52
「今日、本部長に呼ばれました」
夕方、山口真帆が捜査本部に顔を出したところで、巻島はその話を切り出した。曾根に呼ばれるときは彼女を通した形が多かったが、今回は巻島に直接連絡があり、一人で来いという指示だったので、このタイミングでの報告となった。
「街宣車の件ですか?」山口真帆は先回りするように訊いてきた。
「いえ、街宣車はちょうど私が行ったときに派手にやってまして、当てつけっぽいことは言われましたが、そのことで呼ばれたわけじゃありません」
「あれ、参りましたよね。巻島さんの名前も連呼しちゃって」
「こっちにも来たんですよ」本田が口を挿んできた。「捜査官は本部でやられて、帰ってきたらまたこっちでもやられて、たまらないですよね」
「追ってきたんですかね」山口真帆は気の毒そうに巻島を見てから話を戻した。「でも、そのことじゃないとすると、もしかして網代社長のことですか?」
「ええ」巻島はうなずく。「帳場で追っているのかどうか、探りを入れてきたような感じですね」
「幹部会議では私もあえて触れませんでしたけど、本部長のほうも何も言ってきませんでしたね。その後、網代社長から何か相談されたんですかね?」
「分かりません」巻島は言う。「そうかもしれませんが、網代社長に触らないようはっきり釘を刺す言い方ではなく、本当にこちらの動きを探るような感じでしたね。ネットのデマに振り回されないようにしろと」
「噂を耳にして不安になってきたくらいのとこですかね」山口真帆が推し測るように言った。「ヤバいと思ったら、はっきりつぶしに来ますからね。幹部会議でも新任の二課長がどやしつけられてましたから」
「何やったんです?」本田が訊く。
「それがどうやら、市長選の植草陣営に選挙違反があったっていう密告が二課に寄せられてたらしいんですよ。前任の服部さんは忖度したのかどうなのか分かんないですけど放っておいたみたいで、今度就いた矢島くんは私と同期なんですけど、これは動いたほうがいいってやる気になってたようなんですよね。でも、それを会議で口にしたら、官僚なら大局に立って物事を考えろって頭ごなしにどやされて」
「他部署のことに口を挿むつもりもありませんが」本田が片頬をゆがませて言う。「けっこう露骨に来るんですな。うちも気をつけないと」
曾根と網代のつながりは巻島たちも十分把握している。片や横浜IRの事業体の代表者であり、片やカジノ管理委員会入りが内定している警察官僚である。もはやそれは運命共同体と言ってもいいだろう。山口真帆は、曾根が委員会を退いたあとは、〔AJIRO〕に天下りするレールが敷かれている可能性さえあると言っている。
そうである以上、巻島たちが網代を〔ワイズマン〕と見定めて挙げようとしているのを曾根が知れば、何らかの横やりが入るかもしれないと注意しておく必要がある。あるいは〔ポリスマン〕顔負けの情報漏洩が公然となされる可能性さえある。巻島は山口真帆と相談して、曾根には網代への捜査の動きを報告しないことに決めていた。どちらにしても網代を追うには内偵期間が必要であり、本格的に捜査が動く頃には曾根も県警を出てしまっているはずだった。
「それで、しょげ返ってる矢島くんに聞いたんですけど、選挙戦のとき、植草さん陣営の市議に対する買収工作では〔AJIRO〕の人間が動いてたっていう話もあるらしいですよ」
「ほう」本田がうなってみせた。「前任の門馬さんがIR反対に転じたわけですからな。〔AJIRO〕としては何としても植草さんを勝たせないとということだったんでしょう」
そう考えれば、植草の出馬自体、網代と曾根という運命共同体が担いだ神輿だったという分かりやすい図式も見えてくる。
「それは、捜査の手を伸ばせば網代社長のところまで行くような話なんですか?」巻島は訊いてみる。
「どうなんでしょう」山口真帆は首をかしげた。「当然二課も、動くならそこまでを想定してたんでしょうけど、入ってきてる情報は断片的で、決定的な証拠までは握ってないんじゃないですかね」
そんなところだろうと巻島がうなずいていると、彼女はわずかに顔を寄せてきた。
「気になるようでしたら、矢島くんにもう少し探りを入れますけど」彼女は言う。「巻島さんとしては、網代社長を贈賄で挙げられるなら、そちらでもいいって考えですか? それともあくまでこっちのヤマでとか、先を越されたくないとかの思いが強いですか?」
本丸が網代だと狙いが定まったところで、そこに至る道筋は何もついていない。確定的な証拠が得られなければ、手が届かず終わる可能性さえある。そうであるなら、贈賄のヤマだけでもという考え方はあるだろう。彼女はそのことを言っている。
「こちらも手をこまねいているつもりはありませんが」巻島は考えて言う。「ただ、安い意地を張って、拙速になるのも避けたいところです。もしかしたら、奪われた裏金が贈賄資金にされている可能性もある。共闘できるところはするべきですし、両面攻撃で追い詰めていけたらいいんじゃないかと思います」
「そうですね」山口真帆はうなずいた。「二課のほうも、本部長がいなくなったらすぐにでも動けるよう、お尻をたたいておきますよ」
この捜査本部でも、網代に対する包囲網はすでに敷かれ始めている。現場捜査員は網代の取引先などに当たって網代の素性や交友関係の洗い出しに入っている。あるいは夜の街や裏社会の住人から網代の目撃情報を集めたりもしている。
「梅本はどうしますか?」本田がそれを気にしていたらしく訊いてきた。「引っ張ってたたけば、何かしらまだ出てくる気はしますが」
〔ネッテレ〕の番組で〔kossy〕による暴露があって以来、捜査本部では〔kossy〕の正体と思われる梅本には触っていない。巻島としては梅本を捕まえる気はなかった。番組でのあの取引が成立したことで、巻島たちは大きな収穫を得たと思っている。
ただ、単なる運転手である梅本にまで捜査人員を回せないという理屈で何もフォローしないのは、少々危うい気もしていた。
「とりあえず誰か付けておくか」
巻島が独りごちるように言うと、本田はそれがいいとばかりにうなずいた。
53
新年度に入って一週間ほどが経った頃、〔AJIRO〕グループ傘下でシリコンバレーにあるシステムエンジニアリング会社が、新たな方式によるブロックチェーン技術を開発したことを発表した。マイニングコストが従来型より格段に低く、マイニング事業への参入も呼びこみやすいものとなっている。
これにより、〔AJIRO〕が暗号資産の新通貨を発行するとの期待が高まり、値下がり傾向にあった〔AJIROホールディングス〕の株価は二日連続ストップ高の急反騰を見せた。
〈お祝いのシャンパンを用意しておりますので、ぜひいらしてください〉
関内の高級クラブ〔RISKY〕のママからはそんな誘いがあった。片平が招けと言ったのだろう。
その夜、網代は高鍬を連れて〔RISKY〕を訪れた。用心棒代わりにというほど何か警戒するものがあったわけではなく、逆に一人で乗りこんでいくような度胸のいる酒席ではないという思いからだった。高鍬も連絡役として片平には顔を知られている。
黒服は待ち構えていたように二人をVIP室に通した。間もなくママがほかのホステスとともに姿を見せ、クリュッグを開けた。
しばらくたわいもない話を交わしながら祝いの酒を飲んでいたが、小一時間ほどして、ホステスが「では、ごゆっくり」と言って席を立った。
入れ替わるように、片平が入ってきた。
「いただいてます」網代は自分のグラスを掲げてみせた。
片平のグラスにシャンパンが注がれ、改めての乾杯が交わされたあと、ママも会釈一つ残して静かに出ていった。
「あんた、とうとうめくれちまったようだな」
三人が残った部屋で、片平はそう口を開いた。
「そのことですか」祝いの言葉があるかと思いきやと、網代は小さく笑った。「噂程度のものですよ」
「それで終わればいいが……白を切り通せるかね」
「私は心配していませんよ」網代はことさら余裕を見せておいた。「政財界では、散々悪事を働いてきた連中がのし上がり、のさばっているわけです。私だけが咎められるいわれはないでしょう」
「自信か強がりか……」片平は網代を冷ややかに見ながら呟く。
「片平さんから見れば、私など小悪党の端くれにすぎないのかもしれませんが、ネットの噂ごときで警察が容易に手出しできるような存在ではない程度の自負はあります」網代は言う。「新たなブロックチェーン技術ができました。これで片平さんとの約束も果たせますし、今日はそのことを喜べばいいじゃないですか」
「しかし、警察は動き出してる」
片平の言葉に、網代はまばたきも忘れて彼を見返した。
「網代の噂を何か知らないか、夜の街で何か見聞きしてないかと、うちの者の中でも警察に訊かれたのが一人二人いる」
その程度のことかと一笑に付したいところだったが、気味の悪さがわずかに勝った。
高鍬にちらりと目をやると、彼は小さく首を振った。そうした動きはまだつかんでいないらしい。
「本当だぜ」片平は言う。「俺はこの話がしたくて、あんたを呼んだんだ。俺も今はあんたに乗ってる。簡単に捕まってもらっちゃ困るからな」
〈〔ワイズマン〕に告ぐ〉と配信番組の最後に呼びかけてきた巻島の姿が脳裏によみがえる。網代を意識していたのは分かった。突き刺さるように伝わってきた。それを網代本人が副調整室で観ていたとは彼も思っていなかったようだが、番組終了後、顔を合わせたときにはやはり、敵対する者へ向ける静かな闘志のみが感じられた。
巻島なりの確信は出来上がっているのだろう。しかし、匿名の情報を頼りに、実際に網代へと迫るには、いくつもの越えなければならないハードルがあるはずである。
それでも巻島は動き出しているらしかった。
薮田が捜査本部に入っていれば、そんな動きはとっくに関知していたのだろうが、あいにく彼は〔槐屋〕に用意させた下田の貸別荘での潜伏生活を余儀なくされている。
「ご忠告ありがとうございます」網代は気持ちを立て直して言った。それが強がりなのかどうかは自分でもよく分からなかった。「せいぜい身辺には気をつけたいと思います」
巻島にどれほどの勝算があるのか。巻島自身もおそらくはそれを見極めようとして動き出しているのだろうが、出方によってはこちらも迎え撃って大人しくさせないといけない。
網代は頭の中で起こりうる事態をシミュレーションしながら、シャンパンの残りを飲み干した。
「確かに動いてるようですね」
数日後、内外の気配を独自に探っていた高鍬が報告を上げてきた。
「ほかのIT企業に〔AJIRO〕出身者はいないかと問い合わせているようです。近年の退職者に当たってみたんですが、経営本部にいた早川のところに神奈川県警からの接触があったそうです。社長の黒い噂を知らないかとか、あるいは淡野やおそらく薮田の写真を見せて、この男たちを社内で見なかったかとか、首にヒョウ柄のタトゥーがある男を見なかったかとか、そういうことを訊かれたと言ってました。いずれも知らないと答えると、〔AJIRO〕にいた人間を誰か紹介してほしいと言われたそうです」
〔AJIRO〕を辞めた人間から手をつけていき、やがては今現在〔AJIRO〕にいる者たちにも手を伸ばしていこうという算段が見える。
薮田や淡野は、かつて月に一度は網代のもとを訪れていたから危うい話ではあるが、この本社自体、二千人以上のグループ社員が出入りしているビルであり、エレベーターでかち合うだけの人間をいちいち憶えているほうがまれだろう。八手に至っては二、三度しかここには来たことがない。
さらに言うなら、仮に元社員から目撃情報が出たところで、そんなものは何の証拠にもならないのだ。証拠がなければ、巻島たちは何の手出しもできない。
ただ、彼らが動き出している以上、高を括るのも危ない。
「曾根さんが県警を離れるまであと半月ほど。それまでに打てる手は打っておいたほうがいいかと」
高鍬の進言に、網代は小さくうなずいた。
54
四月の半ば、曾根は網代に呼ばれ、山下町の日本料理屋を訪れた。個室を覗くと網代のほかに、高鍬と植草も座卓を囲んでいた。
「先に飲らせてもらってますよ」
植草は上機嫌でビールグラスを掲げてみせた。
「市長の仕事はどうだ?」
曾根は網代らと挨拶を交わすと、植草の隣に座った。
「バリバリやってますよ」植草は言う。「桐谷の一派も、衆院補選の立ち回り方を間違えると求心力をなくしますから、ここんとこは動きもなく大人しいですしね」
徳永一雄の死去に伴う神奈川2区の衆議院補欠選挙がいよいよ始まっていて、神奈川県議を務めていた息子の明雄が立候補している。明雄が民和党の公認を得た一方、市長選で苦杯をなめた門馬がここでは無所属で対抗馬となっているのが注目されている。
「社長は明雄さんの選挙にも一肌脱いでおられるんですか?」曾根は網代に訊いた。
「もちろん」網代は言う。「ただ、高鍬を送って情勢分析などやらせたりしてますが、正直言って今回は圧勝です。やはり総理の血筋は強いですよ」
「見境なく選挙に出るんなら、門馬ももう少しがんばってほしいんですけどね」植草が冗談口調で言う。「ダブルスコアとかで負けたら、その門馬に苦戦した俺は何だったんだってなりますよ」
「市長が門馬をノックアウトしたダメージが残ってるってことですよ」高鍬が笑いもせずに言う。「明雄さんにもたたきのめされて、門馬は二度と政治の世界に戻れなくなるべきです」
「相変わらず高鍬くんは容赦ないね」植草はおかしそうに言って笑う。
曾根の飲み物が来て乾杯したあと、料理も運ばれてきた。
「そう言えばモモちゃんから、次はいつ会えるのって何回も来ててさ。高鍬くんの誘いがないからって返してんだけど」
「今は明雄さんの選挙がありますからねえ。再来週、選挙が明けたらまた行きましょう」
「そう来なくちゃ」
市長選を経て、植草と高鍬は若手同士、すっかり距離が縮まったようである。取りこまれているという言い方のほうが正しいのかもしれないが、今後の植草の立場を考えるなら、そこはもう割り切っておくしかないように思えた。
「いや、俺の話ばかりしてもしょうがないね」植草はしばらく市長としての生活を一人でしゃべっていたが、ふと我に返ったように言った。「今日はもうすぐ本部長を離れる叔父貴の慰労会なんだから」
曾根は会食の目的など何も聞いていなかったが、網代も高鍬も異を唱えないところを見ると、名目は植草が言う通りであるらしかった。
「しかし叔父貴も、退任が見えてくると、さすがに脂が抜けたような顔になりますね」植草は曾根を見てからかうように言った。「俺が県警にいた頃に見てた顔とは全然違う」
「そうか?」
曾根が軽く受け流すように言うと、網代が「確かにここ最近の曾根さんは穏やかな顔になりました」と植草に同意してみせた。「それだけ戦ってこられたということなんでしょう。心からねぎらわせていただきますよ」
「先が見えてきて、ほっとした気持ちがないと言えば嘘になりますね」曾根は言った。「もちろんこの仕事、残りの二週間でも何があるか分かりませんから、気は抜けませんが」
「その通りです。残りの二週間でまだやるべきことはあるかと」
そう言う網代の目に何やら怪しい光が見えた気がして、曾根は意味を問うように首をかしげた。
「立つ鳥跡を濁さず……県警の中をちゃんと掃除していっていただかなければ」
やはり意味は取れず、網代の続く言葉を待つしかなかった。
「これはある種のクレームになってしまいますから、曾根さんの耳に入れるべきかどうか躊躇していましたが、やはり曾根さんが本部長でいる間に相談すべきだと思いました」網代はそう話し始めた。「もともとあの番組は曾根さんと私との縁で始まったものですしね」
「巻島の番組が何か?」
「あの番組を機に、私が〔ワイズマン〕だという噂がネットでまことしやかにささやかれているんです。うちではアンチ〔Y's〕の工作だと反論してるんですが、一向に収まらない。ホールディングスの株価もそれを嫌気して下がってしまいましてね、新ブロックチェーンのニュースで一時跳ねましたが、またそこからじり安基調に戻りつつあります」
それは曾根も把握していることだったが、曾根ができることは何もないだろうと思った。
「そして、あろうことか、その噂を鵜呑みにした県警が私を狙って動いています」
「えっ?」曾根は耳を疑った。
「本当です」高鍬が言う。「うちの元社員らに接触して、網代の黒い噂を知らないか訊いて回っているのをつかんでいます」
「内偵捜査に入ってるってことだな」植草が言う。
「いや、そんなはずはない」曾根は慌て気味に言った。「私は巻島を呼んで直接、捜査方針を確かめましたが、彼は社長の噂を本気には捉えてませんでした。アンチ〔Y's〕かどうかはともかく、いたずらには違いないだろうと」
「それは曾根さん」網代が目を細め、冷ややかに言った。「彼はあなたを謀っているんですよ」
その言葉の物々しさに、曾根はぎょっとする。
「あいつはそういう人間ですよ」植草も常識を口にするように言った。「上の人間を謀ったり陥れたりすることに何の抵抗もない。あいつの言うことを信じてたらひどい目に遭います」
「〔ネッテレ〕で番組が立ち上がったいきさつやIRの関係から、曾根さんと網代が一蓮托生のつながりにあることは彼も重々承知しているでしょう」高鍬が冷静に分析してみせる。「結果が出ない焦りから、彼は曾根さんを謀ってでも網代に狙いを定めることにしたのだと思います」
もはや結果など出なくても構わないという曾根の思いは巻島に伝えたはずだった。しかし、どうやら彼をコントロールできていなかったようだ。
「いや、まずいっすね」植草が言う。「何がまずいって、〔ワイズマン〕どうこうはともかく、社長の周辺探られたら、市長選のあれこれも暴かれかねないってことですよ。実際まあ、アウトなことやってるわけだから」
植草の開き直ったような物言いに曾根は小さく顔をしかめる。
「市長選の件は二課にタレコミが来てるのをつぶしておいたぞ」
「二課長はキャリアだから、叔父貴の一声でどうにでもなるでしょう」植草は曾根の労を何でもないことのように受け流して言った。「巻島にネタを握られたら、同じようにはいきませんよ」
「おっしゃる通りです」高鍬が植草の話を受けて言った。「本部長を離れる前に、この手当をしていただかなければなりません。でないと、ここにいる者たちは残らず、巻島に足をすくわれるおそれがあります」
「曾根さん」高鍬に話をさせていた網代が口を開いた。「あなたが巻島さんをことのほか可愛がっていることは十分理解しています。しかし、このままではお互いに、余計な神経を遣わなければなりません」
巻島を可愛がっていたという自覚はなかった。しかし振り返ってみれば、事あるごとにあの男を引っ張り出し、大きな仕事を任せてきたのは確かだ。
「簡単なことです」網代は続ける。「心を鬼にするまでもない。彼は今、自分が蒔いた種で市民の抗議デモを呼んでいるでしょう。県警は組織として迷惑をこうむっている。その責任を取らせるだけです」
網代にそう迫られ、曾根は自身にそれができるかどうかを問いかける。
別に難しいことではないと思った。網代の言う通りだ。
巻島は自分が引っ張り出してきたパペットにすぎない。遊び終わったおもちゃは片づければいい。子どもでも分かる理屈である。
やはり自分は巻島を可愛がってなどいなかった……曾根はそう結論づけて内心に薄笑いを刻んだ。
自分のほうがよほど可愛い。
それから三、四日、各所に調整して、四月も残り十日を切ったその日、曾根は県警本部に巻島を呼んだ。
いつもの本部長室ではなく、二十階の展望台に来いと伝えた。約束の時間、フロアを上がってパノラマウインドウが続く人気ない通路を歩いていくと、中ほどに今では見慣れた長髪の男が立っていた。
「おそらく、俺がここから横浜の海を見るのは今日で最後だ」巻島の隣まで来たところで、曾根は口を開いた。「その景色をお前と一緒に見ようと思ってな」
感傷的とも取れる言葉を聞いた巻島は、一瞬、意外そうに曾根を見返してきたが、彼なりに理解したように小さくうなずき、窓の外に視線を戻した。
「二年前を思い出します」巻島は静かに言った。「本部への復帰は私にとって青天の霹靂でしたが、本部長にはあれ以降、いろいろとお引き立ていただいて感謝しております」
この俺を謀っておきながら、よくもまあ平然と謝意を口にできるものだな……曾根は醒めた思いで彼の言葉を聞いた。
「そうだな。ちょうど二年前、俺はここでお前に本部への復帰を言い渡したんだった」曾根は言う。「あれから〔バッドマン〕の事件、頻発する特殊詐欺事件の摘発、そして〔ミナト堂〕社長親子の誘拐事件に端を発する一連の〔リップマン〕の事件と、重要事案には若宮らを差し置いて、お前に捜査指揮をとらせてきた。あるいは総裁選の警備にお前たちを駆り出したこともあったな。結果は出たり出なかったりだったが、俺にしかできなかった采配だった自負はある」
「本部長にしかできなかったというのは、その通りだと思います」巻島は言う。「本部長の在任中にすべての結果を出せなかったことには忸怩たる思いがありますが、引き続き解決に向けて努力を惜しまず、捜査を進めていきたいと思います」
「結果を出せなかったのは、俺の在任中でもあり、お前の在任中でもある」
言葉の意味が取れなかったのか、巻島は怪訝そうに曾根を見返してきた。
「栄転だ。喜べ」曾根は言った。「足柄署長の椅子を空けた。すぐに移ってもらう」
巻島は一瞬、虚をつかれて思考が止まったような顔を見せた。そしてすぐに事態を正確に理解したらしく、曾根に向けた視線が鋭くなった。まるでカメラの前で犯人たちに語りかけるときのように、きっとにらみつけてきた。
「決まったことだ。俺だって、もう少しここの本部長を続けていたかったし、叶うなら、官房長、長官と出世の道を駆け上がりたかった。けれど人事には逆らえない。俺たち宮仕えは与えられた役目をただまっとうすることだけが許されている。お前も承知のことだろう」
巻島は何も言わない。ただ、曾根をにらむその顔を見るだけで、任期残りわずかというときになってやりやがったなという心の声が聞こえてくるようであった。
「県警本部はこのところ、街宣車の抗議デモにさらされてる。聞けば、山手署にも行ってるらしいな。裏金事件の余波が収まらないうちに再び配信番組に平然と出演して、お前は結局、世間の神経を逆撫でしてただけだったんだ。その結果がこういうことだ。もはや成果がどうこうという段階じゃない。
それでも、俺の在任中はと思って、お前のやりたいようにやらせてきた。しかし、それもここまでだ。後任の本部長にこんな突拍子もない捜査態勢の後始末をさせるわけにはいかん。お前の出番は終わりだ」
「〔ワイズマン〕の面は割れています。今少し、私にお時間をいただけないでしょうか」巻島が食い下がるように言った。
「もう十分だ。聞きたくもない」曾根は切り捨てるように返した。「俺は、お前が上げるべき報告そのままを上げてこないことも知ってる。知ってて自由にやらせてきた。周りは、俺がお前のことを可愛がりすぎだとさえ言ってる。その俺が決めたことだ。言ったように、官憲は上が決めた方針、命令、人事がすべてだ。往生際を間違えるな」
巻島はもう何も言い返してこなかった。口惜しさだけがその顔にうっすら浮かんでいる。
曾根はそれを読み取ったところで満足し、彼に背中を向けた。
これでいい。
本部長室に戻りながら、曾根は最後のひと仕事をやり終えた気になり、達成感を味わうように深々と息をついた。
(つづく)