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 長者ヶ崎の海岸で中高年男性の変死体が打ち上げられたというニュースに接したとき、梅本は、それが越村であると直感的に察した。

 その後、続報はなかなか出なかったが、一週間ほどして、遺体の身元が判明したとして、越村の名前が小さな記事に載った。

 心のどこかでは、越村は命を奪われるまでの事態には陥っていないのではという希望もわずかに持っていた。自分が見当違いの悲観的予想にとらわれている可能性もなくはないと思っていた。

 しかし、現実はやはり残酷だった。梅本との電話が切れたあのあと、越村は八手らによって無残にも殺されたのだ。

 もちろん、気持ちのほとんどの部分では、最悪の事態をすでに覚悟していた。

 電話があった翌々日、梅本は自転車で二時間かけ、越村から住所を聞いた別荘を訪れてみた。

 別荘には車が二台ほど停まっていた。警察車両という感じではなく、一台は小型トラックだった。

 梅本は前の通りを行きつ戻りつしながら、別荘の様子を観察した。庭のほうを業者風の男が出入りしている。どこかのサッシのガラスを取り替えているようだった。

 越村の姿は見えない。エントランスに立ってチャイムを鳴らしてみようかとも思ったが、その勇気は出なかった。

 梅本は自転車を止め、越村の連絡用携帯に電話をかけてみた。相手はすぐに出たものの、越村の声が聞こえてくることはなく、無言の反応だった。梅本も無言で様子をうかがっていると、〈兼松か?〉と地獄から湧いてきたような低い声が尋ねてきた。おそらく八手だろう。

〈警察には知らせなかったようだな。お前も追われてる身だから当然だ。何も聞かなかったと思えばいい。それがお前のためになる〉

 一方的にそう話したあと、その電話は切れた。

 越村の携帯を八手が手にしている時点で、いい見通しは何も想像できなくなった。この別荘で働いている業者も八手の犯行の後片づけをしているのだと理解し、梅本はその場を立ち去ろうとした。

「兼松……?」

 そのとき不意に後ろから声をかけられ、梅本は背筋を凍らせた。

 いつの間にか老人がすぐそばに立っていた。

「あんた、兼松くんか?」

 感情の読み取れない顔だったが、警戒すべき険のようなものは浮いていない。

「誰ですか?」梅本は訊く。

「越村の友人だ」彼は言う。「ここでやつと将棋を指したばかりだった。そのとき、あんたの話も聞いたよ」

「〔槐屋〕……?」梅本は探るようにしてその名を口にする。

 越村の将棋仲間として話に聞いているのは〔槐屋〕くらいである。淡野のシノギで携帯などを用立てていた道具屋であり、父親は隠居していると聞いたことがある。

 老人はこくりとうなずいてみせた。

「越村さんは?」

 梅本の問いかけに槐老人はかぶりを振った。

「あんた、ただの学生なんだろう。これ以上は首を突っこまないほうがいい」

 ほとんど答えになっていなかったが、越村が無事であるというような話が聞ける気配はなく、言葉の裏にある事情を汲み取るしかなかった。

 やはり、自分にできることは何もないのだ。大人しく帰ろうと思った。

 しかし槐老人は、そんな梅本を呼び止めるように、使い古した巾着から赤いカバーのタブレット端末を取り出した。

「越村に持っててくれと言われたんだ。大事なものが入ってるらしい」老人は言う。「もちろん、あいつは適当なところで手もとに戻すつもりだったんだろう。中身が何とも言わなかったし、俺に見ていいとも言わなかった。ただ、自分に何かあったとき、兼松くんならこれのパスワードを知ってると言ってた」

 梅本は思わず眉をひそめた。越村がこのタブレットにシノギに関するメモを残していることは本人からも聞いていたが、パスワードまではさすがに聞いていない。

「知らないのか?」槐老人は梅本の様子を見て、がっかりしたように言った。

「ええ」

「そうか……しかし、あいつは確かにそう言ってた。君が忘れてるだけかもしれん。大学に行って、片っ端から声をかけて探さなきゃならんかと思ってたんだ。思い出したら、教えてくれ」

 そう言って彼は、押しつけるように自分の携帯番号を梅本に教えた。

 結局、葉山では槐老人とそんなやり取りを交わしただけで帰ってきた。その後、長者ヶ崎で見つかった遺体が越村と判明した時点で、越村から電話がかかってくるというかすかな希望はついえた。

 越村が戻ってこないのであれば、これ以上関わっても仕方がない。八手や槐に言われるまでもなく、梅本はそう思った。

 

 ただ、一切を忘れようとするには気になることがいろいろ残っていた。梅本はあのとき、ただごとではない雰囲気を嗅ぎ取ってから、越村との電話でのやり取りを録音していた。あの日以降、何度か聴き直そうとしては、生々しい記憶がよみがえってきて、途中で断念していた。

 その録音を改めて聴いてみることにした。記憶との相違はほとんどなかった。それほどあの電話は、記憶の上でも深く刻みこまれている。

〈〔ワイズマン〕ことアジロ〉と越村は話している。わざわざ〔ワイズマン〕の正体を明かしてみせたような言い方だった。それに対して、八手が激高したような反応を見せていることからも、それは口にしてはならない名前だったように思える。

 その後の言葉では、越村が何を言いたいのかよく分からないこともいくつかあった。一九九一年から元町に事務所を構えているとか、将棋が趣味でアマ二段だとか、妙なことを誇ってみせるのだ。聴き直してみても、痛々しく感じるばかりで、何か含むものがあるのかどうかもよく分からない。八手らは頭がいかれたと言っていたが、そう思うのも無理はない越村の言動だった。

〔ワイズマン〕がアジロなる者であること自体は、梅本にとってどうでもいい気がした。警察にそれを知らせようと思えば、越村との関係性を含め、自分の存在を警察に知らせることになるし、釘を刺してきた八手に狙われる羽目になりかねない。そうしたリスクを負ったところで越村は戻ってこないのだ。

 しかし、改めて音声を聴き返しても、越村は梅本に〔ワイズマン〕の正体を告げているように聞こえてならなかった。大学院に通うような者なら分かる話だと言っていた。明らかに梅本に向けて言っているのだ。

 梅本は気が進まないながらも、越村の言霊に引っ張られるようにして、試しに「横浜 あじろ」という語句でネットに検索をかけてみた。

 一番上に、みなとみらいに本社があるIT企業の〔AJIRO〕が出てきた。梅本ももちろん知っている。私大の学部生のときには就活でエントリーシートも出した。

 ほかには飲食店も何軒か出てくる。その店のオーナーが〔ワイズマン〕の正体だったりするのかもしれないが、オーナーの名前が出ているわけでもなく、それ以上は調べようがない。

「アジロ」は「網代」と書くのかもしれない。「網代」表記の飲食店もちらほらある。「網代 横浜 人物」と打って検索してみる。

「網代実光社長」「代表取締役・網代実光」というワードを含んだ記事などがいくつもヒットした。横浜IR計画の事業体に〔AJIRO〕が選ばれたことなどを報じた記事もある。

 そうか、〔AJIRO〕は社長の名を取ってその社名になっているのかと、今さらながら気づいた。IT企業には顔の知れた名物社長も少なくないが、網代実光は顔出しもほとんどしていないようだった。

 ただ、同時に思い出したことがあり、梅本は頭の中がもやっとした。

〔リップマン〕を追う番組を配信している〔ネッテレ〕も〔AJIRO〕グループの会社だったはずだ。梅本は〔AJIRO〕グループのサイトを開いて確認する。間違いなかった。

〔ネッテレ〕には将棋チャンネルもあり、越村がヘビーユーザーだったことも知っている。彼が使っているアバターも見せてもらった。

 そのユーザー名が、確か〔kossy〕ではなかったか。

〔ネッテレ〕のユーザーであることを暗に主張していたと言っていい。

 越村はそれを主張して、いったい何が言いたかったのか?

 事務所の話もしていた。元町に一九九一年から構えていると。

 元町一九九一と憶えとけ……。

 パスワードか。

 motomachi1991……頭の中でそう変換しかけて、いや違うと思い直す。

 知っている。mtmc1991だ。

 越村とシノギの件でメッセージのやり取りをするときは、一定期間がすぎればメッセージが消えていくタイプの秘匿性が高いアプリを使っているが、最初の頃はフリーメールを使っていた。メールアドレスを共有し、下書き状態のメッセージを確認し合うという形を取っていた。

 そのとき使っていたメールアドレスが「mtmckg1991@」であり、パスワードが「mtmc1991」だった。別に梅本が大学院生だから分かるという難しい話ではない。メールアドレスを共有していたから分かることだった。

 しかし……。

 それを梅本に改めて知らせて、何を言おうとしたのか。

 彼の言葉を細かく思い出す。

 それだけ憶えとけば、どこでも通用すると言っていた。

 そうか。槐老人が持っていたタブレットのパスワードを梅本が知っているというのも、そのパスワードを使えばいいということなのだ。

 そして、〔ネッテレ〕で使っていた越村のアバター〔kossy〕にもそれでログインできるということだ。

 だが、ログインしてどうする?

 いや、越村が〔ネッテレ〕のアバターにこだわる理由はもはや一つしかない。

〔ワイズマン〕は網代実光なのだ。

 以前、越村は、〔ワイズマン〕の正体を知れば、警察も驚愕するだろうというようなことを言っていた。

 それはそうだ。巻島が一味を追って出演している配信番組のオーナーこそが〔ワイズマン〕なのだから。

 

 考える時間が欲しく、梅本は春休みの間続けていたデリバリーのバイトを休んで、久しぶりに大学を訪れた。

 春休みのキャンパスは閑散としていたが、大学院棟の自習室などでは、それぞれの研究に励む院生たちの姿がちらほらとあった。

 梅本は彼らとはまったく異質な問題を抱え、自習室の自分の席で悶々と考えこんだ。

 思考は一つの回路をぐるぐると回っているわけではなかった。正月に実家で両親からかけられた期待の言葉。反対に、出島教授からかけられた、梅本の学才を見限るような言葉。そして、越村から折に触れてかけられた激励の言葉。そうした言葉の数々が脈絡もなく脳内を飛び交い、梅本の思考を理屈だけでは割り切れないものにしていった。

〔ワイズマン〕は網代実光。

 越村は梅本にそれを伝えて死んでいった。

 彼はそれを、自分自身を守るための武器にしろと言った。

 越村と関わったことで、梅本のもとにも〔ワイズマン〕の手が伸びてくる危険性が出てきた。そのとき、この事実を知っていれば立場的にもイーブンを保つことができ、何らかの交渉を成立させることができるかもしれない……武器にするとは、つまりそのようなことだろうと何となく考えていた。

 しかし、考えれば考えるほど、そういうことではないのではと思うようになった。

 越村は単純な身の危険どうこうという問題ではなく、もっと人間としての誇りに関することを言っているのではないか。

 強き者のために日陰へと弾き飛ばされ、そのまま見返そうという気も起こさないでいることこそがお前の危機だと言っているのではないか。

 そう思うのは、この数日、何もできない自分に散々嫌気が差していたからかもしれない。

 そんな梅本に、越村はまさにそう言おうとしていたのだと思えてならなくなった。

 立ち上がれ。

 戦え……と。

 次の日も梅本は午後になって大学院棟の自習室に足を運んだ。

 この日、〔ネッテレ〕では二十時から巻島のいつもの番組が配信される予定になっていた。大学院棟では深夜近くまで誰かしら残っており、梅本も研究活動を装って専門書を机の上に積み、その時間まで居残った。越村からもらった連絡用携帯で動画アプリにアクセスするには、通信量の関係でWi-Fiを使う必要がある。梅本は大学のWi-Fiを借りることにした。

 昼間に買っておいたコンビニ弁当を院生室で食べてから、自習室に戻り、〔ネッテレ〕のアプリを連絡用携帯にインストールした。二十時になったところでイヤフォンを耳につけ、〔ネッテレ〕の報道チャンネルを開いた。

 特別番組「“リップマン”に告ぐ!」が始まっていた。

〈さて、回を重ねておりますこの番組、今週も〔リップマン〕の登場を期待しつつ、それまでの間、まず現在の捜査状況で何か新しく分かったことなど、お話しできることがありましたら、お聞かせいただきたいのですが〉竹添舞子が巻島に話を向ける。

〈不透明な部分も多いのでどこまで話せるかという問題はありますが、実は少し前に気になる事件が起こっています〉

 梅本も捜査の行方を知りたい思いで、この番組は毎回視聴しているが、捜査についてはここしばらく、特に進展はないという巻島の話が続いていた。そこに今回変化があり、梅本は息を呑んで話の続きを待った。

〈事件というのは?〉竹添舞子も興味を惹かれたように訊く。

〈先日、三浦半島にある長者ヶ崎の海岸で遺体が発見されました。遺体は男性のもので、何者かに殺されたと見られる状況にありました。数日後、身元も判明したのですが、この男性が〔リップマン〕と何らかの関わりがあったのではないかと見て、我々は調べを進めているところです〉

〈関わりというと?〉

〈これはもう、推測でしか言えない話になってしまうのですが、〔リップマン〕と交友関係にあったのではないかということです。〔リップマン〕の行方を知っている一人だった可能性があると考えています〉

 越村はテロ事件の捜査の過程で警察が迫ってきたと考えていたようだった。しかし、巻島は越村をしっかり、淡野の関係者として見ているらしい。

〈この人物、横浜の元町に小さな会社を構えていたのですが、手配される前の〔リップマン〕こと淡野は、この元町近辺を行動圏にしていたことが分かっています。現場の者が彼と遭遇したのも元町に近い寿町でした〉

[越村って男か][ニュースに出てたのは越村侑平さん]視聴者のアバターのコメントから越村の名前が挙がる。

〈男性の名前についてはすでに報道もされていますので、ここで隠しても仕方ないでしょう。越村侑平さんです。申し上げておきたいのは、この方が〔リップマン〕とどういう関係なのかということまでは、我々も知りません。同じ犯罪グループの一員だと見ているわけでもありません。その根拠は何もないからです〉

〈ただ、〔リップマン〕と知り合いであり、行方を知っている可能性があると……?〉

〈そうです。ちょうど我々は彼の身辺調査を進めていたところでした。しかし彼は姿を消し、そして遺体となって発見されました〉

〈それは、いったいどういうことでしょう?〉竹添舞子が呆然とした面持ちで訊く。

〈分かりません。本人に訊くのが一番早いのですが、その機会はもう訪れません〉

[口封じやん][リップマンに聞け][リップマン、早く出てこい]と、視聴者が好き勝手にコメントしていく。

〔リップマン〕がいつ現れるか、視聴者や巻島が画面のアバターに注目しているであろう今がチャンスだと思った。

 画面のログインボタンをタップする。

 IDとパスワードの入力表示が出てきた。

 IDには越村と共有していたフリーメールのアドレスを入れてみるしかない。パスワードは「mtmc1991」で間違いないだろう。

 入力してボタンをタップする。

 すると、〔kossy〕というユーザー名とともに中国武将をデフォルメしたアバターが出現した。越村は項羽が好きだと言っていたので項羽なのかもしれない。

 せっせと課金していたらしく、ゴールドポイントが貯まっている。無課金ではコメントを出すにも制限があるが、そのあたりの心配はいらないようだった。

「このアバターで番組に参加する」のボタンをタップする。

 ログイン画面が消え、スタジオの画面に戻った。巻島たちを囲んでいるアバターの中央には〔リップマン〕が現れていた。

 すぐに〔kossy〕もアバターたちの輪に加わったが、[リップマンきた!]などとほかのアバターたちが次々に現れてコメント

し始めると、押し出されるようにして画面から消えてしまった。

〈さて巻島さん、〔リップマン〕が姿を見せましたが、今回は何の話をしましょうか?〉

 スタジオでは〔リップマン〕を迎えてのやり取りが始まった。

〈もちろん、越村さんの件について尋ねないわけにはいきません〉巻島は言い、カメラ目線になって続けた。〈〔リップマン〕、お前と越村さんとの関係について、言えることを教えてくれ〉

 梅本はコメントすることをいったん脇に置き、〔リップマン〕の返答を待った。

[彼には世話になった]

 しばらくして、〔リップマン〕がそんなコメントを出した。

〈世話になったとは、シノギでのことか?〉巻島が再び問う。

〈関係性はあっさり認めた形ですね〉などと竹添舞子が話をしているうちに、[シノギを含めていろいろだ]と〔リップマン〕が答えた。

〈彼が殺されたことについてはどう思ってる?〉

[残念でしかない]

〈犯人に心当たりはあるのか?〉

[それを突き止めるのはお前の仕事だ]

〈越村さんとは最近も連絡を取ってたのか?〉

[もちろん、連絡は取ってた]

 梅本は彼らのやり取りをじっと見守っていたが、この〔リップマン〕のコメントには首をかしげた。

 警察に手配された直後は、淡野も元町の近くに潜伏していたらしく、越村の事務所にも顔を出していたようだったが、この番組でもたびたび話に上がっている緊急配備が敷かれた日以降はぱったり姿を消してしまったということだった。越村のところに連絡があったとは聞いていない。

 越村は巻島の番組に再登場した〔リップマン〕の正体が淡野かどうかについては疑問の目で見ていた。梅本は何の判断材料も持っておらず、淡野かもしれないし違うかもしれないとしか思っていなかったが、このコメントを見て、やはり越村の見方が正しかったように感じられてきた。

 淡野でもなさそうな人間のコメントを大人しく見ているのも馬鹿馬鹿しく感じられてきて、梅本はコメントの入力ボタンをタップした。

[巻島に告ぐ そのリップマンは偽者だ]

 そう打ちこみ、無課金のアバターより発言が優先されるゴールドポイントを使って送信する。

 自習室の自席に座ってスマホの画面を見ているだけだが、まるで淡野のシノギに参加しているときのように心臓が早鐘を打ち始めている。

〔kossy〕のアバターが画面に再登場し、梅本が打ちこんだコメントを吹き出しの中に出現させた。

 ほかのアバターたちも次々とコメントを発していく中で、それは特別目立っているようには見えなかった。

 巻島の目に留まるだろうか。

 いくらかタイムラグがあると思われ、巻島が見ているスタジオの画面にいつそれが表示されているかは分からない。巻島は画面があるほうに目を向けているように見えるが、〔リップマン〕のコメントだけに注目している可能性もある。

 巻島は、越村がどんな話をしていたか〔リップマン〕に訊き、〔リップマン〕は[警察がうろついてうっとうしいと言ってた]と返している。それはその通りだが、越村は淡野と連絡を取っていないし、巻島たちが越村の身辺調査を進めていたことは巻島自身も口にしていることなので何とでも言える。

[そのリップマンは偽者 俺が越村のアカウントを使っているのと同じ]

 コメントを変え、もう一度送信する。

 少しして〔kossy〕のアバターが現れ、そのコメントを発した。

〈ほかに越村さんは何の話をしていた? 言える範囲でいいから教えてくれ〉

 スタジオでは巻島が〔リップマン〕に呼びかけ、また画面があるあたりを見つめながら返事を待っている。

 その巻島の目が細められ、不意に表情が曇ったように見えた。

 梅本のコメントを見たのではないか……直感的にそう思った。

[そのリップマンは偽者だ 騙されるな]

 そんなコメントを続けて送信する。

[怪我の治りを心配してくれた]

 巻島の問いかけに対する〔リップマン〕の返答があった。竹添舞子がそのコメントを読み上げ、巻島の反応を見る。

 しかし、巻島は前の画面のあたりを見たまま黙りこんでいる。

 梅本が見ている画面には、〔kossy〕のコメントも出た。巻島は見ているか……。

〈何か気になるコメントでもありましたか?〉竹添舞子が巻島の様子を見て訊く。

〈いえ……ええ〉巻島は曖昧に答えてから、結局うなずいた。〈この〔リップマン〕が偽者だと主張するコメントが先ほどから上がっているものですから〉

 巻島の目に留まった……梅本は思わず、「よし」と声を上げてしまった。自習室にいるほかの院生たちの目を気にしてちらりと振り返ってから、スマホの画面に目を戻す。

〈偽者……という意見ですか?〉

〈ええ。言ってるのは一人のようですが〉巻島は言い、カメラを見た。〈〔リップマン〕、お前が偽者だという意見があるぞ。何か言いたいことはないか?〉

 アンチコメントの一種として〔リップマン〕との会話に利用された感もあり、梅本の中に軽い失望感が湧いた。

 しかし巻島は一呼吸置いてから、呼びかけを続けた。

〈それから、〔リップマン〕を偽者だと言い張る方は、なぜそう思うのか教えてください。この番組を邪魔したいだけなのであれば、そうしたコメントは捜査を妨げるものにもなりますので控えてください〉

〈どういった狙いでそういうコメントを送っているのかということですね〉竹添舞子が場を取り繕うように言う。〈この報道番組は、神奈川県警の捜査の一環であり、視聴者からの情報提供を求めている一面もあります。一連の事件について各々の推理をコメントするのは自由ですが、根拠なく何かを決めつけるような発言はいたずらに番組を混乱させることになりかねませんのでご注意ください〉

 単なる妨害行為だと片づけられても困る。梅本は[越村と淡野は連絡を取ってない]と打ちこんで送った。

〈ただ、気になるのは、その人物が越村さんのアカウントを使っていると言ってるんですね〉

〈え、そうなんですか?〉

〈ええ、そういうコメントも出てました〉

 巻島と竹添舞子がそんなやり取りを交わす中、視聴者のアバターは[本物のリップマンじゃね?][淡野本人なら根拠ある][どんでん返しくる!]と好き勝手なコメントでにわかに盛り上がっている。

[パスワードをクリアしているのに疑われる意味が分からない]

 先に〔リップマン〕のコメントが上がった。そしてすぐに梅本が送ったコメントも続いた。

〈確かに〔リップマン〕は淡野が淡野と名乗る前に使っていた名前であるパスワードをクリアしているわけで……これは当てずっぽうでクリアできるものではないですよね〉

〈無理だと思います〉

〈そして巻島さんが引っかかったコメントは、この〔kossy〕さんという方のものでしょうか?〉

〈そうです〉

〈[越村と淡野は連絡を取ってない]と。確かにユーザー名からは越村さんのアカウントを思わせますが、どうなんでしょうか〉

〈〔kossy〕さんは〔kossy〕さんで発言を撤回する気はないようですから、このままにしておくわけにもいきませんね〉巻島は言った。〈〔kossy〕さんが何者なのか、言える範囲でお答えいただきたいと思います〉

 自分であると特定されない範囲でどう伝えるべきか……梅本は少し考えた末に[越村の友人だ]と送った。

 そのコメントを確認した巻島は、どう捉えるべきか思い悩むように小さくうなった。

〈では、もう一つ、お訊きします〉巻島はカメラ目線になって言った。〈〔kossy〕さん自身は、淡野に会ったことはあるんでしょうか?〉

[会ったことはある]梅本はそう送りかけて、淡野との距離感を匂わせすぎていることに気づき、[ある]とだけ返した。

 そのコメントを見て、巻島はすぐ、〈淡野が今、どこで何をしているか、ご存じなんでしょうか?〉と畳みかけてきた。

[知らない 越村も知らないと言ってた]

 梅本のコメントを見て、巻島はうなずいている。

〈〔リップマン〕、〔kossy〕さんはお前のことを知ってるようだが、お前は〔kossy〕さんが誰なのか心当たりはあるのか?〉

 一方では〔リップマン〕にもそう問いかけてみせるが、その口調はどこかおざなりである。巻島も〔リップマン〕が本物でないことをどこかで疑っているのではないかという気がした。

[身内にこんなやつはいない][おそらくただの荒らし][俺のこと知ってるなら、俺が誰に襲われたと思うか言ってみろ]

〈自分が偽者だと言われて、さすがに不愉快そうですね〉竹添舞子が〔リップマン〕の連投コメントを読み上げて言う。〈〔kossy〕さんに対する挑戦状のようなメッセージもありますが〉

 巻島はしかつめらしい顔をして、〈これはそのまま、〔kossy〕さんに投げかけてみましょう〉と言った。

〔リップマン〕のコメントを出しにして、梅本から新たな情報を引き出そうとしている。抜け目ないやり方だと思ったが、同時に引っかかりもした。

 梅本からすれば、〔リップマン〕が巻島をアシストしたようにも思えたのだ。

〔リップマン〕が淡野でないとすると……。

 その正体は警察関係者ではないのか。

 だから、パスワードもクリアできたのではないか。

 だとすれば、あまりにも人を食っている話だと思った。

〔リップマン〕が警察関係者だとしたら、巻島はそれを承知の上で相手をしているのだろうか。

 それとも、警察内部で巻島の考えとは別の動きがあり、巻島もそれを把握できていない状況なのか。

 警察内部には〔ポリスマン〕がいる。その事実が疑念をさらに増幅させる。

 淡野を襲ったのは八手。

 越村を襲ったのも八手。

 八手に指示したのはワイズマンであり、ワイズマンは網代実光。

 その事実を公にし、巻島に突きつけるために梅本はこの番組への参加を決意したはずだった。

 越村の遺志もおそらくそのようなものだったに違いない。

 しかし、梅本が後先顧みずそうしたとして、巻島は期待通り、網代に捜査の手を伸ばしてくれるだろうか。

 相手は気鋭の実業家だ。〔AJIRO〕はIT系ではもはや大企業と言ってよく、網代実光自身、横浜経済界では大物の仲間入りをしていると見ていいだろう。

 そんな人物を相手に、匿名の情報一つでどこまで警察が動けるのか。何となく周辺を嗅ぎ回っただけでは、網代も尻尾を出しはしまい。そのうち、こんな情報がどこまで信用できるのかと中から疑問の声が上がるかもしれない。それに抗ってまで巻島が捜査を進めるかどうかは分からない。

 情報元の人間を特定しろという話になり、捜査の矛先は梅本に向けられることも考えられる。梅本だけが捕まり、梅本の人生だけがぐちゃぐちゃにつぶされるのだ。

 それ以前に八手が動くかもしれない。警告したにもかかわらず、梅本が暴露に向けて動いているとなれば、八手も黙ってはいないだろう。今は梅本の素性も知りはしないだろうが、警察の捜査情報を〔ポリスマン〕が流せば、警察より早く梅本のもとにたどり着くこともありうる。

 いざ世間を驚愕させるであろうメッセージを打ちこもうとすると、その余波をいろいろと想像してしまい、梅本の手はまったく動かなくなってしまった。

[知ってるが言わない]

 梅本は苦しくなり、そんなコメントを埋め合わせに打って送信した。

 意を決して巻島にアプローチし、せっかくその目に留まったというのに……歯がゆい思いが反作用のように湧いた。

〈返事は来ましたが……言わないということですね〉

 竹添舞子の言葉と同様、そのコメントを見た巻島の顔にも失望の色が浮かんだ。

[警察は信用できない][ポリスマンがのさばっている]

 そんなコメントを送ると、それを読んだ巻島が戸惑うようにしばらく無言になった。そして〈なるほど〉と無理に腑に落としたように口を開いた。

〈どう捉えればいいんでしょうか?〉竹添舞子が巻島に訊く。

〈二つの見方ができると思います〉巻島は言った。〈一つはやはり、我々を混乱させて楽しむのが目的であるという可能性です。そうであるなら、この〔kossy〕なる人物から有益な情報が上がってくることは期待できないでしょう。ただ、もう一つ、別の見方もできます。それはこの人物が〔リップマン〕のシノギに加わっていたことがあるという可能性です。事情を知っていてそれを明かしたい気持ちはあるが、一方で、我々警察の捜査の手が自分のところまで伸びるのは困るという思いがある。そうした葛藤があるようにも受け取れます〉

〈なるほど〉竹添舞子が巻島の話を受けて言う。〈〔ポリスマン〕に触れている点についてはどう受け止めますか?〉

〈どうなんでしょう〉巻島が小さく首をかしげて言う。〈〔ポリスマン〕という存在に警察への不信感を象徴させているのか、あるいは私自身を〔ポリスマン〕だと疑っているのか……〉

〈巻島さんが〔ポリスマン〕なら、これは天地がひっくり返るような驚きになりますけど〉竹添舞子がそう言って笑い、一息置いてから続けた。〈さて、番組もそろそろ終わりの時間が近づいてきました〉

〈〔kossy〕なるこの方には、次回もぜひ出てきていただきたいと思います。言えないことは言わなくてけっこうです。とにかく待っています。それから〔リップマン〕も、自分が本物であるというなら変わらず出てきてほしい。以上です〉

 番組が終わり、梅本はアプリを閉じてイヤフォンを外した。嵐の真っただ中にいたのが、まばたきをした間に、静かな室内へ瞬間移動したような感覚だった。

 結局、言えなかった。

 次回の番組にも出るかどうか……梅本は自分の気持ちが定まらないまま帰宅することにした。

 

 

(つづく)