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 出がけにアパートの郵便受けを覗くと、学費の引き落とし案内が入っていた。
 梅本佑うめもとゆうは自転車置き場で立ち止まり、携帯で銀行口座の残高を調べてみた。前期は残高が足りず、督促状が来てしまった。
 夏に入ったバイト代はまだ四十万ほど残っている。これで後期の学費代は払えそうだった。しかし、家賃を引かれて光熱費も引かれていくと、この残高が底をつくのもそれほど月日はかからない。
 その上、梅本は自分の預金残高を確認するとき、そこには載っていない負債を意識しないわけにはいかず、自然と気分が滅入るのだった。
 総額にして六百万近い奨学金の返済である。
 大学に入りたての頃、静岡の実家に住む父が脳梗塞で倒れ、働けなくなった。
 東京の私立大学に入った梅本は学費や生活費も工面できなくなり、奨学金を頼ることにした。月三万の給付型奨学金を得ているが、それだけでは足らず、無利子の貸与型奨学金、さらには利子付きの貸与型も利用している。
 本来ならさっさと就職して返済を始めるべきだったのかもしれないが、梅本は大学院への道を選んでしまっていた。博士課程に進んでからは時間の余裕ができ、バイトの収入もまとまって得られるようになったので、新たな奨学金は受けなくなったものの、学費と生活費のやりくりが精いっぱいで、返済にまではとても手が回らない。口座残高の裏にある、将来の返済額を意識してため息をつくだけだ。
 梅本は自転車にまたがると、大学への道を急ぎながら、何か近々ひと稼ぎしなければと思った。

〈さて、この勝ち馬に乗るというバンドワゴン効果に対して、劣勢の候補者に同情して応援するのがアンダードッグ効果となるわけですが、実際に無党派層においてこのアンダードッグ行動を取る人々の特性、及び事前世論調査との関連性を次に見ていきたいと思います……〉
 夏休み明けを控えたこの日、梅本が通う横浜公立大では、理論社会学の学会が開かれた。
 大学院に進むと、こうした学会にも出席し、ときには研究発表をするようになる。博士課程では一定数の学会での発表が学位取得の条件ともなっている。
 この日は梅本と同じ博士課程二年生の畑村はたむら萌絵もえが発表の場に立っていた。
〈バンドワゴン行動を取ったグループと、アンダードッグ行動を取ったグループの間に見られる意識の差異として、選挙によって与党がトータルでどれくらいの議席を占めるのが理想と考えているのかという調査の結果を挙げておきたいと思います……〉
 梅本はこういう学会に出るとき、それ一着しかない就活用に買ったスーツを引っ張り出して着ているのだが、畑村萌絵はそのたびごとに新調したような色鮮やかなスーツに身を包んでいる。今日は秋めいていく季節に逆らうような向日葵色の華やかなスーツである。
「おう、畑村さん、お疲れさん」
「何とか無事に終わってほっとしましたー」
 学会が終わると、梅本は指導教授である島公伸じまきみのぶのもとに向かった。ほかの院生らも同様に集まってきていたが、萌絵は一足先に駆け寄るように来ており、発表を終えた安堵感を抑揚たっぷりに言葉にしていた。
「まあでも、だんだんうまくなってるよ。こういうのも経験だからね」出島教授がそんなふうにねぎらっている。
「先生の発表はさすがでした。研究内容が勉強になるのはもちろんですけど、説明が本当、かゆいところに手が届くってくらいに丁寧ですし、出席されてる先生方も聞き入っちゃってるじゃないですか。本当、すごいです」
「うん、まあ、そういうのは、やってるうちに自然と身についてくるもんだよ」
 萌絵に褒めちぎられて、出島教授はまんざらでもなさそうに応じている。
 梅本も本来であれば、それがたとえお世辞であろうと、萌絵のような愛想を口にすべきなのかもしれない。しかし、自分が下手な調子で言っても嘘っぽくなりそうであり、気の利いた言葉は何も浮かばない。彼女の後ろでそれらしくうなずいているだけである。
「さて、喉も渇いたし、懇親会のほうにも顔を出しておかなきゃな」
 学会が終わると学内のラウンジ室で出席者たちによる懇親会が開かれることになっていた。
 ラウンジ室では、ほかの院生たちは面識のある学者らに挨拶するため各々散っていったが、梅本はそういう当てもなく、萌絵と一緒に出島教授に付いて回った。
「ああ、どうも、安川やすかわ先生」
 出島教授は市ヶ谷大学の安川教授を捉まえ、和やかに世間話を始めた。
「そう言えば、あなたも今日は発表されてたね」
 世間話に区切りがつくと、安川教授は萌絵をちらりと見て話を振ってきた。
「はい、選挙の投票行動についての考察を発表させていただきました」萌絵が愛想よく応える。
「そうだ、そうだ」安川教授は目尻に皺を刻み、いたずらっぽく訊いた。「で、あなたの分析だと、次期総理は誰になるの?」
「さあ、それは」萌絵が苦笑して首をひねる。「まだ誰が総裁選に立候補するかも確定してませんし」
「徳永さんと大塚おおつかさんは意思表明の時期を見てるだけって話でしょ。あと一人二人出てくるかもしれないけど、勝負はあの二人に絞られてるんじゃないの」
「心情的には神奈川2区ですし徳永さんを応援したいですけど、肝いりのIRが地元ではあんまり評判がよくないですから、どうなんでしょうね」
「それじゃあ、居酒屋で聞くような意見と変わらないな」安川教授は笑った。「最近はネットテレビが横町の酒場で交わすような話ってコンセプトで好き放題に政治談議をやってるけど、そっちのほうがまだ面白いこと言ってるよ」
 からかうように言われ、萌絵は「すみません」と頭をかいている。
「いやいや、安川先生」出島教授が笑いながら言い返す。「総裁選なんてのは、誰がポストをくれそうか、誰が神輿として担ぐのに軽そうかなんて目で選ばれるものですし、金も堂々飛び交うわけで、あんなものは分析するに値するまともな選挙とは言えませんよ」
「まあ確かに。大学の学長選と同じですわな」
 安川教授のブラックジョークに笑い声が上がった。
「それであなた、今はドクターの二年目、三年目?」安川教授は話を戻すように萌絵を見た。
「二年目です」
「そう。でもこうして学会の発表もこなして、博論の目処が立ちそうなら、そろそろ進路も考える頃でしょ。どこかもう当てはあるの?」
「いえ、まだ目の前の研究以外に気が回らなくて」
「先生のとこは助教のポストが空いたりはしませんか?」出島教授が世話を焼くようにして言った。
「そうねえ、空かなくもないかな」安川教授は考えをめぐらすようにして言った。「まあ、公募にはなるでしょうけど、出島先生の推薦ということになれば、不利ではないでしょう」
「そのときはぜひ、よろしくお願いします」萌絵もちゃっかり自分を売りこんだ。
「そうだ」安川教授は思い出したように言った。「IRの話が出たけど、国交省からIRのインバウンド効果についての研究プロジェクトをちょうど任されててね。まあ、データ整理なんかが中心になるんだけど、報酬もそれなりのものが渡せるだろうし、あなた、もし時間があるなら手伝ってもらえないかな」
「はい、ぜひ、喜んで!」萌絵は手をたたきながら応えた。
「よかったな、バイトの話までもらえて」うまく話が決まりすぎて出島教授も苦笑している。
「あの……」
 梅本は思わず声を出していた。安川教授も出島教授も、そこにもう一人いると初めて気づいたようにきょとんと梅本を見た。
「そのプロジェクト……まだ人手が足りないなら、僕も参加させてもらえないでしょうか?」
 この手の国から下りてくるような研究プロジェクトは予算も潤沢であり、スタッフに加われば十万円以上の報酬は期待できる。梅本は声を上げずにはいられなかった。
「ははは、君は何だ、お金に困ってるのか」安川教授は困惑を笑いでごまかすように言った。「まあ、院生の生活は厳しいよな。うーん、このプロジェクトはそれ以上、人手を必要としてるわけではないけれど、また何かあったら、君にも声をかけるよ」
「あ……はい」
 安川教授の口調からは、体よく断られたのか期待が持てるのかも分からず、梅本はもごもごと返事をした。
「君は金が絡む話になると積極的になるな」
 安川教授と別れると、出島教授からは浅ましい人間を見るような一瞥とともに、そんな言葉をもらった。嫌味が強すぎて、梅本はどう言い返せばいいかも分からなかった。
 しかし、金の心配をしなければならないのは仕方ないではないか。萌絵などは親が会社を経営していて、もともと生活費の心配などない暮らしをしていると聞く。そんな彼女が苦もなく報酬を得られるプロジェクトスタッフの話を振ってもらっているのだから、梅本だって手を挙げたくなる。
「君はまず、自分の研究に力を入れないと」出島教授は口調に不愉快さをにじませて言った。「今日の学会でも、本来は畑村さんみたいに発表する側に立たないといけないんだから」
 そうは言うが、梅本も自分の研究を発表しようと準備を進めていたのだ。しかし、出島教授に何度も突き返されているうちに間に合わなくなってしまった。
 自分の研究がことさらレベルが高いものだと言い張るつもりはないが、萌絵と比べて明らかに劣っているとも思わない。彼女との違いは、教授への取り入り方がうまいか下手かだけではないかという気がしている。
 他大学からここの大学院に入り、修士課程のうちは確かに付いていくのにやっとだった。しかし、それなりの努力で、ほかの院生たちに後れは取らなかったつもりだ。ただ一方で、萌絵らこの大学の学部から上がってきた院生たちには、梅本にない余裕があった。指導教授とも学部生からの付き合いがあり、接し方を心得ているようだった。
 その違いが、萌絵の研究活動は順調に進み、梅本のそれは滞っているという差に表れている。
「気持ちを入れ直さないと、安易な考えじゃ、博士はこなせないよ」
 出島教授は冷ややかに言い捨て、梅本に背を向けた。

 夕方、梅本は大学を出たあと、元町に寄った。
 中村川沿いの河岸通りを自転車で走る。川を抜ける夕暮れ時の秋風は涼しく、長かった夏の記憶もペダルを漕ぐごとに剥がれ落ちていくようだった。
 古く小さな雑居ビルの脇に自転車を停め、階段を上る。〔元町興業〕という表札がかかった二階のドアの前は、傾いた日も月明かりほどにしか洩れてこず、陰気なほど薄暗い。防犯カメラのレンズが冷たくこちらを向いているのだけは分かる。
 ドアをノックするのとほとんど同時に、かちゃりと解錠の音が鳴った。
 ドアを開けて中を覗く。事務所のソファに座った越村こしむらが早く入ってこいというように手招きしている。
「駄目だよ、兼松かねまつくん。しばらく来るなって言っただろ」
 言葉とは裏腹に、越村の口調には久しぶりに梅本が会いに来たことの嬉しさのようなものがこもっている。
「特に警察らしき人間は見かけませんでしたよ」梅本は越村の向かいのソファに腰を下ろしながら言った。
「淡野くんもこのへん歩いててやられたんだから、油断は禁物だよ」
「え、淡野さん、捕まったんですか?」
 裏金の受け取り現場での映像が公開され、警察に追われていたのは知っている。しかし、捕まったとは聞いていない。
「いや、捕まってりゃ、逆によかったのかもしれないけどな」
 越村は何やら意味深なことをぶつぶつと呟いた。そしてやるせないような嘆息を洩らしている。
 梅本が問うように見ていると、彼は首を振った。
「俺も詳しくは分からんよ。ただ、おそらく彼は二度とここに顔を出すことはないと思う。逃亡中も会いに来てくれたんだけどな」
 高飛びに成功したのかとも思ったが、越村の口調はどうもそんな感じではない。それよりは、彼の身に何かあったと言いたげである。
 しかし越村が言葉を濁しているのにそれ以上突っこんで訊くのもおかしく、梅本は無言で応じた。

 梅本は淡野のシノギに越村の紹介で何度か雇われている。
 役目としては車やバイクの運転手である。
 大きなところでは今年の春に砂山ともとバイクで〔ミナト堂〕から大金を奪うシノギに駆り出された。
 シノギの内容は、事前にはほとんど聞かされない。砂山知樹の名も彼が捕まって初めて知った。梅本が聞いていたのはバイク便を装って荷物を受け取ることと、走行ルートや逃走方法だけだった。
 夏には菅山渉を乗せて車で大黒パーキングエリアに行き、神奈川県警から裏金を奪う仕事があった。これもニュースとなって初めてそういうことだったのかと分かった話で、菅山は「渡辺くん」と紹介されただけであり、相手が神奈川県警だというのも想像すらしなかったことだった。
 もちろん、犯罪絡みの案件であろうことは梅本も承知して受けている。ただの運転手で一回三、四十万の報酬が出る仕事など、闇バイトでしかありえないからだ。越村から斡旋される仕事を受けるようになったのは、大学院の博士課程に進んでからだが、そのおかげで梅本の院生生活は奨学金頼みから脱することができている。
 もともと梅本は万引き一つしたことがない普通の大学院生であり、闇バイトなどは別世界の話でしかなかった。その手の求人が並ぶサイトすら覗いたことはない。
 ただ、生活費や学費のやりくりにはずっと困っていた。博士課程では取らなければならない単位が少なくなり、時間的な余裕は修士課程のときより増える。もちろん増えた時間は博士論文に向けての研究に充てられるべきだが、貸与型の奨学金を切った以上、何かで収入を得なければならない。
 梅本は博士課程一年目の夏休み、建設現場などの肉体労働で短期的にまとまった金を稼ぐことにした。バイト経験は学部生の頃にそれなりにあったが、車やバイクの運転が好きだったこともあり、デリバリーの仕事ばかりを好んでやっていた。しかし、修士課程の間、机にかじりついていた反動から、そのときは物理的に汗を流して身体をいじめ、何かの手応えを得たいという衝動が湧いていた。
 金銭問題の解決が直接的な動機ではあったのだが、今考えると、それだけが自分を衝き動かしていたわけではなかった。もっと根本的に鬱屈したものを抱えていた。博士課程に進んだことが最善の道だっただろうかという疑問を持て余していた。
 博士課程は最短の三年で単位を取得し、論文も通る者はそれほど多くない。三十をすぎて学生を続けている者も珍しくないし、九年在籍して、論文が完成しないまま満期退学する者もいる。
 それができるのは、研究することが好きだからだ。研究できていれば幸せだという人間たちである。
 梅本自身は、そこまでの感覚は持てていなかった。人を相手にするよりは、机に向かっているほうが合っているとは思うが、自分に高度な研究成果を上げられる能力があるとも考えていない。
 大学受験でつまずき、中堅私立大学の学生として挑んだ就職活動は全戦全敗だった。適当な中小企業で妥協するのも悔しく、大学院進学に方針を変えた。大学受験のときには涙を呑んだ横浜公立大に受かり、“学歴ロンダリング”を果たした形となって、この選択は正しかったとそのときは確信できた。静岡の実家で療養生活を送っている父も、その世話をしている母も、息子が自分たちの手を煩わせることなく学問の道を切り開いていることに驚き、喜んだ。しかし、修士課程を真面目にこなした末にリベンジした就活は、またしても苦杯をなめる結果となった。
 仲間の院生には大手コンサルや外資系金融、あるいは老舗出版社などから軽々と内定をもらってくる者たちがいた。結局、学歴など関係なかった。梅本は子どもの頃から明朗闊達な性格ではなく、人に愛想を振りまくのが苦手だった。面接官にいい印象を与えるような人間ではないのだ。
 博士課程に進んだのは、そうした結果があっての選択だった。こうなれば大学に残って研究者を目指すしかない。あるいは博士を取れば、どこかのシンクタンクが拾ってくれるかもしれない……その程度の目算がせいぜいだった。
 そうやってずるずると進んでしまった博士課程だけに、いざ身を置くと、環境と心境との間にギャップが生じるのも当然だと言えた。梅本のささやかな学問的探究心などは修士課程をこなすだけで十分燃え尽きていた。
 学部生時代の同級生たちとはそれほど頻繁に連絡を取り合う仲ではなかったものの、ふと聞こえてくる話からは、それぞれそこそこの会社ながらそれなりに充実した社会人生活を送っているようだった。梅本一人が二十代の半ばにもなって将来が不透明であり、生計を立てる力も持っていなかった。
 待っているのは六百万以上にまでふくらんでいる奨学金の返済だけであり、梅本は自分という人間の存在意義を自分自身つかみかねるようになってしまっていた。
 そんな悶々とした状況は、何を考えたところで抜け出せるものではなかった。身体を使って働けば、何か変わるのではないか……言いようのない切迫感でもってそんな解決策を導き出した。
 最初は求人サイトを使って建物修繕のバイトに応募した。
 派遣されたのは二子玉川にあるマンションの修繕現場で、足場作りの作業が待っていた。鉄パイプを運び、組み立てる補助をする。作業そのものは重労働と呼ぶほどではなく、食が細く体力に自信があるとは言えない梅本にも務まるものだと思えた。しかし、実際働き始めてみると、鉄パイプを数本担いで移動させるだけでも簡単に体力が削られていく。連日猛暑日が記録される中での外仕事は過酷だった。
 水分補給には十分気をつけていたはずだったが、二週目に入ると朝から身体が怠い日が続いた。八日目、何とか一日の作業を終えてアパートに帰った夜、吐き気が治まらなくなった。病院の夜間外来に行き、熱中症と診断されて点滴を受ける羽目になった。体調が戻るまで一週間近くかかり、バイトもリタイアする形となった。
 自分の体力のなさを呪うしかなかったが、体調が戻ればまた何かの稼ぎを探さなければならなくなる。梅本はマンション修繕の現場で知り合った中年の男の話を思い出していた。梅本自身はバイト先で知り合っただけの相手に自分語りなどする趣味はないのだが、その男は昼休み、みんながコンビニ弁当をかきこんでいる中、ずっとしゃべり続けていた。
 彼は以前、体調の波があり、動けるときだけ寿町に行って現場仕事の斡旋を受けていたのだという。そうやって何日か稼ぎ、あとは家でゴロゴロしているうちに、身体の不調も不思議と消えていったのだという。家でゴロゴロするか肉体労働かという生活も両極端だなと思いながら梅本はその話を聞いていた。彼にとってはどちらかの選択しかなかったのだろう。
 梅本がそれを思い出したのは、日雇いなら働きたいときだけ出ていき、休みたいときは休めると思ったからだった。夏休みにも終わりがあり、それに合った求人を今から探すのも案外難しい。
 物は試しだと、梅本は寿町を覗きに行ってみることにした。
 寿町は、かつてはいかつい労働者が集まる活気に満ちた街だったようだが、今は身寄りのない老人の街と言うに相応しく、デイサービスの看板が通りに目立ち、静けさが界隈を覆っている。
 ただ、街頭の掲示板には日雇い求人の貼り紙もあり、その日の夕方十六時に面接予定だという募集を見つけて、約束の時間、貼り紙に記された寿公園に行ってみた。
 公園とは名ばかりの空き地の隅にアウトドアチェアを出して一人座っていたのが越村だった。麦わら帽をかぶり、チューブ型氷菓を吸って涼を取っていた。
「募集の貼り紙を見たんですが」
 梅本が声をかけると、越村はチューブ型氷菓をくわえたまま、しげしげと見返してきた。
「あんちゃん、経験はあるの?」
 意外と人当たりのよさそうな口調で、どこか面白がるように彼は訊いてきた。
「足場を組む現場はあります」梅本は答えた。
「今やってんのは解体工事だからねえ」彼は目尻に皺を刻んで言った。「時々、あんちゃんみたいな子は来るよ。でも、やっぱり務まらないよね。今、何やってんの? 学生さん?」
「ええ」
 足場工事のバイトで多少は陽に灼けたと思っていたが、それでも現場仕事で食べている者たちとは一目見て違うらしかった。
「日当もそんなに高いわけじゃないからね。探せばほかであるだろ。エアコン利いたとこでやるやつでね」
 親切心であきらめるよう言っているらしかった。
「クレーン免許とかも、もちろんないんでしょ?」
「車とバイクの免許なら」
「ふうん」
 越村はそのとき、苦笑しかけてから、何か考え直したようにうなずいてみせた。
「あんちゃん、将棋指せるか?」急に話が変わった。
「子どもの頃、遊びでやってたくらいですけど」
「棒銀くらい指せるか。まあ、いいや。ちょっと待ってな」
 気づくと、後ろから求人の応募らしき労働者風の二人連れが来ていた。越村はしばらくその二人の相手をして話をつけたところで、「さて、帰ろう」と立ち上がった。梅本に付いてくるよう視線だけ送り、さっさと歩き始めた。
 夕方ではあったが、暑さはまったく和らいでおらず、汗がじわじわと肌に浮いてくる。越村も盛んに首に巻いたタオルで顔を拭っていた。
「あんちゃん、どこの学校に行ってんだ?」
「横浜公立大の大学院です」
「お、俺の後輩じゃねえか」
 彼は勝手に自分の素性を話し始めた。遥か昔、横浜公立大に受かって、しばらく通っていたのだが、次第に遊びにかまけ、中退してしまったのだという。どこかに後悔の気持ちが残ったまま時がすぎ、四十代に入った頃、大学院の社会人コースの制度を知ったのだそうだ。それで二年間の修士課程を取っていたらしい。
「中国史をちょっと学んでみたいと思ってな。もともと俺の祖父さんが中国からこっちに渡ってきたんだよ。杭州っていう、上海の近くにある町からだ。子どもの頃の記憶しかないけど、祖父さんは訛り言葉で中国の話をよくしてくれたもんだ。それで大人になって、自分のルーツみたいなもんを調べてみたくなったってとこだな」
 そんな話をしながら歩いて元町の事務所に帰り、梅本に麦茶をいれてくれた。出会ったばかりの手配師の出自にそれほど興味は覚えなかったが、妙に人好きのする男だなと半ば感心して聞いていた。なかなか梅本に対して、このように気さくに話し続ける人間は少ない。梅本自身、人の話に対して、乗せるように相槌を打ったり、大きな反応を示したりということをしないタイプなのだ。同級生や指導教授からは、話を聞いているのかいないのか分からないと言われることもよくある。
 中国史研究という意外なインテリの一面を覗かせた越村は、棚にあった将棋盤をソファの前に持ってきて、少し悪そうな笑みを浮かべた。
「あんちゃん、財布にいくらある?」
「え?」
「少しは賭けなきゃ面白くないだろ。五千円でいいか?」
「嫌ですよ」
 財布に入っているのもそれくらいだから、帰れなくなってしまう。賭け将棋を持ちかけてくるあたり、当然強いのだろう。断るに決まっていた。
「そう言うなよ」越村はいたずらっぽくけしかけてきた。「角落ちでやってやる」
「いえいえ」
 五千円もらうより、五千円失うリスクのほうに気持ちが行くものだ。
「分かった」越村は梅本の顔色をうかがうように見ながら言い足した。「あんちゃんが勝ったら、一日十万の仕事を教えてやろう」
「え?」
「嘘は言わんよ。解体現場の仕事よりよほど楽だ」
「どういう仕事ですか?」
「だから、それを俺に勝ったら教えてやるって言ってんだ」
「ただ教えるだけってことですか?」梅本は確かめるように訊く。「ちゃんと紹介してくれるんですよね?」
「やるかどうかはあんちゃんが決めることだよ」
「何か、ヤバい仕事ですか?」
「ヤバいと思えばヤバいし、ヤバくないと思えばヤバくない」越村は煙に巻くように言った。
「警察に捕まるような?」
「少なくとも、今まで捕まったやつはいないな」
 微妙な言い回しだった。何となく、違法な仕事らしいというのは察することができる。越村は柔和な表情で人当たりもいいが、その一方で、日雇い労働者を相手にする仕事柄か、梅本が普段接している者たちとは違う空気をまとっているのも確かだ。そこには少なからず危なげなものが混じっているように感じられる。
 しかし、それに気づいても、梅本はその話が気になり始めていた。
 応ずるべきかどうか。
 この手の何らかの条件が付いた話に対して意思決定をするとき、梅本は無意識に自身が研究してきた経済理論の観点で考えている。
 梅本が大学院で専攻しているのは、行動経済学という比較的新しい分野のものである。
 経済学というものはもともと、人々が合理的に物事を判断し行動することを前提として理論が組み立てられている。しかし、現実の経済はしばしばオーソドックスな理論では説明がつかない動きを見せる。行動経済学は心理学的な知見を取り入れ、そうした現実的な人間の経済行動を研究対象にする。
 前提となる合理的な理論には、例えばゲーム理論というものがある。ゲームは相手があって成り立つ。相手の出方で自分の選択が変わり、相手の出方を予想することだけでも自分の取るべき手は変わっていく。
 有名な思考モデルが「囚人のジレンマ」だ。
 ある犯罪で捕まった男がいて、すべて自白すれば懲役三年、否認すれば検察が少ない証拠で立証できる分として懲役一年が科せられるとする。この場合、懲役一年のほうが軽いので、男は否認するというのが合理的な解である。
 しかし、共犯者がいて、自分だけが自白すれば相手は懲役五年となるが、自分は司法取引で釈放されるという条件が加わってくるとどうなるか。共犯相手も同じ条件を持ちかけられていて、それぞれ相手がどう選択するかは教えてもらえない。
 この場合、本来であれば両者否認すれば懲役一年ずつで済むはずなのだが、二人とも自白するのが合理的な選択、最適解となってしまう。共犯相手が取る選択を考えたとき、相手が自白した場合も、相手が否認した場合も、こちらは自白しておいたほうが有利だからだ。さらに言えば、相手もそう考えて自白してくるはずであり、自分だけ否認すれば懲役五年という食らわなくてもいい刑を食らってしまう。なおさら否認する道はないということになる。
 そんなふうに人の選択行動、意思決定には、関係する者の思惑が複雑に絡み合って影響してくる。条件に使われる利得の内容によっても判断は変わり、相手の行動を変えるにはどういう利得を提示すべきかという考え方にもつながっていく。
 しかし、現実の人間社会はさらに複雑で、誰もがそうした条件に対して合理的な選択を取るとは限らない。例えば、共犯者が恩人であったらどうなるか。幼少期から苦楽をともにしたかけがえのない友人であったなら。お互い、決して相手を売ることがない人間だと分かっていたら……。
 そうした例外にも目を配らなければならないのだが、越村とは先ほど会ったばかりであり、関係性も何もない。彼の話にはごくごく合理的な物差しを当てればいいように思えた。
 考えるまでもなく、彼は梅本と将棋を指したがっているのだった。賭け将棋となれば余計に興奮するのだろう。
 そんな彼が、梅本の反応を探りながら、勝ったときの条件を出してきた。となれば、普通に考えてそれは、梅本にとっておいしい話であるはずなのだ。内容がぼかされ、怪しげにしか感じられないが、もし違法な仕事だとしても、警察沙汰になる可能性などは心配しなくてもいいのではないか。
 受けるか受けないかは、あとで決めればいいのである。
「じゃあ、やりましょう」
 梅本が言うと、越村は「そうこなくちゃ」と相好を崩した。
 いざ対局となったが、手を合わせてみると、越村はまったく敵わないというほどの相手ではなかった。梅本自身、対局が小学生以来というのは嘘ではないが、実際のところはコンピュータ相手の将棋アプリで最近も遊んだことはある。角を落としてくれているだけに、その分、目に見えて有利だった。
「久しぶりに棒銀相手にすると、何か調子狂うな」
 越村はぶつぶつ言いながら、梅本に龍を作られ頭をかいている。破れかぶれのように攻めてきたので、梅本は淡々と受けた。
「あんちゃん、全然表情変わんねえな」越村が無理やり猛攻を仕掛けながら、梅本をちらちら見て言う。
「そうですか?」
 梅本としては、将棋でいちいち表情を変えるほうがおかしいとしか思わない。
「まあ、俺はそういうの好きだけど」越村は言い、しばらく盤面を見てうなっていたが、「駄目だ。負けた」と言って投了した。越村の攻めを受け切って、大駒のほとんどは梅本が奪ってしまっていた。
「もう一回、平手でやろう」
「え、さっきの話は?」
「いや、もちろん有効だよ」越村は言う。「それは心配すんな」
 とにかく、リベンジしたいだけらしい。
 平手の上、梅本の先手で二局目を指すと、今度は越村がじりじりと攻め、梅本がじっくり受ける熱戦となった。
「あんちゃん、名前は何てんだ?」
 駒の音と軽い息遣いだけの静寂の中、越村が訊いてきた。
「梅本です」
 越村という名は、それが帰化名か通名かは分からないが、彼自身の話の中ですでに聞いていた。
「じゃあ、兼松くんだな」
 しばらく指してから、越村はぽつりと言った。
「え?」
「梅だけど松も兼ねるってことで」
「はあ」
 生返事しか出てこなかったが、それ以来、梅本は彼に「兼松くん」と呼ばれ、シノギの関係者にもその名で紹介されることになった。
 梅本の防御を崩して二局目を勝ち切った越村は上機嫌で電子タバコをくゆらせた。
「兼松くん、実はけっこう指してるだろ」
「スマホのゲームではたまにやります」
「だろ? 段とは言わないまでも、一級くらいはあるもんな」
 だからと言って角落ちで対局した勝負はなしだと言いたいわけではないらしく、平手で勝ってあくまで気分はいいようだった。「また、指しに来な」
「賭けなくていいなら」
「手堅いな」越村はふっと笑った。「でも、そういう慎重な性格も悪くないよ。ピンチでもチャンスでも全然顔に出ないのもいい」
 越村は壁際の棚の引き出しを開け、そこから携帯を一つ取り出して、「持ってな」と梅本に寄越した。
 そこから梅本が勝ち取った十万円の仕事についての話が始まった。とはいえ、越村が語ったのは、用意された車を運転して、人をある場所からある場所まで乗せるという漠然とした話だった。
「誰を乗せるんですか?」
「知らないほうがいいよ」越村は言った。「誰が関わってるのか、何をやってるのか、知らなければ知らないほどいい。捕まる確率は万に一つもないが、もし仮に捕まったときも、何も吐かずに済む。世間知らずの大学院生がバイト代わりにやってただけと分かれば、警察も無茶はしないしな。いい弁護士が付いて、じきに放免されるわな」
「本当に捕まる心配はないんですか?」梅本は念を押すように訊いた。
「ないね」越村は言い切った。「まず、淡野くんは君以上に身の危険に敏感だ。危機回避能力が半端ない」
 何も知らないほうがいいと言いながら、彼は淡野の名をあっさりと口にした。梅本は、淡野とは何者かということは訊かなかった。
「ヤバめの仕事のときはそう言うよ。報酬ももっと出る」
 梅本に紹介されるのは、ヤバめの仕事の周辺にある安全な仕事であるらしかった。それでも越村の言葉の端々からはどこか危険な香りが漂ってきていたが、彼のひょうひょうとした物腰がそれを和らげており、梅本は最後まで断わりの文句を口にすることはなかった。
 そんないきさつがあって、梅本は越村から斡旋されるシノギを受けるようになった。
 梅本が主に任されたのは、用意された車を運転して淡野という青白い顔の男をどこかに送る仕事だった。行き先はみなとみらいが多く、車から降りた淡野はふらりと歩いていき、気づくとどこかに消えてしまっている。しばらく時間をつぶしていると越村からもらった連絡用の携帯が鳴り、どこかから現れた淡野を再び乗せるのだ。
 時々、社本という粗雑そうな男を乗せることもあった。名前は、彼が車の中で誰かに電話することがよくあり、自然と耳に入ってきた。
 彼らがどうやら振り込め詐欺に手を出しているということも次第に分かってきた。社本は受け子や出し子ではなく、そういった連中が取ってきた金を集める立場の男であり、その金をどこかに運ぶときに梅本が運転手になるのだ。安全な仕事だという話もうなずけた。
 ただ、淡野も社本も、周囲への注意は怠っていなかった。警察に対してというより、ほかの半グレグループが上がりを狙ってタタキに来るのを警戒しているのだ。車に乗りこんでくるときには、不審者の存在など、何か気になることはなかったか必ず訊かれた。だから梅本自身も彼らを待ち受けるときには自然と用心深くなった。
 社本は振り込め詐欺の集団を束ねる頭目らしく、車の後部座席でふんぞり返るばかりがお馴染みの姿だったが、淡野はそういう意味では少し変わっていた。社本の話を耳にする限り、淡野は彼を指導する上の立場らしい。しかし、どう考えても詐欺の受け子としか思えないような現場にも時折出ていくのだ。そういうときの彼は眼鏡や入れ歯などで多少の変装をしている。住宅地をぐるぐると車で回らせ、警察の影がないかどうか注意深く観察する。そうやってどこかの家を訪ね、何食わぬ顔で戻ってくる。
 表情からはほとんど何もうかがいしれないのだが、そんなときの淡野はどこか楽しそうに感じられた。梅本自身も喜怒哀楽を表に出すタイプではないからこそ、彼の微妙な感情の動きも分かるような気がした。集団を指導するだけの生活に飽き足らず、現場でスリルを味わうことに喜びを見出しているのではないかと思った。
 淡野が現場に出るときには梅本の報酬も二十万に上がる。一度やってみれば、それが危険だとも思わなくなった。月に三回もこなせば生活費は工面できた。さらに淡野が現場に出ることが多くなると、梅本はその臨時収入で中古バイクを買った。
 しかし、そんな日々も長くは続かなかった。社本が警察に捕まってしまい、シノギが途切れてしまったのだ。梅本はせっかく買ったバイクを手放さなければならなくなった。生活も苦しくなり、参ったなと思っていたところに今年の春になって越村から五十万円のシノギを持ちかけられた。かなり危険な仕事だと分かったが、梅本は躊躇なく引き受けた。それが砂山兄弟が捕まった事件のバイクでの金塊の運搬だ。
 そして夏にも四十万円のシノギが回ってきた。神奈川県警の裏金を奪う話だったことはあとから知った。梅本が運転を担ったときの受け取りは失敗したようだったが、報酬はもらった。
 しかし、成功したはずの次の受け取りで淡野は警察に尻尾をつかまれ、逃亡生活を強いられることとなった。当初はこの近辺に潜伏し、越村にも顔を見せに来ていたようだが、警察が付近一帯に緊急配備を敷いた日以降、淡野の姿は消えてしまったという。
 梅本はただ、越村からしばらく元町に近づかないように言われただけだった。それでも、いつまでも身を潜めているわけにもいかない。季節も夏から秋へと変わった。先々の金の工面を考えていかなければならない。

「何か、僕にできるシノギはないですか?」
 梅本は気だるそうにソファに座ったまま動かない越村に問いかけてみた。
「たぶん、今までみたいなシノギはもうないよ」越村は言った。「淡野くんがいなきゃ、シノギも立ち上がらない。〔ワイズマン〕も裏の世界からは離れつつあるしな。てか、〔ワイズマン〕が何もなかったような顔して誰かに新たなシノギを立ち上げさせたところで、俺はちょっともう、関わりたくねえな」
〔ワイズマン〕という名は、これまでも時折、越村の口から出てくるのを耳にしていた。淡野のボスであり、カタギの男であるようだった。それ以上は分からないし、梅本も詳しく訊こうとはしない。
「シノギは〔ワイズマン〕関係しかないんですか?」
 梅本が訊くと、越村は渋い顔を見せた。
「筋のほうから単発的に頼まれることもあるけど、兼松くんにはあんまり勧められねえな。第一、こっちから何かありませんかなんて御用うかがいに行く相手でもねえ」
 やくざが絡む仕事をしたいとは梅本も思わない。
「日雇いの現場仕事なら回せるけどな」
 不思議なことに、もともとはその現場仕事を求めて越村と知り合ったはずなのに、今ではそれに対してまったく食指が動かない。まだやくざ絡みの仕事のほうが面白そうだとさえ思う。短時間で大金を得て日常とは違う世界を覗けるシノギの味を知りすぎてしまった。
 越村自身、梅本がそう感じることを理解しているように、とりあえず口にしてみたというだけの言い方だった。
「一局指します?」
 所在がなくなり、梅本は何となくそう水を向けてみる。
「いやあ、何か、そんな気になれないんだよな」
 越村は力のない目でどこかをぼんやり見つめながら言い、ふうとため息を洩らした。

(つづく)