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「本日からまたよろしくお願いします」
〔AJIRO〕本社内の〔ネッテレ〕スタジオに入ると、巻島は出迎えた倉重プロデューサーに挨拶した。
「お待ちしてました。今度こそ〔リップマン〕逮捕の足がかりになることを祈ってます」
 倉重の言葉には、評判を呼んだ番組配信を再開できることの喜びが素直にこもっていた。
〔リップマン〕が巻島の呼びかけに応じない限り、再開した番組はやがて尻すぼみになっていくだろう。
 ただ、それはそれとして、再開に関しては、神奈川県警が〔リップマン〕を取り逃がしたいきさつを知りたい人々が一定数いるものと思われ、視聴数も見込めるというのが倉重の目算のようだった。この日までに〔ネッテレ〕では、「神奈川県警はなぜ“リップマン”を逮捕できなかったのか? 驚愕の真実が明かされる!」というようなCMが繰り返し流されていた。
 番組を進行する竹添舞たけぞえまいとも挨拶を交わし、前回までと同様、対談用の一人掛けソファに座って番組開始を待つ。巻島たちの背後には裏金受け渡し現場で撮られた〔リップマン〕の写真がパネルとなって立てられている。
 やがて配信時刻の二十時を回り、巻島たちの前にある液晶画面に「“リップマン”に告ぐ!」という前回までと同じ番組タイトルが映し出された。
「特別番組『“リップマン”に告ぐ!』を今晩は久しぶりにお届けしたいと思います。進行を務めます竹添舞子です。そしてこちらもお久しぶりになります、神奈川県警特別捜査官の巻島史彦さんです」
「巻島です。よろしくお願いします」巻島はカメラに向かって小さく一礼する。
「巻島さん、お久しぶりです。お元気でしたでしょうか」
 竹添舞子の再会を喜ぶような言い方に巻島は苦笑する。
「私としては前回の配信の時点でここに戻ってくるつもりはありませんでしたので、こうして番組を再開することにはいささか忸怩たる思いがあります」
「前回の配信から一カ月以上が経ってますが、結果的に〔リップマン〕は捕まっていませんよね。巻島さんが思い描いていた展開とは違う事態になっているのかなという気はしていまして、今日はそのあたりのことをじっくりお聞きしたいと思います」
 前方の液晶画面では早くも多くの視聴者のアバターが巻島たちを囲んでいる。[巻島さん、久しぶり!][気になってた]というコメントが上がる一方で、[敗北宣言か][あれだけ大見得切って包囲したって言ったのに]という辛辣なコメントもちらほら並んでいる。
「実は前回の配信のあと、我々は顔画像公開を受けての情報をみなさんから集めながら、〔リップマン〕の行動圏と思われる地域を警邏していたのですが、そこで捜査員の一人が〔リップマン〕らしき男と遭遇しました」
 巻島の話に、竹添舞子が「え? そんなことがあったんですか?」と、目を丸くして驚きをあらわにした。
 巻島は寿町で小川が〔リップマン〕らしき男に職務質問したものの、単独警邏していたため突き飛ばされて逃走を許した顛末を語った。
「そのときに捕まえていればと思うと、かなり残念な気がしますね」竹添舞子は言う。「現場の対応にミスがあったんでしょうか?」
「突き飛ばされた時点では、〔リップマン〕に似ている男に職務質問しようとしていた段階ですので、相手の行動に対応し切れなかったのも致し方ない面はあったと思います。そばに仲間の捜査員がいればまた違ったのでしょうが、〔リップマン〕のような目端の利く犯罪者には、相棒と連れ立って歩いていると、遠目からも刑事だと感づかれてしまうおそれがあるため、多少は単独行動を取ってもいいという指示を出していました」
「それが今回は仇になってしまったと」
「そうですね。ただ、それも結果論だと思います。その現場捜査員からの連絡を受けて、我々は緊急配備を敷きました」
「けれど、〔リップマン〕の逮捕にはつながらなかったわけですね」
「ええ。横浜の街中ですので、幹線道路の検問を敷くにも相応の時間がかかり、また蜘蛛の子一匹逃さないという配備は難しかったのは事実です」
[言い訳くさいな][やっぱ、その場で捕まえなきゃいかんよ]という手厳しいコメントが視聴者から上がっている。
「それでもう、〔リップマン〕は行方知れずということなんでしょうか?」
「いくつか分かっていることがあります。まず我々はすでに報道されている通り、菅山渉という男を逮捕しています。この男は大黒パーキングエリアで〔リップマン〕が県警幹部との裏金の受け渡しに臨んだ日、犯行時刻前後に現場近くを通った車の運転手として高速道路のカメラに写っていました。そして、この菅山が我々に対して、自分が〔リップマン〕だと名乗っています」
「私もその報道は目にしてますが、その男が〔リップマン〕というわけではないんですね?」
「違います。どことなく〔リップマン〕に似た顔立ちではありますが、菅山の親類縁者にも〔リップマン〕だと思われる人物は存在していません。〔リップマン〕の運転手と見るのが適当で、もしかしたら〔リップマン〕は菅山を自分の影武者として使いたかったのかもしれません」
「その菅山容疑者が〔リップマン〕の逃走に関わっているという見方はありますか?」
「実はあるんです。緊急配備の日の同時間帯、菅山の車が藤沢から横浜まで来ています。行きは幹線道路を使っていますが、帰りは裏道を選んで横浜を出ているのも分かっています」
「菅山容疑者が〔リップマン〕を拾って逃げたと」
「ええ、そう思われますが、彼は自分が〔リップマン〕だと言い張るばかりで口を割っていません。それから、菅山の車の後部座席には血痕を洗い流した形跡がありまして、我々はこれが〔リップマン〕の血ではないかと見ています」
「えっ、どういうことですか?」
「具体的には分かりませんが、逃走の過程で〔リップマン〕は負傷した可能性が高いということです。かなりの出血量で治療が必要なレベルです」
「そうすると、どこかの病院に運ばれたってことはないんでしょうか?」
「我々も当然それを考えて、県内及び近隣都県の医療機関を当たりましたが、該当者は上がってきていません」
「うーん、それは大きな謎ですね」竹添舞子は眉を寄せて首をかしげてみせる。「それほどの負傷をしながら行方をくらませてしまっているというのは……いったいどういうことが考えられますか?」
「これはもう推測にすぎませんが、〔リップマン〕には仲間がいますので、その仲間が菅山から〔リップマン〕を引き取って、いわゆる闇医者と言われるような人間を手配した可能性は大いにあると思っています」
「闇医者というのは、医師免許を持たずに医療行為を行う人間ということでしょうか?」
「そうですね。あるいは医師免許を持ってどこかの医療機関に勤めている医師が、ある種のアルバイトとして報酬と引き換えにそういった治療を行うことも考えられます」
「裏社会の人間ですと、そういう医師も知っていそうですよね。菅山容疑者も〔リップマン〕の仲間の一人だと見ていいかと思いますが、〔リップマン〕のグループはそれなりの大きさを持っているようにも思えますね」
「とはいえ、核となるのは数人でしょう」
「前回までの配信で話題になっていた〔ポリスマン〕もその一人ですよね。〔ポリスマン〕の正体はまだ分かっていないんでしょうか?」
 視聴者からも[ポリスマンをまず捕まえろ]というコメントが上がっている。
「残念ながら、まだ分かっていません。特定するのが難しいのが現状でして、我々としては〔リップマン〕を捕まえることによって〔ポリスマン〕も特定できるだろうと考えていました」
「〔リップマン〕を捕まえないことにはということですね。あとは〔リップマン〕とのやり取りでは金主の存在もほのめかされていますよね」
「はい、〔リップマン〕も捕まえなければなりませんし、〔ポリスマン〕が誰かということも突き止めなければなりません。そして我々が最終的に追い詰めなければならないのは、彼らの上にいる金主です」
「この金主も〔リップマン〕を捕まえないことには迫る手立てがないわけですね」
「ただ、新たにいくつか分かってきたことがあります。その一つは、〔リップマン〕の金主が〔ワイズマン〕と呼ばれる人物らしいということです」
「〔ワイズマン〕?」
[ワイズマン!?][新キャラ追加か!?][ラスボス出た!]
 視聴者のアバターがにわかに騒がしくなった。
「五、六年前に神奈川県内で荒稼ぎをしていた犯罪グループの金主として、〔ワイズマン〕の名前が裏社会の中で一時取り沙汰されていたようです。そのグループは若い参謀がシノギを取り仕切り、〔ポリスマン〕と呼ばれる警察内通者もいたということでした」
「その若い参謀というのが……?」
「はい、淡野という名前ではありませんが、〔リップマン〕が違う名前を使っていたものと思われます」
「そんな何年も前からこのグループは活動していて、ある界隈では存在を知られていたということなんですね」
「ただ、それ自体、噂の域を出ないものだったようです。このグループは振り込め詐欺を働く場合でも、掛け子を集めて一定期間稼ぐと、しばらくはなりをひそめるというように、徹底して警察に尻尾をつかまれにくいやり方をしていました。警察だけでなく、横浜周辺の裏社会においてもこのグループに関して詳しい人間というのはほとんどいないのが実情だと思われます」
「ますます謎は深まりますし、お話を聞いていても〔ワイズマン〕という名は、賢人というより、何かずる賢い悪党をイメージさせられますね」
「まさに一筋縄ではいかないずる賢さを持った悪党の親分なのだと思います」
「それで、巻島さんとしては今後の捜査をどう立て直していこうと考えていらっしゃるのでしょうか?」
「はい、再びこの番組を通して〔リップマン〕に呼びかけていきたいと思います。怪我を負っていたとしても、あれから一カ月ほど経ち、そろそろ癒えたのではないかと思われますので」
[追い詰めたと言っておきながら、何もなかったみたいに言うな][リップマンは金を奪ったんだから、もう出てこないだろ]
 居並ぶアバターから冷ややかなコメントが上がってくる。
「何もなかったみたいに言っているわけではありません。我々は確かに〔リップマン〕を追い詰めながら、彼に逃げられました。そのことについては、はっきり認めたいと思います」
「いわば、ひとまず負けを認めるということですか?」
「そう捉えていただいてけっこうです。客観的に見ても、それが事実ですから」
[敗北宣言きた!][リップマン歓喜!][巻島、俺悔しいよ…]
 悲喜こもごものコメントが画面に並んだ。
「ただ、もちろん捜査は終わっていませんので、私は何もあきらめていません。それはそれとして、我々の包囲網をかいくぐった〔リップマン〕からも一言コメントを聞きたいという思いは視聴者のみなさんにもあるんじゃないでしょうか。そして〔リップマン〕自身も私に挑戦状をたたきつけ、あれだけの犯罪を成功させて逃げ切ったのですから、私に何か言ってやろうという思いがあるのではと考えています」
「再び、この番組への〔リップマン〕の参加を待つということですね?」
「はい。前回まで〔リップマン〕のアバターのパスワードは『awano』でした。これは公表してしまったため使えませんから、今回新たに設定し直しました。〔リップマン〕が淡野の前に使っていたと思われる名前です。アルファベットの小文字で六文字。〔リップマン〕本人であれば、もちろん分かるでしょう」
「改めて〔リップマン〕に呼びかけをなさいますか?」
「はい」巻島はうなずいてカメラを見据えた。「〔リップマン〕に告ぐ。怪我の様子はどうだ? 大事に至っていなければいいがと心配している。そろそろ傷も癒えている頃だろうし、元気ならば、私に言いたいこともあるだろう。以前のようにアバターを使って出てきてくれ。待っている」



 横浜の中にIR反対の空気が強まっていることは網代も肌で感じ取っていた。
 横浜市長選の頃はまだそこまでではなかった。反対の声も確かにあったが、それは主に野党の支持層であって、井筒孝典はそうした声に乗って立候補した。ただ、井筒が画面の中のイメージだけで、政治勘が皆無な人間であると露呈したのは、IRに対抗して万博誘致をぶち上げたことだった。IRもいらないが万博もいらないという層はおそらく井筒の予想以上に多く、支持は関係者の期待以上には広がらなかった。加えてスキャンダルが報じられてしまえば、凡才市長と揶揄される門馬の敵にもならなくなった。
 門馬は選挙戦に勝ったが、票の多数は消極的支持によるものだったということだ。三選を果たすとにわかにIR誘致が現実味を帯び出し、潜在的な反対派が声を上げ始めた。
 しかし、結局のところ、そうした声も現時点での風にしかすぎず、その向きはいくらでも変わると網代は思っている。現に大阪は与党会派がうまく気運を作り、市議会を引っ張っている。IRのメリットを認識し、それを享受しようとする姿勢だ。
 徳永が総理総裁になれば、横浜にもその流れができるはずだった。総理のお膝元で総理本人が主導してきたIRを実現させない理由はない。
 ただ、総裁選の風自体もくるくる向きを変える。門馬もそれを憂慮していた。党員投票で神奈川の票が逃げ、対抗馬である大塚にリードを許すようだと、議員票で足もとを見られる。大塚に風が向いていると見れば、自派閥以外の票はそちらに流れる。決選投票に進めば、ダークホースである小園に入っていた票の行方が勝敗を左右する。
 総裁選の告示日が近づき、網代は渉外部の高鍬弘斗を呼んだ。
「お呼びでしょうか?」
 高鍬はぱりっとしたダークスーツに身を包んだいつもの姿で社長室に現れた。まだ三十前の若者だが、内外で難しい交渉事をこなし、目つきを見れば簡単な人間ではないと分かる。
 IR計画の関係で高鍬に任せていた仕事は、〔Y's〕を通しての気運醸成だけではない。地元財界の賛成派作りなども網代の手足として彼は動いてきた。
 横浜は港町であり、港湾業界の力も強い。彼らを賛成派に引き入れなければ、計画は進まない。高鍬は計画にカジノ船を取り入れ、港湾業界にも旨味を流すことで彼らの支持を取りつけることに成功した。
 ただ、そんな彼も市議会の多数派工作には門馬同様、手を焼いている。議長の桐谷は網代さえ子ども扱いしてくるのだから、高鍬などはなおさらだろう。
「いよいよ総裁選だ」網代は高鍬を向かいのソファに座らせ、そう切り出した。「党員票が大事だが、どう読んでる?」
「難しいですね」高鍬は落ち着いた声で言った。「地元の県連さえ後押しの動きが見られませんから、党員票もどれだけまとまるか……」
「桐谷のじいさんは、脅しすかしでどうこうなるような相手じゃない。時間もないし、県連抜きで神奈川の党員票をまとめることを考えなきゃならない。そうすると、遊説がカギになる」
 総裁選は地方の党員票を得るため、候補者による全国遊説が行われる。総裁選を全国的に盛り上げ、党員だけでなく国民全体に民和党を注目してもらう狙いもある。
「前回の総裁選は横浜駅西口でやりましたね」
「そのうち日程が出るだろうが、当然、今回もやるだろう」網代は言う。「神奈川の党員も多く観に来る。その遊説は大いに盛り上げなきゃならない」
「〔Y's〕を動員しましょう」高鍬はそうできることに自信を覗かせながら言った。「一万人くらい集めて大臣の演説を盛り上げれば、それなりのインパクトはあるかと」
「できるか?」
 企業や利益団体であれば動員もかけやすいだろうが、〔Y's〕の実態は論客とそのフォロワーである。何か形がある結びつきを持ったグループではない。
 しかし高鍬は、〔Y's〕が見せつつある集団としての力に一定の信頼を置いているようだった。
「一万人くらい動かせなければ、〔ワイズマン〕の片腕は務まりませんよ」
 裏の世界を仕切っていた淡野が網代に切られたことは、高鍬も知っている。彼としても思うところはあっただろう。自分は淡野以上に有能であり、彼のような扱いは受けないという主張が言葉にこもっている。
「それだけの応援団がいれば、妨害も起こしにくいでしょう」
「妨害?」網代は高鍬があえて触れてみせた言葉に引っかかった。「アンチ勢にそういう動きはあるのか?」
〔Y's〕は舌鋒鋭くいろんな勢力を攻撃するので、敵も多い。左翼系活動家、グローバリスト、新興宗教団体、オールドメディア……敵を作ることで求心力を得ていると言ってもいい。
「〔Y's〕がどうこうということではありません」高鍬は言った。「確認が取れている噂ではないんですが、〔財慶会〕がIRのことではずいぶん怒っているようです」
「国政の大きな行事があるときには、抗争があっても大人しくしているのが連中の流儀だぞ」
「そうなんでしょうが、今度ばかりは話が違うかもしれないと。〔財慶会〕はIRに絡む横浜浄化作戦でずいぶん闇カジノをつぶされました。それでいながら、IRにはどこにも噛む余地がない」
「当たり前だ。国策に反社を噛ませるような時代じゃない」網代は一笑に付した。
「その恨みがある上に、県遊協の一部から何とかできないかと泣きつく声があったようです」
〔財慶会〕本体はもともと、総会屋や仕手集団を飼うなど経済系のやくざとして発展してきた組織だが、その傘下には横浜や川崎界隈に縄張りを持つ博徒系の組も従えている。中にはケツ持ちとしてパチスロ店と付き合いのある組もあるだろう。どちらにしろ、時代が変わり、法律が変わるにつれ、彼らは長年のシノギでは食えなくなっており、新たな稼ぎの道を探さなければならなくなっている。
 近年は彼らも半グレを飼って振り込め詐欺に手を出していた。淡野が指揮する網代のグループのようにはシステム化されておらず、シノギの効率もそれほど高くはなかったようだ。
 向こうとしても、網代たちが振り込め詐欺や企業恐喝などで横浜・川崎界隈を荒らしているのを目障りに思っていたらしく、たびたび子飼いの半グレを使ってタタキを入れてきた。
 ただ、淡野が用心深かったこともあるが、網代たちのグループが壊滅的被害を受けるようなことはなかった。〔財慶会〕としてもやくざ同士の抗争とは違い、半グレ相手に本気になっても仕方がないという思いはあっただろう。ほどほどにしておけよという牽制の意味が強かったように思われた。
 その頃、網代は一度、〔財慶会〕の片平かたひらしゆうに声をかけられたことがある。
 片平は網代より七つほど年上だが、高齢化が進んでいる〔財慶会〕の幹部の中では若さがみなぎって見える。網代が裏社会のシノギに手を出し始めた頃から新進気鋭のやり手として名が響いており、今は局長という若頭に次ぐ重職を担っている。
「〔ワイズマン〕……」
 関内にある〔RISKY〕という高級クラブで飲んでいた網代は、ふと目の前で足を止めた男に低い声で呼びかけられた。
 網代はその声に反応しなかった。一呼吸置き、こちらをじっと見ている気配に気づいたという体でゆっくり相手を見返した。裏社会の重要人物の知識はそれなりにあり、男が片平であることはすぐに分かった。そのクラブが、片平の内縁の妻がママを務めている店であることも知っていたが、網代は自分の裏の顔など知られていないだろうと高をくくって飲んでいた。
「あんた、つまらん火遊びはやめて、本業に精を出したほうがいい。十分天下を取れるんだからもったいない」
「何の話でしょう?」網代はとぼけて訊いた。
「裏の世界の先輩としてのアドバイスだ」片平は顔色を変えずに続けた。「大人しく言うことを聞くなら、ここの飲み代くらいいつでも持ってやる」
「何の話か分かりませんし、飲み代など自分で払えますので」
 網代はことさら余裕ぶって、そう一蹴した。〔AJIRO〕グループがM&Aを通して急成長を遂げるかたわら、裏のシノギでも〔財慶会〕を出し抜くような荒稼ぎを重ね、網代自身、調子に乗っていた頃でもあった。
 一方で、暴力団幹部の侮れなさというのも、ひやりとした殺気とともに感じ取っていた。網代は二十代の頃こそシノギの計画を立て、時には現場に顔を出したりしていたが、この頃になると淡野ら配下の者が勝手に動いていたので、網代自身は彼らの報告を聞いたり、何らかのサジェスチョンを与えたりするだけでよかった。越村や槐ら外部の業者も網代の名前は出さないように気を遣っていたから、〔ワイズマン〕という得体の知れない人物の存在が裏界隈の噂として広がっていくだけとなっていた。
 そんな中で、片平は〔ワイズマン〕が網代であることを突き止めていた。配下の誰かを長期間追い続けるなどしなければたどり着けない事実をしっかりとつかんでいた。
 実際、それから一年ほどの間、網代のグループは何者かの襲撃を受け続けた。特に標的となったのは淡野で、片平は網代のシノギの中で淡野が果たす役割が大きいことも正確につかんでいるようだった。網代の身辺には何もなかったから、そうした襲撃も片平にとっては網代に対する警告の域を出ないものだったのかもしれない。
 淡野はねぐらを転々とする暮らしを余儀なくされた。それでもしつこく狙われ続け、ねぐらとしていた倉庫を襲ってきた者に拳銃をぶっ放されることもあったという。
 そうしたやくざ者の執拗さに多少なりとも辟易したことに加え、大きくなった〔AJIRO〕グループの舵取りに忙しくなったこともあって、網代は淡野にシノギを半年ほど休ませることにした。再開するときには掛け子の数を減らして規模を縮小し、それまで名乗っていた霧野から淡野に名前を変えさせた。それが何らかのメッセージとして片平に伝わったのか、彼の指図と思われるような嫌がらせは姿を消した。
 網代と〔財慶会〕の関わりは、片平を通したそのようなものだった。少なくとも片平は、ただの遊びの範疇ならそれほど目くじらを立ててこないが、それが度をすぎ、自分たちのシノギが脅かされるような状況になれば容赦なく対抗してくる。
 やくざの世界もみかじめ料のようなシノギが細って久しい。闇カジノは現代の鉄火場であり、彼らとしても専売特許だという思いはあるだろう。それをことごとくつぶされていけば、堪忍袋の緒が切れるときがいつ来てもおかしくないとは言える。
「噂の出どころはどこだ?」網代は高鍬に訊いた。
「港湾業界の〔財慶会〕にも顔が利く男です。片平が何とかしてIRをつぶそうとしていると。自身も計画から降りるよう働きかけられたそうです」
 IR反対派が横の連携を強めつつあることは網代も認識している。そこに〔財慶会〕の片平が首を突っこんでくるとなると、何らかの動きが生じるのを警戒するべきではある。
 しかし、その動きが徳永の総裁選に対するものであるかどうかは、慎重に見極める必要がある。確かに徳永一雄はIR推進派の親玉だが、〔財慶会〕が政治的な行動を起こす際、国政の大物を相手にするというのはあまり例がない。彼らはあくまで横浜や川崎という一地方の有力暴力団であり、彼らにとっての政治家というのは、市会議員や県会議員、せいぜい市長や知事であるはずだ。
 標的になるとすれば門馬市長あたりか……網代は漠然とそんなことを考えながら、高鍬には一応「そのへんはもう少し探っておけ」と命じておいた。

〈徳永の代理でお電話させていただきます。総裁選の日程が決まりまして、横浜での候補者演説会を二十八日に予定しております。場所は横浜駅西口です。つきましては網代社長からも周囲にお声がけいただき、何とぞ徳永を盛り立てていただきますようお願い申し上げます〉
 総裁選告示日の前日、徳永事務所の秘書からは横浜遊説での応援団の動員を要請する電話がかかってきた。
 そして告示日となり、徳永一雄、大塚清志、小園玲子の三名が宣言通りに立候補して共同記者会見を開いた。
 その記者会見を受けて、〔ネッテレ〕でも早速〔Y's〕の論客たちを集めての特番を開いた。
〈今回の総裁選は確実に日本の行方を左右しますね〉
〈正直、これほど答えがはっきりしてる総裁選というのも珍しくて、徳永さん一択なんですよ〉
〈徳永さんはIR計画の受けが地元であまりよくなくて、それがこの選挙にも響くかもしれないっていう見方がありますよね〉
〈カジノ、カジノってね、結局みんなイメージで話してるんですよ。賭博は危ないとか、そんなのを国を挙げて作るなみたいなね〉
〈いや、そういう声はだいぶなくなってきたと思いますよ。今、大きな声上げてんのは、カジノができたら客を取られるって考えてるパチンコとかの連中ですよ〉
〈ノウハウを持ってる外国資本に利益を吸い上げられるだけだなんて、分かったようなこと言うやつもいるけど違うんだよね。じゃあ、ディズニーランドは悪なのかって話なんですよ〉
〈そうそう。特に徳永さん肝いりの横浜モデルは最適解なんですよ。日本流のおもてなし思想と海外カジノの娯楽性が混ざり合う形になってて、本場でも見られない独特のエンタメ空間になるはずなんです〉
〈まあ、そういうのができちゃうと、既存のエンタメ施設の時代遅れ感が際立っちゃうから、何が何でも反対って言うしかないんでしょうけどね〉
〈国策としてのリゾートを作るわけですから、古い娯楽場なんかが張り合えるわけないんですよ。だからとにかく、印象操作で反対って言うしかない〉
 特番ではIR推進を含めた徳永の公約を称賛し、論客たちが競うようにして徳永首相待望論を繰り広げた。
 さらには高鍬が率いるプロジェクトチームが論客たちのフォロワーである〔Y's〕を装い、特番の切り抜き動画をSNSに上げていった。それを呼び水として実際のフォロワーも論客たちに賛同するコメントを投稿し、ハッシュタグを付けた「徳永首相を誕生させよう」というワードがトレンドに上がった。
〈〔リップマン〕に告ぐ。私だけじゃなく、視聴者のみなさんもお前の怪我の状態を気にしている。元気ならもう一度、声を聞かせてほしい。私にどうだと誇りたい気持ちもあるだろう。再登場を待ってる〉
 夜の〔ネッテレ〕では総裁選関連のニュースを詰めこんだ報道番組を縫うようにして、巻島の再開二回目となる番組が配信された。
 日本の行方を占う総裁選が始まった中では、巻島の番組などどこか世間から浮いた感があり、いつもの熱気も醒めて感じられるが、かといって目を外すわけにはいかない。
 淡野が出てくるかどうか。
 生きていれば、出てくる可能性はある。
 もちろんたとえ生きていたとしても、裏金の受け渡しという本来の目的は果たしているので、淡野がのこのこと番組に参加する理由はない。
 しかし、淡野という男は頭が回り、人一倍の警戒心も働かせる一方で、どこか稚気のようなものも持っている。身に危険が及ばないと思えば、やらなくてもいい受け子を自ら買って出たりするなど、シノギの中でも遊びを入れてきたりする。網代はそういう淡野の気質をよく知っているので、意味がないから番組には出てこないだろうと高をくくる気にはなれない。
 加えて、もし番組に出てくるとするなら、淡野なりの意図を持って登場することになると考えるべきだ。それは、自分を切り捨てた網代に対して、己の健在を知らしめ、簡単に葬れると思うなと牽制する狙いである。淡野側の反撃とも言え、だからこそ、淡野の再登場は警戒しておかなければならない。
 薮田は、捜査本部の中にも淡野は死んでいるのではないかという見方が強いと言っていた。
 しかし、番組での巻島の様子を見る限り、巻島個人は淡野が生きていることを疑っていないかのようである。多少の希望的観測が混じっているにしろ、彼なりにそう思う何かがあるのではないか。
 巻島は淡野が〔ワイズマン〕なる人物のグループに属しており、以前は霧野と名乗っていたことも把握している。今回はその「kirino」をアバターのパスワードに使ってきた。これらは薮田ら現場捜査員には共有されていなかった情報だという。
 だから、ほかにも現場に共有されていない事実を巻島がつかんでいて、それをもとに彼が淡野の生存を信じているという可能性はある……そんな憶測も網代を警戒させる一つになっている。
 この日、番組に淡野がアバターとして登場してくることはなく、盛り上がりを欠いた中で配信は終了した。
 下のスタジオでは巻島が徒労感を覚えながら帰り支度を始めているだろうか……そんなことを考えていると、高鍬から電話があった。先日の件で新たに報告があるという。
 しばらくして高鍬が社長室にやってきた。
「〔財慶会〕にちょっと気になる動きがあります」
「何だ?」
「ここのところ、片平と〔たき一家〕の滝しようすけが頻繁に会っているのが確認できてまして、本日、〔滝一家〕の茂沢しげさわという男が理由を明かさないまま破門になったそうです」
〔滝一家〕は〔財慶会〕傘下の一組織であり、小さな組ではあるが、かつては武闘派で知られていた。組長の滝昌介は片平に近い存在として知られる。
〔財慶会〕は基本的に、その人物がどんな理由で破門されたかということまでは破門状に記さない。それは破門というのが、兄弟分の女を寝取ったなどの不行跡が理由の場合もあれば、形式的に組織と関わりを断ってヒットマンなどを務めるためという表には出せない理由の場合もあるからだ。
「どんな男だ?」
「五十代のどうということはない男です。行方は探偵に追わせてますが、今、どこで何をしているかは分かってません」
「分かったら教えてくれ」
 網代はそう言って、高鍬を退がらせた。
 暴力団内部の下っ端組員の処分など、気に留めるほうがおかしいとも思えるが、時期的なことを考えるとそうも言っていられない。
 総裁選が始まり、候補者の遊説日程が決まったこのタイミングでの動きである。普通やくざはこうした国政が動く時期は大人しくしているものだが、片平は滝と頻繁に会って何やら動きを強めているらしい。
 何より、高鍬があえて気になると言ってくるからには、彼の勘が騒ぐような何かがそれらの動きにあるのだと言っていい。

 その翌日から、東京の渋谷駅ハチ公前広場を皮切りに候補者たちの全国遊説が始まった。徳永ら三人は十二日間かけて全国の主だった都市を回っていくのだが、最後の週末で横浜市、さいたま市、千葉市という首都圏での街頭演説会が待っている。横浜は横浜駅西口前で行われることが通例であり、今回もその予定であることが発表されている。
 この横浜を含めた三都市での演説会には〔AJIRO〕グループから千人ほどを動員させることになっている。さらには論客たちが呼びかける形で〔Y's〕も動員させる。高鍬は一万人と大見得を切ったが、二千人ほど動員できれば演説会は徳永支持者で盛況を極めるという光景が作れるはずだ。
 札幌、仙台、長野、愛知と回り、さらには公開討論会もこなしたところで十二日の選挙活動期間も半ばを迎えた。各メディアの情勢分析では、議員票では徳永が優勢と見られるが、党員票では大塚に勢いがあるという。〔AJIRO〕が独自に行ったネットアンケートにおいても、民和党支持層での国民人気は大塚に分があるようだった。議員の中でも態度を明らかにしていない者は多く、党員票で差がつくと雪崩を打って大塚に入れる議員たちが出てきてしまう。まったく予断を許さない情勢だと言えた。
 各所から情報を拾って選挙の行方を分析したレポートを毎日上げてきていた高鍬が、また社長室を訪ねてきた。
「〔財慶会〕のほうですが」
 彼が何より警戒しているのは、やはりそのことのようだった。
「片平の動きは奇妙なほど静かになりました」
 国政の重要なイベントが始まっているのだから、任侠団体を自任する〔財慶会〕の幹部が動向を見せなくなるのは特におかしなことではない。しかし、高鍬の目には、逆に不自然だと映っているようだ。
 その点に関しては、高鍬のほうが神経質になりすぎではないかと思わないでもない。
「一方で、〔滝一家〕を破門された茂沢の消息がつかめました。社革党がバックに付いている環境保護グループに接触しています」
 話を聞いて、網代は眉をひそめた。〔財慶会〕は右翼とのつながりこそあれ、左翼との親和性はない。元やくざが左翼活動に身を投じるというのもあまり聞かない。
「それと、つながりは不明ですが、〔槐屋〕が火薬の調達を頼まれているようです」
「何だと?」
〔槐屋〕はスマホから車まで、シノギに使うツールを用立ててくれる道具屋である。網代が仕事で付き合っていた槐老人は隠居し、代替わりした今の息子は顔くらいしか知らないが、父親同様、こちらの要求に応える腕は確かだと淡野からも聞いていた。
「〔財慶会〕のほうで最近何か依頼はなかったかと探っていた中で出てきました。〔槐屋〕はそれが〔財慶会〕の依頼だとは明言しませんでしたが、私が毎日のようにしつこく訊いたので、何かボスに危害があるような計画が進んでいるのではないかと心配になったようです」
〔槐屋〕は〔財慶会〕の一部とも取引がある。それは槐老人の代から聞いてはいたが、具体的に何を用立てているかということは網代にも教えてはくれなかった。その情報漏洩から計画が破綻することもある。〔槐屋〕にとっても〔財慶会〕は怖い取引相手であり、自らの首を絞めかねないようなことはしない。逆に言えば、網代たちとの取引も〔財慶会〕には洩れていなかったはずだ。
 しかし、〔財慶会〕の片平が網代たちの存在を疎んで襲撃などを仕掛け、シノギをつぶそうとしていた過去のいきさつは〔槐屋〕も知っている。それがあるために、高鍬が〔財慶会〕の動向をしつこく訊いたことにより、その火薬の調達が網代たちを標的にした計画ではないかと先回りして考えたのだろう。黙っていれば網代たちが惨劇に巻きこまれかねないことから、それとなく注意を促しておいたほうがいいという親切心が働いたようだ。
 片平は何を企んでいる?
 彼らがIR反対派に回り、網代たちが賛成側に回っているからと言って、網代を標的にしているとは考えにくい。網代一人を消したところでIRが頓挫するわけではない。嫌がらせとしては成立するかもしれないが、ただの嫌がらせならば、わざわざ火薬を使うまでもないだろう。
 火薬を使って派手に何かをしでかそうと考えているのであれば、タイミング的にもやはり、総裁選と関係があるのではないか。
「横浜の街頭演説が危ないな」
 そう考えざるをえない。
「私もそう思います」高鍬が同意した。
 街頭演説には左翼も民和党批判のデモを上げに来るだろう。それに紛れ、左翼の暴発を装って、テロを行う可能性が高い。
 本気で徳永の命を取ろうと考えているかどうかまでは分からないが、少なくとも政治活動に支障が出るレベルのダメージを狙っていると考えておくべきだった。

 翌朝、高鍬から新たな報告の電話が入った。探偵に行動確認させていた茂沢が姿を消したらしい。
 動き始めたか。
「分かった」
 網代は短い言葉で電話を切った。網代も昨夜のうちに神奈川県警本部長の曾根に連絡を取っており、間もなく会う約束になっていた。

(つづく)