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アジテーションのごとくしゃべり続けていた越村の声が聞こえなくなり、断続的な物音と、何か力をこめているような気味の悪い気張り声が聞こえてくるようになった。時折、越村のものと思われる苦悶の声がそれに交ざる。
梅本は呆然としたまま携帯を耳に当て続けていた。越村は声を出すなと言っていた。そして今も、ほっとけばいいと言った。梅本に対して言っていることは明らかだった。
電話がつながっているだけの梅本にできることは何もなかった。八手の噂は越村から聞いていた。何人かは分からないが、彼の手下と思われる男もいる。その彼らが、越村の潜伏先に乗りこんできた。淡野の居所を訊いていたがそれだけで済む様子ではない。まさに今、越村を殺そうとしているのだ。今から葉山に飛んでいっても間に合わないし、現地の警察に通報したとしても間に合わない。
しかし、このまま黙って異様な物音や声を聞いているだけなのも苦痛すぎた。普段、滅多に起こらないような衝動が梅本の身体の中で爆発し、反射的に「やめろ!」と声を上げていた。
向こうの物音が止まった。
〈これ……つながってます〉八手の手下が呟くように言った。
「警察に通報したぞ!」梅本は破れかぶれになって叫ぶ。「すぐに駆けつけるぞ!」
〈兼松って……〉
液晶画面に表示された名前を読み上げたのか、手下の男がそう口にした。
越村の言葉にならない声が上がった。何を言っているのかまったく聞き取れなかったが、おそらくは梅本を止めるようなことを言いたかったのだろうと理解した。
〈とりあえず切れ。急ぐぞ〉
八手の声を最後に電話は切れた。
自宅アパートの部屋の中で立て膝をして携帯を握り締めていた梅本は、手から力が抜けてしまい、携帯を床に落とした。
荒い呼吸音が部屋の中にこもる。
どうする?
自分自身に問いかけ、どうしようもないと無力感を噛み締める。
警察に通報して越村の命が助かるならそうするが、実際にはその望みはない。
越村も梅本が関わることを強く拒んでいた。
その言葉に甘えるわけではないが、正直なところ、何かしたくても何もできない。
忘れたほうがいい。
梅本はベッドに突っ伏した。
単に越村という男は、高額だが少し危ない仕事を梅本に斡旋してくれただけの相手だ。彼の身に何があろうと、変に関われば自分を危険にさらすだけであり、得することなど何もない……そんなふうに自分に言い訳してみる。
薄情で心がない人間だと思った。
少なくともこの二年ほど、越村は大学院で顔を合わせる誰よりも梅本の味方であり、前向きに背中を押し続けてくれた。苦しい金のやり繰りを助けてくれ、梅本の知らない世界を覗かせてくれた。何の愛想もない梅本よりよほど人間味があり、言葉の一つ一つに年輪が刻まれていた。あの淡野も逃亡生活の中で越村に会いに行っていたのだ。友達と言えるほどの友達もなく、ろくな趣味もなかった梅本も、気づくと心の渇きを癒やすようにして元町に足を向けていることがたびたびあった。
そんな相手を、面倒事に巻きこまれたくないというだけの理由で見捨てるしかないのだ。
そうまでして守らなければならないものが自分の人生にあるのだろうか。
まるで分からない。
心の中を見渡しても、虚ろな空洞が広がっているだけだった。
40
〈完了したとの連絡がありました〉
秘匿性が高い回線ではあったが、連絡役を担った薮田の言葉選びは、事が事だけにあくまで慎重だった。
「そうか」網代は短く応えた。「ご苦労」
越村は八手の手によって無事葬られたということだ。
人を殺めたあとの八手ほど血なまぐさいものはない。それが網代自身の指示によるものだとしても、しばらくは八手を近づける気にはなれなかった。その臭気は声音にもにじんでいるはずであり、だから網代は薮田に報告を任せていた。
もちろん、この件で警察の手がどう伸びるか分からず、それがために直後の接触を避けたという意味合いもある。
〈例の件、相手はあくまで知らないとのことだったそうです〉
越村を始末する前に、拷問してでも淡野の居場所を吐かせろと言ってあった。
越村の口から、その答えは出てこなかったらしい。
自分がどんな目に遭おうと、淡野を売るつもりはないということか。
あるいは、本当に淡野の居場所を知らないのかもしれない……そんな気もしたが、今となっては確かめる術もなく、考えても仕方ないことだと思えた。
〈それで詰めてるうちに相手の頭がおかしくなったみたいで、訳の分からないこと口走り始めて、ボスの名前も口にしたらしいです〉
往生際悪く、悪態をついたのだろう……網代はわずかに顔をしかめた。八手は網代も会ったことがない子分を連れて今回の仕事に臨んでいるはずだった。
「現場にはほかに誰がいた?」
〈七條という男だそうです〉
「一人か?」
〈もう一人、運転手がいますが、現場で聞いていたのは七條一人だと〉薮田は言う。〈八手が言うには、従順で口は堅い男だそうです〉
八手も子分は可愛いらしい。さすがにそんなことで自分に付いてくる子分まで消させていたら、八手もやっていられないと思うだろう。
「それだけか?」
不問に付そうとしてそう確かめたところ、薮田は〈いえ〉と返してきた。
〈実は、途中で気づいたそうですが、相手の携帯が通話状態でつながってたようです〉
「何?」
〈表示を見たところ、通話先は兼松だったと〉
兼松という名は、網代も薮田の口から聞いたことがあった。裏金事件の際に淡野が一度、運転手として使った男であり、巻島は〔ネッテレ〕の番組で一切言及していないが、捜査本部では実行グループの一人として行方を追っているという。
おそらくは淡野も、越村の紹介でその兼松を使っていたはずだ。網代はもちろん、そんな末端の人間まで把握していないし、捕まったところで大したことはしゃべれないだろうと思っていた。
しかし……。
越村がわざわざ網代の名を口にしたというのは、その兼松に金主の正体を明かしたかったからではないかと思えてくる。
越村も槐も、表のビジネス界で成功している網代の名の取り扱いに気を遣っていたことは、網代自身、承知していた。当の越村が網代を〔ワイズマン〕と呼び始め、裏社会に広がっていったのだ。
運転手役としてシノギに使っていた兼松は、もちろん〔ワイズマン〕の正体など聞かされていなかっただろう。
それをあえて教えたと言っていい。
「捜査本部では、兼松の調べはどこまで進んでるんだ?」網代は訊いた。
〈行方を追っている班があると思いますが、何かが分かったという話は聞こえてきません〉薮田が答える。
越村はどうしたかったのか?
越村を始末して片平にもけじめをつけた形となり、すっきりするはずだったのが、そうはならなかった。
水でゆすいだはずの口の中に、まだ砂が残っているような気分だった。
薮田から報告があった日の二日後、長者ヶ崎の海岸で身元不明の男性の遺体が発見されたという報道があった。
41
監視を続けていた越村の事務所を捜査一課の捜査員らしき連中が訪れ、周辺を聞きこんでいたという報告が村瀬からもたらされ、巻島は怪訝に思いながら捜査一課長の増川に問い合わせてみた。
増川はその時点でまだ事情を把握していなかったらしく、調べてみると返答してから、しばらくして折り返しの電話があった。
〈五日前、長者ヶ崎で変死体が上がりましてね。身元不明で年恰好六十代の男性です。身体にダンベルがつなげられていて、海中に沈められていたようですが、海岸に流れ着いてました。葉山署に帳場が立って、何かの訳ありじゃないかと横浜のマル暴あたりにも聞きこみを入れてたところ、元町で日雇いの斡旋をしている男に似ているという声が上がってきたようです〉
つまりは越村のことである。
「うちで追っている男です。人員を送りますので、確認させてください」
巻島はそう言って、村瀬と津田を葉山署に送った。
夜になって二人は戻ってきた。
「向こうの帳場では、越村の自宅マンションから指紋や髪の毛を採取して変死体と照合するようですが、まず越村本人と見て間違いないかと」
村瀬の報告に津田もうなずいてみせた。
「死後一日から二日ほどは経っていたようです。絞殺ですね。鎖骨に亀裂骨折、左側頭部をはじめ生活反応のある打撲痕が複数、太ももにはスタンガンを当てられたと思しき皮膚の炎症反応も複数残っていたようです」
傷痕から見て多種な武器が使われたと見るのが妥当で、複数人による犯行だと考えられる。
犯行のいきさつは推測するしかないが、極めて不可解だと言えた。
越村はこの帳場の行動確認班の気配を察して、行方をくらませたのは間違いない。
その彼が何者かに殺された。
逃亡生活に入って一週間近く経っていた。
誰かに逃亡の支援を頼んだのか。
そして、逆に消された。
淡野の消息は不明だが、逃亡の過程でその身に何かがあったという意味では、重なるものがある。
〔ワイズマン〕の手が及んだのか。
分からない。
「被害者は〔リップマン〕の関係者であるということで、捜査を引き取らせてもらいましょう」
一緒に報告を聞いていた山口真帆が言い、巻島はうなずいた。
越村はおそらく、〔リップマン〕一味の内情を詳しく知っていた。
そんな男の口が永遠に封じられてしまった。
わずかに見出した捜査の糸口をまたしても失ってしまった。
今週の配信番組も、魚住扮する〔リップマン〕と掛け合いをしてお茶を濁すしかないのだろう……そんなことも思い、巻島は嘆息した。
(つづく)