあ、僕がやります」梅本はそれを聞いて決めた。「そのタイミングで僕が来たのも何かの縁ですよ」
およそ合理的な判断ではない。しかし、行動経済学の観点から言えば、ここにはナッジと呼ばれる小さな動機づけが働いている。この話を聞いたタイミングに梅本は運命を感じた。それがナッジの正体である。
ただ、その判断が正しいかどうかは分からない。越村ははっきりと顔をしかめた。
「淡野さんのシノギが期待できないなら、こういうのに手を出すしかないでしょう」梅本は言った。「大丈夫ですよ。淡野さんのシノギだって世間を賑わすほどヤバいやつだったじゃないですか。それをすでにこなしてるんですから」
「まあ、それはそうなんだが……」
ぶつぶつ言いながら、越村は渋り続ける。
梅本の将棋の腕はそれほど上がってはいないが、五局指せば一局は勝てる。集中力を欠いたような越村の攻めの隙をついて、この局は梅本が勝ち切った。
「勝ちましたから、さっきの話は僕にやらせてください」
「何言ってんだ。そんな約束はしてないだろ」
「いや、言っても応じないでしょうから、僕の中だけで勝手に、勝ったらやらせてもらうって決めてました」
かなり強引な言い分だったが、越村はそれで一つ嘆息し、仕方がないなという顔になった。
「言っとくが、クライアントは淡野くんみたいに優しい人間じゃない。言われた任務は何が何でもこなさなきゃいけない。こなせなかったから、お代はいりませんなんて逃げも通用しないぞ」
「バイクで人を運ぶだけでしょう。こなせますよ」
「だが、たかだか三十万で貧乏くじを押しつけられる義理もない。警察に捕まるのは損だ。もしものときは何より自分を優先して逃げなきゃ駄目だよ。あとのことはあとで考えればいい」
難しいことを言う。しかし、梅本自身、警察に捕まるつもりはなく、越村が自分の身を案じてくれているのも分かるので、小さく笑ってうなずいておいた。
その週の土曜日、越村からは手付けの十万とともにバイクのキーを渡された。
「明日の十六時、横浜駅西口の、横浜モアーズの裏から川を越えたところにある専門学校前に行けということだ。そのへんにバイクが停まってる」
越村はバイクのナンバープレートの番号を言った。
「十七時までの間にライダースジャケットを着た男が逃げてくるらしい。その男を乗せて羽田まで運ぶのが仕事だ。空港で降ろしたら、あとは自分の裁量で帰ればいいってことだ。バイクは適当に乗り捨てて構わないとよ」
「羽田までのルートは?」
「そこまでは聞いてないな。普通に高速使ってさくっと行けばいいんじゃないか」
淡野ならどこで乗り捨てるかなどの指示も細かかった。そういう意味では、今回の話は全体的に大雑把ではある。
「気になるのは街中のシノギで羽田に送るってことだな」越村が言う。「高飛びさせるほどにはヤバい仕事ってわけだ。タタキ程度ならいいが、街中でドンパチやったら、警察もしつこく追ってくるだろうしな」
「どこかと抗争中みたいな話はあるんですか?」
「いや、聞かねえな」越村は首を振り、微苦笑した。「長くそんなこともねえし、考えすぎか」
さすがにやくざの抗争に駆り出されるのはごめんだと思ったが、ありえないようでほっとした。
「あのへんは夜の店が並んでて、今はみかじめ料を払う払わないで筋と揉めてるところも多い。夕方四時台っていやあ、開店の準備で経営者が出てる頃合だ。そこでちょっと荒っぽいことをっていうのはあるのかもしれねえな」
場所柄を考えれば、越村の読みはいい線を行っているように思えた。
「まあ、何にしろ、受けちまったんだから、腹をくくってやるしかねえわな」
越村は改めて覚悟を求めるように言ったが、梅本としては言われるまでもないという気持ちだった。
淡野のシノギを通して、それなりの経験を積んでいることもある。そしてまた、正直なところを言えば、シノギ特有の癖になる興奮を欲してもいた。梅本は素人でありながら、体質の半分は闇社会に染まりつつあった。
(つづく)