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〈何だか〔ワシ〕のときの帳場を思い出しますよ。あのときも有賀っていうターゲットは見えてたわけです。だけど、それ以上迫る手段が何もなかった。そうやって手をこまねいているうちに、帳場自体がしぼんでいきましたからね〉
電話の向こうの村瀬から珍しい愚痴を聞かされ、巻島は足柄署の署長室の執務席でかすかに口もとを緩めた。
「本田の愚痴には慣れてるが、お前のは珍しいな」巻島は静かに言葉を返す。「ちょうど、有賀の自殺のときに聞かされた以来か」
〈あれも空しかったですけどね〉村瀬はしみじみと言った。〈今回も全然先が見えませんし、なかなか士気は上がりませんよ〉
「網代は有賀みたいに自裁するタマじゃない。粘り強く網を張っていれば、いずれ引っかかってくるチャンスはあるはずだ」
〈もちろん、そう信じてないと、やってられませんよ〉
さばさばとした言い方に、巻島は心配なさそうだなと考える。
〈足柄署もヤマに関係してるんですから、署長として遠慮なく出張ってきてもいいと思うんですよね。山口課長も新しい本部長にそれとなく進言したとか。ただ、足柄の署長が山手の帳場に出張るのはさすがに無理があるだろうって返されたようですけど〉
「そりゃそうだ。署長業も暇じゃない」巻島はふっと笑う。「お前の電話に付き合う時間くらいはあるけどな」
〈本田隊長なんかは、帳場を足柄署に移せばいいんじゃないかとまで言ってますけどね〉
「現場の人間は毎日、足柄と横浜を行ったり来たりしなきゃならんな」ありえない話だけに巻島は軽く応じておいた。
結局、村瀬たちは果てしなく続く捜査の不透明さに疲れ、巻島がいないことを言い訳にしたがっているのだ。
それには付き合ってやろうと思う。
今の自分にできるのはそれくらいしかない。
そして彼らはいつか、この停滞した状況を打ち破って、捜査を結実させるだろう。その期待はまったく失っていない。
〈そう言えば、いつか訊こうと思ってたんですが〉村瀬は話を変えた。〈偽装捜査のとき、私は張りこみ班に入りましたけど、戸部と同様に特捜隊入りを希望したんだから、こいつも怪しいんじゃないかとは思わなかったんですか?〉
「何を今さら」
巻島が一笑に付すと、村瀬も〈まあ、そうですよね〉と馬鹿馬鹿しい話題を出してしまったと言いたげに笑ってみせた。
〈あ……マル対が動きましたんで切ります〉時間つぶしは終わりだとばかりに村瀬の口調が変わった。
「お疲れ」
巻島は短く返して電話を切った。
横浜での荷造りを園子に任せたままの赴任となっていたが、大型連休中に足柄の官舎への引っ越しも終わり、家のほうは落ち着いた。園子はほんの数日で足柄暮らしの感覚を取り戻し、「先々考えて、このあたりで家を買うのもありなんじゃない?」と提案してくる始末である。
仕事のほうも、署長というポストの違和感はなかなか拭えないが、組織全体を見ていかなければならない立場であり、書類の決裁を含め、こなさなければならない仕事はそれなりに積まれている。一つ一つ片づけているうちに日々はすぎていき、執務席の座り心地にも慣れつつあった。
横浜や中央のニュースは各種メディアやネットから拾い、また時折連絡をくれる本田や山口真帆らの話の中で知るものもあったが、感覚的には別世界の出来事だった。別世界で曾根が委員に就任したカジノ管理委員会の結成式が開かれ、横浜市はIRを正式に誘致する方向で県と合同のIR推進局を設立することになった。
そんな中、監察官の魚住から電話があった。
〈ご無沙汰してます〉
簡単な挨拶で一カ月近い空白を埋めた魚住は、すぐに話を切り出してきた。
〈もしかしたら、巻島署長のもとに検事が訪ねてくるかもしれません〉
「というと?」
〈いえ、私から動いた話ではないんです〉彼はそう前置きしてから続けた。〈実は私、外務省に出向していた時期がありまして、フィリピンの大使館に赴任していました。そのときちょうど、検察庁からも柏森という男が来てまして、一緒に働いていたんです〉
他省庁へ出向したり監察官に就いたりするのは、県警の中でもエリートコースを歩いている証拠である。巻島も〔ワシ〕の事件に遭遇するまでは比較的順調に出世の階段を上がっていたが、魚住はそれ以上に将来を嘱望されてきた人材であったようだ。
〈その柏森という検事が今、横浜地検の特別刑事部にいるんです〉
警察が扱った事件は検察へと送られ、最終的に検事が起訴するかどうかを決める。山手署の捜査本部にも横浜地検の担当検事がいて、砂山兄弟や菅山渉らの捜査はその検事に引き継がれ、起訴がなされている。
ただ、それらの事件で巻島が関わったのは刑事部の検事だった。特別刑事部は東京地検で言えば特捜部に当たる。独自に犯罪を掘り起こして事件化する捜査集団である。
〈市長選に飛び交った金の動きに興味があるようで、向こうは向こうで非公式に告発を受けてるんでしょう〉
自分から動いた話ではないという前置きはこの点を指しているらしかった。市長選では票の取りまとめのため、植草陣営から地元の市会議員や県会議員に金が渡った噂が流れている。新任の二課長がこの件で動きかけて曾根につぶされたことは、巻島も山口真帆から聞いている。魚住もその話は別のルートから耳にしていたようだから、県警の幹部クラスの間では周知の事実に違いない。
県警としては黙殺を決めこむ形となった。それを良しとしない誰かが横浜地検にネタを流したか。当の二課長がそうしたなら、それはそれで面白いが、キャリア官僚があえてそこまで踏みこめたかどうかは分からない。事情を知る市会議員や県会議員の周辺が、捜査二課だけでなく地検にもタレこんでいた可能性もある。
〈私なりに思うところがあったので、柏森さんには相応の情報提供をしました。その上で先方の読みも聞かせてもらいました。地検としては本丸を網代実光と見定めているようです〉
「ほう」因縁の相手の名前が出てきて、巻島は小さな声を上げた。
〈金の出どころもそうですし、実際に選挙戦略を立てて、裏での働きかけを主導していたのは網代だと見ています。横浜のIRを実現させるために手段を選ばず、選挙戦をコントロールした人物だと。そして、その動きの詳細を知る立場にあったのが曾根さんだとも見ているようです〉
「そこまで食いこんでたんでしょうか?」
植草の立候補は曾根の存在があってこそのものではあっただろう。網代がIR反対に転じた門馬の対抗馬を探し、曾根に相談を持ちかけたという流れは容易に想像できる。しかし、その先、具体的な選挙戦略にまで曾根が関わっていたかどうかとなると、それは分からない。
〈曾根さんがどこまで噛んでいたのかは地検もこれから調べる話でしょう。ただ、二課長の動きを抑えこんだことからも分かるように、網代が打った手を知っていて、それを黙認した可能性は十分あるわけです。それで、網代まで捜査の手を伸ばすには、曾根さんを突破口にするべきだと考えているようです〉
曾根が何を知っているにしろ、このヤマが事件化されるとなれば、自身もせっかく手にしたカジノ管理委員会のポストを追われかねないことになる。簡単にしゃべるとは思えない。
「地検の見立ては分かりましたが、曾根さんもそれほど柔ではないと思いますよ」
〈そうですね。自分さえ崩れなければ切り抜けられると思われたら、そうそう崩せるもんじゃない〉魚住も同意するように言った。〈そのあたりの相談も含めて、柏森さんは一度、巻島署長にお会いしたいということです〉
「どうして私に?」
〈外から見れば、巻島署長は曾根さんに可愛がられて重用されていたと見えるようです。その分、曾根さんの強み弱みも分かってると思われているんじゃないでしょうか〉
「いいように使われていただけだと思いますがね」
〈少なくとも、私よりは曾根さんとの接触が多かったのは確かでしょう。もちろん、地検に協力するもしないも巻島署長の自由です。私は柏森さんの案に賛成した手前、一つ話を通しておこうと思って電話した次第です。本懐ではないかもしれませんが、別件であっても、網代を挙げる道があるなら、巻島署長にとっても意義深いことではないかと思いましたので〉
魚住との電話を終えて考える。
山手署の帳場で網代を挙げる日は来るのかどうか……頭にあった道はそれ一つだったが、不意に別の道もあると示された。
一連の振り込め詐欺、向坂篤志殺し、水岡社長親子の身代金目的誘拐、神奈川県警捜査一課への恐喝、淡野や越村に対する殺人あるいは傷害――そうした一連の凶悪事件の首謀を問うのではなく、贈賄で地検が挙げるのを恃むというのは、不本意極まりないことではある。
しかし、そうであっても、網代の実業家としての社会的影響力や築いてきたキャリアというものに大きなダメージを与えることはできるはずであり、この際、それに期待することも間違ってはいない気がした。
二日ほどして横浜地検の柏森から電話があり、その翌日、彼は足柄にやってきた。
柏森喬介は五十絡みの大柄な男で、横浜地検の特別刑事部では副部長を務めていると言った。
彼は署長室の応接ソファで大きな身体を折り、簡単に挨拶を済ませると、早速話を切り出してきた。
「〔ネッテレ〕の配信番組は興味深く拝見していました。今思えば、あの番組は先の横浜市長選を取り巻く人間関係の中で成り立っていたもののような気がしています。あの番組も市長選も、網代実光と曾根さんの存在があってこそのものだったはずです。〔Y's〕なる集団が市長選を動かしたこと、そして、曾根さんの甥が選挙に担ぎ上げられたこと自体が、それを裏づけていると言っていいと思います」
「おっしゃる通りです」巻島はうなずいた。「もともとあの番組も曾根と網代の個人的つながりから生まれたもので、彼らが何をきっかけにして知り合ったのかは知りませんが、おそらくIR関係の何かだと思われます」
「亡くなった徳永さんが引き合わせたという話がありますね」柏森は言った。「あの人はIRの旗振り役でしたから、十分ありうると思います」
「なるほど」巻島は応えてから言い足した。「それで思い出しましたが、総裁選の街頭演説でのテロを、曾根はどこで情報を得たのか事前察知していた節があります。直前で警備を強化し、辛くも徳永さんが難を逃れた結果となりました」
「それも、網代との間に特別な情報網が出来上がっていたからかもしれません。実行犯は確か、暴力団員だった過去があったのでしたよね。網代が裏社会にも片足を突っこんでいたとするなら、そうした情報を拾うことも難しくなかったのではないかと思います」
「とはいえ、曾根は網代の素顔までは気づいていなかったと思います」巻島は言う。「網代は実に大それた悪党です。自分が裏で糸引いていた事件の捜査を自分の会社の配信番組で行わせていたわけですから。そしてそれがばれそうになると、あっさり頬かむりしてしまった」
「のみならず、巻島さんをスター捜査官の座からも追い落してしまったのですからね」柏森はそう応じてから訊いてきた。「曾根さんは網代の正体に気づきつつ、巻島さんをそう処遇したんでしょうか?」
「分かりませんが、疑っていないのであれば、本物の〔ワイズマン〕を突き止めるために捜査本部を維持あるいは拡充したと思います。それが網代の潔白を証明することにもつながるわけですから。おそらくは、確信がなくともその可能性を感じて、臭いものにふたをする感覚が働いたのではないかと」
「それまでは、巻島さんの捜査を後押ししていたわけですね?」
「後押しと言うよりは叱咤と言うほうが近いですが」
柏森は小さく笑ってうなずいた。
「曾根さんが態度を変えたのは、個人的な判断だけではないでしょう。警察庁の意向も関わっていると思います。警察庁という組織で捉えるとぼんやりしてしまいますが、要は曾根さんをカジノ管理委員会へと押しこめるのに尽力した人物がバックにいるわけです。具体的に言うと、官房長の福間唯司さんです。近い将来の長官候補とも目されているこの方が亡くなった徳永さんとも親しく、IR計画における警察庁の領分確保に動いていると言われています」
福間は以前、神奈川県警の本部長を務めていたこともあり、巻島も顔くらいは知っている。市長選が警察庁マターになっていると山口真帆が口にしていたことがあったが、それもつまりは福間の存在で説明できるようだ。
「なので、このまま裏金事件の捜査本部で網代を挙げることは、正直なところ難しいでしょう。事あるごとに邪魔が入る可能性がありますし、警察のほうで証拠がそろわなければ、検察も手の出しようがないですからね」
悲観的な見通しを語りながらも、柏森の目は怪しく光り出していた。
「ただ、もう一つ突破口があります。うちで追っている、市長選に絡む贈賄です。網代の側近である高鍬という男が植草さんの選挙参謀として動き、市会、県会議員に金を配っています。もともとは植草側が金を撒いているという門馬陣営の議員のタレコミがあって調べを進めたんですが、今ではどの議員にいくらくらい渡ったかということもだいたいつかめています」
「それは網代本人まで届く話なんですか?」
「まさにそこが問題です」柏森は言った。「高鍬だけではトカゲの尻尾切りになってしまう。網代本人まで手を伸ばさないと意味がありません。しかし、当人たちを呼んで聴取したところで、網代の関与を否定されればそれで終わりです。指揮系統を解くには、それを知る第三者の証言が必要になります。植草市長がその一人ですが、彼も下手すれば自分がお縄にかかりますから、知らぬ存ぜぬで通すでしょう」
「もう一人が曾根だとにらんでいるわけですね」話の方向性が見えて、巻島は言った。
「その通りです」柏森は鼻息とともに言った。「〔ワイズマン〕の話は寝耳に水だったかもしれませんが、この選挙に関しては、曾根さんも網代の裏の動きを知る立場にあったと見ています。そして、崩すなら彼からだとも考えています」
巻島は話を聞いて小さくうなずいた。柏森はそれ以上の反応を欲するように「どう思われますか?」と訊いてきた。
昨夏の市長選では、まだ徳永が健在で、盟友の門馬はIR推進の立場だった。そのときもおそらく、網代は同じように金を使いながら門馬を支援して勝たせたのだろう。今回、門馬陣営はそのやり口を知っていたからタレコミができた。一方で曾根は、網代のそうした動きが嫌でも目に入る近さにいたと思われるが、それが前回選挙でも通用した作戦だということで黙認してしまった。そして選挙を経た今となっては、その犯罪性を隠蔽する側に立つしかなくなったということだ。
一歩外にいる曾根が一番崩しやすいと見るのは自然であるし、曾根が崩れれば、網代の裏の顔の一部が露わになって、世間の目も変わってくる。それによって裏金恐喝事件など、一連の捜査の潮目が変わる可能性も出てくる。
「ただ、曾根も要職を得ましたので、簡単には崩れないでしょう」巻島は言った。
「かなり気の強い人物らしいですね」柏森は言う。「しかし、彼は公務員法に触れている可能性が高い。手強いでしょうが、こちらも手加減なく当たれます」
「曾根を助けなきゃならない義理は何もありませんが」巻島は言った。「彼ごときに力を使って、肝心の本命に全力を振り向けられないのは避けたいところです」
柏森は発言の意図を問うように巻島を見た。
「私の番組をご覧になっていたなら話は早いと思いますが、柏森さんに一つお勧めしたいやり方があります」
「番組」という言葉で、柏森はぴんときたようだった。
「なるほど、司法取引ですね」彼はそう言い、思い出し笑いのようなものを口もとに浮かべた。「巻島さんのあれは少々反則気味にも思えましたが」
「でも、収穫はありました」巻島もにやりとした笑みを返した。「本来ならば検察の奥の手。こうしたケースにこそ使うべきものだと思います」
柏森は巻島から視線を外して思案顔になり、やがて小さくうなずいた。
(つづく)